Otakuワールドへようこそ![45]過去・現在・未来:さらっと日々の雑感など/GrowHair

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風邪をひいた。と言っても、そんなにひどい状態ではなく、あるかないか程度の微熱と時折の咳に居座られちゃっている感じ。何となく頭がぼーっとして、思考に力が入らないのだが、まあしかし、考えてみると普段からしてぼーっとしてるのだから、そんなに違いはないとも言える。

ここはひとつ、力が入らないのを逆用して、力を抜いて書いてみようと思う。テーマを決めず、日々の雑感みたいな感じで、思い浮かんだことをさらさらっと書き留めていったら、何が出てくるかという実験である。


●究極の風邪薬

小さい頃から、風邪を引くと、喉に来た。で、病院に行くと、いつも褐色の水薬が出された。これがまったりと甘くてコクがあり、それでいて清涼感のある絶妙の味で、風邪をひく楽しみのひとつになっていた。久々にその病院に行ってみたら、同じ薬が出され、ようやく正体をつかむことができた。

ブロチン液。桜皮(おうひ)エキスとも言い、文字通り、桜の皮から抽出した成分である。鎮咳去痰の作用があるという。市販の咳止め薬でも桜皮エキスを配合したものがあるが、配分が少ないのか、あまり美味しくない。桜皮エキスの味は、カルーア(コーヒーのリキュール)に多少似ているが、それよりも清涼感が高い。やはり病院のに限る。

これ、風邪薬にしておくのはもったいない。酒やコーヒーの類の嗜好品として売ることはできないものか。仕事帰りにふらりとメイドバーに立ち寄り、「お帰りなさいませ、ご主人さま」の声に迎えられ、「いつもの」と渋くつぶやくと、ブロチン液がダブルのストレート、チェイサー付きで出てきたりしたら最高だと思うのだが。

●進歩と不満

客観的にみれば、昔よりも今のほうが格段に進歩しているのに、それがゆえにかえって細かい問題点が際立って感じられ、人々の不満が高まってしまうという現象があるようだ。例えば、鉄道の運行の遅れ。30年くらい前を思い起こせば、鉄道なんて遅れるのが当たり前で、故障だの事故だので20分や30分足止めを食らうことぐらいざらであった。人々は、そういうもんだから仕方がないと半ばあきらめているようなところがあった。

今はどうかというと、おそらく機械の技術の進歩や、運行管理・メンテナンスのシステムの進歩などで、全体的には昔よりも遥かに正確に運行されているはずである。だけど、高まった信頼性のおかげで、かえって遅れたときの不満が大きくなっているようにみえる。これでは鉄道技術の進歩に携わってきた人々が浮かばれまい。「生活の利便性は昔よりも格段に向上しているのだ」ということをたまには思い起こし、素直に喜んで感謝することがあってもいいような気がする。

車内マナーの問題も、似たようなところがある。'70年代を懐かしく振り返れば、世の中が活気に満ち満ちていたようにも思えるが、実態はひどい混沌と喧騒だったとも言える。人々は我利我欲をむき出しにして表を歩いていた。まじめに順番なんか守ってられない人、人を押しのけてでもわが道を行く人、ズルしてでも得しようと機会を狙っている人が跋扈していた。

プラットフォームでは、電車のドアの来る位置にいちおう列らしきものができていても、電車が止まるころにはぶわっと崩れてドアを取り囲み、人が降り始めるのと同時に脇のほうから身を屈めてすり入ろうとする人がいたり、空席に向かって猛ダッシュする人がいたりで、足なんて踏む回数と踏まれる回数が大体釣り合ってればよし、という感じだった。世の中には大きな問題がありすぎて、細かいことなど言ってもしょうがないという空気だった。

今は、電車の乗り降りなんて、気持ち悪いくらい整然としている。だけどそれは、昔と比較するからそうなのであって、車内マナーの悪い人に対する不満は、今のほうが高まっているように感じる。実際、ヘッドフォンから漏れるシャカシャカ音は気になるし、ケータイで延々としゃべり続けてる人など、どういう神経してるんだと思う。

世の中の基準が細かくなったということなのだろう。人々が社会に対して、より整然とした秩序を求めるようになってきているところがある。欲望むき出しの醜い姿をさらしてまでちょっとばかり得する実利よりも、そういう人を下に見て「ああはなるまいぞ」と思う誇りのほうを取ろうという態度。実利より誇り、「武士は食わねど高楊枝」の美しき体面重視の精神か?

●過去から現在の延長線上にはない未来

将来が見通せたら、どんなにかよかろう。単純に言っても、上がる株や当たる宝くじを買っておけば確実に儲かるわけだし、まじめに事業を経営するにしたって、市場の将来予測をしっかり立てて投資の方向性を誤らないようにしないと回収しそこなう。平凡なサラリーマンとして就職するにしたって、今が人気の頂点で将来落ち目になる会社よりも、今誰も注目してないけど将来大化けする会社に入ったほうが得するに決まっている。

将来を予測する数式というのを考えてみた。

(将来)=(現在)^2 ÷(過去)
(ただし、a^2とはaの2乗、すなわちa×aのこと)

なんじゃそりゃ? 現在と将来の関係というのは、時間が経過すれば、自動的に過去と現在の関係へと移行する。だから、

(現在):(将来)=(過去):(現在)

であろう、と。これを(将来)についての方程式とみて解いたのが最初の式である。どうだっ!

こういうのを詭弁という。確かに概念的にみれば、過去と現在の関係は現在と将来との関係に等しいかもしれない。だけど、それを数量的な関係にすり替えているところにゴマカシの種がある。数量的にも成立するためには、「過去から現在に至る成長率が同じまま現在から未来に至る」という仮定がないといけない。だけど、それは、現実にはなかなか成立しない。

先の車内マナーの例にみるように、過去から現在にかけて、社会が混沌から秩序へと移行したのなら、将来はいっそうきっちりと秩序立った社会になっているだろうと予測するのが自然なように思える。だけど、実際同じ流れが続くかどうかは分かったもんではなく、極端な話、戦争に巻き込まれて、東京なんぞは一面の焦土と化していないとも限らないわけで。

どうも時間の経過に沿って社会を眺めていると、経済成長のような量的な変化が起きた後には、カタストロフとも言うべき質的な変化が起きて、それまでの価値基準そのものが崩壊してしまうことが往々にしてある。だから、20〜30年ぐらいのスパンで将来を予測しようとするなら、現在の流れが続いたらどうなる、ではなくて、現在の流れがどういうところから破綻に見舞われ、結果としてどういう価値観の転換が起き、それでどうなっていくか、という発想で考えたほうが、まだしも当たりそうな気がする。

●コンピュータ管理社会はどうなっていくか?

ここ30年ばかりの間に起きた、システム社会・コンピュータ管理社会への急速な流れを延長すれば、あと20〜30年もすれば、森羅万象すべてがデジタルデータとして反映される社会が到来するのは想像に難くない。人々は個別のIDで管理され、どこへ行っただの、何を買っただの、すべての行動履歴が記録され、蓄積される。

街は24時間体制でくまなく監視カメラに捉えられ、すべての犯罪を未然に防ぎきれないまでも、何かあれば必ずどこかに記録が残り、ほぼ100%検挙される。それが抑止力となり、実際の犯罪は、衝動的なのや確信的なのがごくたまに起きるだけである。社会はルールだけで運用され、個人個人の思想は完全に自由、モラル意識は不要となる。

SF小説などでは、コンピュータが急に知恵をつけて人類支配を企み、人間は主導権奪回のためコンピュータに戦いを挑むという筋書きがよくあるけれど、実際には、いくら計算速度が上がったり記憶容量が膨大になったりしたところで、しょせんは誰かが作ったプログラムを忠実に実行しているに過ぎず、規模が大きくなったからといって、急に意思を持ち始めて、自律的に自身のプログラムを書き換えて、勝手に知恵をつけていくなんてことは、当分(あと何百年か)は起きそうにない。

そうであってみれば、人々はむしろ、社会の面倒くさい管理を積極的にコンピュータに委ねるようになるのではあるまいか。社会はいまだかつてなく平和で安全、食料や生活必需品やエネルギーの供給に不安はなく、地球環境も永続的に維持されるよう計算されている。人々は黙ってシステムに組み込まれていれば、何も考えなくていいので、楽である。

そんな環境では、人間の生きる態度が二極化するような気がする。一方は、現実過剰適応型。人生というものは、ちょっとだけ努力してちょっとした知識や技能を身に付け、それによって周りの人々よりもちょっとだけ得をする、ゲームのようなものだと積極的に割り切り、生活のいろいろな必要を充足したり、娯楽・快楽を追求したりすることにほどよく忙しく、それを張り合いにして生きていけちゃう。既存の価値観に完全に飲み込まれ、凡庸で無個性な存在になっていることは、あまり気にならない。

もう一方は、現実不適応逃避型。来る日も来る日もぬるま湯のような日が続き、人生先が見えちゃってることに耐えられない。損得勘定でいけば多少損であっても、競争的観点で言えば負け組であっても、何か自分の存在に代替不可能という意味を与えてくれるような、個性や創造性の発揮できる機会を夢見て、日々空想に耽る。いずれにせよ、社会はどよ〜んと活気のないものになっていきそうである。だけど、そんな半分死にかけたような安定社会が未来永劫続くとも思えないので、それが壊れてどういう新展開を見せるかを予測するのが本当の未来予測というものだろう。

●本能奪回への道

パンを買って公園に持ち込んで昼飯にしていると、目の前で小さな女の子が転んだ。この転びっぷりにはたまげた。草がまばらに生える砂っぽい土へ、ばたっと顔面からダイブである。そういうときには、自己防衛の本能により、自然と手が前に出るもんだと思っていた。それって、まず一度は痛い思いをしてから学習する、後天的な習性だったの?

心理学者の岸田秀氏は「人間は本能の壊れた動物である」と述べていたが、最初「まさか、そんなはずあるもんか」と思っていた。本能は内部にちゃんと備わっているけれど、その赴くところにそのまま従っていたのでは、我利我欲のぶつかり合いとなり、社会が混乱する。個々の人間は社会の規範を学習し、その知識を本能の周りにくるんで行動を抑制し、そのおかげで社会全体の秩序が成り立っているものだというモデルを考えていた。

しかし、あの転びっぷりを見ると、「やっぱり壊れてるのかなぁ」と思えてきた。だとすると、「種の保存」の本能も壊れていそうで、少子化問題とは「子供を育てやすい環境を構築しよう」って問題ではなく、「我々は壊れた本能を修復しようじゃないか」って運動にならないと駄目な気がしてきた。

子供とは秩序の対極。社会の秩序うんぬんよりも一個体(すなわち俺様)のほうが偉い、怪獣みたいなもんである。その子供だってやがては「無条件に偉い自分」から「謙虚な姿勢で自己を抑制できるからこそ社会に居場所が確保できる自分」へと変貌するわけで、これを心理学では「去勢」と言いますね。だけど、子供であるうちは、怪獣時代を存分に謳歌することも必要かと。どうも、社会が秩序へ秩序へと向かっていくと、子供の存在自体を排除してしまうのではないか、それってヤバいんじゃないかという気がしてきた。まあ、アニメキャラを脳内妻にしてるヤツが言うのも変だけど。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
ちょいオタ。どこぞの意識調査によると、「ちょいオタ」が幅広いジャンルに知識豊富で、話がユニークだと好印象なんだそうで。
< http://blog.ishare1.com/press/archives/2007/02/3040.html >
まあ、いい傾向ですね。メディアミックス展開が進んで、漫画が原作の実写版テレビドラマや映画が続々登場、オタと非オタの線引きが薄れているということもあるのでしょう。だけど、「ちょいオタ」って、「濃いオタ」の立場は?その区別もいずれは解消するでしょう、きっと。