●兵士たちに愛されたセクシー女優
「ショーシャンクの空に」(1994年)は人気のある映画だが、その原作も人気作家スティーヴン・キングの中編「刑務所のリタ・ヘイワース」である。原作の邦題はネタを割っているところがあり、その予測できる結末に向かってストーリーが語られていく。
「ショーシャンクの空に」の主人公アンディは無実の罪で三十年に及ぶ刑務所暮らしを余儀なくされるが、その壁には常に女優のポスターが貼られている。最初は「ギルダ」(1946年)のリタ・ヘイワース、そして年月が経ったことを示すために、後半は「恐竜100万年」(1966年)のラクエル・ウェルチになる。
刑務所で「ギルダ」が上映される場面があり、リタ・ヘイワースが初めて登場するシーンで囚人たちが騒然となった。「ミー?」とか言いながら長い金髪(実際は赤毛だが金髪に染めていたと思う)を掻き上げるように上半身をくねらせて登場する。美しい肢体を胸元が大きく開いたロングドレスが強調する。
「ショーシャンクの空に」(1994年)は人気のある映画だが、その原作も人気作家スティーヴン・キングの中編「刑務所のリタ・ヘイワース」である。原作の邦題はネタを割っているところがあり、その予測できる結末に向かってストーリーが語られていく。
「ショーシャンクの空に」の主人公アンディは無実の罪で三十年に及ぶ刑務所暮らしを余儀なくされるが、その壁には常に女優のポスターが貼られている。最初は「ギルダ」(1946年)のリタ・ヘイワース、そして年月が経ったことを示すために、後半は「恐竜100万年」(1966年)のラクエル・ウェルチになる。
刑務所で「ギルダ」が上映される場面があり、リタ・ヘイワースが初めて登場するシーンで囚人たちが騒然となった。「ミー?」とか言いながら長い金髪(実際は赤毛だが金髪に染めていたと思う)を掻き上げるように上半身をくねらせて登場する。美しい肢体を胸元が大きく開いたロングドレスが強調する。
「ギルダ」は、徹底的にリタ・ヘイワースのセクシーさを強調した映画だ。どう登場させればリタが美しく扇情的なのか、監督はそのことだけに腐心したに違いない。また、衣装デザインの担当者はギルダに着せるドレスが、どれだけリタの肢体を際立たせるかだけを考慮した。
スタッフがよってたかってリタ・ヘイワースをハリウッド一のセクシー女優に仕立て上げた結果、「ギルダ」は伝説になった。映画の主人公ジョニー(グレン・フォード)がギルダの虜になるのと同じように、観客(特に男たち)を夢中にさせた。
もっとも、「ギルダ」が公開される以前からリタ・ヘイワースはセクシー女優で売っていて、第二次世界大戦に従軍したアメリカ兵士はリタ・ヘイワースのピンナップを兵舎に、そしてヘルメットの裏に貼っていた。水兵たちには「一緒に沈没したい赤毛」と呼ばれた。
川本三郎さんの「ハリウッドの黄金時代」によれば、「ライフ」1941年8月号は黒いネグリジェ姿のリタ・ヘイワースを表紙にしたという。この号はGIたちの間でひっぱりだこになり、同年、海外にいるGIたちが選ぶ「故国のグラマー女優ナンバーワン」に選ばれた。
「ギルダ」は、その兵士たちが帰還した頃に公開され、絶大な人気を博した。「ギルダ」は、典型的なファム・ファタールものである。運命の女に出逢い、破滅していく男。だが、男たちはリタ・ヘイワースのような「夢の女」となら破滅してもかまわないと思ったのだ。
アルゼンチンの都市に流れ着いたジョニーは、ナイトクラブを経営するアメリカ人に拾われる。ジョニーは頭角を現し重用される。しかし、ボスの妻であるギルダに魅了され、官能の罠に墜ちる。ギルダはジョニーに気のある振りを見せながら挑発するように男たちと踊り、ジョニーの嫉妬を煽る。
●運命の女によって破滅していく男たち
「ギルダ」は、古くから「カルメン」や「マノン・レスコウ」などで描かれた奔放なヒロイン像である。リタ・ヘイワースも自分のキャラクターを生かすのはファム・ファタールだと思ったのだろう、「カルメン」(1948年)や「雨に濡れた欲情」(1953年)「情炎の女サロメ」(1953年)など、似たような役を演じた。
「雨に濡れた欲情」は、サマセット・モームの代表作「雨」を原作としたもので、厳格な宣教師が蠱惑的な娼婦に魅せられ愛欲の世界に堕ちていく物語である。観客は、リタ・ヘイワースが演じたヒロインとなら堕ちるところまで堕ちてもいい、と納得したに違いない。
リタ・ヘイワースには「男を破滅させる女」のイメージがついてまわる。「ギルダ」の中でも、ナイトクラブで挑発的に歌い踊るリタ・ヘイワースの姿は鮮明に目に焼き付けられる。男を破滅に導く官能的な罠なのである。ジョニーは嫉妬に狂う。だが、彼にとってギルダは「夢の女」なのだ。たとえ、破滅しても手に入れたい「夢の女」…
幸いにしてと言うべきか、不幸にしてと嘆くべきかわからないが、僕は五十年を越える人生で、そういう女性とはまったく縁がなかった。どちらかと言えば昔から「カルメン」とか「マノン・レスコウ」といった物語が好きではなかったのだ。
十代で愛読した海外ミステリには妖婦ものや悪女ものが多かったけれど、それはまったく絵空事のように思えた。現実感がまったくなかった。しかし、長く生きていると、何となくそういう男の心情が想像できるようになる。時には、衝動的に破滅したくなることもあるのだ、とわかってくる。
レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の中で、フィリップ・マーロウが「夢の女」と形容する女が登場する場面がある。その女は、マーロウが人と待ち合わせているバーに入ってくるのだ。その後に、具体的な女の描写が続く。
その「夢の女」というフレーズが、最初に「ロング・グッドバイ」を読んで以来、僕の頭の隅に残っている。男にとって「夢の女」とは何なのだろう、と僕は考えてきた。それは、僕にとっての「夢の女」とは何なのか、と考えることとは微妙に違っていた。
僕は「理想のタイプは?」などと問われると返答に困る。「そんなものはわからない」と言うしかない。もしかしたら、今まで僕が好意を持った女性を分析すると、ある特定のパターンが出るのかもしれないが、それが僕の理想のタイプではない。常に、僕は目の前に存在する現実の女性を好きになったり、嫌いになったりしてきた。
つまり、僕には「夢の女」がいないのだ。そして、男たちが思う「夢の女」とは現実に存在しない女のことだと僕は思う。もし、彼が夢想した「夢の女」が目の前に現実に現れたとしたら、その瞬間からその女は「夢の女」ではなくなるだろう。夢は、常に見果てぬ夢なのである。
●オーソン・ウェルズにとってのリタ・ヘイワース
「市民ケーン」(1941年)を作った天才オーソン・ウェルズにとって、もしかしたらリタ・ヘイワースは「夢の女」だったのかもしれない。1943年から1947年までふたりは夫婦であり、その間、リタ・ヘイワースは女の子をひとり産んでいる。
ということは、「ギルダ」の撮影中も公開された頃も、ふたりは結婚していたのだ。そして、離婚の年、1947年にはオーソン・ウェルズはリタ・ヘイワースをヒロインにして「上海から来た女」を作る。
あれは、いつの頃だったろう。まだ銀座に日劇文化という映画館があった頃だ。アート・シアター・ギルド(ATG)映画を上映する常設館だった。上階は日劇ミュージック・ホールだったと思う。新しいビルが建つと、昔のことはわからなくなってしまうけれど、たぶん今の有楽町マリオンの場所だった。
「オーソン・ウェルズが愛妻を出演させた幻の映画」という触れ込みで、「上海から来た女」が日劇文化で公開され、その頃はまだ愛妻(?)だったかもしれないうちのカミサンと見にいった。そのときのポスターには「伝説のミラーフォーカス」というキャッチフレーズが書いてあった。
「ミラーフォーカス」というフレーズには笑った。「市民ケーン」は映画史的には「パンフォーカス」手法を使ったことで有名だ。手前から奥まで画面のすべてにフォーカスが合っていることを指す。しかし、「ミラーフォーカス」という言葉はない。
「上海から来た女」はミステリであり、最後に遊園地での追跡劇になる。鏡の部屋に逃げ込んだ主人公に向かって拳銃が発射される。その鏡の部屋の場面は、確かに魅力的だった。向かい合う鏡の前に立てば主人公の姿は無限に映り込む。何人ものリタ・ヘイワースが映り、どれが実像かもわからない。銃弾は鏡を破壊し、鏡像が崩れ落ちる。
技術的なことで言えば、鏡ばかりの部屋で死角はないのだから、確かに撮影するキャメラの位置を探すのは大変だったろう。だからといって「ミラーフォーカス」などという言葉を作るのはおかしいと僕は思った。思ったけれど、映画自体はトリッキーで印象に残った。
その映画を見ていると、オーソン・ウェルズのリタ・ヘイワースに対する愛憎が伝わってくるようだった。キネマ旬報社刊「オーソン・ウェルズその半生を語る」によると、二年ほど別居していたふたりはこの映画でしばらくよりが戻ったという。
リタ・ヘイワースは、二度目の夫オーソン・ウェルズと別れ、インドの大富豪アリ・カーンと結婚したが、結局二年で離婚する。その後、歌手のディック・ヘイムス、プロデューサーのジェイムス・ヒルと結婚し別れる。彼女は五回の結婚と離婚を経験した。
1961年に離婚後、1987年5月14日に亡くなるまで、彼女の結婚歴はない。最後に僕が見たリタ・ヘイワースは「サンタマリア特命隊」(1972年)だった。五十代半ばになっていた。その後、当時はまだ耳慣れない病名だった「アルツハイマー」で死亡したことによって話題になるまで、彼女の名は忘れられたものになっていた。
リタ・ヘイワースの言葉として有名なのは「男たちはギルダと寝て、私と目覚める」というものだ。この言葉は、「ノッティングヒルの恋人」(1999年)でジュリア・ロバーツが引用していた。主人公の書店主ヒュー・グラントが初めて人気女優アナと寝た翌日のベッドの上の会話だった。
リタ・ヘイワースがこの言葉を口にしたとき「男たちは『夢の女』ギルダであることを自分に望んでいるだけだ」という苦い認識に基づいていたのだろうか。あるいは、男たちが願う「夢の女」などはいない。生身の、現実のリタ・ヘイワース、本名マルガリータ・カルメン・キャンシノという女が生きているのだ、という主張なのだろうか。
男と女の思いはいつもすれ違う。リタ・ヘイワースが何人もの男と結婚を繰り返したのは、男たちが彼女に「夢の女」であることを望んだから…、マルガリータ・カルメン・キャンシノを愛してくれる男は、ついに現れなかった。しかし、そんなことも含めてすべてを忘れアルツハイマーで死んでいったことを思うと、改めてハスキーヴォイスで歌い踊る「ギルダ」の彼女を見たくなる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
三連休が続くと、それがスタンダードになり、週五日間の出勤が辛くなります。週休三日あると、一日ぐったりして映画を見たり本を読んだりして過ごし、一日は原稿を書き、一日は部屋の掃除をしてゴルフ練習して…と、実に健全です。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
角川文庫から発売になった大沢在昌さんの「天使の爪」上下巻に解説を書かせていただきました。四百字で11枚ほども書いたのに、もう少し書きたいことがあります。もっとも読者は、くどい解説は迷惑でしょう。「天使の牙」「天使の爪」と続くシリーズは、読み始めたらやめられないことは保証します。
小説宝石」7月号に大沢在昌さんとの対談が載りました。「ハードボイルドがなければ生きていけない」というタイトルです。大沢さんの話の間に僕が「そうですね」と言っているだけのような対談ですが、大沢さんの映画やミステリへの愛がうかがえて面白いですよ。
スタッフがよってたかってリタ・ヘイワースをハリウッド一のセクシー女優に仕立て上げた結果、「ギルダ」は伝説になった。映画の主人公ジョニー(グレン・フォード)がギルダの虜になるのと同じように、観客(特に男たち)を夢中にさせた。
もっとも、「ギルダ」が公開される以前からリタ・ヘイワースはセクシー女優で売っていて、第二次世界大戦に従軍したアメリカ兵士はリタ・ヘイワースのピンナップを兵舎に、そしてヘルメットの裏に貼っていた。水兵たちには「一緒に沈没したい赤毛」と呼ばれた。
川本三郎さんの「ハリウッドの黄金時代」によれば、「ライフ」1941年8月号は黒いネグリジェ姿のリタ・ヘイワースを表紙にしたという。この号はGIたちの間でひっぱりだこになり、同年、海外にいるGIたちが選ぶ「故国のグラマー女優ナンバーワン」に選ばれた。
「ギルダ」は、その兵士たちが帰還した頃に公開され、絶大な人気を博した。「ギルダ」は、典型的なファム・ファタールものである。運命の女に出逢い、破滅していく男。だが、男たちはリタ・ヘイワースのような「夢の女」となら破滅してもかまわないと思ったのだ。
アルゼンチンの都市に流れ着いたジョニーは、ナイトクラブを経営するアメリカ人に拾われる。ジョニーは頭角を現し重用される。しかし、ボスの妻であるギルダに魅了され、官能の罠に墜ちる。ギルダはジョニーに気のある振りを見せながら挑発するように男たちと踊り、ジョニーの嫉妬を煽る。
●運命の女によって破滅していく男たち
「ギルダ」は、古くから「カルメン」や「マノン・レスコウ」などで描かれた奔放なヒロイン像である。リタ・ヘイワースも自分のキャラクターを生かすのはファム・ファタールだと思ったのだろう、「カルメン」(1948年)や「雨に濡れた欲情」(1953年)「情炎の女サロメ」(1953年)など、似たような役を演じた。
「雨に濡れた欲情」は、サマセット・モームの代表作「雨」を原作としたもので、厳格な宣教師が蠱惑的な娼婦に魅せられ愛欲の世界に堕ちていく物語である。観客は、リタ・ヘイワースが演じたヒロインとなら堕ちるところまで堕ちてもいい、と納得したに違いない。
リタ・ヘイワースには「男を破滅させる女」のイメージがついてまわる。「ギルダ」の中でも、ナイトクラブで挑発的に歌い踊るリタ・ヘイワースの姿は鮮明に目に焼き付けられる。男を破滅に導く官能的な罠なのである。ジョニーは嫉妬に狂う。だが、彼にとってギルダは「夢の女」なのだ。たとえ、破滅しても手に入れたい「夢の女」…
幸いにしてと言うべきか、不幸にしてと嘆くべきかわからないが、僕は五十年を越える人生で、そういう女性とはまったく縁がなかった。どちらかと言えば昔から「カルメン」とか「マノン・レスコウ」といった物語が好きではなかったのだ。
十代で愛読した海外ミステリには妖婦ものや悪女ものが多かったけれど、それはまったく絵空事のように思えた。現実感がまったくなかった。しかし、長く生きていると、何となくそういう男の心情が想像できるようになる。時には、衝動的に破滅したくなることもあるのだ、とわかってくる。
レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の中で、フィリップ・マーロウが「夢の女」と形容する女が登場する場面がある。その女は、マーロウが人と待ち合わせているバーに入ってくるのだ。その後に、具体的な女の描写が続く。
その「夢の女」というフレーズが、最初に「ロング・グッドバイ」を読んで以来、僕の頭の隅に残っている。男にとって「夢の女」とは何なのだろう、と僕は考えてきた。それは、僕にとっての「夢の女」とは何なのか、と考えることとは微妙に違っていた。
僕は「理想のタイプは?」などと問われると返答に困る。「そんなものはわからない」と言うしかない。もしかしたら、今まで僕が好意を持った女性を分析すると、ある特定のパターンが出るのかもしれないが、それが僕の理想のタイプではない。常に、僕は目の前に存在する現実の女性を好きになったり、嫌いになったりしてきた。
つまり、僕には「夢の女」がいないのだ。そして、男たちが思う「夢の女」とは現実に存在しない女のことだと僕は思う。もし、彼が夢想した「夢の女」が目の前に現実に現れたとしたら、その瞬間からその女は「夢の女」ではなくなるだろう。夢は、常に見果てぬ夢なのである。
●オーソン・ウェルズにとってのリタ・ヘイワース
「市民ケーン」(1941年)を作った天才オーソン・ウェルズにとって、もしかしたらリタ・ヘイワースは「夢の女」だったのかもしれない。1943年から1947年までふたりは夫婦であり、その間、リタ・ヘイワースは女の子をひとり産んでいる。
ということは、「ギルダ」の撮影中も公開された頃も、ふたりは結婚していたのだ。そして、離婚の年、1947年にはオーソン・ウェルズはリタ・ヘイワースをヒロインにして「上海から来た女」を作る。
あれは、いつの頃だったろう。まだ銀座に日劇文化という映画館があった頃だ。アート・シアター・ギルド(ATG)映画を上映する常設館だった。上階は日劇ミュージック・ホールだったと思う。新しいビルが建つと、昔のことはわからなくなってしまうけれど、たぶん今の有楽町マリオンの場所だった。
「オーソン・ウェルズが愛妻を出演させた幻の映画」という触れ込みで、「上海から来た女」が日劇文化で公開され、その頃はまだ愛妻(?)だったかもしれないうちのカミサンと見にいった。そのときのポスターには「伝説のミラーフォーカス」というキャッチフレーズが書いてあった。
「ミラーフォーカス」というフレーズには笑った。「市民ケーン」は映画史的には「パンフォーカス」手法を使ったことで有名だ。手前から奥まで画面のすべてにフォーカスが合っていることを指す。しかし、「ミラーフォーカス」という言葉はない。
「上海から来た女」はミステリであり、最後に遊園地での追跡劇になる。鏡の部屋に逃げ込んだ主人公に向かって拳銃が発射される。その鏡の部屋の場面は、確かに魅力的だった。向かい合う鏡の前に立てば主人公の姿は無限に映り込む。何人ものリタ・ヘイワースが映り、どれが実像かもわからない。銃弾は鏡を破壊し、鏡像が崩れ落ちる。
技術的なことで言えば、鏡ばかりの部屋で死角はないのだから、確かに撮影するキャメラの位置を探すのは大変だったろう。だからといって「ミラーフォーカス」などという言葉を作るのはおかしいと僕は思った。思ったけれど、映画自体はトリッキーで印象に残った。
その映画を見ていると、オーソン・ウェルズのリタ・ヘイワースに対する愛憎が伝わってくるようだった。キネマ旬報社刊「オーソン・ウェルズその半生を語る」によると、二年ほど別居していたふたりはこの映画でしばらくよりが戻ったという。
リタ・ヘイワースは、二度目の夫オーソン・ウェルズと別れ、インドの大富豪アリ・カーンと結婚したが、結局二年で離婚する。その後、歌手のディック・ヘイムス、プロデューサーのジェイムス・ヒルと結婚し別れる。彼女は五回の結婚と離婚を経験した。
1961年に離婚後、1987年5月14日に亡くなるまで、彼女の結婚歴はない。最後に僕が見たリタ・ヘイワースは「サンタマリア特命隊」(1972年)だった。五十代半ばになっていた。その後、当時はまだ耳慣れない病名だった「アルツハイマー」で死亡したことによって話題になるまで、彼女の名は忘れられたものになっていた。
リタ・ヘイワースの言葉として有名なのは「男たちはギルダと寝て、私と目覚める」というものだ。この言葉は、「ノッティングヒルの恋人」(1999年)でジュリア・ロバーツが引用していた。主人公の書店主ヒュー・グラントが初めて人気女優アナと寝た翌日のベッドの上の会話だった。
リタ・ヘイワースがこの言葉を口にしたとき「男たちは『夢の女』ギルダであることを自分に望んでいるだけだ」という苦い認識に基づいていたのだろうか。あるいは、男たちが願う「夢の女」などはいない。生身の、現実のリタ・ヘイワース、本名マルガリータ・カルメン・キャンシノという女が生きているのだ、という主張なのだろうか。
男と女の思いはいつもすれ違う。リタ・ヘイワースが何人もの男と結婚を繰り返したのは、男たちが彼女に「夢の女」であることを望んだから…、マルガリータ・カルメン・キャンシノを愛してくれる男は、ついに現れなかった。しかし、そんなことも含めてすべてを忘れアルツハイマーで死んでいったことを思うと、改めてハスキーヴォイスで歌い踊る「ギルダ」の彼女を見たくなる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
三連休が続くと、それがスタンダードになり、週五日間の出勤が辛くなります。週休三日あると、一日ぐったりして映画を見たり本を読んだりして過ごし、一日は原稿を書き、一日は部屋の掃除をしてゴルフ練習して…と、実に健全です。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
- 天使の爪 上 (1) (角川文庫 お 13-25)
- 大沢 在昌
- 角川書店 2007-07
- 小説宝石 2007年 07月号 [雑誌]
- 光文社 2007-06-22
- ギルダ
- リタ・ヘイワース グレン・フォード ジョージ・マクレディ
- ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2006-12-20
- おすすめ平均
- リタ・ヘイワースを堪能するための映画
- 廃盤になる前にぜひ、この名作を購入して下さい。
- リタ・ヘイワースの美しさを堪能するための映画
- ショーシャンクの空に 公開10周年メモリアル・ボックス (初回限定生産)
- ティム・ロビンス モーガン・フリーマン ウィリアム・サドラー
- ワーナー・ホーム・ビデオ 2005-07-01
- おすすめ平均
- ★6つでもいい!
- 何度も観る映画
- 友情と愛情
- ブルックスさん
- 何故「ゴールデンボーイ」?