音喰らう脳髄[25]歌の本然
── モモヨ ──

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すこし前、話題になった作詞家と歌手のオリジナルをめぐる問題を考えてみたい。もう語られつくした観のある話題かもしれない。賞味期限ギリギリというところか。それでも、著作権がどうしたこうしたということを書くわけではないから問題なかろう。時局的論争、騒動の行方とは無関係に読んでいただこうと想っている。

私は、この歌手のファンではなかったし、問題の歌についてもさして理解していなかった。白状すれば、この騒動であらためて歌詞を読み直して、はじめて歌の意味を知った完全なる門外漢である。その外部の目からすれば、今回の騒動、そもそもかみ合っていないようにみえる。



私が当該の曲に対してあらかじめ持っていたイメージは、その歌手固有の苦労物語と密接な関係があるものだった。彼の母親、彼女に対する思慕を歌ったもの、という類型的なセンチメンタル過多の歌謡曲であり、歌に詩心をもとめる私の趣味にかなうものではなかった。故に私はこの歌をとるにたらないものとしていたのだ。これは、当該の歌手の構築してきたイメージと無関係ではなかろう。

今回、騒動になっている勝手に追加した冒頭部分というのも、この歌手が自分の人生を歌に持ち込んだ部分である。このスタイルでテレビなどで歌ってきたらしいので、あるいは、私もそれを見ているかもしれない。私のイメージでは、この歌手が、空に、いまは亡き自母の面影を思いえがいて、それに絶唱する、そんな感じの歌だった。

しかし、作詞者の指摘にそって、歌詞をながめると、私がいかにとんちんかんな勘違いをしていたかわかってきた。冒頭に、母に対する呼びかけがあり、それに続いて『そらをみあげりゃ』と歌われるのだが、この語は、そのあとにつづく幾つかの修飾句、節の冒頭であり、その全ては、母の薫陶の語そのものなのである。天にありこの世の人々を守っている傘がある、その傘のようなものになれ。歌の中の母は、我が子にそう諭すのである。これを知って、私は深く反省した。少なくとも、この作詞者を軽く見る気持ちは吹き飛んだ。

「おふくろさんは誰のもの?」という切り口で大騒ぎを続けてきたマスコミ、著作権を云々する論争もやっと沈静化したようだが、私には、そうした論争は、この問題をさらに矮小化するために行われているように見える。

街頭でマイクを向けた素人に、うたは誰のものでもない、歌手がかわいそう、と言わせたとていったい何になろうか。問題は、私のように思い込みをしてしまっている享受者であり、オリジナル歌手がこうした思い違いを量産してきたのだから、作品本来に対する罪は深いのである。

作詞者は権利を云々しているわけではない。彼が必死になって主張していることは、みずから天の委託をうけて世に発した言葉が蹂躙されている現状を憂えているのである。作詞者であれば自己の作品、その眼目を蹂躙されて黙っているはずがないのである。

この作詞者の願いが、歌のヒットにつれて世にひろがっていれば、いまのこの堕落した世の中は到来していなかったかもしれない。母たちは自己のうちなる本来の母親を再発見したかもしれない。そんな責任、悲憤を作詞者は背負っているのであろう。歌い手がこのことを理解しなければ、この問題は解決しないだろう。

作詞者がみずから演奏し歌うスタイルを選択できない以上、そのオリジナルをリリースする歌手には、作詞者の委託に応える責任がある。オリジナル歌手が歌の本然を示さなければ、いったい誰がその歌のあるべき姿を世に示せるというのか。

小さな我をこえて世の中を見なければ、わからないことがある。しかし、残念ながら、誰もが大きな意義を知りえるようにできてはいないのだ。人には、理解できない断絶がある。

今回の騒動により私は一つのすばらしい歌を再発見したが、あるいはこの歌の本然は未来永劫、花開かぬかもしれない。悲しい話である。

Momoyo The LIZARD
管原保雄
< http://www.babylonic.com/ >


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