音喰らう脳髄[6]心在る場所
── モモヨ(リザード) ──

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テクノロイド ~JAPANESE 80's NEW WAVE SAMPLERフレンチブルドックの百代を襲った人間の狂気については、法令上さしたる情報価値がないからか、結局マスメディアでの報道はなされなかったが、ネット上では一時騒然と言ってもいい状況にまで発展した。そうした中では愛犬家、動物愛護を旨とする人々の意見が目立ったが、私自身は、そのいずれにも属さない。

猫も嫌いじゃないし、犬も嫌いじゃない。縁に随い私が猫の面倒をみたり、逆に猫が私に新しい生き方の一歩をうながしたり、これまでの人生で彼らと共存する私が自然と形成され、私自身もそれを受け入れている、といえばいいか。

現在は、三階建ての今時の建物なので、猫が迷い込むことがなくなったが、木造二階家に住んでいた時は窓を開ければ隣の屋根、私が窓をあけてギターでも弾こうものなら近所の猫達が自然集まってきて、それぞれにリラックスして聴いていてくれる。で、演奏が終ると三々五々散っていくのである。

こんな体験を日常的にしてきた私としては、犬にしても動物にしても、あらゆる動物に心があると信じているわけだが、動物を研究している専門家の中には動物には心がないと断言する学者がいる。これが私には理解できない。


猫だって寝言を言う。うつらうつらしながら、時には喧嘩をしているようなウナリ声をあげて威嚇したり、時には子猫であったことを思い出しているのか、両手で右左交互に布団を押し、軽く爪をたててごろごろ言っている。いや、たいていそういう時は涎を垂らしているから、うつらうつらしながらとは言えない。熟睡していながら、そうした我々にすらわかるような何かを擬似的に経験しているのだ。

学者によると、そうした行動は反射であって夢を見ているわけではない、という。それどころか、動物には心がない、とすらいうから驚きだ。では、なにかというと、そうした行動の大半は反射だというのである。

そりゃそうだろう、と実は私も思うのだ。

人間だって、視覚、聴覚、臭覚、触覚や味覚など種々雑多な感覚器官から入って来る情報を『いま』という時間座標で脳内において結合させ、そうした情報が出会う場所に自我を想定しているにすぎない。頭蓋骨の中、脳の中に心の主体である何かが寄生しているわけではないし、脳そのものが心か、というと当然それは違う。

いろいろな感情にはそれぞれの部位に化学的な変化が見られるそうだが、そうした化学変化、物理現象や物質が感情かといえば、当然、違う。生物学者は、どこそこが脳の怒りを感じる部位、とか平気で口にしているが、では、その部位が心の正体かといえば、そうではないと応えるに決まっている。

人間だって、心なんて体のどこにも見当たらないのである。

こう言うと、くだんの学者先生、それは暴論だと返すだろう。人には心があるというのである。頑なに信じているのだ。では、それはどこにあるか客観的に示してみろと言えば、結局は、例のデカルトよろしく、

「我オモウ故二我アリ」
くだんの呪文を反覆するお決まりのコースが待っている。

とどのつまりは、こんな調子で分析すれば人間の心だってあやしくなる。いや、存在しないという結論だって導き出せようというものだ。そもそも心が何であるかを把握していないのに、それがあるかないかを論じるなど、それこそが暴論である。

冗談めかして書いているが私はかなり真面目だ。「動物に心がある」と私が言えば、彼らは「いや、それはペットを盲愛する人間の錯覚だ」と言うだろう。

これは、どうどう巡りになるのでこのあたりで止めておくが、一つだけ完全な間違いがあるので正しておきたい。私はペットを盲愛する人間ではないし、博愛主義者でもない。猫好きであり犬好きかもしれないが、その一方、どちらでもない類の人間である。

ただ、ある一時期、人間を相手に音楽を奏でることを遺棄していた私にとって、唯一の聴衆であった彼らが心無きものとは、私にはとても思えないのである。彼らに心がないという者こそ、実は心無きものではないか、私は、そう考える。

Momoyo The LIZARD
管原保雄
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