映画と夜と音楽と…[344]夢を見ること・祈ること/十河 進

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絆●見終わってわかる冒頭の男の心情

その映画が始まってすぐ、男は街角のビルの屋上にある巨大なビルボードの美しい女を見つめている。男の表情は淡々としている。何の感情も表してはいない。だが、じっと見つめる男の気持ちが伝わってくる。なぜ見つめているのか、どう思っているのかはわからない。ただ、見つめないではいられない男の心が伝わってきた。

二時間後、すべての物語を見終えたとき、冒頭の男の心情が強く身に迫ってきた。激情である。熱い心が男の中に渦巻いていたのだと、二時間の物語が理解させる。近寄ってはいけない、もちろん名乗ることなどあり得ない、だが、その女をどんなことがあっても守り抜く、と言い聞かせる切なさが男の中に渦巻いていたのだと、改めて迫ってくる。胸かきむしられる想いに震える。

その巨大なポスターに写っていた美しいヴァイオリニストのコンサートに、ある決意をした男は初めて赴く。二十年ぶりに間近で見る美しく成長したヴァイオリニストの弾く音楽は、男を郷愁に導く。美しい瀬戸内の海辺を、父親と母親と少年と妹が歩いていく。ただそれだけの映像が、深い絆を伝えてくる。


生き別れになっていた妹の弾く曲が、彼に幼い頃の黄金の日々を甦らせたのだ。夢のように幸福だった日々…。コンサートで初めて妹の生の演奏を聴いた後、男は独り言のように言う。

──人間が他の動物と違うのは、夢を見ることと祈ることができることだと、昔、教えてくれた人がいる。

遠雷センチメンタル・ハードボイルドというジャンルがある、と僕は昔から思っているのだが、「絆」(1998年)を見たときに改めて実感した。「絆」は「遠雷」(1981年)で僕のお気に入り監督になった根岸吉太郎監督が五年ぶりに作った映画だった。根岸監督にしては珍しいハードボイルド作品である。

映画は、役所広司のバストアップで始まる。望遠レンズで捉えられているので、背景はボケていて、中年男の淡々とした表情だけを捉える。彼が見ていたものが次のカットだ。ビルの屋上のビルボード。天才ヴァイオリニストが写っている。彼女を演じたのが、美人ヴァイオリニストで話題だった川井郁子である。

川井郁子は、この映画に出演したのがきっかけなのだろうか、その後、NHK-BSの映画紹介番組のレギュラーになり、番組の最後に様々な映画音楽をヴァイオリンで弾いて愉しませてくれた。ただし、「絆」では演技をするシーンがあり、その演技力を見る限り二度と映画出演の依頼がこないのは当然だと思う。

しかし、役所広司のうまさはさすがだと思う。ほとんど内面を表さない表情を通しながら、彼の内側に渦巻いている激情を見る者に伝えるのだ。僕は役所広司の映画は八割方見ていると思うが、「うなぎ」(1997年)や「赤い橋の下のぬるい水」(2001年)に比べても「絆」の演技がベストだと思う。映画を見終わったとき、ファーストシーンの役所広司の顔が浮かんでくる。

●ハードボイルドが感傷に充ちていてなぜ悪い

今年、ひょんなことで大沢在昌さんと対談したときに「ハードボイルドとは何なのか」という話題になった。現在、ハードボイルド作家と言えば第一人者として大沢さんの名前があがる。大沢さんはエッセイにもよく書いているが、つまるところ「惻隠の情」だと言う。

「惻隠の情」を辞書で引くと「憐れみ、悼むこと。同情すること」と出ている。僕はどちらかと言えば「シンパシー」という言葉を連想した。「共感」あるいは「感情移入」である。昔、僕が気に入ってよく使っていた「感情、入ったよ」というニュアンスだ(2002年6月14日号「感情、入ったよ」参照)。
< http://bn.dgcr.com/archives/20020614000000.html >

そのときに僕は、昔読んだ船戸与一さんのエッセイを思い出した。それは「レイモンド・チャンドラー読本」(早川書房)に収められているもので、「チャンドラーがハードボイルド小説を堕落させた──自己憐憫。自己韜晦。そして諦念」というチャンドラー批判の文章である。

山猫の夏 (講談社文庫)ハメット派(船戸さんの「山猫の夏」はハメットの「血の収穫」へのオマージュだと思う)であることが歴然としている船戸さんだから、この文章には大変な説得力があった。「そうだよなあ、マーロウは感傷的だし、自己憐憫だよなあ」と僕も思った。その船戸さんの文章は挑戦的に終わっていた。

──この反論は若きチャンドラリアン、大沢在昌から聞こう。なるべく早くミステリマガジン誌上でチャンドラー賛歌を唄ってみてくれ。

この話を大沢さんにしたところ「あのとき、生島治郎さんに会ったら『今度、船戸に会ったら言っとけ。感傷のどこが悪いってな』と言ってました」という話を披露してくれた。そのとき、僕は「そうなんだ」と目の前が晴れる気がした。さすが、日本で最初にハードボイルド小説で直木賞を獲得した大家である。

「レイモンド・チャンドラー読本」は、1988年9月に出ている。その文章の説得力は僕をずっと支配してきた。僕は船戸さんの文章を読んで以来、チャンドラーが好きだと言うのに、どことなく後ろめたさを感じてきた。それを生島さんのひと言が救ってくれたのである。

ロング・グッドバイ今年、村上春樹さんがチャンドラーの「ロング・グッドバイ」の新訳を出し、新しくチャンドラーを読む人が増えているらしい。僕は村上さんの背後にチャンドラーの影をずっと感じていた読者だが、それだからこそ村上春樹の愛読者であり続けた。感傷、甘さ、センチメンタリズム、それらが村上春樹作品の魅力の核にあるし、チャンドラー作品を輝かせているものなのだ。

ところで「ソゴーさんは、やっぱりハードボイルドとは『やせ我慢』ですか」と大沢さんに問いかけられ、「そうですね。多情多恨の心をやせ我慢で包み込む…、これがハードボイルドの神髄だと思います」と僕は答えた。それは、少年の頃に読んだ生島治郎さんの作品群から教えられたものである。

だから、そこには感傷があり、情がある。そんな自分の感情をじっと押し込め、抑制して生きている。ハードボイルドの主人公は、結局のところ、リアリストにはなれないし、どこかロマンチストなのだ。彼は夢を棄てきれないのである。「絆」の主人公を演じた役所広司は、そんなハードボイルド・ヒーローをセンチメンタルにクールに演じてくれた。

●人を愛しているが故に起こる犯罪に共感する

伊勢は企業舎弟と呼ばれる商事会社の社長だ。債権の回収や金融の闇社会で生きている。ヤクザの組の資金調達をやっている。青年時代からの友人は完全にヤクザとして生きていて、「俺だけ安全なところにいて悪いな」と伊勢は思っている。彼は自分を肯定してはいない。生きていることにもこだわらない雰囲気がある。

そんな彼は、社長室に焼けこげがある地球儀を置いてある。ペルーのところだけが朱色に塗られている。それが彼にとっての夢の象徴なのだ。彼は何かあるとその地球儀を拭いていて、秘書に「社長にとってとても大事なものなんですね」と言われる。

伊勢は少年の頃、母親とふたり、非道な父親から逃げた。母親は逃げた土地で優しい船医と出会う。船医は前夫に金を渡して縁を切らせ、伊勢は初めて自分を愛してくれる父を持つ。彼は伊勢に様々なことを教えてくれる。地球儀をくれたのも義父だった。人間が他の動物と違うのは「夢を見ることと祈ること」だと教えてくれたのも義父だった。

瀬戸内の海辺の街で幸せな日々が過ぎていく。やがて妹が生まれる。しかし、あるとき、遠い海の上で義父が病死する。その後、母親が家に放火して自殺する。まだ中学生だった伊勢は幼い妹を抱き、地球儀を持って逃げ出す。そのとき、耳の後ろに火傷を負う。

ふたりは施設にあずけられる。音感の良さを見出された妹は音大教授の夫婦の養女になる。伊勢には弟と妹のような施設仲間ができる。その仲間をいじめた中学生たちとケンカになり、相手を誤って死に至らしめたことで少年院送りになる。やがて、伊勢はヤクザとしてしか生きられない男になった。しかし、頭のキレのよさを買われて今は企業舎弟として生きている。

妹と別れて二十年。美しく成長した彼女は、世間の注目を集める才能豊かなヴァイオリニストだ。伊勢は妹のすべてのCDを買って何度も何度も聴いている。だが、コンサートにいくことを自分には許さない。自分のようなヤクザが兄だとわかったら…、彼は自分を許すことができないだろう。

だが、ある夜、施設時代に妹のように可愛がっていた千佳子に街で見かけられたことから悲劇が始まる。犯罪が起こり、過去が甦る。封印していた伊勢の過去には何があったのか…、と物語は進展していく。犯罪が起こってからは、追う者の側からの描写が増える。追う者を演じたのは、渡辺謙である。警視庁のはみ出し刑事を演じた。

渡辺謙が事件の全容をほぼ把握し、伊勢の妹の婚約者(大財閥の御曹司)と妹に会いにいくシーンがある。そのとき「今となっては事件の犯人に何の関心もない」と言う婚約者に一介の刑事が憤然と反論するのである。

──もしこの事件が、あなたと同じく薫さんを心から愛していて、しかし、あなたほどには力がない、そんな弱い愚かな人間が自分の一生や生命を投げ出してまで彼女を守ろうとして起こしたものだったとしたら、あなたはどう思われますか。

その後、「あなたはこの事件を忘れるべきではない」と彼は火を噴くように言う。このとき、刑事の心境は犯罪者と同じところにある。彼は犯人に強烈なシンパシー、あるいは惻隠の情を感じているのだ。だからこそ、彼は刑事でありながら、伊勢の最後の賭けを影ながら見守るのである。

妹を守り、仲間を救い、事実が明るみに出ないたったひとつの方法…、そのために伊勢は自らの命を賭ける。それでもいつか、義父が話してくれた南米ペルーへいくという夢を諦めず、彼は疾走する。自己犠牲、夢と祈り、ゆがんでしまった理不尽な運命……

海は涸いていた (新潮文庫)これをセンチメンタル・ハードボイルドと言わずして何と言う。白川道の原作「海は涸いていた」も、淡々とした描写の中から伊勢の激情が浮かび上がってくる仕掛けになっている。僕は、読み始めたらやめられなくなった。ほほを涙が伝った。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
左肘が腫れて痛みで腕全体が痺れるほどになった。関節を覆っている膜が炎症を起こしていると、駆け込んだ警察病院の医者に言われた。警察病院には初めていったが、いきなり「警察関係者ですか」と確認されたのには驚いた。そう思って見渡すと、前にいる人は柔道でもやっていそうな、いかにも刑事ですオジサンだった。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
おすすめ平均 star
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 夜の来訪者 映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365 (朝日文庫) ロング・グッドバイ 「愛」という言葉を口にできなかった二人のために



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天使の爪 上 (1) (角川文庫 お 13-25)
大沢 在昌
角川書店 2007-07
角川文庫から発売になった大沢在昌さんの「天使の爪」上下巻に解説を書かせていただきました。四百字で11枚ほども書いたのに、もう少し書きたいことがあります。もっとも読者は、くどい解説は迷惑でしょう。「天使の牙」「天使の爪」と続くシリーズは、読み始めたらやめられないことは保証します。


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小説宝石 2007年 07月号 [雑誌]
光文社 2007-06-22
小説宝石」7月号に大沢在昌さんとの対談が載りました。「ハードボイルドがなければ生きていけない」というタイトルです。大沢さんの話の間に僕が「そうですね」と言っているだけのような対談ですが、大沢さんの映画やミステリへの愛がうかがえて面白いですよ。



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役所広司 渡辺謙 麻生祐未
東宝 2004-06-25
おすすめ平均 star
star役所広司版東宝ヤクザ映画



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レイモンド・チャンドラー読本―チャンドラー生誕100年記念
早川書房 1988-09
おすすめ平均 star
starチャンドラリアンならば

レイモンド・チャンドラー語る 改装版 フィリップ・マーロウ―世界の名探偵コレクション10〈10〉 レイモンド・チャンドラーの生涯 待っている  チャンドラー短編全集 (3)   創元推理文庫 (131‐5) ハメットとチャンドラーの私立探偵

by G-Tools , 2007/09/07