床屋に行った
── GrowHair ──

投稿:  著者:


「床屋に行ったぁ? それがどうしたっ」と言われそうだが、私にとってこれはけっこう大きな行事なのである。なにしろ、この前行ったのは一年前だ。クリスマスや正月と比肩すべき年中行事と言える。しかも自分でヒゲを剃るという習慣がないもんだから、それも一年ぶり。

●その姿

本当はもっと頻繁に行くつもりでいるのだ。犬や猫は年に二回、春と秋にごそっと毛が抜けて新しい毛が生えてくる、いわゆる「衣替え」の時期があるが、それに合わせるのがちょうどよい。

半年伸び放題にしておくと、あごヒゲをぐいっとつかんだとき、こぶしの向こう側からちょろっと毛先がのぞく。それがそろそろだな、という合図である。

去年は秋に行きそびれた。ここまで来ると、一週間や二週間先延ばししたところで全然変わらない。そんなこと言いつつ、さらに半年も先延ばししてしまった。


私は芸能人で言うと小室ナントカに似ている。そう言うとたいていの人は「小室哲哉?」と聞き返してくる。調子に乗って「それそれ」と答えると「似てねーよ」と言下に否定される。実は小室等に似ている。

ライフスペースの高橋代表にたとえられたこともある。まったくの偶然だが、やつが逮捕されたのをもって知られるようになる以前から、私をグル(guru: 導師、教祖)と呼んでた人がいた。

ヒゲのほうは勢いよく伸びるのに、頭のほうはやけに薄くなってきた。

●ヒゲのある生活

会社の食堂はカフェテリア方式。好きなものを盆に取ってレジへ運び、社員証を渡すと、それをついっとスキャンしてくれ、後に給料から天引きされる。レジのおばさんはよく私の社員証を逆さにスキャンしようとする。どうやら貼ってある写真を見て、上下を間違えるらしい。

ずいぶん前だが、高円寺商店街の南の端近くに「サティアン識華(のりか)」というオウム真理教の道場があった。三階の窓には紫色のカーテンが引かれ、夜遅くでも明かりが点いていた。商店街の電柱には「オウムは出て行け」、「親を泣かすな」といった張り紙がべたべたべたべたと貼られていた。サティアンの隣りにはコンビニがあった。

そこへ私が入っていくと...。あれ? みんな石になってる...。カチンコチンに固まっちゃったよ。ごめんっ、俺は全然関係ないんだけど。

●ヒゲのない生活

人はそれぞれ「パーソナルスペース」を持っている。これは何かというと、自分の回りを占める心理的な領域で、境界は見えないけれど「この範囲までは自分の一部のようなもの」と思っているものである。

新宿駅やその周辺の路上といった人込みを歩いていると、すれ違いざま、私のパーソナルスペースに踏み込んですり抜けていくやつがいる。「無礼なやつだな」と思う。それが同じ日に二度三度と重なる。

「今日に限って無礼なやつが多いな」と思う。そしてはたと気がつく。
「あ、俺のせいか。ヒゲを剃ったんだった」。

普段は人が勝手によけてくれていたんだ。そのせいで、自分のパーソナルスペースは他の人のより大きめに取られていたらしい。もう、歩きづらいったらありゃしない。

夜になると、ポン引きの勧誘もいつもよりしつこいし。

電車で座れると、普段なら両隣が空席のままになる。空席を狙って大股歩きで乗ってきても、私の姿を見るなりきびすを返したりする人もいる。「あー、それで空いてたのか。納得した」みたいに。ところが床屋に行った直後だと、みんな何の躊躇もなく隣に座る。「私」というものがなんら変わったわけでもないのに、面白いなぁ、と思う。

週明け、会社に行くと、私と認識できない人が必ず出てくる。ひどいのになると、こっちから「おはよう」と声を掛けてもまだきょとんとしている。その場で言ってもよかったのだが、いつになったら気がつくかと放っておいてみたりする。後で近くの人に「なんか知らない人に挨拶されるんですけど」とか相談して、大笑いされていたりする。やーい。

近所の顔見知りの猫たちは、私の顔が変わったからといって認識しそこなうということは決してない。なにしろ、顔を見る前からちゃんと認識している。どうやってんだろ?

●顔を見ているか

世の中には二種類の人間がいる。顔を見ている人と見ていない人である。前者は、顔そのもので人を見分けている。だから、ヒゲが消えたり髪型が変わったりしても、ちゃーんと認識できる。後者は漠然とした印象で人を見分けているので、イメチェンしたりすると、もう認識できなくなる。

そして、前者のタイプは、例外なく自分の顔のこともひどく気にしている。恥ずかしながら、私は後者である。何しろ自分の顔のことをぜーんぜん気にしてないのだから。これはちょっと隠しておきたい事実である。カメコ(コスプレイヤーに群がるカメラ小僧)としては、ほぼ失格である。

コスチュームが変わっただけでもう認識できなくなるのはおろか、有難くも向こうから声をかけてくれたときでさえ、「えーっと、どなたでしたっけ」などと言って、しょっちゅう恥をかいている。あ゛ーっ!

猫に弟子入りすべきか。

●暗い過去

私がヒゲを生やし始めたのは、中学時代に遡る。それはヒゲが生え始めた時期と一致する(最初っからかいっ!)。中3のときにはすでに、漫画に出てくる泥棒のように、口のまわりだけ丸くヒゲが生えていた。

これには深いようで浅いわけがある。

それ以前には、人も驚くほど、完璧に身繕いしていた時期があった。髪はきっちりと七三に分け、一本たりとも反対側になびいているやつはいなかった。

自宅近く、駅とは反対の方向にカトリック系の小中高一貫の女子学園があった。朝が早く、7時半には集まって、校内から賛美歌が聞こえてくる。

必然的に、私が通学のために自宅から駅に向かう時間と、マリア様のように神々しくみえる彼女らが駅から学校に向かう時間とが一致した。これは私にとって拷問に等しかった。中学生と言えば、ただでさえ自意識過剰の塊みたいになっている時期である。それが、こちらはたったひとりで(今考えると決してそんなはずはないのだが)、数百人の乙女とすれ違わなくてはならないのである。まるでさらし刑である。

たまたま彼女らがお互いに顔を見合わせてくすっと笑ったりするときがあると、私の姿に何かおかしなところがあってそれを笑っているのではないかとものすごく気になった。髪に寝癖がついているのではないか、服が汚れているのではないか、チャック(いわゆる「社会の窓」)が開いているのではないか、靴紐がほどけかかっているのではないか。

しかし、うつむいてそれを確かめようにも、その動作自体が不自然でまた笑われるのではないかと気になって、それさえもできなかった。家を出るときは頭のてっぺんからつま先まで、何度も何度も確かめなおす。ほとんど脅迫神経症。

しかし、あるときふと気がついてしまった。他人の姿をそんなに気にかけてるやつなんかおるかいな、と。自分のことを振り返ってみると、もし、なりのすこし変わった人を見かけたとしたって、そのときだけ「おや?」と思うだけで、10秒後には忘れている。そして一生思い出さない。

自分の姿なんて、気にしたって意味ないじゃん。

なんだかひどく損をした気になった。それを取り返すためにも今後いっさい自分のなりのことは気にすまい、と決めた。信念と言うと聞こえがいいが、単に不精なのを理屈で飾り立ててみたとも言える。

男性にしかできないことで恐縮だが、日々の生活がなんとなく単調だな、と思えたら、ヒゲを剃るのをぱったりとやめてみるといい。ヒゲは伸ばさなくても、勝手に伸びてくる。それだけで俄然面白くなってくること請け合い。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
考えてみると学校といい会社といい、なりに関しては寛大だった。高校の先生の中には「ずいぶん勉強で忙しそうだな」と厭味を言うやつはいたが。最近は、仕事の営業回りで他社を訪問すると、この会社もついに奥から切り札を出してきたか、とよく解釈してくれる。「ようこそおいで下さいました」と丁重に迎えてくれるので「いえいえ、たまには人里に下りてくるのもいいものです」と謙遜する。(←してないっ!)42歳、サラリーマン。
http://i.am/GrowHair/