Otaku ワールドへようこそ![36]オタクは死んだのか/GrowHair

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オタクの迷い道去年は「電車男」が話題になったりして、オタクにとっては順風が吹いた年だった。さすがに、オタク男と負け犬女の結婚ラッシュなんて現象が起きるまでには至らなかったけど、世間のオタクを見る目は、犯罪予備軍から珍獣へと格段に向上した。しかし、今後、社会の中でオタクの位置がどうなっていくのかとなると、まったく不透明と言わざるをえない。

●岡田氏のオタク死亡説

オタクをめぐる言説のうちでも特に斬新なのは、岡田斗司夫氏によるオタク死亡説である。これは、5月24日に新宿ロフトプラスワンにて開かれたワンマントークショー「オタク・イズ・デッド」で提唱されている。

新世紀エヴァンゲリオン 2007年 カレンダー岡田氏は10年前「新世紀エヴァンゲリオン」がテレビ放送されていた当時、制作会社である(株)ガイナックスの社長であったことで有名だが、それ以前からも一貫して評論活動に精を出しており、著作も多く、そっちでも有名である。オタクを、高い情報処理能力などのすぐれた特質をもつ進化した存在として、平均的な一般人よりも高い位置に置いている。

そういうわけで、オタクにとって岡田氏は、世間から吹いてくる冷たい風を巨体で受け止めて庇護してくれる防風林のような存在で、「オタキング」とも呼ばれている。その岡田氏に「オタクは死んだ」と言われるのは、ニーチェに「神は死んだ」と言われるよりも衝撃的である。


トップをねらえ! Vol.1ところで私は、8月13日(日)、コミケで岡田氏の講演の内容が記録された同人誌を見つけたことで、その講演があったことを知った。後でもう一回立ち寄ってみると、なんと、岡田氏がみずから売り子をしていた。まるで恐竜展に行ったら生きた恐竜が歩いていたみたいな驚きであった。まさかご本尊にお目にかかれるとは。畏れ多くて話し掛ける勇気もなく、乙女のように遠くから見つめてもじもじしているしかなかった。

●死んだのは連帯意識

岡田氏の言説を要約すると、「漫画、アニメ、ゲームなどのオタク向け作品は続々と生み出されているし、それぞれのファンも健在である。しかし、世間とは違う生き方をしているハズレ者どうしの、ジャンル横断的な連帯意識が著しく薄れてしまった」ということである。それは、SFのファンの間で一度起きたことだとしている。

ハヤカワSFシリーズが名作や新しい話題作を中心に出版された1964年ごろがSFの一番熱い時期で、その読者が第1世代と呼ばれる。それから4年後には、ファンタジーやニューウェーブなどからSFに入ってきた人たちが登場し、第2世代と呼ばれる。両者の間には世代間闘争が起きたが、共通したメンタリティとして、SFを精神の修練のように捉え、あらゆるサブジャンルにわたって100冊、1000冊と読んでいかないとSFが分からないとする、勉強熱心で求道的な態度があった。

ところが、1970年代半ばに「ガンダム」と「スターウォーズ」から人が大挙してSF界に参入してくるに至り、彼ら第3世代は、お互いに分かり合わなくてはならないという意識をもっておらず、好きなものしか見なかったため、ファンとしてのまとまりが崩壊してしまった。その背景には、映像の分かりやすさがあった。映像を見れば、努力なしに、一瞬にしてSFというものを感覚的につかむことができる。結果として、SFファンとしての連帯感や誇らしさが失なわれ、単なる趣味のひとつになってしまった。

オタクにも同様のことが起きているという。大雑把に、1960年代、'70年代、'80年代生まれをそれぞれ第1世代〜第3世代とする。それ以前はオタク原人、あまりオタクらしい特徴は備えていなかったという。

第1世代は、子供のころからテレビが家にあった最初の世代で、オタクとしての意識は貴族に近いという。一般庶民とは生まれが違う貴族の特権として、漫画やアニメの面白さが分かる才能が与えられていると思っている。ノーブレスオブリージュ、つまり、特権と引き換えに引き受けるべき当然の義務として、勉学を怠ってはならないと考え、漫画やアニメを趣味ではなく、人格形成とか人間修養の場と捉えている。

第2世代は、連続幼女誘拐殺人事件や地下鉄サリン事件などで、世間から同類とみなされて迫害された世代で、意識はエリートであるという。差別に対抗するには戦闘的な姿勢にならざるをえず、「オタクですが、何か問題でも?」と開き直って、意地を張って生きていく。オタクとは自分の意志で選び取り、努力してなるもの、という実力主義。

当然、世代間闘争が起きる。貴族からエリートを見ると、社会の中で地位を得ようとする必死のあがきがみっともなく見え、エリートから貴族を見ると、先に生まれたってだけで業界のご意見番みたいなでかい顔をして殿様ぶっているのが腹立たしい。しかし、腹の底ではちゃんと分かり合っている。

第3世代は、ひとつの作品がライトノベルから漫画、アニメ、ゲームのすべてに展開するメディアミックスの世代で、メンタリティは快楽主義。オタクという種族全体の社会的地位を支える理論武装など不要で、自分の好きな作品だけ見て楽しめればよい。貴族もエリートも要らないのである。

びんちょうタン びんちょきん箱そこには「オタク」=「萌える人」、「萌え」が分かれば即オタク、という分かりやすさの蔓延があるという。ひとつのサブジャンルで「これが萌えだ」という感覚がつかめると、簡単にオタクへの切符が手に入ってしまう。「ミリタリー萌え」という言葉もいちおうあるが、それが備長炭を頭に乗せた少女キャラ「びんちょうタン」に対して抱かれる「炭萌え」と同一の感情かと言えば、疑問を禁じえない。

結果として、バベルの塔のように、サブジャンル間で言葉が通じなくなってきている。どうも感性が違い、同じ仲間とは思えない。オタク統一民族としての相互理解という幻想が崩壊し、オタク文化の維持は不可能になった。「これがオタクだ」という中心概念が存在しえなくなったのである。

だから、今となっては、オタクを定義することも不可能であるという。岡田氏はこの講演の中で、斎藤環氏のメンタル面からの定義や、森川嘉一郎氏のダメ志向という定義について、まるで東京だけを見て日本を論じてるみたいな底の浅さを感じる、と批判している。

斎藤氏は以前、岡田氏のオタクを持ち上げた定義に対して「病理的側面をあえて見ない、一面的な印象を与える」と言っており、お互いに狭い狭いと批判しあいっこなのだが、オタクがあまりにも多様化した今となっては、全体の把握は不可能という点では意見が一致している。

かくて、オタクは死んだ。去年ぐらいにオタクがどっと増え、オタク市場が何千億円と騒がれたのは、実は盛大な葬式だったのだという。

●死というよりは分裂か

「死んだ」と言えば衝撃的だが、冷静に捉えると、ソ連が崩壊してみたら国がたくさんあった、というような状況なのではなかろうか。もともとオタクとは変人集団である。常識ある一般人が真ん中にごちゃっと固まっているとしたら、変人はその周辺に円環状に分布する図式。正反対に位置する者どうしは「変」の方向性がまるで逆で、もともとひとつのカテゴリーでくくりようがないのである。一般人からの圧力に対抗する便宜上、まとまっていたようなものである。この圧力が緩んできた以上、結束がほどけてばらばらになっていくのは自然なことと言える。あのヨーロッパがEUという形でまとまったのは、アメリカの横暴への対抗策であって、今後もしアメリカが弱体化すれば、再びばらけていくだろう。

「オタクが死んだ」という現象は、別の観点から捉えなおすと、「情報のセグメンテーション化(区画化)」という潮流がオタクの世界の内部にまで浸透してきた、とみることもできるのではなかろうか。

「情報のセグメンテーション化」とは、偉い社会学者が提唱した概念というわけではなく、私が勝手に言っているだけなのだが、ひとつひとつの情報単位が、ある一定のコミュニティ内ではまんべんなく流通するのに、コミュニティの壁を越えて伝達されることがほとんどないという現象である。ここでいうコミュニティとは、現実のある地域内の住人ということではなく、特定のジャンルに興味をもつ人々の情報ネットワークのようなものである。

'70年代ぐらいまでは、国民全体に日本人としての誇りみたいなものがあって、みんなで一丸となってがんばろう、とか、沈むときはみんな一緒だ、みたいな連帯意識があった。大晦日には紅白歌合戦を見るときまったものだ、とたいていの人が思っており、そういうことを通じて「日本人の心」を再確認しあうのだという感覚があった。常識とされる知識はみんなで共有しあい、情報の流れに壁というものが感じられなかった。あらゆる人があらゆるジャンルにある程度の知識はもっていたのである。

何かが流行れば、みんながわっと飛びつき、たまたま乗り遅れた者は「おっくれてるぅ〜」と揶揄された。「オヨヨ」が流行語になれば、日に10回ぐらいは聞いた。流行に乗り遅れることが恐怖だったのである。

今は人々のライフスタイルが多様化し、日本人全体の一体感は著しく希薄になった。人と違う道を行っても、それほどやいのやいの言われなくなり、隣りを気にせず、好きなことを追求できる。情報を取得する動機も、他人に遅れまいとしてではなく、各人が好きなジャンルで動向を把握し、専門知識を蓄積していきたいからというふうに変化してきている。

それと、インターネットの普及などにより、情報の絶対量が爆発的に増大しているという現状がある。あらゆる方面のあらゆる情報があらゆる人に届けられたりしたら、たちまち情報の大洪水となり、人々は取捨選択や蓄積が追いつかなくなり、あっぷあっぷしてしまうだろう。それで、情報は、それを欲しがっている人にさえ届けばよいとされるようになってきたのではあるまいか。その結果、特に芸術や文化や趣味の方面で、情報はそれぞれのセグメント内では瞬く間に流通するが、よほどのきっかけがない限り、セグメントの壁を越えていかないという現象を生み出している。

ローゼンメイデン ドゥエルヴァルツァ(限定版)オタクという集団も、情報流通のひとつのセグメンテーションをなしていた。またいつもの例だが「ローゼンメイデン」という作品は、オタクの間では相当ヒットしたと認識されているが、一般人に聞いてみると、知らない人がほとんどなのである。セグメントの内外で、情報の行き渡る率に極端な開きがあるのである。

今はそれがもっと進んで、オタク全体というセグメントがさらに細分化されてきており、その細分化されたセグメント間での情報の流れが悪くなってきている。オンラインゲームで何が流行っているのかアニメファンは知らないとか、オタクだけどメイド喫茶には行きたくもならないとか、そういうことが普通になってきている。それが、岡田氏の言う「オタクは死んだ」ということなのだろう。

排他的な姿勢は、受信側からだけでなく、発信側からも示されている。コスプレイヤーのホームページへ行くと、お決まりの記述に「こちらはxxxxの自己満足コスプレサイトです。コスプレにご理解のない方、嫌悪感を持つ方の閲覧はご遠慮願います。ご覧になってからの苦情等は一切受け付けません。同意された方のみお入りくださいませ」とある。

もっとも、紀元前4世紀、プラトンのアカデメイア(哲学の学校)の入口には「幾何学を知らざるものは、この門を入るべからず」と刻んであったというから今に始まったことではないが。「理解できない人は理解してくれなくていいから放っておいてくれ」という姿勢である。考え方の多様性は、そのままにしておけばよく、相互理解を目指して言葉を交わしても、結局は感情的なやりとりになって、お互いに傷つくだけである。それよりも、不干渉により、相互理解を放棄し、表面上の平和を保った方が賢いというものだ。

それでもいいけど、漫画やアニメの中には一般の大人の方々でもきっと楽しんでいただけそうな質の高い作品はたくさんあるのに、情報が流通していかないのは、なんとももったいないような気がする。何か次の展開があってもいいのではなかろうか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
最近あんまりカメコってないなぁ。今日(9/24)は同人誌即売会「アンジェ金時」に行ってきた。いつもながら自意識が揺さぶられる、乙女ばかりで大混雑の環境。800サークルがカップリング別に配置されてる! みんな感性が豊か、絵がきれい、表現が繊細。ネオロマ大好き。俺も感性磨かねば。こういうやつを「腐女子」ならぬ「腐男子」あるいは「腐兄」というそうな。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/ >