[2241] 街道沿いに写真史を歩く

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<五歳にして到達した諦めの境地>

■デジアナ逆十字固め…[52]
 街道沿いに写真史を歩く
 上原ゼンジ

■わが逃走[2]
 ヘクソカズラに捧ぐの巻
 齋藤 浩

■イベント案内
 デジクリ主催「クリエイターの夢 実現に向けて」吉川惣司+川口孝司


■デジアナ逆十字固め…[52]
街道沿いに写真史を歩く

上原ゼンジ
< https://bn.dgcr.com/archives/20070712140300.html
>
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写大ギャラリーで「日本の写真表現を新たに切り拓いた『VIVO』展」が開催中だ。7月7日に川田喜久治、細江英公、福島辰夫といったお三方のギャラリートークがあるというので、出かけてきた。

VIVO(ビボ)に関する説明は、以下写真展の案内文より引用させていただく。

「1959年、若い写真家6人によるセルフ・エージェンシー『VIVO』が設立された。メンバーは川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公である。目的は写真家自らの経済的利益と創作上の環境整備であり、お互い独自の表現を尊重し、独創性、創造性を最も重視する写真家共同体であった。彼らは、その前、1957年写真評論家・福島辰夫企画による日本の現代写真の新たな突破口を開いていこうとする第1回『10人の眼』展に参加する。これがきっかけとなり、VIVO設立へと繋がっていく。なお、VIVOとはエスペラント語で“生命”を意味する。(後略)」
< http://www.t-kougei.ac.jp/arts/sc/topics210.php
>

日本の写真史の中でも、ひじょうに重要な存在である「VIVO」のメンバーの話が直接聴けるということで、「これは行かねばなるまい」と思い、中野坂上の写大ギャラリーまで、遠征してきた。

そんなに大きくはないギャラリーだが、かなりの立ち見が出る盛況だった。ただ、年配の人が多く、若いもんが少ないのが、ちょっともったいないと思った。私自身はVIVOが解散した1961年の生まれなので、当時のことはまるで知らない。後から写真を見たり、先輩から話を聞いたり、本で読んだりという知識しかない。

ただ、本で読んだようなことも、本人の口から直接聞けば、また全然違う広がりを持ち始める。「VIVO」には直接触れた経験がなかったので、歴史を体験するためのいい機会と思った。昭和ひとけた生まれの写真家の話が聴けるチャンスというのも少なくなってきたので、もっと若い人たちにも立ち会って欲しかったなあと思う。

話を伺い、自分の中に漠然とあった「VIVO」像と、少し違いがあることが分かった。それはVIVOがきちんとビジネスを成り立たせようとしていた集団だったということだ。何か芸術的な理念のもとに集まった集団のようなイメージがあったのだが、仕事をもらってきて振り分けたり、事務所に上納金を入れたり、スタジオや助手を共用したりという、写真で喰うための集団であったということだ。

現在は自分の作品を撮るということと、写真でメシを喰うということがはっきりと分かれていて、自分の表現を追求している人は写真ではメシを喰っていない、というケースが多いと思う。その点「VIVO」の場合は広告写真等の仕事をとってきつつ、自分の作品もしっかり撮るということで、何か勢いとか力強さのようなものを感じさせられた。

また、当時の諸氏が若かったことに驚かされる。VIVO設立当時のメンバーの年齢は26〜29歳。ギャラリーに展示された写真の完成度の高さを見れば、よくもまあこれだけの才能が集結したものだと思う。ギャラリーで展示されているのは、以下のような作品だが、最近水晶レンズで軟弱な写真を撮っていた私には、ちょっと刺激的な骨太写真だった。ギャラリートークはもうないが、オリジナルプリントを見に、ぜひ足を運ばれることをお勧めします。

川田喜久治『地図』
佐藤明『冷たいサンセット』『サイクロピアン』他
丹野章『サーカス』『アーティスト』
東松照明『NAGASAKI』
奈良原一高『王国1、2』
細江英公『おとこと女』『薔薇刑』のシリーズ

1961年にVIVOは解散するが、その解散の直前にVIVOを頼り、大阪から森山大道さんが上京する。この時23歳だったそうだ。VIVO自体は解散してしまったが、その残党の事務所に助手として潜り込み、そこで諸先輩のさまざまな影響を受けることになる。

●「街道」が再びオープン

西新宿のエプサイトでは森山さんの写真展が開かれている。アムステルダム、ケルン、パリ、シドニー、タイ、上海、新宿、大阪などの都市で撮影されたスナップショット。大判のインクジェットプリンタから出力されたプリントは大迫力。森山大道を浴びてくるには、いい展覧会だと思う。

◇森山大道展 凶区 Erotica
< http://www.epson.jp/epsite/
>

この日は丸ノ内線つながりで、南阿佐ヶ谷にできた新しいギャラリー「街道」にも顔を出した。街道のオーナーの尾仲浩二さんは、森山大道、倉田精二、北島敬三といったメンバーが在籍したフォトギャラリー「CAMP」の出身者だ。

私は「FOTO SESSION '86」という写真集団で森山さんに写真を見ていただいていたが、月に一度の例会に山内道雄さんとともに顔を出してくれていたのが、尾仲さんだ。FOTO SESSIONが解散した翌88年、尾仲さんは西新宿の青梅街道沿いのビルの中に、「街道」というギャラリーを作った。

尾仲さんが作ったのは写真家による自主ギャラリーで、自分の見せたい時に、どんどん写真を発表していくというスタイルだ。尾仲さんはギャラリーを閉鎖する92年までの間に32回の個展を開いた。

そして2007年7月6日、「街道」は再び南阿佐ヶ谷の青梅街道からちょっと入った所にオープンした。今度は木造アパートの一室だ。広くはないが三部屋がギャラリーに充てられている。今回は自分の写真展ばかりをガンガンやっていくというスタイルではなく、基本的には貸しギャラリーとし、小部屋の方で尾仲さんの写真を見せていくという方式らしい。

年内のスケジュールはすでに埋まっているが、その中には懐かしい名前もある。叶芳隆と広瀬勉で、二人ともFOTO SESSIONのメンバーだ。叶さんは秋田在住で、中野坂上のアジトで月に一度開かれたFOTO SESSIONの例会には秋田から通っていた。そして、今も地元でしぶとく写真を撮っている。ブログで発表している写真は携帯電話で撮ったものらしいが、とても携帯電話で撮ったようには見えない、どしっとした写真なので、ぜひぜひ見て欲しい。

◇太陽ヲ貴方二
< http://visfoto.exblog.jp/
>

広瀬さんもかなりしつこく、携帯電話で撮った写真をブログで発表しているが、ほかにもWEB上で写真を発表しているメンバーがいる。東京光画館の吉野やわらと阿部敏之、ゆういち光画館のYuichiとJushoだ。

◇型録 携帯電話/広瀬勉
< http://blog.livedoor.jp/hiroven_catalogue/
>

◇東京光画館
< http://www.kougakan.com/
>

◇ゆういち光画館
< http://www001.upp.so-net.ne.jp/kogakan/
>

そのほか、日本写真協会新人賞を受賞した楢橋朝子やドグラマグラシリーズの猪瀬光もメンバーだったのだから、FOTO SESSIONというのも随分濃くてしつこい人々が集まっていたものだと思う。

◇03FOTOS
< http://www.03fotos.com/
>

七夕の日に私があるいた写真展は、どれも素晴らしいものだった。すべて南阿佐ヶ谷、中野坂上、西新宿とすべて丸ノ内線で行けるところなので、お近くのかたも、そうでない方もぜひ行ってみてください。

【うえはらぜんじ】zenstudio@maminka.com
◇上原ゼンジ写真研究所
< http://www.maminka.com/zenlab/top.html
>

●日本の写真表現を新たに切り拓いた「VIVO」展
< http://www.t-kougei.ac.jp/arts/sc/topics210.php
>
会期:6月12日(火)〜7月31日(火)10:00〜20:00 無休 入場無料
会場:写大ギャラリー(東京都中野区本町2-9-5 東京工芸大学 中野キャンパス TEL.03-3372-1321)

●森山大道展「凶区 Erotica」
< http://www.epson.jp/epsite/event/07/7.htm
>
< http://www.moriyamadaido.com/
>
会期:6月27日(水)〜8月5日(日)10:30〜18:00
会場:エプサイト(東京都新宿区西新宿2-1-1 新宿三井ビル1階 TEL.03-3345-9881)
→「凶区 Erotica」をアマゾンで購入するなら
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022503009/dgcrcom-22/
>

●尾仲浩二・三本立て「DRAGONFLY」「背高あわだち草」「ベトナム」
< http://kaido.mods.jp/
>
会期:7月6日(金)〜7月29日(日)13:00〜19:00 金土日の3日間開館
会場:Gallery街道(東京都杉並区成田東5-23-2 いわとうアパートメント2F)

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■わが逃走[2]
ヘクソカズラに捧ぐの巻

齋藤 浩
< https://bn.dgcr.com/archives/20070712140200.html
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みなさんこんにちは。「わが逃走」第2回です。このコラムはグラフィックデザイナー齋藤浩が、グラフィックデザインとは無関係に書きたいことを書くという、ノーギャラならではの企画です。

前回は自己紹介も兼ねて自分の名前についての怨みつらみを書いた訳ですが、今回は不憫シリーズ第二弾ということで、屁と糞にまつわる悲しいお話でもいたしましょう。

さて、屁と糞といえば、ヘクソカズラ! 私のありふれた名前など屁でもないというくらい酷い名前です。オオイヌノフグリ、ハキダメギクなど、植物の中にはお気の毒としか思えない名前をよく聞きますが、中でもヘクソカズラは衝撃的でした。花弁の形状がヘクサゴンだから的な由来があるのだろうと解釈していたら、そのまんま屁と糞だったとは!

昔から知っている事柄とは違い、大人になってから知った真実に対する衝撃は大きいものです。という訳で、そんなヘクソカズラさんを慰めるべく、若かりし頃の想い出話でもいたしたいと存じます。

●エピソード1/危機イッパツ編

チバ県M戸市からサイタマのO宮市に越してきたのは三歳のときだ。オレは近所の子供らともそれなりの付合いはあったが、どちらかといえば家にこもって何かを作ったり絵を描いたりすることの方が好きだった。

そうすると、身近なコミュニティ=家庭ということになる。ちなみに、我家は父・母・オレの三人で構成されており、オレは父・母を通して世の中のことを知っていくこととなる。が、この二人がクセモノだった。というか、どうも一般的な父母とは微妙に違っていたようで、ひとことで言えば浮世離れした父とおめでたい母だったのである。

家庭と“社会”とのズレを意識したのは四歳のときだ。オレが物心ついたときからウチには“屁はガマンしない”という風習があり、従って我家は常に屁の音が絶えない家庭だった。

ある日、息子も幼稚園に行く年齢になったことだし、これではいけないと思ったのか、母が「オナラは本来うるさいし、クサいものです。なので人前ではしない方がいいの。でも出ちゃったときは『失礼いたしました』って言えばいいのよ」と教えてくれた。

父もそれに同意し、その日を境に、ブッ「失礼いたしました」プー「失礼いたしました」ブゥーップッ「失礼いたしました」という、今にして思えば非常にシュールなサウンドが、我家における当たり前の風景の一部として、繰り返し響いていたのである。

で、“社会”だ。四歳になったオレはウチから徒歩15秒のところにあるA幼稚園へ通いはじめた。内向的な息子が果たして集団生活に順応できるのかという母の心配をよそに、オレはクラスの奴らともそれなりにうまく付合っていた。ところがそんな明るい園児ライフを送っていたある日、オレはやっちまったのである。

我が『うめ5くみ』担任のモテギ先生の指導のもと、クラス全員の見守る前でオレは何かを発表していた。その際、ごく自然に屁がしたくなり、何もためらわずにいつものように、プー「失礼いたしました」。

一瞬の静けさの後、105デシベルの笑い声が教室中に響き渡った。クラスの誰もがオレを見、指を差して笑うのだ。解らなかった。何故だ。何故なんだ。「失礼いたしました」って言えばチャラになるんじゃなかったのか。母さんは嘘を教えた。オレの親は嘘つきだったんだーっ(と子供語で思った)。

オレは泣いた。皆に笑われて恥ずかしかったというよりも、いつも守ってくれた母に突き放されたような孤独感に泣いたのだ。でも、ボキャブラリーの少ない子供は、その気持ちを言葉で伝えることはできない。そのもどかしさにまた泣いた。

オレは帰宅するとすぐ、母に抗議した。が、母はそれを一笑に付したのである。「そんなこと、明日になればみんな忘れてるわよ」。論点のすり替えである。

が、子供のオレはそんなもんかと思い、翌日普通に幼稚園に行くと、果たして母の予言の通り、誰一人として前日の一件については語らず、お遊戯に紙芝居に、熱中していたのだった。不思議だった。意外だった。おかげでプライドを保つことができたのだが。

この一件でオレは「世の中は思ったより都合よくできているのではないか」と過信してしまったようだ。これが後に起こる悲劇とのコントラストをより一層際立たせることになろうとは、四歳のオレにはまだ知るよしもなかったのである。

●エピソード2/没落編

あれから一年が過ぎ、年長さんとなったオレは『まつ1くみ』に配属されていた。オレはそれなりに絵が上手だったので、ケンカの強い奴、すばしっこい奴と並んで、クラスではそれなりの地位を保っていた。

ある日、いつものように幼稚園へ行き、みんなとキャッキャと遊んでいると突然の便意がオレを襲った。日本では、幼稚園に入ってから小学校を卒業するまで公的な場所ではウンコをしてはいけない、という暗黙のルールがあるので当然オレは我慢していた。しかし、腸内におけるウンコさんの主張はズンドコズンドコと徐々に激しさを増していく。

危険だ。少々なだめなければと思い、オレはまず固体とガスとの分離を試みた。人間も五歳にもなればそれなりに経験値も上がる。ウンコを我慢するときは、まずイメージするのだ。オレはお腹の中で跳ね回っているウンコさんを落ち着かせて一カ所に集めるシーンを思い描いた。

そして、残った空間に充満しているガスをうまく抽出し、肛門をしぼりながら(レンズでいえばf11〜16くらい)音を立てぬよう細心の注意をはらって、周りに気づかれないようにスカシで放出する。そうすると、多少なりとも便意は軽減されるはずなのだ。

ところが。その日に限って絞り調節が思うようにいかず、f2.8くらいまで開いてしまい、「しまった!」と思うと同時にコントロールを失った絞り羽根はほぼ開放となってしまった。そして次の瞬間。ズシン。という重みがパンツのゴムを通じてオレの腰に伝わったのだ。

その時のオレが思ったこと。それは社会的地位についてである。この事実が広く知れ渡ってしまえば、当然今の地位からの失墜はまぬがれないだろう。ことは穏便に、極秘裏にすすめねばならない(と子供語で思った)。

不安だ。だが、ここで泣いてはいけない。泣けば皆の注目を集め、バレる可能性がそれだけ上がる。オレは平静を装いつつ、担任のオオバヤシ先生の耳元でこっそりとその旨を告げた。すると先生はごく自然にオレを職員室の隅へ連れていき、誰にもみつからないようにパンツをはきかえさせてくれたのである。ありがとうオオバヤシ先生、オレはこの恩を一生忘れない。心の底から、本当にそう思ったのだ(子供語で)。

翌日。いつものように幼稚園へ行った。そして、いつものように集団生活をこなす。時はいつものようにゆっくりと、平穏に過ぎていった。午後の日差しがやわらかい。昨日のことは、誰も知らない。

ところが。

いつもと異なる人物が、いつもと異なる状況をもたらしたのだ。母である。手にはてんとう虫模様の小さな紙袋を持っている。母はゆっくりと廊下を歩き、教室の様子を窓ごしに眺めながら、ガラスの引き戸をノックした。オオバヤシ先生がそれに応える。

どんな小さな出来事でも、いつもと異なる状況が発生すると幼児たちのテンションは上がる。クラスの奴らは、まれびと“ひろたんのおばちゃん”の登場に、一斉に好奇心をかき立てられていた。

母は紙袋を先生に渡し、二言三言、言葉をかわすとオレに手を振って去っていった。そうなると幼児達は、お菓子でも入っていそうな、そのかわいい紙袋が気になって仕方がない。好奇心が強すぎたのか、がまんできなかったのか、そもそもがまんを知らなかったのか。すばしっこい奴・トオル君がその袋を先生の手から奪い、開けてしまったのである。そして彼は、オレの悪夢の証拠品・A幼稚園と記された子供用パンツを発見してしまったのだ。

「あはは、パンツだー」トオル君の声につられて皆が笑い出す。だがこの時点での彼らはまだ“パンツ”という言葉の響きに対して笑っていたにすぎない。だが、その状況を少し離れたところからじっと見ていた奴がいた。アカバネミワ(仮名)である。

この一連の状況を冷静に、そして的確に分析したアカバネミワ(仮名)は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そしてまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながらこう言ったのだ。

「あんた、ウンコッタレしたでしょう」

初めて味わう絶望感、そしてとりかえしのつかないであろう人生。薄れゆく意識の中で、今までの華やかな想い出のシーンが走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていった。血の気が失せるとは、まさにこのことを言うのだろう。

遠くで皆の「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」という声が聞こえる。それからどのように過ごしたかは覚えていない。

オレは家に帰るとすぐ母に抗議した。「なぜパンツを皆のいる教室で返却したのだ? 母たるもの、息子の社会的地位を脅かすような行動は極力慎むべきではないのか? こういうものは誰にも気づかれないよう、職員室にそっと届けるべきではないのか? 子供なんてわかりゃしないと、なめてかかってはいけない。子供には子供の社会というものがあるのだ」と、(子供語で)訴えた。

が、ボキャブラリーの少ない子供が涙まじりに発する言葉など大人に伝わるものではなかった。「まあ、トオル君が開けちゃったの。お行儀の悪い子ねえ。あなたはそんなことしちゃダメよ」。なんかズレてる。オレが言いたいのはそんなことじゃないんだ。「アカバネミワちゃんもみんなも、明日になれば忘れてるわよ」。これも論点のすり替えである。

が、子供のオレは昨年の屁の一件のこともあるし、そんなもんかと気をとりなおした。そして、くすぶる不安をほのかな希望に変え、翌日もいつものように幼稚園に向かったのだった。

朝。元気に教室の引き戸を開けたオレを待っていたのは、奴だった。そう、アカバネミワ(仮名)である。奴は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そして昨日と同じようにまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながら今日もこう言ったのだ。

「あんた、ウンコッタレしたでしょう」

ほんのひと握りの希望の灯がいま、消えた。「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」クラス中が一斉に事件を思い出し、その日もオレをはやし立てたのであった。

●エピソード3/暗黒編

だがそれは、悪夢のほんの幕開けにすぎなかった。それからのオレは毎日アカバネミワ(仮名)の執拗な攻撃を受け続けることになる。毎日毎日、くる日もくる日もウンコッタレと言われ続けたのだ。それは、梅雨の季節から翌年の春まで、休日以外毎日続いた。

夜になるのが怖かった。寝てしまえばすぐ、朝が来る。朝になればまたアカバネミワ(仮名)のいる幼稚園に行かなければならないのだ。助けを求めようとしたこともあった。だが、そうしたところでアカバネミワ(仮名)の攻撃がより陰湿になっていくであろうことは明白だった。

耐えるしかなかった。ただじっと、耐えるしかなかったのである。五歳にして到達した諦めの境地に、オレは社会とは何かを学んだのだった。

以上、ヘクソカズラさんに捧げる、幼年期の想い出話でした。五歳の子供にとっての社会とは、そのまま幼稚園のことを指します。なのでその年頃の子供をもつお父さん、お母さん。決して、決して子供だからといい加減に接してはいけません。企業に、サル山に、階級と規則があるように、子供社会にもそれは歴然と存在しているのです。

三十路も半ばをすぎた息子から、当時の恨み言を聞かされるのは嫌なものでしょう。そうならないためにも、子供の立場に立って導いてあげてください。ちなみに、先日この想い出話を語り聞かせたところ、母はこう言いました。「あら、そんなに大変だったの。それはお気の毒」

[齋藤浩]saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
>

●エピソード4/新たなる希望

翌4月。近所の公立小学校へ入学したオレのクラス名簿には、アカバネミワ(仮名)の名前は、なかった。嗚呼、アカバネミワ(仮名)のいない環境。アカバネミワ(仮名)のいない時間。アカバネミワ(仮名)のいない人生。生きるって素晴らしい。心の底からそう思う、齋藤浩、六歳の春だった。

つづく

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■イベント案内
デジクリ主催「クリエイターの夢 実現に向けて」吉川惣司+川口孝司
< https://bn.dgcr.com/archives/20070629140100.html
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吉川惣司/東京都出身のアニメ監督、脚本家、演出家、アニメーター、舞台演
出家。
ルパン三世 ルパンVS複製人間
太陽の牙ダグラム
装甲騎兵ボトムズ(TV・劇場・OVA版)
星のカービィ
あしたのジョー
ガンバの冒険
タイムボカン
天才バカボン
国松さまのお通りだい
荒野の少年イサム
侍ジャイアンツ
エースをねらえ!
ムーミン
ルパン三世(TV第1シリーズ)
ベルサイユのばら
ゼロテスター
星の子チョビン
ラ・セーヌの星
勇者ライディーン
UFO戦士ダイアポロン
ろぼっ子ビートン
大空魔竜ガイキング
おれは鉄兵
惑星ロボ ダンガードA
超合体魔術ロボ ギンガイザー
無敵超人ザンボット3
無敵鋼人ダイターン3
未来少年コナン
ザ☆ウルトラマン
サイボーグ009
マルコ・ポーロの冒険
名犬ジョリィ
ゲームセンターあらし
戦闘メカ ザブングル(TV・劇場版)
太陽の子エステバン
子鹿物語
機甲界ガリアン(TV・劇場版)
ワンダービートS
ボスコアドベンチャー
シティーハンター
ビット・ザ・キューピッド
MONKEY MAGIC
SF新世紀レンズマン
マザー 最後の少女イヴ
沈黙の艦隊
鉄腕アトム
孫悟空が始まるよー
悟空の大冒険
ミュンヘンへの道
白い牙・ホワイトファング物語
スペース・オズの冒険 ほか詳細は以下
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=12829727
>

川口孝司/アニメプロデューサー、ゲームプロデューサー。ポケットモンスターイベント立案・実行。映画の巻頭に流れるCMのプロデュースなど。
< http://www.nintendo.co.jp/nom/0007/kawaguti/
>
< http://www.jmdb.ne.jp/person/p0562580.htm
>

<イベントを仕切っている山本氏から>

吉川惣司氏は制作中のアニメ、手塚治虫氏原作「ブッダ」の脚本執筆の合間を縫ってイベント当日の準備をされているとの事でした。業界を目指す人への辛口な講演内容もあると聞いてます。こちらが考えている質問は「この道に進むきっかけ」「若手時代の苦労話」「希望、夢」「現在のプロジェクト紹介」「これから業界を目指す人へのメッセージ」です。前情報によると、お二人共にウケ狙いな方なので講演内容も、娯楽性充分だと思います。参加者からの質問も受付けて、濃い内容にしたいと思っています。

交流会を利用してのイベントもかなり楽しいものになりそうです。FF(ファイナルファンタジー)で有名な「スクウェア・エニックス」になる前のスクウェア時代出身の天才プログラマーな方も参加されます。アニメとゲーム業界にて中心的役割な方々に知れ渡っている人です。そんな発明家さんが現在開発中の娯楽性の高い、ド肝を抜くゲーム用プログラムによるネットセッションを行う事になりそうです。そのセッションにはメイドさんを起用する予定です。

p.s.吉川惣司氏については、ボトムズも有名ですが「太陽の牙ダグラム」のキャラデザインをやった人って言うのが、私の世代45歳前後の方々には解りやすいかな?

日時:7月13日(金)18:00〜20:30
会場:扇町インキュベーションプラザ メビック扇町(大阪市北区南扇町6-28水道局扇町庁舎2階)
< http://www.mebic.com/access/
>
入場料:4,000円(交流会費2,000円含む)
内容:ゲーム・アニメ等、デジタルエンターテインメントのクリエイターが進めているプロジェクト事例や経緯、裏話などを対談形式で紹介。制作中の手塚治虫アニメ「ブッダ」、音楽をテーマにしたオンラインゲーム「クロスロード(仮)」、バーチャルライブ合成システム「なれるんです・あなたも主役(仮)」などを紹介。

お申し込み・問い合わせ:デジタルクリエイターズ 山本修までメールにて。
< mailto:osamuchi@ca3.so-net.ne.jp >
※名前(漢字・ふりがな)・住所・連絡先TEL・E-mailアドレス・勤務先(任意)を明記の上、お送りください。

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■編集後記(7/12)

・どこかで読んだか聞いたかしたのだが、もっとも公共マナーが悪いのは年寄りの男だという。毎日それを実感している。一日三回の「わんぽ」で、とくに朝と夜は通りに面した歩道を行くが、そのとき必ず自転車乗りに不快な思いをさせられる。その歩道は、道路の反対側は土手なので住宅側の片方にしかない。道路の交通量はけっこうあるので、とくに土手側を走るのは危険がともなう。だから、自転車は歩道を走るほうが多い。夜など、後ろから近づいてくる自転車に気づいて(ほとんどが無灯火)、こっちが道をゆずることが多いが、気がつかずにヒヤっとすることも少なくない。なにしろ伸びたリードの先には犬がいる。あわてて手前に引き寄せなければいけない。なぜ歩道でこんな不自由な目にあうのだ? まあ、道路事情で仕方がないのだが、いちおう歩道の主役である歩行者や犬に遠慮して走るのが自転車乗りのマナーだろう。うしろからベルを鳴らしてこちらをよけさせて、挨拶するでなしに無言で走りさる連中には腹が立つ。それでも半数くらいは軽く会釈するか、すみませんと小声で言うのだが、歩行者を邪魔者のようにどかしてこっちを見もしないのは間違いなく、不機嫌な顔した年寄りの男だ。いま問題のモンスターペアレンツを育てたのは、そんなじいさんに違いない。(柴田)

・齋藤さん、読ませるわ〜。/ひどい話を聞いた。昔は暴力団事務所の入り口には破門状を貼っていたらしいが、それが欲しいと思ってしまった。Aさんは、知り合いのDさんを介して知ったBさんに誘われて、Bさんの会社で社員扱いの勤務をする。Aさんには奥さんと幼児がいる。ひと月後、もらったのは封筒に入った5万のみ。交通費なし。見習いでももう少し貰えるだろう。だが見習いで入ったわけではなく、ほかにWebサイトを作れる人はおらず、Bさんは営業畑で知識がないため、電話応対や打ち合わせまでこなしてこれ。それですぐAさんもやめればいいのに、もうひと月頑張ってみようと我慢した。大手企業サイトのあるコーナー、千ページを一週間で作らされた。徹夜続きだったそうな。で、Bさんの会社からAさんがもらったのは3万。同じフォーマットのものを千作ったのだとは予想できるが、30万でも安いと思う。あまりにもひどいと思ったAさんは、その大手企業の担当者に(だって打ち合わせしているのは彼だし)実は3万しかもらえなかった納期のきつい仕事でしたと話してみた。担当者は驚き、出した金額は100万で、それも随分前に依頼済みとのこと。AさんはBさんのところを三ヶ月たたずにやめたが、最後の月のお給料はもらえていないらしい。この話はAさんBさんともに知っているCさんから聞いた。CさんはAさんに労働基準局に相談した方がいいと話しているが、Aさんはその気力すら今はないという。入る時に細かな条件を決めなかったAさんも悪いけれどと言うにはあまりにも、である。/Bさんの会社から、大手企業の新聞折り込み広告B2版のデザインをやってくれないかと打診されたEさん。プレゼンのようだが、B2両面、5パターンを8千円で、納期一週間とのこと。速攻断ったEさん。そんな金額でやれる人はいないとBさんに話したそうだが……。まだBさんが業界にいると聞いて腹が煮えくり返る。良心の呵責すらないらしい。/しつこいようだがイベントよろしくです! ど真ん中世代の人も、そうでない人も来てね!(hammer.mule)
< https://bn.dgcr.com/archives/20070629140100.html
> イベント