映画と夜と音楽と…[301] 平凡な人生は存在するか
── 十河 進 ──

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いつか読書する日●平凡に生きようと決めた男の内面

小さな町の市役所の児童課に勤める男は、平凡な人生を送ろうと決意した。日々が平穏に過ぎていくことだけを願っていた。仕事に手を抜いたことはなかったが、特に熱心だったわけでもない。毎日、平穏に勤めていれば定年までいられるような職場だった。

だが、そんな風に三十年近く生きてきたのに、男の中には消せない何かが残っていた。いや、その想いは長い長い時間を経たことによって、より純化され結晶となっていたに違いない。彼の熱い想いは、出口をふさがれていたが故に、さらに深化していたのだ。

男は児童相談所に委託したはずの問題家庭の子供がたったひとりでスーパーの表に座っているのを見て声をかける。次に会ったのは、スーパーの店長から連絡があったときだ。少年と呼ぶにはまだ幼すぎるその子は、たった百二十五円のコロッケを万引きして捕まったのである。

コロッケの代金を払い、男は子供を自宅に送る。家の前で男の手を振りきって逃げ込むように少年はドアを閉める。男がドアを開けるとゴミの山に埋まる少年の弟がいる。柱から延びたロープが弟の腰に巻き付けられている。少年は弟にコロッケを与え、自分を縛っていたロープを再び身に巻き付ける。


その様子を男は黙って見つめる。そのとき、彼が何を思ったか、観客にはわからない。男はいつもと同じように無表情だ。ドアを閉めると母親が帰ってくる。見つめる男に母親が「何なのよ」ときつい言葉を投げる。「市役所の児童課のものです。食事を与えてください」と言う男の声はいつもと変わらない。

児童相談所のスタッフを説得した男は、児童福祉士や警官たちと共に子供を親から一時保護するために再び出向く。母親は男と一緒に布団の中で眠ったまま起きようとしない。母親に話しかける福祉士を押しのけ男は布団をはぎとる。母親の身体を揺さぶり、激情に駆られて叫ぶ。

──いいのか、ほんとうにいいのか。子供と離されるんだぞ。これは大変なことなんだぞ、おい。

その男の足にすがりついて少年が「やめて」と言う。少年の額には母親が書いたのか、あるいは同居の男が書いたのか「バカ」とマジックで書かれている。食事も与えられず、身体をロープで柱に結びつられ、額に「バカ」と書かれ…、それでも母親を慕う少年の気持ちが痛ましい。

子どもたちが保護されるのを車の中から見届けると、男は何かに向かって怒りを表すように拳でハンドルを叩き、さめざめと涙を流す。それまでの男は表情が乏しく、余命いくばくもない妻の看病さえ淡々とやっている印象だったが、このとき初めて激情を見せる。彼がずっと押し殺してきた内面の感情の激しさをうかがわせるように…

●ひとりで平凡に生きると決めた女の想い

女の一日は、牛乳配達から始まる。暗いうちに牛乳販売店に自転車でいき、後は肩からたすきがけにした大きなバッグに何本も牛乳を入れて配るのだ。坂道や石段の多い町である。スニーカーで軽やかに女は走る。毎朝、女の配る牛乳を待つ老人がいる。老人に牛乳を手渡し飲み終わるのを待って女は空瓶を受け取る。

ある石段の前にくると毎朝、「よし」と気合いを入れる。その石段を上がると高校時代に付き合っていた男の家がある。男が病気の妻をずっと看病しながら市役所の児童課に勤めているのを知っている。その男の家のボックスに二本の牛乳を入れる。

配達が終わると、足をお湯に浸けてリラックスさせながら朝食を摂り、着替えてスーパーに向かう。規則的にペダルを踏む。路面電車の駅で男が並んで待っているが、そちらを見ることもない。路面電車に追い抜かれながら、まっすぐに前を向き、ひたすら自転車を漕ぐ。

スーパーではベテランのレジ係りだ。テキパキと客をさばく。同僚たちとも話はするが、特に親しくはない。同僚に「さびしくないですか」と訊かれ、「クタクタになればいいのよ」と答える。クタクタになって帰宅し、本を読んで眠ってしまうのだ。そうすれば余計なことは考えない。

しかし、女にも知人はいる。死んだ母の友人だった老夫婦がいて、ときどき頼まれごとをする。食事に招かれ、少し酒を呑んだりする。「好きな人はいなかったの」と訊かれ、「私だって恋のひとつやふたつ…」と軽くかわす。だが、女の心の中にはひとりの男の面影が三十年以上消えることはない。

ある日、スーパーで子供が万引きしたときに「警察を呼ぶか」と言う店長に女は「市役所の児童課に高梨さんという人がいます」と初めて男の名を口にする。だが、やってきた男に女はスーパーのウィンドウ越しに軽く会釈をするだけである。

そんな平凡で変化のない日常だったのに、ある日、男の家の空になった牛乳瓶にメモが挟まれていた。男の妻からだ。「会いたい」というメモだった。その日から女の日常は狂い出す。時計のように正確だった牛乳配達が遅れる。スーパーのレジでぼんやりしていて客にミスを指摘される。

女はとうとう男の妻に会いにいく。男の妻は「もうすぐ死ぬ」と言い、自分が死んだら男と一緒になって欲しいと言う。「ずっと想い合ってきたのでしょう」と妻は怨むでもなく口にする。女は何も答えない。いや、答えられないのかもしれない。長い間、長すぎる年月の間、女は自分の想いを殺してきた。今更、それをどうしろというのだ。

少女の頃、この町でひとりで生きていくと決意したのだ。ずっと、ひとりで生きてきた。牛乳を配り、スーパーで働き、本を読む。それだけで満足だったのだ。自分が殺してきた想いをよりにもよって男の妻に知られてしまったことに苛立つ。そんな自分に腹が立つ。

男の妻が死んだ後、女は自分が配達した牛乳さえ飲まなくなった男を呼び出す。男との決着をつけるために…

●人が心で思うことは外からはわからない

朝日新聞に出た佐藤忠男さんの映画評を読んで期待した以上に「いつか読書する日」は素晴らしかった。佐藤さんは昨年のベスト3の一本にあげていたけれど、僕にとっても忘れられない映画になった。それは、主人公たちが僕の年齢に近かったからかもしれない。

五十になった男(岸部一徳)と女(田中裕子)がいる。高校の同級生だ。高校生の頃には付き合っていた仲である。ある日、不幸な出来事が起こってふたりはいつの間にか離れてしまう。

明確な別れがあったわけではない。ずっと気になりながら同じ町で単なる知人として生きてきた。ふたりとも平凡であることをよしとした人生だ。平穏に過ぎていく人生を望んだのだ。激しい感情の発露も殺して生きてきた。

僕の場合は高校生のときに知り合った相手と大学を出た年に結婚し、やがてふたりの子供ができ、卒業と同時に入った会社で三十年以上、一度も転職せずに勤めてきた。狭い世界でしか生きてこなかった。誰かに訊かれれば「平凡な人生でしたよ」と答えるだろう。

しかし、平凡な人生なんてあり得ない。どんな人にとっても、生きるのは初めてなのだ。手探りで進むほかない。だから人生は大変なのだ。他人からどんなに平凡に見えたって、平凡だと言える人生は存在しない。小さな町に生まれ育ち、その町からほとんど出ず、繰り返しのような仕事をし、毎日、同じ生活をしていても、人生は平凡ではない。

人間には感情がある。気持ちがある。心がある。生まれてから死ぬまで何の起伏もない感情で生きられるわけがない。喜びがあり、怒りがある。悲しみがあり、楽しみがある。昂揚があり、挫折がある。得意のときがあり、失意のときがある。人を好きになる。人を嫌いになる。怨みがあり、赦しがある。

そんな想いを人はすべて顕わにするわけではない。心を殺して生きることもある。人に知られてはならないと、ひたすらに隠し続ける気持ちもある。

だが、男の妻(仁科亜季子)が言ったように「気持ちを殺すって、周りの気持ちも殺すことなの」かもしれない。いくら殺した感情であっても、どこかににじみ出すのだろうか。妻は男がずっとひとりの女性の面影を抱いてきたのを気付いていた。そんな男の妻の遺言に従って会ったふたりは、たった一度の激情を口にする。

──ずっと思ってきたこと…したい
──全部して…

この後に続く不器用な中年男女のラブシーンは感動ものである。三十数年の想いが募った抱擁とは、こんなものかもしれない。それに、翌朝、目を覚ました男がベッドから見上げると女が三十年以上にわたって読み続けてきた本がぎっしり並んでいるのを見る表情がいい。

女の想いが、その本の一冊一冊に込められているかのようだ。おそらく、それを男は知った。気付いた。受け止めた。男を想って過ごした三十数年、女は読書をすることで耐えてきたのだ。ふたりの新しい人生が始まる予兆のようなシーンである。だが、人生はそう簡単ではない…

──平凡な人生なんて、あるわきゃないんだ。人は心の中に様々な想いを抱いて生きている。その想いが一度も表に出なかったとしても、見た目通りの人生なんてあるはずないんだ。

「いつか読書する日」を見終わると、そんな言葉を口にしたくなる。自分自身の生きてきた時間を肯定するように…

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
日曜日、近くで真夏のジャズ・フェスティバルが開催され、屋外コンサートを数時間見ていたら顔が真っ赤に焼けてしまった。月曜に会社に出たら「焼けてますねぇ」と何人かに言われる。ちょっと恥ずかしい。

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いつか読書する日
岸部一徳 池辺晋一郎 田中裕子
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by G-Tools , 2006/08/25