[2061] 心映えの美しさ…というものがある

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<悲しい…、無性に悲しい、胸がかきむしられる>

■映画と夜と音楽と…[306]
 心映えの美しさ…というものがある
 十河 進

■DTPユーザーのためのWeb再入門[7]
 構造と表現の分離を、スタイルシートで進める(1)
 鷹野雅弘

■イベント案内
 『日本のメディア芸術100選』ついに決まる!


■映画と夜と音楽と…[306]
心映えの美しさ…というものがある

十河 進
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●十五年かかった悲願の映画化

黒土三男という監督はもっと若い人かと思っていたが、調べてみたら僕より四歳ほど年上だった。今まで数本の映画を撮っているが、僕が見たのは萩原健一が主演した「渋滞」(1991年)という映画だけである。木下恵介プロダクションで助監督として修行し、その後、テレビシナリオの仕事を中心にしてきた人のようだ。

黒土監督が六十近い歳だと知って「蝉しぐれ」の映画化に思い入れている理由がわかった気がした。「蝉しぐれ」は、やはりそれなりの年齢を重ねてから理解できるようなところがある。藤沢周平が「蝉しぐれ」を地方新聞に連載したのも、六十歳前後のことだった。

黒土監督は「藤沢周平のすべて」という本に原稿を書いている。その本は藤沢周平さんが亡くなった後、藤沢さんを偲んで文藝春秋が出版したもので、藤沢周平の思い出や作品論などを様々な人が書いているが、黒土監督は「いのいちばんに」と題し、熱狂的な調子で「蝉しぐれ」の映画化について書いている。

——七年前、『蝉しぐれ』を読んだ。大声出して、わめきたい程に感動した。そして、何としてでも映画にしたいと思った。

しかし、この時点では、まだ「蝉しぐれ」の映画化のめどは立っていない。藤沢周平さんが亡くなったのが1997年1月26日。それより七年遡るとなると、黒土監督が「蝉しぐれ」を読んでから映画の公開までには十五年かかったことになる。黒土監督の悲願は、十五年経って実現したのだ。

映画版「蝉しぐれ」が公開されたのは、去年の秋のことだった。市川染五郎が主人公の牧文四郎を演じ、木村佳乃がヒロインのふくを演じた。その二年前、2003年に「蝉しぐれ」はNHKの連続時代劇として映像化されたが、そのときのシナリオも黒土監督が書いている。主演は内野聖陽と水野真紀だった。

「蝉しぐれ」は青春小説であり、悲恋小説であり、ひとりの武士の成長小説でもある。それぞれに鮮やかな場面が原作にはあり、それを映像化するにあたって黒土監督の思い入れは相当なものだったのだろう。優れた映画とは言い難いが、作り手の気持ちが伝わってきたのか、映画版「蝉しぐれ」は僕のような原作の愛好者を最後まで惹きつける力を持っていた。

藤沢周平の小説の特徴である風景描写の素晴らしさを再現するために、おそらく日本中をロケハンして見付けたであろうロケ地は素晴らしい。光をとらえるカメラワークも力が入っている。それはタイトルバックのシーンに込められた映像へのこだわりからもわかった。

「蝉しぐれ」のタイトルバックのシーンは日盛りのだらだら坂である。その坂を見上げると、木々の枝葉がトンネルのようになっていて、その向こうに夏の陽光があふれている。タイトルが出てから主要なキャスト・スタッフの名が現れるのをずっと見ていると、そのあふれる陽光の中から誰かが現れそうな気がする。

それは文四郎が切腹した父の遺骸を大八車に乗せて登る坂道に違いない。そのとき、日盛りの向こうからふくがやってくるはずだ。ふくは遺骸に向かって手を合わせると、文四郎を手伝って大八車を押し始める。ふくと文四郎が心を通わせる少年時代のクライマックスシーンである。

映画が始まって数十分経ったとき、その坂道のシーンが現れた。やはり、僕が予感したとおりだった。そして、十二歳のふくが坂道の向こうから現れ、駆け下りてくるシーンはハイスピード撮影されていた。

●かなしいほどにいとおしむ気持ち

「蝉しぐれ」は十五歳の牧文四郎が顔を洗いに裏の小川に出たところで、隣家の娘ふくと出会う場面から始まる。ふくは十二歳である。文四郎が顔を洗っているときに、ふくが蛇に噛まれて小さな悲鳴を上げる。文四郎はふくの指をくわえて血を吸い出す。小説は常に文四郎の視点で展開するから、ふくの心理は描写されない。

文四郎とふくの物語は悲恋である。父が藩の政争に巻き込まれ切腹を命じられた後、文四郎と母は藩からの捨て扶持で足軽長屋に暮らすことになる。ある日、文四郎が道場の稽古で遅く帰ったとき、母から「ふくがたった今帰った」と知らされる。ふくは「江戸へいくことになった」と言いにきたのである。文四郎はふくを追うが、会えないまま終わる。そのことが文四郎の生涯の悔いになる。

——文四郎はやはりふくに会えなかったことが取り返しのつかない過失だったように思われて来るのだった。もし推察するような気持ちを抱いてたずねて来たとすれば、それはふくの告白にほかならないことになろうか。

ふくは遠く江戸に去る。やがて、家禄が旧に復することになった文四郎は、そのことを知らせにふくの実家に赴くが、そこで知らされたのは江戸屋敷の奥に勤めたふくに藩主の手がついたということだった。それを聞いた文四郎はふくをかなしいほどにいとおしむ。

──では、終わったのだと文四郎は思っていた。(中略)蛇に噛まれたふく、夜祭りで水飴をなめていたふく、借りた米を袖にかくしたふく、終わったのはそういう世界とのつながりだということがわかっていた。それらは突然に、文四郎の手のとどかないところに遠ざかってしまったのだ。

ここで描かれた喪失感は、読んでいると心の奥底に響いてくる。自分の少年時代の終わりを甦らせる。何を失ったのか、具体的には言えない。しかし、大切なものが手の届かないところに遠ざかってしまった、という気持ちを味わったことは、おそらくどんな人にも経験があるだろう。悲しい…、無性に悲しい、胸がかきむしられる。

だから、二十数年後、ふくは藩主の死後、尼になることを決意したそのときに文四郎と会うことを切に願うのだ。彼女が失ったもの、それも自分の意志に反して奪われたものを取り戻すために…。彼女は精いっぱいの意思表示を、こんな言葉に込める。

──文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか。

最初の章である「朝の蛇」に登場した十五歳の少年と十二歳の少女は五年後につかの間再会し、最終章「蝉しぐれ」で四十過ぎの男女として初めてふたりだけの時間を持つ。その長かった時間と、それほどまでに惹かれ合うふたりがだだ一度の逢瀬だけで諦めねばならぬ理不尽さを思い、歯ぎしりするほどの無念さが湧き起こる

●美しい背景と人を想う心映えの美しさ

「蝉しぐれ」を僕は何度読み返したことだろう。文庫本を買ったのが、もう十五年も昔のことになった。何度読んでも、読み終わった後に胸に迫るものがある。郷愁だろうか。解説を書いている文芸評論家の秋山駿は「晴朗さが漲っている」と書いているが、心が洗われたような爽やかな気持ちになる反面、胸かきむしられるせつなさ、ままならない人生を思ってため息をつくやるせなさが湧き起こる。

「蝉しぐれ」で描かれるのは、どんな逆境に陥っても誇りを失わず懸命に生きる美しさであり、人が人のために尽くす心映えの美しさである。人を想う胸迫る気持ちは、一本の太い幹のようにこの小説を貫いている。それは去った女性への哀惜であり、父の子に対する想いであり、子が父を慕う気持ちであり、友を気遣うやさしさである。そして、誰もが心映えの見事さを見せる。

黒土監督も原作が描く人の気持ちの美しさを映像化するのに腐心したのだろう。文四郎が切腹前の父と最後の対面をするシーン、その文四郎を気遣って待っていた友人の逸平と話すシーン、どれも力のこもったものになっていた。美しい背景と共に人が人を想う心映えの美しさが伝わってくる。

父(緒形拳)との対面は、文四郎から見て逆光で捉えられる。父はシルエットとして現れ、表情がよくわからないまま(それは涙で父の顔がよく見えない文四郎の視線を想像させる)会話をする。「父を恥じてはならん」と言い、息子の精進を誉めたうえで「はげめ」と激励する。去り際には「登世をたのむぞ」と妻を気遣って言い残す。

父との対面を終えた文四郎と逸平が会話をするシーンは、夕暮れだろうか、文四郎の心を映したような昏い空を背景に枯れた立木が印象的である。友を気遣う逸平は「泣きたいのか…、泣きたかったら存分に泣け。俺はかまわんぞ」と言う。

──もっと他に言うことがあったんだ。だが、父上に会っている間は思い付かなかった。
──そういうものだ。人間は後悔するようにできている。

その後、文四郎は声を詰まらせながら「父上を尊敬していると言えばよかった。母のことは心配いらぬと俺から言うべきだった。何よりここまで育ててくれてありがとうございましたと言うべきだった」とうなだれる。逸平はそんな文四郎を黙って見守っている。

そのシーンを見ながら、かつて僕も友人にそんな風に気遣われたことがあったのだと、遠い思い出が甦ってきた。記憶が掻き立てられた。かつての自分は、そのように友に気遣われる価値のあった人間なのだ。そう思うと、今の自分に忸怩たる思いを禁じ得ない。僕は何かを失ってしまった…

心底から友を想う。気遣う。見守っている。そんな気持ちを長い間、僕は忘れていたんじゃないだろうか。そんな慚愧の念と共に、自分もかつて友を気遣ったのだと、悲しくなるほど人を想ったことがあるのだと、記憶の底から浮かび上がってきた。

心映えの美しさを取り戻さねばならぬ、どんな逆境に陥っても不遇なときがやってきても卑屈にならず誇りを持って毅然と生きねばならぬ、なくしてしまった何かを甦らせねばならぬと、まるで時代劇の主人公のように僕は決意した。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
メガネを七年ぶりに新調した。眼鏡屋の口車に乗せられて、自分史上最も高価なメガネになった。小心者の貧乏性だから、すでに後悔している。しかし、一万円以下でメガネが作れる時代だというのに、つくづくへそ曲がりなのだと思う。形状記憶合金のフレームが気に入ったのだけど…

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< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html >

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■DTPユーザーのためのWeb再入門[7]
構造と表現の分離を、スタイルシートで進める(1)

鷹野雅弘
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Webの世界では、数年前から、その制作手法が大きく変わりつつある。これまでは、HTMLファイル内に書式やレイアウトなどのビジュアル情報を書き込んでいたが、ビジュアル情報をHTMLから分離し、スタイルシート(CSS)ファイルに記述する。

同時に、HTMLファイルの方では、ここが大見出しです(<h1>)、ここが中見出しです(<h2>)、これは箇条書きです(<ul>)、ここは本文です(<p>)のように、文書の中で各段落がどのような役割を持っているかを記述する。これを「構造(structure)と表現(presentation)の分離」と呼ぶ。

たとえば、文字色を変更したい場合、「<fontcolor="red">対象の文字列</font>」のように記述していた。1文書内に100個、200個と存在していた<font>タグを排除することができるだけでも、HTMLのソースが軽く、見やすくなることを想像できるだろう。

元々、HTMLにはビジュアル情報を表現するタグはなかったのだが、その発展過程で拡張されたきた。それが一巡したと言える。

そこで、<font>タグの代わりに利用するのが「CSS」だ。スタイル、またはスタイルシートといえば、DTPユーザー(といっても組版関連)にはお馴染みだが、これに「カスケーディング」がついたものがCSS(CascadingStyleSheet)だ。

DTPの場合には、たとえば「本文」というスタイルを作成し、そのスタイルを「文字サイズ9.5pt、行送り16pt、ジャスティファイ、文字色スミ」のように定義し、ちまちまと対象となる段落に適用する。

一方、Webの場合、このワークフローに対応するのが「クラス」と呼ばれるものだ。たとえば「description」というクラスを作成し、文字色を赤に設定する場合、CSSでは「description{color:red;}」のように記述する。日本語と同じ流れで、「descriptionというクラスの文字色(color)を赤(red)に設定する」と読める。

次に、対象となる段落に<pclass="description">のように記述すれば、その段落の文字色が赤になるという流れだ。

カラーを変更したい場合には、CSSファイル内で「description{color:blue;}」のように1箇所だけ変えれば、リンクしているすべてのHTMLファイルが表示が変わる。無数にある<font>タグを修正するのに比べて、スマートで簡潔だ。

このように「クラス」によるCSSの適用方法は、DTPユーザーにとってわかりやすいものといえるが、実際のところ、クラスによる指定は、なるべく避けるのがセオリーだ。

次回は、さらに踏み込んで、クラスの代わりとなる実用的な手法を紹介する。

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「早く行かなくても座れるCSS Nite」=CSS Nite LP
境 祐司、矢野りん、上ノ郷谷太一、長谷川恭久、Charles McCathieNevile(Opera)、瀧田佐登子(Mozilla Japan)など、豪華なスピーカーで10月10日(来週の火曜日)に津田ホールで開催します。
< http://lp1.cssnite.jp/info_lp01.html >

【たかのまさひろ】takano@swwwitch.com
トレーナー・テクニカルライター・デザイナー
株式会社スイッチ代表 < http://swwwitch.jp/ >
モスバーガー店員から英会話塾講師、職業作詞家等、100以上の職種を経験後DTPやWebの制作、トレーニング、ライティングは飽きずに10年。

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■イベント案内
『日本のメディア芸術100選』ついに決まる!
太陽の塔、やわらか戦車、エヴァンゲリオン、スラムダンクがトップ
< http://plaza.bunka.go.jp/ >
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<ニュースリリースより>

文化庁とCG-ARTS協会は、文化庁メディア芸術祭10周年を記念して1950年代から現在に至るまでの、日本を代表するメディア芸術作品を選ぶアンケートを7月13日から8月31日まで実施しました。

アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門で期間中に33,884名から209,284票の投票があり、4部門ごとの投票上位作品を『日本のメディア芸術100選』としてまとめました。

各部門の1位は次の通りです。
・アート部門       「太陽の塔」(岡本太郎)
・エンターテインメント部門「やわらか戦車」(ラレコ)
・アニメーション部門   「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明)
・マンガ部門       「スラムダンク」(井上雄彦)

Webサイトでは、上記「100選」のほか、「部門別」、「年代別」のリストや、メディア芸術祭の受賞者等による「あの人の10選」なども公開しています。

なお、 国立新美術館(東京・六本木)のオープンにあわせて、「文化庁メディア芸術祭10周年企画展」を2007年1月21日から2月4日まで迄開催。今回選ばれた100選の作品展示も予定しています。

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■編集後記(10/6)
・小林信彦「うらなり」(文藝春秋)を読む。漱石「坊っちゃん」の登場人物のなかの一人、うらなりのその後、という設定の小説である。「坊っちゃん」では出番が少なくほとんどセリフもない、目立たないはずなのにみょうに存在感のあるこの男の「その後」だけではなく、「その最中」の場面も出てくる。たとえば、「坊っちゃん」のクライマックス、料亭で行なわれるうらなりの送別会の場面、ここではうらなりの視点から描かれている。同じひとつのシーンを別の視点から書くというしかけで、映画にくわしい著者のカメラワークが絶品。もちろん、岩波の「漱石全集」を書棚から抜き出してきて、この場面を読みくらべた。おもしろい。じつにおもしろい。送別会までは漱石のつくった世界のうらなりだが、その後は信彦がつくった世界のうらなりだ。延岡に追われて、その後姫路に転じ、母とふたりで暮らしていて、見合いを何回かしたあと結婚し子供を授かる。マドンナとはどうなったのか、ちゃんと決着している。30年後に、銀座で山嵐と出会ってマイアミ・キッチンでビールを飲むのがイントロ。翌日、東京鉄道ホテルで朝からビールを飲みながら、うらなりが延岡に去ってからの山嵐や坊っちゃんの後日談が語られるのがエンディング。じつに巧みな構成だ。「ある瞬間、漱石先生が背後に降りてくる」と夏目房之介との対談でも語っていた。この執筆を漱石が支援した(?)ことは確かだろう。「うらなり」を読むと「坊っちゃん」を読みたくなる。その後、また「うらなり」を読みたくなる。それにしても、坊っちゃんってヘンなヤツだ。(柴田)

・日本のメディア芸術100選。何故、現代まで含めたのか? こういうランキングって、今の人気で左右させるものじゃないと思う。「時代を代表する」なんだから、後の人が評価するべき。これは毎年見直すの? 漫画は完結していないものを入れるんじゃない。「あの人の10選」は、選択の理由も見えるようで納得がいくのだけれど、全体結果は組織票なんじゃないのかなぁと。最終でまとめずに世代別ランキングでも良かったのに。だいたい評価基準が曖昧で、人気投票に終わってしまっているところが納得いかん。これがどこかのサイトでやったというなら気にしないのだが、権威あるところがやっちゃうから気になる。後に影響を与えた、ターニングポイントになる重要な作品という基準?広く一般に浸透しているという基準? 海外に浸透した? 芸術的に評価の高い? エンタメ部門にゲーム・遊具や映像、ウェブが一緒になっているのも理解できん。エンタメ部門「ファミコン」、アニメ「サザエさん」……、真面目にやったら、当たり前すぎてニュースにならないか。(hammer.mule)

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うらなり
小林 信彦
文藝春秋 2006-06
おすすめ平均 star
starこれは面白い本です。
star坊っちゃん「ダイジェスト版」+α
star発想の貧困
star「ぼっちゃん」よりいいかも
starプールサイドの読み物

昭和のまぼろし―本音を申せば にっちもさっちも―人生は五十一から〈5〉 坊っちゃん 東京少年 丘の一族―小林信彦自選作品集



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坊ちゃん
夏目 漱石
フロンティアニセン 2004-09-01
おすすめ平均 star
star「私の個人主義」の具現作か

銀河鉄道の夜 我輩は猫である(中) 我輩は猫である(上) 檸檬・桜の樹の下には 私という病

by G-Tools , 2006/10/06