[2065] 現実を忘れさせてくれるもの

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<システムの背後で疲弊する心>

■映画と夜と音楽と…[307]
 現実を忘れさせてくれるもの
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![37]
 「ニート一揆」とはなんだったのか
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[307]
現実を忘れさせてくれるもの

十河 進
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●派手な衣装の桃太郎侍への違和感

連休にテレビを見ていたらすっかり貫禄がついた高橋英樹がバラエティ番組に出ていた。最近、バラエティ番組によく出ているのは知っていたが、その中でかなり昔の出演作として「桃太郎侍」が紹介されていたので、高橋英樹はいったいいくつになったのだろうと疑問が湧いた。

鈴木清順監督の「けんかえれじい」で旧制中学生の主人公を演じたときすでに、いくら旧制でも中学生には見えないぞと思ったが、あれは1966年の映画だから四十年前のことになる。「男の紋章」シリーズで大島竜次を演じたのはいつだったか、調べてみたら1963から1966年までに十作が作られていた。

若親分の役ではあったけれど、「男の紋章」のときにはすでに大人の男の雰囲気を漂わせていた(やはり「けんかえれじい」の設定が無理だったのだ)。高橋英樹は60年代末から70年代初頭にかけての日活ニューアクションにはほとんど出演作がなく、時代劇役者として主な舞台をテレビに移し始めていた。

高橋英樹の「桃太郎侍」は1976から1981年にかけて全258話が放映されたテレビシリーズである。最後に能面をつけて派手な衣装で登場し、悪人たちをバッタバッタと切り倒した。それにしても高橋英樹版「桃太郎侍」の放映が、もう四半世紀も前だったのには改めて驚いた。

当時、僕はあの「桃太郎侍」がキライで、本当の「桃太郎侍」はまったく違う話なんだと人に言いたくなったものである。しかし、今の人は高橋英樹版「桃太郎侍」がスタンダードになっているから、「桃太郎侍」と聞くと派手な衣装で見得を切って大立ち回りをするシーンを思い出すのだろうなあ。

僕が山手樹一郎の「桃太郎侍」を読んだのは十代半ばだった。河出書房から毎月一冊配本になる「国民の文学」を買っていた頃である。「国民の文学」で僕は司馬遼太郎も読んだし五味康祐も読んだ。井上靖の「風林火山」「戦国無頼」もそのシリーズで読んだ。

僕が原作を読んだ頃、「桃太郎侍」がテレビシリーズになった。1967年の秋の頃である。主演は尾上菊之介(数年後、藤純子と結婚し、寺島しのぶが生まれる)だった。このシリーズは原作に忠実な展開で連続時代劇にしていた。このシリーズから高橋英樹版まで十年もないのに、今ではすっかり高橋英樹版が定着している。

尾上菊之介版でヒロイン百合を演じたのは、長谷川一夫の娘である長谷川稀世だった。今でも商業演劇の広告を見ていると舞台には出ているが、当時は純情可憐な娘役が多かった。NHKの「文五捕物絵図」や夏目漱石の「虞美人草」のドラマ化作品にも出ていた女優である。「虞美人草」ではわがままなヒロイン藤尾を演じた。

尾上菊之介版「桃太郎侍」は原作に忠実に脚色しており、最後は「次週へ続く」という終わり方だった。たとえば、桃太郎が東海道の宇都ノ谷峠で敵方に襲われ、崖下に落ちたところで「次回を待て」という感じで終わるのである。昔の時代劇らしくて、なかなかよかったなあ。

●半世紀近くに亘って映像化され続けた

山手樹一郎が読み物雑誌の編集者からフルタイムの作家になったのは、1939年(昭和十四年)である。その翌年、「桃太郎侍」を新聞に連載し大人気を博す。太平洋戦争が始まる直前だった。山手樹一郎が流行作家になるのは戦後だが、戦前にも何本も映画化されるほどの人気作家ではあった。

代表作「桃太郎侍」の映画化で、最も有名なのは名匠・衣笠貞之助が監督した「修羅城秘聞 双竜の巻」と「続修羅城秘聞 飛竜の巻」である。昔の映画は平気で前後編に分けて上映した。前編が三月二十日に公開され、後編は五月八日に公開された。1952年、僕が一歳にもならない頃のことだ。

この映画で桃太郎と若殿・新之助を演じたのは天下の二枚目・長谷川一夫だった。宿敵・伊賀半九郎の役は大河内伝次郎である。スリで踊りの師匠をやっている姉御肌の小鈴役は轟夕起子(「男の紋章」シリーズでは大島竜次の母親で女親分をやっていました)だった。ヒロイン百合は沢村晶子。

その五年後、若手の二枚目として登場した市川雷蔵が「桃太郎侍」というタイトルでリメイクする。監督は映像の切れ味が鋭かった三隅研次である。三隅研次と雷蔵のコンビ作品ならすべて見たいと思っている僕だが、残念なことにこの作品は未見である。

1960年になると第二東映が「桃太郎侍 江戸の修羅王」「桃太郎侍 南海の鬼」を続けて公開する。里見浩太郎の主演で、キャストを見ると小鈴を演じたのは、おそらく千原しのぶだろう。姉御タイプの役が似合ったキツネ目の女優である。小学生の頃の僕のアイドルだった。

さらに1963年には、本郷功次郎主演の「桃太郎侍」が公開されている。大映での映画化は三度目になる。こちらのキャストから推測すると、小鈴は久保菜穂子、百合は高田美和だと思う。橋幸夫や舟木一夫などを相手に、高田美和が純愛もの歌謡映画のヒロインをやっていた頃の作品である。

その後、前述のように1967年に尾上菊之介主演でテレビ時代劇になり、1976年から高橋英樹版のテレビシリーズが始まる。その終了が1981年だから、原作が書かれてから四十年、様々な形で映像化されてきたことになる。その間、多くの人が「桃太郎侍」を読んだことだろう。山手樹一郎自身は1978年に七十九歳で亡くなったが、幸福な作品である。

僕より年輩のある人が「何度読み返しても山手樹一郎の小説は泣けるし、気が塞ぐときに読めば『明日もがんばろう』という気持ちになる」と言っていたことがある。その気分はとてもよくわかった。明朗時代劇と言われる山手樹一郎の作風は、読後感の爽やかさにある。

十代半ばで「桃太郎侍」を読んだ僕は、「朝晴れ鷹」「江戸へ百七十里」「又四郎行状記」「夢介千両みやげ」など、一時期に集中して読んだ。どの作品も主人公は一点の曇りもない明朗な正義漢であり、物語は勧善懲悪に貫かれ、読後感は爽快だった。

しかし、やはり「桃太郎侍」を超える作品はなかった。今でも僕は、浮き世の憂さを忘れたいときには「桃太郎侍」が読みたくなる。山手樹一郎ワールドは、一時期、現実を忘れさせてくれるのである。

●時代劇のパターンを作りだした

「桃太郎侍」は、時代劇のパターンを作った小説ではないとか思う。まず、主人公の桃太郎は四国のある藩主の御落胤である。貴種流離譚は古来からの日本の伝統であり、まずその部分をベースにしている。主人公は浪人ではあっても、高貴な生まれでなけれぱならない。

物語はお家騒動であり、側女の生んだ子を世継ぎにしたいため陰謀を巡らす一派は嫡男の毒殺を図る。その嫡男が桃太郎の双子の兄であり、桃太郎とそっくりなのである。たまたま、そのお家騒動に巻き込まれた桃太郎は兄の身代わりとなって国元に乗り込むことになる。道中、様々な形で敵が襲ってくる。

大衆文芸のお約束のように、お姫様タイプの娘(家老の娘である百合)と姉御タイプのバクレン女(スリで踊りの師匠の小鈴)が登場して色模様が展開する。このふたりの間で恋のさや当てがあり、嫉妬が原因で敵方につけこまれたり、ややこしい状況になったりする。

新聞小説だったこともあるのだろう、頻繁にヤマ場があり、主人公たちの危機が訪れる。桃太郎侍はもちろん、ヒロイン百合、桃太郎の家来になる元盗賊の伊之助、小鈴などが敵方の陰謀で窮地に陥る。桃太郎が敵に襲われ足を踏み外し、宇都ノ谷峠の崖下に真っ逆様に落ちたりする。

…と、ここまで書いて気付いたのだが、意匠は新しくなっていても、最近売れている冒険ファンタジー小説やロールプレーイング・ゲームとよく似ているなあと思う。敵方がいて、仲間がいて、A地点からB地点へ様々な困難を克服しながらクライマックスへ向かっていくのだ。

そうか、もしかしたら「明朗・爽快・勧善懲悪」という要素は、ゲームやアニメや冒険ファンタジーの世界に継承されているのだろうか。正義感あふれる熱血漢の主人公、美しく優しいヒロイン、主人公のためなら死をも怖れぬ忠実な従者…どれも「桃太郎侍」と共通するファクターである。

そうだとすれば、捨てたものでもないなという気がする。かつて大衆小説と呼ばれたジャンルの作品は、一時でも日常を忘れさせてくれるものだった。しかし、今は、読者のニーズなのかもしれないが、どんどんリアリズムを強調する傾向で、現実に近いものを題材にするようになっている。

最近の小説を読むと、こんなことまで書かなくてもいいのにというものが増えた気がする。たとえば、推理小説も現実の事件を反映して、ますます残虐な設定が増えている。絵空事、あるいは現実を離れた別世界で心をのびのびと楽しませるのは大切なことなのだと思う。

僕の十六歳の頃の日記を読み返してみると、当時、僕がどれだけ「桃太郎侍」に思い入れていたかがわかる。原作を読んだ後、尾上菊之助版「桃太郎侍」の放映を心待ちにしている。1967年の十一月七日火曜日は僕の十六回目の誕生日だったのだが、その日の日記にこんなことを書いていた。

──「桃太郎侍」たいへん面白かった。長谷川稀世と尾上菊之介の息も合っている。長谷川稀世の小姓姿も似合っていた。男になりすましていたのに、桃太郎の前で急に女に戻る。肩を怒らせていたのを急に落とし微笑む。来週は少し気がかりな場面があった。しかし、また助け出されるだろう。

これを読むと、僕は百合にずいぶん肩入れしている。このシーンは前半のヤマ場だ。変装した桃太郎と小姓姿で男に化けた百合が江戸屋敷に潜り込むが、百合が女とばれて窮地に陥ることになる。しかし、次週予告を見て気がかりになりながら「また助け出されるだろう」と妙に冷めているのがおかしい。

それなりにフィクションの世界だと割り切って楽しんでいたのかもしれない。四十年後の僕は、そんな自分を懐かしく思う。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
単行本の編集作業の話ばかりで恐縮ですが、一巻分(1999〜2002年)の校正が届き、連休を利用してセッセと赤入れをしています。しかし、我が原稿ながら読めども読めども終わりません。これがもう一巻(2003〜2006年)あるのかと思うと……

デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html >

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■Otaku ワールドへようこそ![37]
「ニート一揆」とはなんだったのか

GrowHair
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結局、あの騒ぎは何だったのだろう。あれから3週間経つというのに、自分の中に納まり所が見つからず、記憶の仮置き場にずっと居座っている。

●ニートがついに立ち上がった!

9月16日(土)午後、ニートやそれに近い青年約100名が「家賃をタダにしろ!」と要求を掲げ、中野から高円寺まで、けたたましくデモ行進した。主催は「高円寺ニート組合」。
< http://neet.trio4.nobody.jp/ >

午後3時過ぎ、中野サンプラザ裏手にある囲町(かこいちょう)公園をたまたま通りがかって、そこに集結した100名ほどの若者たちを見たときは、てっきり新興宗教団体かと思った。ものものしく周囲を固めて監視する警官の数、ざっと50名。公園脇の道路にはパトカーなど警察の車両が12台ほど。さては、数日前に教祖の死刑が確定したあの宗教団体かと。

若者たちはほとんどが20代に見え、7割方が男性だ。ロリ服の女性や外国人もいる。一畳大のござに墨で大書して掲げた「一揆」という文字が遠目にも目立つ。歌ったりトランペットを吹き鳴らしたりして、お祭り騒ぎの様相だが、いったいどういう趣旨の集まりなんだろう。近くの警官に聞いてみると、ニートに近い生活をする若者の集団で、家賃をタダに、との要求を掲げ、これから高円寺までデモ行進するのだそうだ。何、それ?

4:10pm、デモ行進出発。3列に隊列を組み、前後を3台ずつの警察車両が、脇を約50名の警官が固める。先頭車両後部には大型スピーカーが据え付けられ、大音響で音楽を鳴らしている。その車両の前面には「家賃をタダにしろ。ニート組合」と大書した赤い横断幕。隊列の中ほどでは、2畳分ぐらいはありそうな台車の上にちゃぶ台が置かれ、居間になっている。そこに3人ほど上がり、酒盛りが開かれている。

掲げられたプラカードには、「家賃をぶちのめせ!」「金ねぇぞ!」「礼金・敷金は親の仇」「画鋲ぐらい刺させろ!」「築30年」などに混ざって「広い部屋でSEXさせろ!」なんてのもある。

サンプラザ前を通り、中野通りを右折し、中野駅下のガードをくぐる。南口に出たときは4:30pm。先導車両の屋根の上に組まれた監視台に2人の警官が後ろ向きに立ち、「速やかに進みなさい」「3列になりなさい」などとがなっているが、まるで反抗するかのようにのろのろと進む。

大きな交差点では、それぞれ10名ほどの警官が待機し、交通整理にあたる。信号待ちの歩行者は、想像を絶するものを見たような怯えた目で見守っている。私は用事があって、途中で帰ってしまったが、デモ行進は高円寺駅まで続けられ、駅前でニート御輿をかついだりして大騒ぎしていたらしい。

かかった曲は「涙をふいて(三好鉄生)」、「オー・シャンゼリゼ」、「襟裳岬(森進一)」、「Monkey Magic(ゴダイゴ)」など。

・写真を30枚ほど掲載している Mkimpo Kid 氏のサイト:
< http://www.mkimpo.com/diary/2006/free_rent_06-09-16.html >

●振り返って残る不安あれは結局なんだったのか

常識的な観点からすると、けしからん暴挙である。集会・デモの権利の濫用。100人以上もの警察官を動員させ、交通を妨げ、大音響を撒き散らして市民に迷惑をかけておいて、訴えている内容はまるっきりナンセンス。

家賃をタダにしろとか言う前に、働けよ。あんなに元気そうなら、働こうと思えば働けるだろ。やるべきことやらずに、不満を訴えていれば誰かが何とかしてくれるだろうなんて、考えが甘い。まず社会の責任果たさんかい!

しかし、これを言い切ってみても、何かすっきりせず、不安が残る。

●道化を笑う者は道化

どうも彼らは、非難されたり嘲笑されたりすることを百も承知で、むしろそれを狙っているようなふしがある。道化師を見て笑うなら、そのこっけいな演じっぷりを素直に楽しんで笑えばいいのであって、素のままでああいうふうなんだと勘違いして嘲笑したりすれば、こっちが道化である。

それに、あれだけのことをやってのけたという機動力には、ほめてやりたい気持ちが湧かないでもない。不活性な人々と目されていたニートがあれだけ集まって騒ぎを起こせることを示したのは痛快だとも言える。しかし、面白半分という動機で、人はあれほどまでに動くものなのか。それなりのコストや手間隙がかかったであろうに。内容は空虚でも、何か主張したいという主張だったのか。ダメ人間のダメっぷりを見せつけたかったのか。どうせ世の中変わりっこないから何を訴えても同じという皮肉だったとか?

主張に内容がないのは、ひとつには、闘う相手が見えないということもあるのだろう。諸悪の根源たる人物がいて、そいつを権力の座から引きずりおろせばすべてが丸く収まるとか、悪い政治体制を革命で一新すれば住みやすい世の中がやってくるという筋書きが見えていれば分かりやすいのだが、現代社会の問題というのは漠然としすぎて、敵が見えない。特に社会が混乱しているということもなく、全体的にはうまくいっているようにも見えるけど、個人個人の生活の中にあまり幸福感がなく、生きるってこういうことでいいんだっけ、みたいな。それを誰かに何とかしてくれと言いたくても、誰に何をしてくれと言ったらいいのか、よく分からない。

●システム至上主義の時代

ある社会で、人の命よりも重んじられているものが何かを考えてみると、その社会のキーワードが見えてくる。例えば、イデオロギーの違いが人を殺す理由として社会的に容認しうるものだとしたら、その社会は政治闘争の時代にあると言える。仇討ちがOKなら人情の時代とか。現代の日本社会は何だろう。私は、「システム」の時代なのではないかとみている。電気・ガス・水道がちゃんと供給され、電車が定刻通り走り、店の棚には商品が整然と並び、ゴミはさっさと片付けられ、情報通信は滞りない、そういう状態を安定的に維持する仕組みとしてのシステムが現代社会では最も重要視されているのではないかというふうに見える。

それは、世の中便利になったということで、それ自体はたいへん結構なことだが、反面、システムが一番偉くて、人間はシステムに隷属して、維持・発展させるための交換可能な消耗材へと格下げされているようなところがある。世のため人のためではなく、システム大明神様のために働いている。

失業などでひとたびシステムから脱落すると、生活を立て直すのが難しい。そういう人たちを救う仕組みは、社会保障制度や福祉制度という形で、いちおうシステム内に用意されてはいる。しかし、道端にホームレスがごろごろしている現状を見ると、十分に運用されているのか疑わしくなる。

救済システムの運用の生ぬるさに加えて、世論として、脱落者は自己責任だから放っておけばいい、個人の問題だから社会問題として取り上げる必要はない、という見放した意見を言う人が増えてきているように感じる。

●相対的幸福は不幸の表れ?

一方、システムの枠組みから寸分たりともはみ出さずに暮らしている善良な小市民は、その恩恵に浴して幸せかと言えば、どうもそうとも言い切れないところがある。あのデモを見物して侮蔑的な言葉を吐いている人たちは、確かに立派に自立して生きているかもしれないが、生きることに幸福が実感できているかとなると、別問題な気がする。

幸せって何だろう。夏の浜辺でさんさんとふりそそぐ太陽の光を浴び、カクテル片手にビーチチェアに寝そべり「ああ、極楽、極楽」とつぶやくとき、比べるべき相手を必要としない。こういう場面では、「ああ、極楽、極楽」とだけつぶやくのが正しい。これを間違って「丸の内あたりであくせく働くサラリーマンのことを思えば天国と地獄だな」と言ったのでは、幸せの意味がすっかり変質してしまう。相当イヤミな幸せだ。自分よりも不幸そうに見える人を無理やり探し出してきて、「あいつよりはマシだ」と優位を確認しなければいられないとなると、その状態はもう幸福とは全異質の、むしろ、「生きてくのつらくない?」な状態なのではあるまいか。

ニートをダメ人間扱いして見下し、相対的に自分の方が上だと思っている人は、ニートに感謝しなくてはならない。自分よりも下層の生活をすることによって、プライドを下支えしてくれてありがとう、と。

ところで、皮肉なことに、あのデモには偽者のニートがけっこういた。嘲笑する側とされる側、まっとうな人間と思っている側とダメ人間を演じている側とが、生活水準や社会的なステータスとしては、実は大差なかったりする。

●システムの背後で疲弊する心

システムの側の人間も幸福を実感できないとなると、ここに、現代社会の2層構造が浮かび上がってくる。前面には驚異的なまでに円滑に回っている巨大で緻密なシステムがあり、背後には、人々の疲弊した心がある。

そこには、システム優先指向の考え方が、人々の心を疲弊させているというメカニズムが働いているように見える。システムから便利さを享受する消費者も、仕事をする立場になってみれば、それを維持・管理する側となる。

どうも最近、システムの巨大化・緻密化が進んでいくのに伴ってか、単調な反復作業を飽きずに続けるタイプの職種よりも、緻密な思考と集中力の持続が要求されるタイプのものが増えてきているように感じる。

電車の改札口の切符切りの仕事は自動改札に置き換えられた。それは、切符切りの仕事を廃止に追い込んだ一方、自動検札・精算システムの構築の仕事を生み出した。システム構築は高度で知的な精神労働には違いないが、向く人と向かない人がいる。もともと向いていない、思考が大雑把で、気楽に生きるのが性分に合っているような人たちまで、知的労働へと移行させられつつあり、それが心の疲弊を生じさせているのではあるまいか。便利さや経済的な豊かさを多少は減じてでも、最小限働いて気楽に生きたいという希望を社会が容認しなくなりつつあるように感じる。「お気楽なやつ」のように、気楽さは時として、まるで悪のように言われることがある。

●システムを相手に闘ってもしょうがない

諸悪の根源がシステムだったとしても、それを破壊することを狙って運動してもしかたがない。システムが壊れたら、自分たちが不便になるだけで、何の得にもならない。そのあたりが、敵の見えないゆえんであろう。

思うに、闘っている相手は、人々の硬直した価値観なのではなかろうか。怒涛のナンセンス攻撃で糞真面目な精神をぐずぐずにほぐしてしまう狙いだったのではあるまいか。しかし、あれを見物していた多くの人たちは、メッセージを受け取り損ない、ますます態度を硬化させてしまった。

結局、あの騒ぎは何だったのか。様々な立場の人々の間での相互理解がすっかり希薄になって、ばらばらになってしまった現代社会の姿を見せつけてくれた、悲しい光景だったのだと思い至ったとき、ようやく記憶の中の納まり所が見つかったように思えた。

もっと読む気力がある方はこちらもご覧下さい。
「広い部屋でうんぬん」のプラカードを掲げて参加したKatoler氏はブログで振り返り、社会構造の問題として深く分析している。「徹頭徹尾ナンセンスだからこそ起爆力を持つ」、「死ぬほどくだらないスローガンを掲げた運動だからこそ、ニートたちは集まってくる」。
< http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2006/09/post_ff7e.html >

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
作業の合間の息抜きで、ダレないものって何がいい? スリザーリンクはダメだった。熱くなりすぎ。ランク入りするまでムキになってやってしまった。
< http://www.puzzle-loop.com/ >
< http://www.puzzle-loop.com/hall.php?hallsize=6 >
遊びかたはこちら。
< http://www.nikoli.co.jp/ja/puzzles/slitherlink/ >

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■編集後記(10/13)
・なんということだ! 気がついたら、書店には来年のカレンダーや手帳が並ぶシーズンになっているではないか。100円ショップの店頭も同じだ。新聞では、来年の干支であるイノシシの置物の生産に急ピッチなんて記事が出ている。あと2か月半で今年が終わるとは、まことに時の流れが早い。とくに年の半ばでメンバーが2人、仕事の都合もあって抜けてしまい、以降はリニューアル創刊の当時と同じ2人体制に戻ってしまったので、せわしい日常になった。相棒のデスクは夜行性の人なので、早寝早起き規則正しいわたしとはリズムが合わないことが多い。そのため、ここ数年は発行日の午前中にのんびりフィニッシュしていたメールマガジンを、前夜にほぼ仕上げておかなくてはならなくなった。でも、編集制作データベースがあるので実はたいして問題ではない。タイミングをスライドさせるだけである。来年の手帳は、2月から使っている「無印良品システムノート・ウィークリー」の続行で決まりだ。A5・2穴のうすいノートで、日付を自分で書き込むのがしょぼいけど、なにしろ税込み105円なのだ。それに、書き込むべき予定や記事が年々少なくなっていくので、一日あたり13cm×2.6cmのスペースで充分というちょっとさびしい理由もある。あらゆるメモをこのノートに集中させることで、かなり機能的に使っている。それでも、白いスペースが目立つのだから情けない。まあ、人生なんてこんなものでしょう。(柴田)

・暑さ対策をしていったのに、風がとても強く肌寒い。じゃあ上着をと思ったら日が照ってきて、じりじりと焼ける。暑い。脱いだら日がかげってきて寒い。クーラーボックスの存在が小さくなっていく。去年は飲み物が売り切れで、求めてさまよったというのに。インテグラレースのあとは、「鈴鹿20周年記念ヒストリーラン」。鈴木亜久里、ベルガー、カペリが往年のマシンに乗る。走行前インタビューでは、ベルガーさんだったか、「懐かしい顔が並んでいて現役時代を思い出した。またレースしようぜ。」というようなことを冗談で言っていたりした。亜久里は少し太ってしまって、コックピットに入れないと思ったらしい。スタートしたが半周でエンジンブロー。会場中爆笑。縁起悪いぞ〜。ベルガーとカペリはオーバーテイクのサービス。会場中からおお〜っという声がおこる。ドライバーズパレードになると、皆はフラッグを用意。向かいはトヨタで、少し離れた横はホンダということがわかる。スーパーアグリ応援ブロックが広いことも知る。終わると観客の、トイレとブロックゲートレースがスタート。/公式プログラムの増刷決定。ヤフオクでは一万五千円までいったらしいよ。(hammer.mule)
< http://www.suzukacircuit.jp/mp/goods/backnumber/ >  詳細後日