デジクリトーク/職業としての編集や校正の滅び 前田年昭

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前田年昭さん(編集者・アジア主義研究)の、「竹内好セレクション I・II」(竹内好著、丸川哲史・鈴木将久編 2006年、日本経済評論社刊)についての書評「歴史をかきかえるということはどういうことか 竹内好没後三〇年・日中戦争七〇年に際して」(「東方」第314号掲載)の結びにこうある。

 いい本だが残念なこともある。日清戦争を日露戦争とし、故兆民先生追悼会
 を胡兆民先生追悼会とする誤字、「近代とは何か」での「敗北は、敗北とい
 う事実」の脱落など、誤脱は数十か所にのぼる。読者にはこのセレクション
 に従ってぜひとも図書館などで全集をひもといてほしい。なお、私がつくっ
 た正誤表を配布するので希望者は連絡をほしい。

そこで正誤表をとりよせてみると、すごいことになっていた。3月25日現在、なんと67か所におよぶ指摘があるではないか。その一部を紹介する(巻、ページ、行、内容とあるが、ここでは内容のみ。誤→正)。また、「解題」という意見の部分を、前田さんの了解を得て掲載する。

自動車や家庭電化製品に欠陥や不具合があれば、メーカーはそれを公表し、修理や交換を行う(リコール制度)。出版の世界ではどうか。版元にとれば数千部のうちの一冊かもしれぬが、消費者(読者)にとっては買い求めた一冊がすべてだ。以下は、本に重大で大量の誤植があるとき、出版社はこれを公開し、回収・交換すべき、また、出版においてもリコール制度という消費者(読者)の権利は守られるべき、というレポートだ。(柴田)


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竹内好セレクションI 日本への/からのまなざし「竹内好セレクション I・II」第一刷(二〇〇六年十二月五日発行)正誤表
※部分

参照:< http://www.linelabo.com/takeuchi-seigohyou.pdf >
   <誤 → 正>
人を証すも → 人を誑すも
容体として在る → 客体として在る
反共産義者 → 反共主義者
論難功撃され → 論難攻撃され
一つの符合 → 一つの符牒
知識さえもが → 知識人さえもが
日本の近代主義 → 日本の近代社会
この国民にふれて → この問題にふれて
『南腔北調書』 → 『南腔北調集』
結論を設けて → 結構を設けて
憎む勘定が → 憎む感情が
主観的に → 主題的に
むしろ敗北という事実 → むしろ敗北は、敗北という事実
真実の概念でない → 真実の観念でない
暴力を固定的なものに → 暴力を固定的な質的なものに
日露戦争までの日本 → 日清戦争までの日本
閔氏一族が → 閔氏一派が
苦心の状態像に → 苦心の状想像に
真理追究の → 真理追求の

【解題】

近年の竹内好再評価の機運の盛り上がりは喜ばしい。しかし、そこに忍び込んだ神話化の企てには注意が必要である。なぜなら、神話化もまた思想の改竄、簒奪のひとつのやり口だからである。天より高く持ち上げる能書きで包んでおきながら、その裏で改竄し、歪曲する。欧米思想家たちの著作を日本に輸入してメシの種にしている翻訳文筆業者の手口がそうである。

どこかでだれかが暴君の臣民は暴君より狂暴だと指摘していたが、DTPとブログに象徴される一億総表現者の時代((c)『週刊ダイヤモンド』)の編集者の無責任で無力なドレイぶりもなかなかのものである。『竹内好セレクション』の出版企画はとてもよい(これについて私は『東方』二〇〇七年四月号に敬意を込めて書評を書いた)。しかし、この誤植の山はいったい何だ! これで“売り物”だというのだから開いた口がふさがらない。

各巻の目次裏に記された「本書は、『竹内好全集』(全一七巻、一九八〇〜八二年、筑摩書房刊行)を底本としたものである。明らかな誤植などは訂正を加え、それ以外の表記はすべて底本に従った」との文言が哀しい。さながら出版界における“あるある大事典”問題、耐震強度の偽装問題のようである(公共広告機構へ訴えようかしらん)。

誤字脱字一覧から何を知ることができるか。その基本的で特徴的な事実はどこにあるか。私の尊敬するある技術史家は「労働の生産性は労働者の巧妙さに依存するばかりでなく、彼の道具の完全さにも依存する」(*1)とし、「生産手段が労働過程において過去の労働の生産物としてのその性格を主張するとすれば、それは、その生産手段の欠陥のせいである。……優秀な生産物にあっては、過去の労働によっての、その生産物の使用上の諸属性の媒介が消えうせている」(*2)と指摘している。

文字入力は、活版から写植の時代にはプロフェッショナルの職人の仕事であった。DTPの時代には道具がある程度“解放”されたことによって大量の素人が参入した。野村保惠は『誤記ブリぞろぞろ 校正の常識・非常識』(日本エディタースクール出版部、二〇〇五年)でパソコン入力の誤植例(読みを誤った例、ローマ字入力のミス、変換ミス)、OCR(光学式文字読取装置)の誤植例を二十数年にわたって採取し、整理して、巻末三十一ページに載せている。

今回の誤植を検討すると、感情を勘定、追求を追究とするなどのごく少数を除くほとんどが、入力における漢字変換ミスやOCRの読み取り不良に起因するものではないことに特徴がある。近代主義(正しくは「近代社会」以下同)、南腔北調書(南腔北調集)、日露戦争(日清戦争)、などが典型である。それは入力におけるミスではあるが、「生産手段の欠陥」による変換ミスではない。写植の職人は採字にあたっては内容を読んではいけないと教えられた。日露戦争(日清戦争)というミスは思い込みによる先走った入力である。質と量から判断すると、入力者はかなりレベルが低く、専門の入力業者による入力ではないだろう。

編著者、編集者は、本文をほとんど読んでいなかったのではないか。引き合わせ校正も素読み校正もなされなかったのではないか(のだと推測できる)。仕事をなめているとしか思えない。こうして、編著者や編集者の仕事はそのまま印刷所に押し付けられた(のだと推測できる)。

DTPの普及によって執筆者の層が厚くなったことは好ましいことである。しかし、今回のように、校訂を経て公刊された全集(筑摩書房版)を底本にした出版の場合、元“原稿”の信頼性についての点検、原稿の整理という仕事は第一段階を終えたものと捉えてよい。しかも原稿は手書きでなく印刷文字である。結果、編集と校正の仕事の大部分は、底本との引き合わせと素読みという作業となる。ここで職業的校正者にその作業を発注せずに「コスト」を切り詰めようとした(のだと推測できる)。

コンピュータが発達しようとも、決定的な要素は人間である。モノが人を使うのではなく、人がモノを使うのである。誤った「コスト」意識は、職業としての編集や校正を滅ぼしていく。編集者のドレイ根性は自らの存在を不要なものにしていく。たとえ編集者が読めなかったとしても、プロフェッショナルとしての校正者に任せればよいではないか。それもしないで本が世に出ていくわけである。出版された文面に信がおけなくなってしまった読者は図書館へ行って逐一、底本と引き合わせよ、というのであろうか。たまったものではない。家電や自動車なら欠陥商品はリコールするのが商道徳である。出版の世界では消費者(読者)は無権利状態のまま、泣き寝入りを強いられている。不当きわまりない。

文筆ヤクザたちは、引用するときには都合のいいところだけを抜き出して利用する。歴史の文脈などおかまいなしだ。復刻、再製するときには誤字脱字は見過ごして平気だ。この人たちによる竹内好再評価とはそのようなものなのである。ハゲタカにも劣る。

注1 K.Marx/F.Engels "Das Kapital" ,1867-94.(長谷部文雄訳) 第十二章
第二節
注2 同 第五章第一節  ※一部わかりやすいように手を加えました(柴田)

前田年昭【まえだ・としあき】編集者・アジア主義研究
東亜文字処理 ライン・ラボの Webページ
< http://www.linelabo.com/ >


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竹内好セレクションI 日本への/からのまなざし
竹内 好 丸川 哲史 鈴木 将久
日本経済評論社 2006-12-01

竹内好セレクションII アジアへの/からのまなざし 西洋哲学史―近代から現代へ 社会 哲学初歩 竹内好という問い

by G-Tools , 2007/04/02