武&山根の展覧会レビュー 特別編 Squatについての長文原稿でデジクリをSquatする
── 武 盾一郎 ──

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武: こんにちは!
山: ……
武: ん? どうしたー? 飲み過ぎてんのかー? おーい! ヤマネー。
山: ……
武: おーい、じゃあここで一つ歌でも。
  「人生は コイの争い 奪い合い by近田春夫」(そら耳アワードより)
  どじゃっ! 絶対3人くらいには受けてるゾ!
山: ……

………、という経緯で(どういう経緯だ)、今回山根康弘氏は年度末なんで現
  場仕事が立て混んで多忙&アトピー悪化の為、「毎日が日曜日」がモット
  ーの武盾一郎がひとりでお送り致します! で、今回はせっかく一人なの
  でレビューではなくって今僕が興味を持ってることをつらつらと書いてこ
  うかなあと思ってます。


●「Squat」について

【squat】
━━ vi. (〜・ted, 〜; -tt-) うずくまる, しゃがむ ((down)); 〔英話〕
ぺたりとすわる; 公有地に無断居住する.
━━ a. しゃがんだ; ずんぐりした.
━━ n. しゃがむこと[姿]; 無断居住地.
━━ vt. ((次の成句で))
squat oneself しゃがむ.
squat・ter ━━ n. うずくまる人[動物]; 無断居住者; 〔豪〕 牧羊農夫.
squat・ty ━━ a. ずんぐりした.
(goo辞書より)

プロレスラーのトレーニングで「ヒンズースクワット」っていうのがあるけど、その「スクワット=しゃがむ」です。で、僕が興味を持ってる「Squat」は「しゃがむ」ってことじゃなくて「公有地に無断居住する」って方です。

ヒンズースクワットの「スクワット」って、単語が余りにも有名なので「しゃがむことによる大腰筋トレーニングじゃないんだよっ!」っていう意味合いを込めてカタカナで書く時は「スクウォット」とか「スクオット」とか書いたりする人も多いようです(ひょっとしたら違うかも)。

●で、なぜスクワットに興味を持ったのか?

12年前になるんだけど、当時新宿西口地下道にグワーッと広がっていた段ボールハウス群、いわゆるホームレスと呼ばれる人達の段ボールの家々に絵を描き始めるんですね。95〜98年段ボール村消滅まで。

で、当時は「ホームレス」って言う単語より「乞食」「浮浪者」「ルンペン」という言い方が多かったと思うんです。で、なんでホームレスという呼び方に変ってしまったのかそれはよく分からないけど、とにかく路上生活者って「孤独で悲劇で悲惨である」というふうに思われがちだったりする。実際シビアにそういうリアリティーもある。

社会内(と思ってる)人にとっては《落ちこぼれたひどく絶望的な人たち=ホームレスという向こう側の人たち》というニュアンスがあったと思う。そして我々はコチラ側だからこそ幸福に暮らせる現状がある、と。

新宿西口地下道段ボールハウス村に通って、一軒一軒承諾をとりながらその段ボールハウスに絵を描いてるうちに、今まで知らないことを知るようになったんですね。

<ポジティブな部分>
・みなやったら陽気である。

乞食、浮浪者、ルンペン、ホームレスは悲しんでいた方が「社会の中でイケてる」と思いたい人たちからすると都合がいい。「ホームレスは不幸であって欲しい」って。

しかし、実際路上生活を余儀なくされた人達は、いたって陽気だったりすんですね。実際僕もそれにはショックを受けました。「可哀想な人達」と思ってたこと自体に差別があったんだと思いました。で、路上で暮して楽しかったら、そりゃ痛快だなあって思ったんです。もちろん、現実問題はシビアなんですが。「抑圧・疎外された成れの果ての路上生活に、もし、本質的な自由が存在していたら」なんて思ったのでした。

<ネガティブな部分もありました>
・実は障害者だらけ

これ、なんで誰も言わないんだろう? ホームレスの大多数は身寄りのない成人障害者なんです。肉体的な障害者、知的な障害者、精神障害者、あらゆる大人の障害者が居ました。支援者も差別者もあんまりこれを言わない。なんでだろー? 僕は非常に不思議でした。

野宿する事情は様々なので、僕はあれこれとは言えませんが、ともかく手続きなしの土地に寝泊まりしてる。で、もし個人を不必要に侵すものでなければ、そこに居座ってもいいじゃんって思ったんですよ。生きてるんだから、生きてるからこそ。で、その野宿の場所で楽しんでたって良いワケじゃないですか。

新宿西口地下道に暮らす人達は、まずは悲劇であり、アウトサイダーであるけど、自由であるような気もしたんです。仕方なくそこに暮したのかも知れないけど、それこそ「人間は生きてる」という生命の原始的なメッセージに溢れてる感じがしたんですね。人間が、人間として、この社会から逸脱しても良い、という自由はないのか?

で、当時僕はいろいろなアーティスト達と出会う事になるなるのですが、多くの人達はヨーロッパでスクワットハウスに滞在した経験のある人達だったんです。パンクスやら、アーティストやら、アナーキストやら、ホームレスやらが、使ってない建物・廃墟に住み着き、ライブや展覧会や舞台をやったりしてる。その話を聞いた時、日本でもそういう事が起こったら面白いなあって思ったのでした。

当時僕はまだ20代、なんていうか漠然とそういうアナーキーでファンキーなことに憧れてたし、「スクワット」と言う言葉の響きに「こちらは被害者なんかではない」という小気味良い能動性を感じたんですね。

そんな感じで「スクワット」にユートピアの夢を見ながら、新宿西口地下道、東京大学駒場寮、神戸非公認避難所等、スクワット自治区でアーティスト活動をしたワケなんですね。

【コミュニティーが育まれるとそこに未分化で混然一体となった芸術が花開き、一つの自律性をもって世界が出現する。それはスクワッティングから始まる。そしてそのオウトノミー(自律)空間はこの世知辛い社会に対し、明確なレジスタンスを突きつけるユートピアとなる】って。

そんな思いで実践してたんです。ぃやあ、結構本気だったんです。本気と書いてマジと読む、というくらい。

が、なんか結局いろいろ挫折してしまうんですね。例えるなら「共産主義者が夢に挫折し、ペシミズムを獲得して現実的資本主義者に転向する」という一昔前の筋書きって気分。

所詮、夢幻(ゆめまぼろし)。ニンベンに夢と書いて「儚い(はかない)」と読む。「あの9.11」の綺麗な映像をボーッと眺めながら「もうアーティストに残された仕事なんて何一つない」なんて思ったりしてたんです。「アシタカ、お前に出来ることは何もない」というモロの声も響きます(もののけ姫より)。

●「Squat」を再考する

けど、ここでもう一度「スクワット」について再考してみたいと思うようになりました。ひとつは、代々木公園に暮らすホームレスの人達のテント村に行ったからなんです。代々木公園の奥まった場所にその村はひっそりとあって「エノアールカフェ」という物々交換カフェがあり、何かを持って行けばお茶を出してもらえます。

エノアールの文字通り絵が木の枝に飾ってある。そのカフェを営んでるのは、テント村住民である小川てつオ・市村美佐子両氏で、毎週一回市村さんはお絵描き会ってのを開いてる。たまに囲碁将棋大会やDJパーティーもあったりするけど、パンキッシュでもアナーキーな感じでもなく、のんびりマターリとその村は佇んでました。けどそこはまさしく「スクワット」。コミュニティーがあってそして絵もあるんですね。

それから去年の11〜12月に展覧会で韓国に行った時
< https://bn.dgcr.com/archives/20070117140200.html
>
韓国のスクワッターと出会い、スクワットについて長い時間をかけて議論する機会にも恵まれました。幾ばくかの年月を経て「スクワット」という現象や言葉と再び巡り会うようになったんですね。

で、韓国だと割と「スクワットして当然」みたいなところってあるんですよ。お国柄と言うか。例え反体制的思想であろうとも、自分の考えを主張することに躊躇しないっていうか、ね。

日本の場合、そうはいかない。「スクワット」と聞いて、殆どの大人たちは眉をひそめると思うんです。「スクワット=不法占拠」というイメージが強すぎる為だと思うんです。

「なんて不道徳な!」とか「人様に迷惑をかけちゃいけません!」とか「ルールは守るべきです」とか。そういう物言いが無意識的に強い。

で、実際いろんな人たちとスクワットについて話し合ってくうちに「スクワット=不法占拠」ではなく、もっと生きて行く営みと関係してるんじゃないか、と。「不法」というインパクトの強い言葉だけがスクワットのイメージを牛耳ってしまってるのもなんだかなあ、と。そこでスクワットの定義をし直してみるのはどうだろうと思ったんですね。

「Squat 01『スクワットの定義を日本の風土に合わせて考え直してみる』も読んで頂けると嬉しい。
< http://homepage.mac.com/take_junichiro/iblog/C1119371346/E20070129180611/
>」

●「Squat」の定義を考え直してみる

で、「Squat」の定義を
『空間(・時間)を自分(達)に引き寄せようとする意志と行為』
とするのはどうだろう。

<スクワット例>

・おばさんによるお花畑

僕は団地に住んでいるのですが、団地の前にちょっとした土の場所があるんですね。公用地ですね。そこに様々な花を勝手に植えてる人達がかなりいるんですよ。棟によってはお花畑みたいになってたりしてるんですね。これ、「スクワット」なんですよ。このような「勝手にお花畑」は公園や河川敷とかでも見かけます。で、これらの「スクワットお花畑」を違法だと言って撤去する「街の美化運動」もあるようなんですね。

・アスファルトに咲くタンポポ

アスファルトの割れ目に、頼んでもいないのにタンポポが咲いてたりしますよね。これを「根源的なスクワット」と解釈するんです。家の庭に大事に育てられてるガーデニングの花も綺麗ですよ。けど、アスファルトやコンクリの継ぎ目や割れ目に悲劇的に到着してしまい、それでもなんとか伸びようとしてる草花に、「どうしてお前はわざわざそんな生きにくいところで懸命に花を咲かせようとしてるんだい?」と思わずほおずりしたくなってしまうんですよね。

「ホームレス」と呼ばれる存在に、どこかしらシンパシーを感じるのは政治・経済・社会的判断ではなく、そういった命への賛美が直観的に人にはあるからではないのでしょうか。

・花見

あの場所取りは完全にスクワットだろう(笑

このように「スクワット」を「建物を占拠するという物理性」から「一つの考え方と行動を示す記号」に拡大解釈させてみる。その方がスクワットの本質がり際立つと思うのだ。というか、笑えるスクワットっていっぱいあるんですよ。きっと。

●人類みなスクワッター

このあいだの3月9日(金)新宿のI.R.Aというレコード屋さん(?)で、代々木公園に暮らす小川てつオ氏と対談するというイベントに出演させてもらったのですが、
< http://homepage.mac.com/take_junichiro/iblog/C1783116412/E20070308085441/
>
参加してた人の「そもそも日本という国自体がスクワットによって作られたんではないでしょうか」という発言を聞いて、
※詳細はコチラ↓
< http://homepage.mac.com/yamatatz/iblog/C1840612354/E20070310014130/
>

何やらスクワットってやっぱり僕らが生きてる本質と関係のあるコトなんだなって再度思ったんです。スクワットをあんまり拡大解釈し過ぎるのもアレなんですが、あれこれと想いや思考を巡らせることが出来るキーワードとして「スクワット」ってありなんじゃないかな、と。

命は与えられたものだけど、(居)場所はゲットするものだ。「金さえあれば何でもゲット出来る」世の中、金のない側は「命がある、何処でもゲットしてやる」くらいの気持ちで丁度いいんだと思う。

命は与えられたものだけど、そこから先は生かされてるんじゃなくて生きて行くんだし。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/グラフィックデザイナー兼画家】
・新宿西口地下道段ボールハウス絵画集
< http://cardboard-house-painting.jp/
>
・夢のまほろばユマノ国
< http://uma-kingdom.com/
>
take.junichiro@gmail.com
※3月25日(日)13:00〜21:00、六本木スーパーデラックスにて「16時間美術館」に参加します!
< http://swamp-publication.com/archives/2007/02/16.php
>


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