ショート・ストーリーのKUNI[34]手
── やましたくにこ ──

投稿:  著者:


少し前から妻が人前で手を隠すことには気づいていた。

明け方、ふと目覚めた私はそのことを思い出し、まだ寝息をたてている妻の右手をそっととってみた。なんということだろう。妻の手はすっかり年をとったひとのそれになり、張りをなくした皮膚といくつものしみが時のもたらす残酷さを思い知らせた。妻は私より7歳上だ。

私は手を隠していた妻の気持ちを思いやった。置き去りにされた気がした。

寝床に横たわったまま私は思った。
妻に手を買ってやらねば。


あることを意識しだすと、それまで見えていなかったものが見え、耳に入っていなかったものが聞こえてくる。人は知りたいという熱意さえあれば、自らサーチエンジンと化すものなのだ。

私はたちまちにして必要な情報を得た。「人工手」の歴史。「人工手」の材質や安全性。副作用。「人工手」に関するよくある質問。「人工手」を扱っている店。

さっそくそのうちのひとつ、勤め先から近いところにある店に私は行ってみる。時計屋みたいな感じの店で、ガラスケースに手がいくつも並んでいる。私は妻に似合いそうな手を目で探した。妻の手は女性にしてもきゃしゃなほうだが、指は先細りではなく、ぼきぼきとしている。肉が薄い。肌の色は白いほうだ。

「奥様へのプレゼント?」
女の店員が話しかけてくる。それで二日後が妻の誕生日だということを思い出す。うなずくと「そうだと思ったわ」と思わせぶりなことを言う。

私の目は値札に釘付けになる。思っていたより高い。そういえば、ウェブサイトをいくつも見たが、値段について明記してあるところはなかったようだ。もちろん、商品の性質上、スプーンや靴下を買うようなわけにはいかないだろうと思っていたが、でも、もう少し安いと思っていた。なんの根拠もなく。

いくつもの手の中に、妻にふさわしいと思える手があった。だが、その手は特に高い。金額として、まるっきり話にならないわけではない。でも、高い。それの購入と引き換えに、私は多くのものをがまんしなければならなくなる。パソコンの買い替えを先延ばしにしなければいけない。これからしばらくは会社の歓送迎会のいくつかを欠席したほうがよさそうだ。ランチを安いものにするか。映画をレンタルDVDですますか。

いいじゃないか、それくらい。
私の中で声がする。もちろんだ。でも、今日は現金の持ち合わせがない。
カードがあるじゃないか。
また声がする。でも、カードを使って引き落とされる口座は妻も利用する口座だ。なにか変じゃないか、それは。プレゼントなのに。
いま手付金だけ払えばいいじゃないか。
また声がする。確かにそうだ。でも、そんな方法はこの店ではだめかもしれない。
本当は買いたくないんだろ。
声がする。
けちなんだよ、おまえは。
私は認めたくない。でも、ひょっとしたら本当に、自分はけちなのかもしれない。妻を愛しているつもりでもそうじゃなかったのかもしれない。

私は何気なく店員の手を見る。その手は手袋で覆われている。視線を感じて彼女は言う。声が魅力的だ。
「手を見せてはいけないことになってるの。売り物の手より美しくてもいけないし、醜くてもいけないから。わかるでしょ」
「ああ、わかるとも」

私はそう言いながら、想像の中で彼女の手袋を脱がせる。手袋がするりと脱げて音もなく床に落ち、あらわになった手を愛撫する。それから白いブラウスも、グレイのスカートも脱がせる。唇から耳から、うなじへと、キスを浴びせる。彼女はのけぞるが私を避けはしない。私は執拗に愛撫を続ける。すべすべの布地の内側へ指先をもぐりこませる。彼女の全身はとろけて、もうすっかり準備ができている。

ところが私の準備が。
おかしい。
こんなはずでは。
「今日はだめなのね」
はっと我に返ると正面から私を見据える彼女の視線と会う。
「ああ」
私は意味もなく上着のボタン穴をもてあそんだり裾を引っ張ったりする。
「また出直すよ」
ふうっと彼女の口から息がもれる。

店を出るなり私はたちまち後悔する。あの店にはいくつも手があったけれど、気に入ったのはひとつだけだった。それがすぐに売れてしまわないという保証があるのか? 手付金を払って、とりあえず押さえておいたほうがよくないか?

私はUターンする。数歩歩いて立ち止まり、またUターンする。
だいじょうぶさ、きっと。
おまえは世界一のけちで小心者で薄情者だな。
そんなことはないさ。ゆっくり考えたほうがいいに決まってる。
はん! なんとでも言い訳をすればいいさ。

二日後に私は同じ店に行く。分割払いでもいいかどうか聞こうと思って。
「残念ね。あの手は売れてしまったわ」
女店員が言う。相変わらず手袋をはめたまま。

私はがっかりして来た道を戻る。だが、自分の中に「これでよかった」という気分が混じっていることに気づく。私はやはり、けちで小心者で、しかも薄情者だ。妻を全然愛していないのだ。よかったじゃないか。これでパソコンが買えるぜ。私の中の皮肉屋が言う。

私は妻への誕生日プレゼントにしゃれたデザインのブックカバーとバラの花束を買って帰る。毎年、誕生日はバラの花束だけだったから、今年は特別だ。

家に帰ると、珍しく妻がリビングにいない。花束と小さな包みを持ったままそっと寝室に入ると、妻が鏡の前で手をかざして見ている。なんと、その手は若々しく美しい手に替わっているではないか。

私の視線に気づき、妻の表情が一瞬凍り付く。それから、どこかからあわてて探してきたような笑顔を浮かべる。
「安かったのよ」
そして、立ち上がり、また手を見ながら言う。
「知ってるでしょ。最近はこういうのがあるってこと」
「うん」
それはあの店にあって、そして私が迷っているうちに売れてしまった、あの手にちがいなかった。妻が自分で買ったのだろうか。そうは思えなかった。私はブックカバーをどうすればいいのだろう? いつも妻は、私を置き去りにするのだ。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
< http://www1.odn.ne.jp/%7Ecay94120/
>