[2217] 男たちの生き暮れる夜

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<評価が両極端なケータイ小説>

■映画と夜と音楽と…[336]
 男たちの生き暮れる夜
 十河 進

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 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[336]
男たちの生き暮れる夜

十河 進
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●五月革命に殉じた一九六八年のカンヌ映画祭

五月はカンヌ映画祭の季節だった。朝日新聞などは毎年、カンヌ映画祭レポートを連載し、詳細に記事にする。カンヌ映画祭と聞くと、僕は一九六八年を思い出す。一九六八年五月十日から二週間の予定で始まった映画祭は、十九日に急遽、中止になる。五月革命の影響だった。

今では何のことかわからないだろうが、フランスでは一九六八年五月二十一日に学生と労働者による大規模なゼネストがあった。交通機関はすべてストップした。都市機能がマヒした。当時、高校生だった僕は、毎日の新聞を熱心に読んだ。熱心に読んだが、事の本質はよくわからなかった。

ゴダールやトリュフォーがゼネストに呼応して映画祭批判を行い、カンヌ映画祭が中止になったことだけはニュースで知ったが、それに何の意味があるのかはわからなかった。

しかし、五月革命は伝説になった。僕は、加藤登紀子が歌った「美しきパリの五月」を今でもフランス語で歌える。日本では「フランシーヌの場合は」という歌もヒットした。五月革命の現場の雰囲気は、翌年発売になった五木寛之の小説「デラシネの旗」で何となく肌に感じた。

ソルボンヌ大学、バカロレア、カルチェ・ラタン…、そんな名詞を覚えた。一度、カルチェ・ラタンの石畳の道を歩いてみたいと思った。僕がフランス文学科を受験した要因に、もしかしたら五月革命があったのかもしれない。

一九六八年のカンヌ映画祭は、二十一回目を迎えていた。今年はちょうど六十回目になる。世界中から選ばれた三十数人の監督が映画や映画館をテーマにしたショートフィルムを作り、それが上映されて好評だったらしい。日本からは北野武監督が選ばれた。海外での北野監督の評価は高い。

情報を一切遮断し、カンヌ映画祭出品で話題づくりを狙ったダウンタウンの松本人志が監督した「大日本人」は、あまり評価はされなかったようだ。映画の本を何冊も出していて、松本人志の映画を見る目はなかなかいいと思うけれど、出来はどうなのだろう。ちょっと気になる。

今年の話題は、グランプリを河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がとったことだ。振り袖を着て赤絨毯の上で踊っている河瀬監督を見たが、作る映画の割りにはけっこう派手な人だなあと思った。グランプリは、かつて小栗康平監督が「死の棘」(1990年)でとっている。あのときは松坂慶子が赤絨毯を歩いて嬉しそうだった。

現在のグランプリは最高賞ではなく、そのうえにパルムドールというのがある。パルムドールは黒澤明監督が「影武者」(1980年)で、今村昌平監督が「楢山節考」(1983年)と「うなぎ」(1997年)で受賞している。昔、小林正樹監督の「切腹」(1963年)と「怪談」(1965年)は審査員特別賞を獲得した。

アカデミー賞と違ってカンヌ映画祭では、日本の作品はけっこう評価が高い。出品も多い。「誰も知らない」(2004年)で柳楽優弥が史上最年少の十四歳でカンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞したことは、日本でも話題になった。

●アーウィン・ショーという作家がいた

カンヌ映画祭で思い出す小説がある。アーウィン・ショーの「ビザンチウムの夜」である。アーウィン・ショーは「夏服を着た女たち」という短編が有名で、現役時代の山口百恵が愛読する作家として名前を挙げたことがあり、一時は日本でもけっこう売れたのだが、最近はあまり本を見かけない。

僕はアーウィン・ショーを十代の頃から愛読していて、「80ヤード独走」という短編は何回読んだかわからない。「ビザンチウムの夜」を訳した小泉喜美子さんは、後書きでこんなことを書いていた。

──ショーの「80ヤード独走」(一九六三年十月号『ミステリマガジン』所載)を読んだときの感激を私は忘れることができません。それどころか、そのときの刺激を土台のひとつにして今日までどうにかものを書いてきたとさえ言えるのです。

小泉喜美子さんはエッセイなどを読むと実に男っぽい考え方をする人で、だからこそ「80ヤード独走」にそれほど反応したのだと思う。「80ヤード独走」には、ある男の人生が凝縮されて描かれているのだ。

学生時代、アメリカンフットボールの選手だった主人公は、ある試合で80ヤードを独走してタッチダウンを決める。だが、彼の人生ではその一瞬だけが華やかな栄光に包まれたときであり、今はアメリカ中を営業で回る洋服のセールスマンでしかない。

その短編の魅力を何と言ったらいいのだろう。「人生とはそういうものだ」という諦念とは違う。挫折、失意、不遇…といった言葉だけでは表現できない何か。人生の苦み、などと言えばもっと手垢にまみれたものになる。

「男は生きていかなければならないんだ。生きていくときには忘れてはならないものがあるんだ…」そういうことを、その短編は十代の僕に教えてくれた。僕も小泉さんと同じように「80ヤード独走」でショーが鮮やかに描いたエッセンスを土台にしてものを書きたいと思った。

「ビザンチウムの夜」は、その延長上にある文庫で四百八十ページ近い長編だ。読み終わったとき、「80ヤード独走」と同じように深い感慨に襲われる。人が生きることの意味が伝わってくる。主人公のように華やかな世界で生きてきたわけではない。しかし、どんな人生にも共通する想いが、そこには描かれている。

かつての栄光を懐かしむのはいい。それをよすがに生きていくのもいい。だが、どんなにみじめになっても、生きていかなければならない。さびしさに耐えなければならない。人のせいにするな。すべては自分の選択だ、自ら招いたものだ。それを引き受けて生きてゆけ。自分が誇りだけは失っていないという実感を持てれば、他人が何を言おうが、後ろ指を指そうが、嘲笑おうが…放っておけ、「ビザンチウムの夜」は僕にそんなことを囁くのである。

●一九七〇年のカンヌ映画祭を背景にした物語

一九七〇年のカンヌ映画祭にジェシー・クレイグがやってくるところから物語は始まる。ホテルの部屋にいると、若い女がやってくる。ジャーナリストの卵でジェシーをインタビューし記事にしたいのだという。すでに彼のことを詳しく調べており、その原稿をジェシーに読ませる。

ジェシー・クレイグは若い頃に演劇のプロデュースで成功し、映画制作に進出してヒット作を何本も作ったプロデューサーだ。だが、もう何年も制作した映画はなく、業界では忘れられた名前になりつつある。ジェシーが一本の脚本を手にカンヌにやってきたのは、出資者を見付けるのが目的だ。

彼は、夜毎、様々なパーティに顔を出す。昔なじみの連中と顔を合わす。カンヌ映画祭の雰囲気が活写される。だが、誰もがジェシーを昔の人間、終わった男としてしか見ない。四十八歳のジェシーは再起を狙っているのだが、業界では「かつてはいい仕事をしたプロデューサー」でしかない。

ジェシーは回想する。彼が発見した才能にあふれた脚本家。その脚本をプロデュースし、大成功した若い頃。だが、彼は友人だった脚本家を裏切る。また、愛人を裏切り、妻を裏切る。思い出せば、慚愧、慚愧とつぶやきたくなるだろう。罪の意識ではない。だが、俺は何をやってきたのだろう、と唇を噛む。そんな想いだ。

ジェシーは罪悪感からか、かつての盟友だった脚本家の新作をプロデュースするが、それは見事に失敗する。ジェシー以上に、脚本家は過去の成功作にとらわれている。過去の栄光を忘れられない。今は貧しい暮らしをしていても、いつか再び返り咲くのだとしがみつく。かつての盟友のそんな姿が、ジェシーに何かを教える。

一九七〇年はカンヌで「ウッドストック」が上映された年だ。三章はジェシーが「ウッドストック」を見る場面である。制作者の才能を認めながらも、「映画が進むにつれ、スクリーンに拡がる一種の狂躁的な乱雑さが次第に彼の気持を滅入らせてい」くのである。彼は中座する。

ちなみに、その年の最高賞(グランプリ)は、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」だった。審査員特別賞が「殺人捜査」、審査員賞に「いちご白書」とハンガリー映画「鷹」が入った。ジョン・ブアマンが監督賞をとっていて、僕にはとても懐かしい。

さて、ジェシーは持ってきた脚本を何人かに読ませるが、やがてそれはジェシー自らが書いたものだとわかる。彼は、その脚本に何かを賭けたのだ。その再起をめざすストーリーに、女たちがからんでくる。過去の女、現在の女たちだ。別れた妻がいて、娘がいる。パリには愛人がいる。そして、インタビューにやってきた若いジャーナリスト志願の娘に惹かれる。

まあ、何だか自分で人生をややこしくしているなあ、というのが、最初に読んだときの僕の印象だった。だが、人生は複雑にしたくなくても、そうなってしまうものなのだ。愛していなくても、親友の奥さんであっても、寝てしまうことだってある。

この本を最初に読んだとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ジェシー・クレイグの四十八歳という年齢は遠い世界だった。遙かな未来だった。実感はなかった。今では、その歳を遙かに追い越した。自分が四十八歳だった頃を思い出すと、何て活動的だったのだろうと思う。

ニューヨークに帰ったジェシー・クレイグは倒れ、死線をさまよう。やがて回復し、「あなた自身の複雑さをほぐしなさい」と医者に言われて退院する。もちろん、酒はとめられているのだが、ニューヨークの昔よく通ったバーに寄る。その最後の一行が印象的だ。

──クレイグは微笑した。生きていてよかったと思った。二口目を飲んだ。酒がこんなに美味かったことはなかった。

ジェシー・クレイグに比べれば、僕はずっと単純な人生を送ってきたし、すがるような過去の栄光もなかったが、「ビザンチウムの夜」からは、どんな人生にも生きることに疲れ、途方に暮れる夜があることを教えられた。どんな人も、それに耐えて生きている…

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
平岡正明さんの「昭和ジャズ喫茶伝説」「日本ジャズ者伝説」(共に平凡社)を図書館で見付けて借りてきた。カバーと軽い造本が良くて欲しくなる。平岡正明、太田竜、竹中労…と、三人の名前を並べてわかる人はやっぱり五十以上かな。

●第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店・ネット書店で発売中
第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました
http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1


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■Otaku ワールドへようこそ![52]
ケータイを使いこなそう

GrowHair
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前回、カメコ話が続くと予告しましたけど、やっぱり話題変えます。ごめんなさい。カメコ活動はほぼ毎週末のペースで進行中なのですが、それよりも急にケータイの話をしたくなったので。

●ケータイと私:トラブル一切なし

そそっかしい私だが、自慢できることがひとつある。私はケータイをどこかに置き忘れたことも、水に落としたりして破損したこともなく、電池切れにしたことすらない。なにしろ、所有したことがないのだ。

まあ、もっともこの論理で行けば、競馬や競輪や競艇でスッたこともなく、宝くじではずれたこともなく、株で損したこともなく、運転免許の試験に落ちたこともなく、世界征服の野望を仮面ライダーに阻まれたこともなく、フィギュアスケートの4回転ジャンプに失敗したこともないわけで、実にラッキーな人生だ。

話がいきなり逸れた。ケータイの話である。オタクな私とて、人づきあいをぜんぜんしないわけではなく、ぜひともケータイを持ってくれと言われることはたまにある。にもかかわらず、なぜ所有することをかたくなに拒否し続けているのか。

いや、それほどのポリシーがあってのことでもないのだけれど、かつてケータイというものは女子高生の持つものだというイメージがあり、私なんぞが持つと女子高生に人生をめちゃめちゃにされてしまうのではないかという恐れがあって、ずるずる引き延ばしていたら、今に至ったという感じである。誰でも持つ時代になった今なら抵抗なく持てそうなものだが、今度は、今さら大幅に遅れをとりながら、時代の後ろをのこのことついて歩くようなことはプライドが許さない。

大きな駅のコンコースなど、人の流れがあるところで、異様に遅歩きして、後ろの人をイライラさせている人を見かける。具合でも悪いのかと覗き込んでみると、うつむいてケータイの画面を凝視している。こういうことはよくある。この前などは、高田馬場駅前の歩道にゲロが吐き散らしてあって、スーツを着たおじさんがケータイの画面と睨めっこしながらそっちのほうへ歩いていた。いつ気がつくかと見ていたら、一向にその気配なく、ついに踏んでしまった。それでも気がつかずに歩き去っていった。

どうも、歩きケータイしてる人というのは、傍目に見て、あんまり模範的ではないなぁと思えることが多い。もちろん全員がそうだというわけではなく、自分を見失わず、周りに迷惑かけず、ちゃんと使いこなせていればよいのだが、もし使い慣れない私が今更急にケータイを持ったらああいうふうになるのは目に見えている。それはあんまりうれしくない。

それと、ケータイ社会の暗黙のルールみたいなのも、よく分かっていない。着信記録があったのにかけ返さなかったりすると、傲慢不遜な人みたいに言われてしまうのだろうか。なんか恐い。そんなことを言って二の足を踏んでいたら、ミクシィのアカウントを取るにもケータイが必須という時代になっていた。ケータイを所有していないと、ネット上の基本的人権すら与えられないという事態になっていたのだ。

●評価が両極端なケータイ小説

「ウェブ進化論」、「フューチャリスト宣言」の梅田望夫氏のブログ
< http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/
>
を見に行ったら、5月25日(金)に「ケータイ小説」について書いている。
< http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070525/p1
>

 「中央公論」に連載中の「時評」欄に次回は「ケータイ小説ブーム」で書い
 てほしいとのリクエスト。でもケータイ小説のサイトなんて一度ものぞいた
 ことがないし、書籍化されたケータイ小説のベストセラーも読んだことがな
 い。ケータイ小説を読まずしてケータイ小説を論ずるわけにもいかないので、
 編集部から渡された「恋空」(上・下)と「赤い糸」(上・下)を読んでみ
 た。ふらふらの身体に鞭打って、総計1,200ページを読破。世代ギャップゆ
 え苦しい修行だったけど、得たことも大きかった。6月10日発売の「中央公
 論」誌をお楽しみに。

明後日ではないか。これは要チェックだ。梅田氏は「フューチャリスト宣言」の中で、「もし将来グーグルにとって代わるような存在が台頭するとしたら、グーグルに吸収されない異質なパラダイムを提示しないとならない。そういうのは、今の中学生ぐらいの世代から出てくるのではないか」と述べている。穿った見方だが、中央公論の編集者は「そうおっしゃるけど、今の中高生ってこんなですよ? ご存知でした?」と問いかけ、梅田氏は「いやいや知りませんでした」と白状しちゃったような格好にも受け取れる。

てなことを言っている私もケータイ小説なるものは、読んだことがなかった。まずは熱帯雨林で「恋空(上)」をチェックしてみる。57人の人がレビューを書いているが、面白いことに、評価が両極端!

☆☆☆☆☆: ##########(10人)
☆☆☆☆−: ##(2人)
☆☆☆−−: ####(4人)
☆☆−−−: #########(9人)
☆−−−−: ################################(32人)

肯定派の感想:とても感動した/泣けた/気持ちに嘘はない/素敵な恋愛してる/今まで辛い思いをした人と心が豊かでキレイな人に感動を与える小説/ジェットコースターのように、いろんなできごとが次から次へと起きる/多少の矛盾も、葛藤や大人になりきれなさを描いているようで好感。

否定派の感想:文章表現が稚拙/日ごろ本を読まない中高生向き/頭の弱い若者だけに賞賛される/小説ではない/矛盾が多い/構成がぐちゃぐちゃ/読みづらい/自分に都合の良すぎる見栄張りな文章が目立つ/こんなモノより、良質で感動的な本は沢山ある/私は中学生ですが、それでも年上が書いたとはとてもとても思えない、ひっどい文章/こういうのは携帯内に収めておこうよ/確かに泣けた、あまりの情けなさに。

この見事な評価の分かれっぷり、これも「情報のセグメンテーション化」という、今の時代の特徴の表れの一例なのではないかと思う。情報はひとつのコミュニティ内ではまんべんなく流通するのに、コミュニティの壁を越えて外には出ていきづらい。多分、肯定派と否定派の間には接点がなく、相互理解の機会がほとんどないのではなかろうか。

●社会の有機的構造の崩壊か?

情報のセグメンテーション化は、誰かが意図的に情報の流れをブロックしているために起きているわけではない。われわれの心の側にブロック機構が働いているようである。人間、自分のよく知らない方面のことについては「どうせ大したことなかろう」、「きっと面白くないだろう」とナメてかかる傾向がある。もしそうなってなくて、ありとあらゆるものを見ていちいち感心していたのでは、逆に自分の側が大したことないということになり、劣等感にさいなまれる。自己防衛機構として、自らの興味の範囲を小さなセグメントに閉じ込めたがる傾向があるのが今の時代のようだ。

人間の知り合い関係のネットワークも、脳細胞どうしのシナプス結合によるネットワークも、「スモールワールド」と呼ばれる類似の構造をもっていると言われる。これは、近隣どうしの間だけで結びつきがあるというわけでもなく、かといって、まったくランダムな結びつきというわけでもなく、それらの中間の状態、すなわち、近隣との結びつきが多いけれど、たまに遠くともつながりがあるというネットワーク構造である。どの二つの要素(ノード)を取っても、意外と少ない中間介在者をたどって一方から他方に至ることができる。「狭い世間」というわけである。ところが、情報のセグメンテーション化が進むと、このスモールワールド性が損なわれていく。

「フューチャリスト宣言」で梅田氏と対談している脳科学者の茂木健一郎氏は、我々の脳は、単調でもなく、ランダムでもない、中間的な、ほどよい気まぐれを好むと言っていて、これを「偶有性」と呼んでいる。情報のセグメンテーション化により、偶有性も損なわれ、ひとつのコミュニティ内の人々は空気の淀みに飲み込まれ、画一的になっていく。

ところで、私はケータイ小説肯定派と否定派のどちら側にいるのか。いつもの調子なら、若者たちの側に立って、エスタブリッシュメント(確立された社会システム)側の人間の頭の固さを笑い飛ばすのが性分というものだが、こればかりはどうにも持ち上げる気が起きないというのが本音である。

ミクシィの日記を「恋空」で検索すると400件近くヒットし、絶賛の嵐、泣いた泣いたのオンパレードで、否定派はほとんどいない。また、映画化が決定し、現在、ロケが進行中らしい。それだけの人気を博し、商業的に成功しているからには、ある種の面白さはあるに違いない。「お前がもっと面白いものを書いてみろ」と言われても、書けるわけでなし、著者にはある種の「才能」を認めないわけにもいかんのだろう。

書籍版が出版されても、ネットではタダで読めるので、ざっと読んでみた。
< http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBS100.asp?I=hidamari_book
>
けど、残念ながら、ちっとも面白さが感じられなかった。深い世界観や独自の視点が提示されることもなく、会話主体のストーリーがどんどん進んでいく。人物像や情景の描写はほとんどなし。骨も肉も皮もなく「筋」しかない文章。小説というよりは、プロットだ。

出来事は矢継ぎ早に起き、それに伴う感情の起伏はあるので、いちおう退屈はしない。だけど、扱う題材が、高校の図書館でのセックス、レイプ、妊娠、中退、駆け落ち、流産、薬物使用、友達の裏切りなど刺激的な割には思想の深まりがなく、一本調子。傍目には無鉄砲な行為を、まるで愛の証であるかのような楽観性をもってためらいなく決行し、それで生じるトラブルには、「私ってこんなにかわいそう」とどこまでも自己肯定。無茶だ。

ライトノベル愛好家から見てケータイ小説はどうかと、何人かに聞いてみたが、活字離れした人々を呼び戻す効果はあるかも、としながらも、自分が読もうという気は起きないとしている。一見近そうな、ライトノベル派とケータイ小説派の間には、実は世代間の格差のような壁ができているようだ。ずっと上の世代の梅田氏が読むのに相当苦心したというのも頷けるが、しかしそれで「得たもの」っていったい何だろう。

多分、普段接する機会のまったくないタイプの人間がどんなことを考えて生きているのかを垣間見ることができた、ってことなんじゃないかな。社会を論じる者の立場として、交友関係や情報源が偏っていては、ものの見方が偏りかねないので、いろんな人から情報を収集して、広く社会を眺め渡したい。そういう観点で参考になったってことじゃなかろうか。

世代論に関して言えば、太古の昔から上の世代は下の世代を指して「最近の若者はなっちょらん」と言い続けてきたようで、それにしては人類が退化の一途をたどっているふうでもなさそうだから、割り引いて考えないといけない。下の世代というのは、上の世代と同じ土俵で勝負しても勝ち目がないので、土俵をどこか別の場所へと移したがる。どこへ移したのかは、上の世代からは案外見えづらかったりする。元の土俵では劣っているようにしか見えなくても、実は思いもよらぬ領域で着実に力をつけていたりする。

下の世代は上の悪いところをしっかりと見ている。日本はテクノロジーの発展に精進し、工業国として経済的に成功しているが、一方では、自然が破壊される、ストレスがたまる、自殺が増える、少子化が進む、とあんまり幸せになった実感がない。

ついでに言えば、努力して偉くなったような人も、ある日突然、不正行為やいかがわしい行為ががバレて記者会見で深々と頭を下げたり失脚したりと、どうも尊敬できない。ここらで軌道修正して、経済成長は中国やインドに譲り、これからは貧しくても愛のある生活で行こうということか。あるいは、それを尻目にこつこつと勉学に励んだ少数のエリートが工業国日本を牽引し、知的にも経済的にも二極化していくのか。

ケータイは画面が小さい上に、文章入力が面倒だ。これを不便だと思っているうちはまだいいが、慣れて何とも思わなくなったときには、我々の思考の側がケータイに合わせて縮小・退化しているのではないか?

……なんて懸念しちゃうのは、上の世代から見ているからであって、実は、限定された機能にうまく適応して、その特性を最大限に生かして面白く活用するすべをばりばり見出していく能力は下の世代の優位性なのかもしれない。ケータイ小説の世代から何が生まれるのか、心配半分、楽しみ半分である。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。5月19日(土)、26日(土)は満開のバラ園でコスプレ個人撮影してきた。蔓バラは春しか咲かないので、秋バラのときはもの足りなく、ずっと心待ちにしていた。今回も、コスプレイヤーたちは、一般の来場者からきれいな衣装だとよくほめられ、人気者になっていた。写真はこちら。
< http://growhair2.web.infoseek.co.jp/RoseGarden070519/RoseGarden070519.html
>

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■編集後記(6/8)

・かなり大量のアサリを、潮干狩り帰りの知人からもらった。スーパーで売っているのを妻がたまに買って来るが、海から掘り出してきたばかりのアサリを見るのは何10年ぶりであろうか。しかし、どう扱ったらいのかわからない。子どもの頃の記憶では、アサリの入った水に包丁が入っていたが、あれは? ネットに頼ると「砂抜き」と「塩抜き」をせよとあるので、夕食のみそ汁に使う分だけ言われるとおりに実施する。味はやはり昔のほうが濃厚だったと思うが、それでも新鮮だからうまい。残ったアサリはこの気温では痛んでしまうかもしれないので、「砂抜き」と「塩抜き」をして冷蔵庫にしまった。この必須の二工程をわたしは知らなかった。妻もどうやらいままでいい加減にやってきたらしい。今回あまりに大量なので妻があせって処理をわたしに押しつけたので、おかげでアサリの基礎を知ることができてよかった。ところで、アサリも大根も牛肉も「具材」と呼ばれるようだ。響きは悪いし品もない。新聞の投稿で、小川宏(アナウンサー・81歳、というからあの人なんだろう)さんが、「具材」は「食事の材料」で十分です、と書いていた。その通りだ。(柴田)

・GrowHairさんの書かれたリンク先「恋空」をたどり、はじめてケータイ小説なるものを見てみた。単に小説がケータイで読めるというものじゃないんだね。文体が独特なんだ。へぇ。電話番号を教えるあたりで断念した。きっとこの先は感動が待っているのだろうと思うのだが。これはパソコンで見ているからで、携帯の小さな画面だと読みやすいような気はする。ドラマの脚本ってこんな感じじゃなかろうか。台詞は吟味されてあって。具体的な描写は演出家さんたちが作り上げるわけで。読み手は好き勝手に、自分に置き換えることができるのかもしれないね。想像力をかき立てる、ではなくて、自分の身の回りに。それで感情移入がしやすいのかも。前にも書いたが、セクロボのニコのように学生時代に恋愛しているフリをしていたような私にゃつらいもんがあるな。GrowHairさんのまとめられた題材とは、まったく縁のない人生だし、友人らにもそういう経験をしている人はいない。あ、経験がないから理解できないわけじゃないぞっ! そういう人間が感情移入してしまうほどの描写がない。続きをよみはじめ、好きな相手が彼女と別れたところで、やっぱり断念。展開早くて、人の日記を覗き見している感じ。この文体ではSFは作れないだろうなぁ。有名作家さんの作品を題材にしている同人誌のように、共通認識があった上でのものしか。売れたり支持する人がいるんだから、これもアリなんだろう。近い経験を持つ人たちが、どっぷりとはまりこみたい時にはいいのかもしれない。これが主流になる時代が来たら悲しいなぁ。行間を理解する必要がないんだもん。/映画ってガッキー主演?! ひぇーヒットしそう。最後まで読んだら面白いのかなぁ。読むのつらいなぁ。ううむ。/出版社のリリースにはケータイ小説という文字が並ぶ。時代が読めているってことか。/好きな台詞ランキングを読んだ。じ、時代はまわってきてますぜ。膝が痛くなるような田舎くさい喫茶店の椅子がオシャレと言われるように、一昔前の台詞が若者には新鮮で受けてますぜ。わしゃ歳とりましただ。(hammer.mule)
< http://ip.tosp.co.jp/Portal/c.asp?i=KST00SP015
>  ケータイ小説大賞
< http://www.toho.co.jp/movienews/0704/06koizora_sk.html
>  映画
< http://www.ozmall.co.jp/company/press/
>  出版社
< http://ip.tosp.co.jp/Portal/i.asp?I=KOIM002&P=4
>  好きな台詞