映画と夜と音楽と…[299] 娘の詫び状・父の悔い
── 十河 進 ──

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●最後のメッセージに苦笑いが浮かんだ

昼休み、ちょうどひとりでオフィスにいるときだった。胸のポケットから「ツァラトゥストラかく語りき」が流れた。カミサンからのメール着信音である。内容はわかっていた。娘が出発したと知らせてきたに違いない。十三時の予定だと聞いていたが、もう飛び立ったのだろうか。

──緊張しすぎて気持ち悪くなったりしましたが、今、出発ロビーに入っていきました。涙ぐみながら…

カミサンのメールにはそう書かれていた。「気持ち悪くなりましたが…」という部分が気になった。それほど丈夫な子ではない。先日も久しぶりにまともに顔を見たら「こんなに肌の白い子だったか」と驚いた。少し貧血ぎみで薬を飲んでいたこともある。

一年間の留学とはいえ、家を出るのは初めての経験だ。二十年以上、自宅で暮らしてきた。そんな子が大丈夫だろうか、と今更ながら不憫になる。小柄な子だ。イギリスへいけば子供扱いされるかもしれない。涙ぐみながら出発ロビーに入っていく姿が浮かんだ。


中学生の頃は一時的なものだったが、娘とはこの四年近くまともに話してはいない。高校卒業後の進路の話でぶつかって以来、お互いに何も話さないのが平穏だと思ってきたのだろう。少なくとも、娘のことはすべてカミサンに任せる形でこの四年は過ぎた。だから、今度の留学の話も一か月前にカミサンから聞かされたばかりだ。

明日はいよいよ出発という日になって、何も声をかけていないことが身に迫ってきた。それでいいのか、という声がするようだった。昼食を摂り、コーヒーショップの窓辺の椅子に腰を降ろして道行く人々をぼんやりと見ているときに「メールを送ろう」と思い付いた。

以前、娘の誕生日にプレゼントを買い、直接渡せず、結局、カミサンに託したとき、翌朝、通勤電車の中で娘からお礼のメールが届いた。顔を合わせると何も言えないが、メールなら普通の会話が成り立つ。しかし、昨日、僕の打ったメールは、そっけないものになった。

──明日、見送りにいけないけど気をつけていきなさい。いろいろ学べることでしょう。元気で…

何て冷たい父親だ、と自分でも思う。娘の高校卒業の頃からのいきさつも甦る。どちらかと言えば、互いに口を利くきっかけを待っているかなとも思う。だが、長くまともに話をせずにいたら、二十歳を過ぎた娘とどう接したらいいのか、いつの間にかわからなくなった。

娘からメールの返信が入ったのは夕方だった。「明日は出発なんですから、今日は早く帰ってきてください」とカミサンに言われていたので、終業時間が過ぎて早めに帰り支度をしているときに着信音が響いた。

──いろいろ心配させてごめんなさい。今になって家族の大切さがようやくわかりました。まだまだ苦労をかけることになってしまいましたが、いつか親孝行ができるように頑張りますので、それまではどうかよろしくお願いします。ママと仲良く、お酒はほどほどに。

最後のメッセージに苦笑いが浮かんだ。しかし、その夜、僕も娘もそんなメールのやりとりをしたことなどなかったような顔をしていた。もちろん会話もしたし、「気をつけて」といったようなことも口にした。たぶん、照れくさかったのだ。

結局、今朝、僕は家を出るときにシャワーに入っていた娘にドア越しに「それじゃあ、お父ちゃんは会社いくから」と久しぶりに声をかけただけだった。そのとき、毎日、そんな声をかけて出かけていた七年前のことが甦った。その頃、初めて娘からメールをもらったことも…

見送りにいくべきだったか、と間に合わない悔いに襲われた。

●娘は涯なき地へ我を誘うか

「娘よ涯なき地へ我を誘え」という小説があった。「あった」と書いたのは、今はないからだ。この小説は、「犬笛」というタイトルでテレビドラマと映画になったため、その後、原作も「犬笛」と変えてしまった。ちなみに「誘え」は「いざなえ」と読む。

作者の西村寿行は当時のベストセラー作家である。ただ、この小説は初期のもので「君よ憤怒の河を渉れ」という小説がヒットしたので、似たニュアンスのタイトルを付けたのだろう。

「君よ憤怒の河を渉れ」は1976年に高倉健主演・佐藤純弥監督という「新幹線大爆破」コンビによって映画化された。僕はこの二本の映画が大好きなのだが、残念ながらあまり誉める人はいない。

特に「君よ憤怒の河を渉れ」は明らかに着ぐるみとわかるヒグマにヒロインが襲われたり、素人がいきなりセスナ機を操縦したり、新宿西口駅前を馬の大群が疾駆したりで、今の若い子には「ありえな〜い」と言われてしまうだろう。

しかし、「君よ憤怒の河を渉れ」は中国では今も語られるほどの大ヒットをし、健さん人気を決定づけた。先日もチャン・イーモウ監督が高倉健を主演に映画を作ったくらいだ。また、「君よ憤怒の河を渉れ」でヒロインを演じた中野良子は、未だに中国では大女優扱いである。

その頃は映画界も西村寿行ブームだったのだ。そんな中で「娘よ涯なき地へ我を誘え」は映画化されたのである。主人公はごく普通のサラリーマンだったのだが、幼い娘が企業犯罪の現場を目撃し誘拐されたために日本中を舞台にした追跡が始まるというストーリーである。

娘は人間には聞こえない超音波が聞こえる聴覚の持ち主という設定が目新しかった。つまり、娘は犬笛の音が聞こえるのである。父は娘が可愛がっていた愛犬を連れ、手がかりを求めて北海道から沖縄まで旅をする。父親の手にはいつも犬笛が握られている…

「犬笛」の監督は中島貞夫である。東映の職人監督だ。主演は「仁義なき戦い」で東映の看板スターになった頃の菅原文太。文太は娘を取り返すために執念の鬼のようになる男を見事に演じた。普通の男が娘のために一種のスーパーマンになるのである。

話は荒唐無稽だったけれど、父親の気持ちはよくわかった。当時、僕にはまだ子供がいなかったが、子供ができたとき「娘よ涯なき地へ我を誘え」の父親像はある種の凄みを伴って甦ってきた。子供を救うためなら何でもできる…、どんな親もそう思っているはずだ。

●山田太一ドラマのように結束した日々

娘と一緒に映画を見たことはある。小さな頃から何度も映画館へは連れていった。「ドラえもん」に始まってスタジオ・ジブリのアニメーションなど、せがまれるままに何度か一緒にいった。スタジオ・ジブリのアニメは子どもたちをダシにして自分が見たかったのだけれど…

しかし、娘と一緒に見たという印象が強いのは「ローマの休日」だ。休日の午前中、自室でLDを見ていたときだった。娘はいくつだったろう。小学生の高学年だったと思う。そろそろアニメだけでなく、一般映画にも興味を持ち始めた頃だったのかもしれない。

たまたま部屋に入ってきた娘が「ローマの休日」に興味を示した。オードリー・ヘップバーンだったからだろう。その頃でもオードリー・ヘップバーンは女性誌で特集されたり、広告に登場したりしていたから、世代を超えて知られていた。

僕は娘とふたりで「ローマの休日」を最初から見始めた。数え切れないほど見た映画だ。パーフェクトな映画があるとしたら、それは「ローマの休日」だろう。そこからは生きていく楽しさも、悲しみも切なさも、苦ささえ得ることができる。

娘に「ローマの休日」から多くのものを受け取ってほしかった。王女の初恋の喜び、王女ゆえの悲しみ、別れの切なさ…、それでも生きていかなければならないと思わせるラストシーン、それらはきっと娘がこれからぶつかるだろう様々なシーンで何かの役に立つはずだった。

カミサンが長く入院したのは、その数年後だった。娘は中学二年生になっていた。山田太一ドラマのように、家庭の危機は家族の絆を強くする。高校生になって以前に増して部屋に閉じこもりがちになった息子も、中学生になった途端に僕と口を利かなくなった娘も、母親の入院という大事件に遭遇して結束した。

僕は病院に寄って帰り、子どもたちのために夕食を作り洗濯をすませる。十時近くになると三人でリビングに集まって、ミルクティーを入れて黒糖のかりんとう(僕の好物なのだ)を食べるのが日課になった。そのときに僕が母親の様子を聞かせ、子どもたちが学校であったことなどを話した。

十一月から入院したカミサンは年が明けても退院できなかった。一月中旬、娘が風邪を引いて学校を休んだ。朝食を食べさせ、昼食の用意をして「それじゃあ、お父ちゃんは会社いくからね」と言いおいて僕は出社した。娘をひとりで寝かせているのが気になった。その日の夕方、娘から会社に初めてメールが届いた。「おつとめごくろうさまです」というタイトルだった。

──父さんへ。面倒かけてごめんなさい。パパもつかれているのに。だいぶ良くなったよ。のどが少し変だけど、心配しないで。明日から頑張るからね。パパも無理しないで体をこわさないようにしてください。お仕事頑張って下さい。早くママが帰ってこれるといいね。

そのとき、僕は不覚にも会社のパソコンを前にして涙を流した。その思い出だけで、僕も「娘よ涯なき地へ我を誘え」の父親のようになれる。地の涯まで、娘を救いにいける…

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
昨年出した本のことがカミサンにばれたが、カミサンはいっこうに興味を示さない。昔から僕の書くものは一切読まないし、「何これ、フン」という反応をされるので僕も知らせないできたのだが、やっぱり同じ反応だったですね。

デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
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