[2186] 妻の軽蔑・夫の弁解

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<色が3次元なのは人間の側の都合>

■映画と夜と音楽と…[330]
 妻の軽蔑・夫の弁解
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![49]
 色の物理的本質に迫る
 GrowHair

■イベント情報
 アースデイ東京ナイト2007


■映画と夜と音楽と…[330]
妻の軽蔑・夫の弁解

十河 進
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●「軽蔑」のシーンを再現したシャネルのCM

大阪のフォトグラファー福島正造さんからは、時々、メールが届く。先日いただいたメールの中でゴタールの「軽蔑」(1963年)の冒頭のシーンがテレビCMとして使われていると書かれてあり、ああ、あれかとすぐにわかったが、福島さんのメールをもらうまで僕はそれが「軽蔑」のシーンの模倣だと気付かなかった。

週末に気をつけてテレビを見ていたら、そのCMが流れた。オールヌードの金髪の女性が柔らかそうなシーツにくるまり、脚を曲げたりしながら「わたしの脚は好き?」「わたしの唇は好き?」などとフランス語で訊く。女性の肌を流れるようなキャメラワークで映し出す。重厚な音楽が流れる。

「これ、口紅のコマーシャル?」と聞いたら、隣で見ていたカミサンが「シャネルよ」と言う。「なるほど、シャネルのルージュなんですね。このCM、ゴダールの『軽蔑』のパクリらしい」と言うと、近くにいた息子が「わかるように撮ってんじゃないの」と口を挟んだ。

僕は確かめたくなって、「軽蔑」のビデオを取り出してデッキに入れた。ファーストシーンは映画の撮影場面だ。奥から手前にレールが敷かれており、移動車に載せられた大きなムービーキャメラがゆっくりと近づいてくる。タイトルと出演者などのクレジットがナレーションで流れる。

次のシーンはミッシェル・ピコリとブリジット・バルドーがベッドで会話するシーンだ。オールヌードでうつぶせになり頭をミッシェル・ピコリにもたせかけたブリジット・バルドーが「わたしの脚は好き?」「わたしのお尻は好き?」などと訊いていく。

「わたしの乳房と乳首は、どっちが好き?」と訊かれたミッシェル・ピコリは「そんなことは答えられない。どっちも好きだ」というようなことを言う。そのときに流れている音楽がCMでもそのまま使われていた。シャネルのCMは、44年前のブリジット・バルドーにオマージュを捧げていたのである。息子の指摘が正しかったのだ。

福島さんには僕の本を読んでいただいているようで、メールに「あの本の中で十河さんが述べておられる『ゴダール作品で一番わかりやすい映画』つまり『軽蔑』のビデオを今見ています」とあり、そんなことを書いたかなあ、と思って元のテキストデータを検索してみたのだけれど、それらしい記述が出てこなかった。

どちらかと言うと、僕は初めて「軽蔑」を見たときに、よくわからなかったという印象があり、これは結婚を経験しないとダメなんじゃないかと思った記憶がある。僕は二十歳になったばかりだった。「軽蔑」の公開から五年以上はたっていたが、あちこちでゴタール作品の特集上映があり、割りにいつでも見られた時代だった。

●ゲッベルスに招待された映画監督

僕は「軽蔑」を見たとき、フリッツ・ラング監督が本人役で出演していることの方に興奮した。映画青年らしい反応である。1890年にオーストリアに生まれたフリッツ・ラング監督は1976年に亡くなったが、「軽蔑」に出演したのは完全にリタイアしていた時期だ。だが、僕が「軽蔑」を見た頃は、まだ生きていたし、伝説の監督だった。

「軽蔑」でフリッツ・ラング監督が登場するシーンでも少し話されるが、第二次大戦前にすでにドイツの有名監督だったフリッツ・ラングはナチスの手を逃れてアメリカに渡り、ハリウッドでも数々の名作を作る。ドイツ時代の代表作は「ドクトル・マブゼ」(1922年)「M」(1931年)などである。

それらの作品のシナリオを書いたのは夫人のテア・フォン・ハルボウだったが、彼女がナチス信奉者になったことから亡命の際に離婚する。思想上の対立で離婚したのが何となく面白いが、男女の間だからそれだけが理由だった訳ではないだろう。

岩崎昶さんの「ヒトラーと映画」(朝日選書)によれば、フリッツ・ラングはゲッベルスに会いにいき自作の「ニーベルンゲン」を絶賛され「ヒトラー総統もあなたの熱烈なファンです」と言われる。ゲッベルス直属で映画制作の采配をまかせると言われたが、有り金をポケットに入れてパリへ向かう寝台車に乗る。彼はユダヤ系だったのだ。1934年のことである。

フリッツ・ラング監督「リリオム」(1934年)という映画を僕は見ているが、それはフランスで監督したのだろう。その後、ハリウッドにいき「激怒」(1937年)を作る。以後、「暗黒街の弾痕」(1937年)「西部魂」(1941年)「マン・ハント」(1941年)「死刑執行人もまた死す」(1943年)「飾窓の女」(1944年)など、精力的に作品を作り続けた。

中でも僕は「死刑執行人もまた死す」という映画に驚いた。ナチスに支配されたチェコのプラハが舞台だ。「死刑執行人」と異名をとるナチスの支配者がレジスタンスに暗殺される。ナチスは威信をかけて犯人を捜し出そうとする。そのために「犯人が名乗り出るまでプラハ市民を無作為に逮捕して処刑する」という暴挙に出る。

その葛藤、サスペンス、物語がどう展開していくのかというスリル、全編を貫く緊張感、背もたれに身をあずけることなどできない映画だった。最初から最後まで身を乗り出し、スクリーンを文字通り食い入るように見つめ、拳を握りしめる。手に汗がにじむ。息を詰め、瞬きさえできないほどの緊迫感だった。

1943年、まだナチスの勢いがあった頃にこんな映画を作ったんだ、と僕は拳を握り続けた。チャップリンの「独裁者」がナチス全盛の1940年に作られたことを知ったときの感動と同じだった。チャップリンもフリッツ・ラングも映画という武器でナチスと戦おうとした。映画は剣よりもペンよりも強し、という確信が彼らにあったに違いない。

「軽蔑」を見ると、ゴダールのフリッツ・ラングに寄せる敬意がスクリーンから伝わってくる。フリッツ・ラングはイタリアのチネチッタ(ムッソリーニが作ったイタリアの巨大な撮影所。英語だとシネマシティですね)で「オデュッセイ」の映画を作っている設定だから撮影シーンがよく登場するが、そのアシスタント役でゴダール自身が出演しているのもフリッツ・ラングへのオマージュなのだろう。

●妻や家族を言い訳に使ってはいけない

さて、改めて「軽蔑」を見ているとミッシェル・ピコリがゴダール自身に見えてきた。若禿げのミッシェル・ピコリは名優と言われたが、ゴダールは自分のイメージを重ねている。だとすると、ブリジット・バルドーには当時の妻だった女優アンナ・カリーナを重ねているのだろう。

僕が「軽蔑」を「ゴダール映画で最もわかりやすい」と書いているとしたら、不明を詫びねばならない。「軽蔑」はやはり長い夫婦生活を経験して、新しい意味を持って立ち上がってくる映画だった。冒頭のシーンにあるように妻は熱烈に夫を愛していた。だが、あることから夫への愛が醒め、軽蔑を抱くようになる。

夫は探偵小説を書いて糊口をしのいでいたが、今はシナリオを書いて金が入るようになっている。だが、彼の夢は戯曲を書くことだ。妻は元タイピストで、新しく手に入れたマンションが気に入っている。夫は「君のためだ」と妻に言い訳をしながら、「金を得るための仕事」に心ならずも手を染めている(というようなことを口にする)。

原作はイタリアの作家アルヴェルト・モラヴィアの「軽蔑」である。モラヴィアは1960年代には早川書房などでも翻訳が出ていたし、映画になった作品も多いのだが、日本ではあまり馴染みがないかもしれない。ゴダール作品にしては、珍しく原作に忠実な方らしい。

ある日、夫はチネチッタに呼ばれアメリカ人プロデューサー(ジャック・パランス)からフリッツ・ラングが撮影しているラッシュを見せられ、「客が入るような色っぽいシーンを書き加えてほしい」と依頼される。「美人の奥さんに金がかかるんだろ」と言い、秘書の背中をデスク代わりにして小切手にサインし無造作に渡すような男だ。人はすべて金で動くと思っている。

ゴダールらしい設定は、主人公夫婦はフランス語を話し、プロでデューサーとフリッツ・ラングは英語を話し、舞台はイタリアだということで、様々な言語が交わされることだ。それらを通訳するのはプロデューサーの秘書であり、その翻訳された言葉の微妙なズレが面白い。

さて、妻が夫を軽蔑するキッカケになるのは、撮影所にやってきた妻をプロデューサーが自宅で一緒に酒を呑もうと誘い、ツーシーターのスポーツカーではふたりしか乗れないため「後からタクシーでこい」と言われた夫が「そうするよ」と答えたからである。

そのときのバルドーの視線が凄い。「一緒にタクシーでいきましょうよ」という妻の言葉を聞かず、夫はプロデューサーと一緒にいけと言うのだ。そこに妻は夫の権力者への媚びを感じたに違いない。極端に言えば「わたしを売り渡すの」ということだ。なぜなら、夫はタクシーの事故だと言い訳をしながら三十分も遅れてやってきたのだから…

夫は「口説かれたか」と聞くくらいだから、妻がプロデューサーに言い寄られるかもしれないことを想像していなかったはずはない。いかにも女好きで手の早そうなプロデューサーとして描かれているのだ。彼は一万ドルの脚本料のために自分の妻を差し出したのだろうか。

その後、マンションの中で夫婦の会話が延々と続く。夫は妻に軽蔑されたと知り、なぜだと問い詰める。プロデューサーの海辺の別荘で突然に仕事を断ると言い始め、自分の夢である戯曲を完成させると宣言するが、もう遅い。妻の心は翻らない。

「自分には夢がある」と彼が言ったとき、僕は「やめておけ」と思った。彼の言葉のひとつひとつが弁解にしか聞こえなかった。心ならずも金のための仕事をしているのは妻のためであり、自分を犠牲にしたようなことを言う。そんなことを言えばさらに妻の軽蔑を招くだけだ、と僕は思った。

金のための仕事をしてきたのは自分の選択である。「家族や愛する人のため」を言い訳にしてはいけない。よしんば「家族や愛する人のため」にやってきたとしても、それを誇りこそすれ、嘆いてはいけない。悔いを口にしてはいけない。「家族や愛する人」を幸せにすることが自分の幸福だったんじゃないか。人を愛するとはそういうことだ。

さらに言えば、そのことによって家族や愛する人からの感謝や見返りを求めてはいけない。「家族や愛する人のために自己を犠牲にして働き続けてきた」ことを悔やまず、誇ることだ。そうすれば、少なくとも軽蔑されることはないだろう。「軽蔑」を見てから三十数年、長い時間を経て僕はそう悟った。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
気が付けば四月も半ば。桜は散り、街に半袖の人さえ歩いている。疾風怒濤の嵐が過ぎて落ち着いてみれば、毎週の原稿書きは今まで通りにもかかわらず、プレッシャーだけが増えている。やれやれ。

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■Otaku ワールドへようこそ![49]
色の物理的本質に迫る

GrowHair
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色彩というものは、物体の側の領域と人間の側の領域とにまたがっており、どちら側から見るかによってずいぶん違って見える。「郵便ポストは赤い」と言えば、この赤はポストという物の属性のひとつであるのに対し、「赤いと目立つ」というのは、人の側の認識の問題である。

「白色光をプリズムに通すと、波長ごとの屈折率の違いにより虹の七色に分解される」と言えばニュートンの領域であり、「白い壁を背に真っ赤なドレスを着た女性が立っているのをずっと眺めていたら、その女性が立ち去った後の壁に、緑色のドレスの像が浮かび上がった」と言えばゲーテの領域である。

今回は、ニュートンの側から、色の本質に迫ってみたい。色気のない色の話になるかもしれないが、我々人間が知覚できることの外側に意外と大きな世界が広がっていることがうかがい知れれば、ひるがえって、それが感性の領域に対しても、何らかの刺激になるのではないかと。

●色を決めるのは光の波長

色は、目に入ってきた光を、眼球底部の網膜にびっしりと敷き詰められた視細胞が捉えて電気信号に変換し、視神経を通じて脳に伝えることによって認識される。当然のことながら、光がなければ真っ暗闇、色は見えない。

だから、色のことを考えるなら、まずその源である光のことから考えていく必要があろう。と言いつつ、あらためて「光とは何か」と問われると、これにバシッと答えるのは大変困難で「ど〜もすいません」と腰砕けになってしまうところが情けないが、どうにも歯切れの悪い説明で勘弁していただけるなら、「波の性質を備えて空間を伝わってくるエネルギー」のように言うことができる。

長〜い波線をにょろにょろにょろにょろっと描いてみると、これは、ひとつの「にょろ」の繰り返しパターンになっている。このひとつの「にょろ」の端から端までの(直線的な)長さを「波長」という。目に見える光を「可視光」というが、これの波長は400ナノメートルから800ナノメートル程度の範囲である。1ナノメートルとは、1ミリメートルの百万分の1。可視光よりやや波長が短めな光が紫外線で、やや長めなのが赤外線である。電波も本質的には光と同じものだが、波長はFMラジオで数メートル、AMで数百メートルと、スケールが全然違う。

光が目に入ったときに何色に見えるかは、この波長が決定している。
400〜435 紫、435〜480 青、480〜490 緑青、490〜500 青緑、500〜560 緑、560〜580 黄緑、580〜595 黄、595〜610 橙、610〜750 赤、750〜800 紫赤、という具合である。

以上が光と色の関係の最も本質的なところであるが、この段階ではまだ、大事なところが抜けている。「色」=「光の波長」だとすると、1次元の世界で終わってしまい、「色の空間がなぜ3次元なのか」という問いに答えきれていないのである。色がなぜ3次元か、お分かりだろうか。

●光線は波長のブレンド

というわけで、「光」の話をもう少し続けます。「物体の表面上の1点から目に飛び込んできた1本の光線」というものを考えてみよう。実はこれ、ひとつの波長の光というわけではなく、あらゆる波長の光が、適当な混合比でブレンドされた、光の束になっているのである。

だから、「1本の光線」を物理的に記述しようとするならば、横軸に波長をとり、縦軸にそれぞれの波長の光の強度をとることによって、光の混合比を表現したグラフで表すことになる。このグラフを「分光強度分布」という。

さて、ここで「考えうるあらゆる種類の分光強度分布全体からなる空間」というものを考えてみよう。ここだけの呼び名だが、仮にこれを「光線空間」と名付けることにしよう。光線空間が、どれほどの広がりをもつ空間なのか、想像がつくだろうか。いろいろな波長の光をブレンドする混合比の組み合わせは無限通りあることには違いないのだが、その程度の小さな話ではない。この空間自体の次元が無限次元なのである。

我々の住んでいる空間が3次元なので、それよりも大きな次元の空間というものを思い描くのはちょっと大変かもしれないが、前後、左右、上下のほかに、もうひとつ、それらすべてに対して直角をなす、新たな方向をつけ加えた空間が4次元空間である。その空間にまた新たな方向をつけ加えて5次元、...というふうに考えていけば、想像がつきやすいだろう。

無限次元はちょっと多すぎるにしても、例えば、可視領域の波長を400〜410、410〜420、...というふうに10ずつ区切っていけば、40個の区間に分割することができ、それぞれの区間ごとの強度として分光強度分布を記述することにすれば、40次元の空間だとみることができる。いずれにせよ、光線空間とは、やたらと広〜い空間なのである。

●色が3次元なのは、人間の側の都合

さて、先ほど述べたように、我々は視細胞をもって光を感知する。デジカメで視細胞に相当するのは「フォトダイオード」と呼ばれる半導体素子であり、やはり光を電気信号に変換し、記録媒体に送り込む。両者を総称して「光センサ」と呼ぶことにしよう。

光センサは受ける光の波長によって感度が鋭かったり鈍かったりする。だから、1個のセンサの物理的な性格を記述しようとするならば、横軸に波長をとり、縦軸に各波長に対する感度をとったグラフで表すことになる。このグラフを「分光感度特性」という。

ある分光感度特性をもった光センサに、ある分光強度分布をもった光線が入射すると、各波長において光の強度とセンサの感度を掛け算して、結果を全波長にわたって足し合わせた値が算出され、これが出力信号として、脳なり記録媒体なりに送られる。この働きを抽象的に言うならば、「光センサとは、高い次元の広がりをもつ光線空間から1次元の部分空間へ投影する装置である」と言うことができる。

誰が設計したのかは知らないが、我々人間には、3種類の視細胞が備わっている。青の波長領域に敏感なやつ、緑の波長領域に敏感なやつ、赤の波長領域に敏感だが、青の波長領域でも少し感度があるやつ。これ3種類の光センサからの出力値の組をもって、色を認識するのである。

つまり、色の空間が3次元なのは、光の側の本質的な性質ではなくて、我々のもつ光センサの性能の問題なのである。先ほどと同様に抽象的な言い方をすれば、「我々の目は、高次元の光線空間から3次元の部分空間へと投影することにより、光線を色信号に変換している」のである。

この過程により、広い空間が狭い空間へ、べちゃっと押しつぶされていることに注意が要る。つまり、光線の分光強度分布が異なったとしても、たまたま人間の目には同じ色に見えてしまう、ということが起こりうる。で、実際それは起きている。しかも、ごくありふれたところで。

いま、仮に、色とりどりの派手な衣装を着たモデルさんがいるとしよう。そのモデルさんの写真を撮って、正しいカラーマネージメントを経て、どの色もきっちりと同じに見えるように印刷できたとしよう。このとき、光線の分光強度分布のレベルでは、現物から来る光線と印刷物から来る光線とでは、合っていないのである。印刷は(映像表示も同じだが)、人が区別できないのをいいことにズルしているのである。

我々が宇宙に撒き散らした写真をたまたま宇宙人が拾って地球に来てみれば、色が写真と全然違うのを見て「カラーマネージメントがなっちょらんなぁ」と思うに違いない。あまつさえ、やつらが4種類の視細胞をもってたりした日にゃ、「地球という星で一番偉そうにしている人間という生物は、色盲である」と認識することであろう。

●問題は写真の色合わせ

まあ、宇宙人のことは放っておくとして、問題は、写真の色合わせである。デジタルカメラで写真を撮る仕組みは、人間の目をほぼ真似ている。各画素の底に据えられたフォトダイオードが光を電気信号に変換するわけだが、各フォトダイオードには3種類のカラーフィルタのうちのどれかひとつがかぶせてあり、これが一体として視細胞の役割を果たしている。

カラーフィルタは色のついたセロハンのようなものであり、言い換えると、特定の波長領域だけを透過する半透明の材質ということである。カラーフィルタの物理的な性格は、横軸に波長をとり、縦軸に各波長に対する透過率をとったグラフで表される。このグラフを「分光透過率」という。

フォトダイオードの分光感度特性に、カラーフィルタの分光透過率を掛け算したものが、光センサとしての分光感度特性になる。3種類のカラーフィルタをかぶせて得られる分光感度特性が、それぞれ人間の視細胞の分光感度特性と一致していれば、理想的である。その光センサは、人が見た色と同じ信号を出力することができる。しかし、そういう材料はそう都合よく見つかるものではなく、どうしても歩み寄りが必要である。

フォトダイオードから出てきた3つの色の信号を使って何らかの色補正の計算を施した結果、人間の知覚する色と同じ情報が得られれば、十分である。これが可能であるための条件を「ルータ(Luther)条件」という。これは、デジカメの光センサの3組の分光感度特性が、それぞれ対応する人間の視細胞の分光感度特性とぴったり一致する必要はないけれど、投影する3次元部分空間としては一致すべきものだと言っている。たとえて言うならば、天井を支える3本の支柱のそれぞれは合っていなくてもよいが、天井そのものは同じになるべきだと言っている。

もし、カラーフィルタがルータ条件を満たしていなかったら、どういう不都合が起きるか。その場合、デジカメの投影する3次元部分空間と、人間の投影する3次元部分空間との間に角度がついてしまう。高次元の光線空間の中に、3次元部分空間が2枚、原点だけを共有して交差しあっている状態を思い浮かべていただきたい。このとき、人間にとっては異なる色に落ちるべき分光強度分布が、デジカメでは同じ色に落ちる、ということが起きる(その逆も起きる)。こうなっては、後から色補正をかけようにも、どうにもならない。だから、ルータ条件を満たしていないといけないのである。

そうは言っても、これまた材料がなかなかあるわけではなく。だから、ルータ条件からもさらに一歩歩み寄り、上記の2つの3次元部分空間どうしのなす角度をできるだけ0°に近づけるよう努力すべきものである。3色のカラーフィルタのセットに対して、その「良さ」を評価するなら、この角度(の余弦:コサイン)をもって指標とするのがよい。

これを思いついたのは、1995年のこと。もしまだ誰も言っていなかったら学会発表しようと文献を漁ったら、惜しいことに、そのわずか二年前にP.L.Vora氏とH.J.Trussell氏による論文で、類似のアイデアが発表されていた。私のが、ある行列の3つの固有値のうち最小値を指標として採用しようというものだったのに対して、彼らのは平均値を採用しようという、わずかの違いはあったが。この違いは、最悪のところでどれだけ色がずれるかをみるか、細かいところは気にせず、あらゆる色にわたる平均でどれだけ色がずれているかをみるかの違いに相当する。

学会発表はあきらめたけど、特許を出願しておいたら、このほどめでたく審査を通過して、登録された。もっとも、日本国内の特許出願件数は年間約40万件、そのうち、審査を通過して登録されるのは約12万件だから、そのうちの1件なんて砂粒みたいなもんである。ケータイ1個には数万件の特許がみっしりと詰め込まれていると言われている。エンジニアとはかくも「見えない」存在であり、その見えなさを誇りにするくらいでないとやっていけない。さて、特許は使われないと日の目をみない。どなたか、ぜひ使いたいという奇特な方、いらっしゃいませんか?

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
ヘンリーダーガー展を見てきた。アウトサイダーアートの代表格とされるダーガー(1892─1973)。シカゴで孤独な生涯を閉じた後、「非現実の王国」と題された15,145ページにおよぶ物語と、数百点の絵が、部屋の管理人によって発見された。7人の戦闘美少女「ヴィヴィアンガールズ」には、なぜかおちんちんがついている。少女たちの虐殺死体も描かれているが、明るくのんびりムード、まるでごっこ遊びのよう。「美術手帖」5月号で斉藤環氏は「戦闘美少女の精神分析」の論に沿って、ダーガーを「人格傾向においても創造形式においてもオタクの兆候的存在」としている。同じ号で画家の会田誠氏は、迷宮入りした少女絞殺事件の犯人説を述べている。げ。どちらかがだまされている。品川の原美術館にて7月16日まで。
< http://www.haramuseum.or.jp/ >

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■イベント情報
アースデイ東京ナイト2007
< http://edtn.jp/ >
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アースデイの4月22日に、13のクラブが参加する回遊型ナイトフェス、「アースデイ東京ナイト2007」が開催される。アーティストTOWA TEI氏によるオリジナルキャンペーン着うたも配信。詳細はサイトにて。

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■編集後記(4/20)

・いま手元にふたつのムックがある。まず、わたしも編集に参加した「基本日本語活字見本集成」(誠文堂新光社 4/19発行)、かつてわたしも何年か編集していた「イラストレーションファイル」(玄光社)である。どちらも大変なボリュームで、フォントとイラストレーションの情報満載である。ネット、映像の時代であるが、いろいろなビジュアルを集めて見比べる機能は印刷メディアのほうがやはり優れていると思う。ネットをさぐれば無料で手に入る情報だが、スタイルがばらばらでは比較しようがない。やはり編集という作業を経たものでないとこういう情報は価値が低い。眺めていて飽きないこのふたつの大冊については、いずれ記事にすることになるだろう。(柴田)

・うわっ。昨日福島さんにメールしたばかりだよ。お願いできればいいなぁ。10年以上前に知り合い、偶然お会いすることが多い気がする。あの頃、デートを目撃されたりしたなぁ(冷汗)。/「ビューティフル塊魂」がPS3とXBOX360で出るっ! いやーん、もー、塊魂のためだけにハード買ってられないわ。(hammer.mule)
< http://www.xbox-news.com/ >  Xbox、360情報サイト
< http://noln.jugem.jp/?eid=121 >  商標までチェックするのか!