Otaku ワールドへようこそ![62]現実を離れて思索をめぐらす
── GrowHair ──

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●定義を定義する

私は数学を専攻したせいか、「オタクの定義」のように「定義」という言葉をけっこう気軽に使っている。しかし、世の中一般には、めったに使うことのない、難しい部類の語のように思われているのかもしれない。ならば、というわけで、軽〜く解説してみたい。

あるものを定義するというのは、それがどういうものかを、他のものと区別がつくように、明確に述べることである。要するに「〜とは何か」を述べたものが定義である。試しに「傘」というものを定義してみよう。

「傘とは、戸外で雨に濡れるのを防ぐために、柄の部分を手に持って、シートの部分を頭上に広げて使う用具である」ぐらいに言っておけば、だいたい定義になっている。

ここまでは、そんなに難しくないのではないか。難しいのは、数学で「円」を定義せよ、と言われて、「正確な丸い形」とか「月やスッポンに共通に見られる輪郭の形」と答えたのでは駄目で、「一点から等距離にある点からなる集合」とやらなくてはならないあたりにあるのではなかろうか。なぜ簡単なことをわざわざ難しく言い換える必要があるのか。


ものを定義する際には、原則がいくつかある。まず、定義しようとしているものを、定義の中で使ってはいけない(※)。例えば「傘」を定義するのに「傘状の形をした」なんてやってはいけない。これでは話が回ってしまう。こういうのを「自己撞着」(正確には「自家撞着」)という。

※ 例外はある。再帰的(recursive)な定義というのがある。「階乗」を定義するのに「1の階乗は1である。nの階乗は、(n−1)の階乗にnを掛けて得られる数である」と、「階乗」の定義の中で「階乗」を使っているが、これでぎりぎり定義になっている。

ちなみに、「再帰的な論文」というのがある。ある論文の参考文献の欄にその論文自身が参照されているとき、これを再帰的な論文という。そういうのは実際にあった。直接ではないが、一人の著者が同じ論文誌に同時に二本の論文を寄稿していて、それらが相互参照しているのである。これは読み終わることができなくて困った。

論文Aを読んでいると、途中で「論文Bを参照」とあるので、そっちを読み終わってから戻ってこようと論文Bを読み始める。すると途中で「論文Aを参照」とあり、ならばそっちを読み終わってからと思い論文Aに行くと、「論文Bを参照」とあり...。無限ループに陥ってしまった。リセット、リセット。

二つの定義の間でも、自己撞着を起こしてはいけないという原則がある。Aを定義するのにBを使い、Bを定義するのにAを使ってはいけない。先ほどのように「傘」を定義したのであれば、今度は「雨」を定義するのに「雨とは傘をさす必要が生じる天気」のようにやってはいけない。

この原則を守ると、「傘」を定義するのに「雨」が出てきて、「雨」を定義するのに「水」が出てきて、「水」を定義するのに「液体」が出てきて、……というように、たどっていけば、より基本的な単語へと向かっていく。

Aを定義するのにBを使っているという関係をA→Bのように書くことにすると、傘→雨、雨→水、水→液体となり、これをどんどん続けていけば、結局、あらゆる単語が矢印で結び付けられ、しかも、全体のどこを見ても、矢印をたどっていったときにぐるっと一回りして元に戻る箇所がひとつもない、壮大な言語体系が構築されるはずである。

辞書というものはたいてい知らない単語を引くものであるが、たまにはよく知ってる単語を引いてみると、これが実に面白い。暇な方は、辞書を引き引き、この体系を作ってみてはいかがでしょうか。もっとも辞書の場合、単語を定義するものではなく、単語の意味を説明するものであるから、そんなに厳密にはできていなくて、実際にはそこいらじゅうでループしているので、参考程度のものです。

さきほどの矢印をもっとたどっていったとき、最も基本的な単語というのはどの辺に行き着くのか? 液体→物質→存在→空間。辞書では、もうこの辺で回っている。そりゃ、単語の数は無尽蔵ではないから、いつかは必ずこういう行き詰まりの単語に行き着くはずである。

だけど、これはゆゆしき事態である。定義というのは、分かっている概念を材料として使い、新しい概念を次から次へと構築していく体系であるから、空間や存在が分からない、となると、物質も分からない、液体も分からない、水も分からない、雨も分からない、傘も分からない、ということになり、結局何もかも分からない。体系が総崩れしてしまうのである。世界の崩壊。

「言葉」を定義するには「言葉」という言葉を使ってはいけないだけではなく、どんな言葉を使ってもいけないのだと思う。「言葉とは、今ここでこうして使っているもの」とやったのでは、やはり自己撞着っぽい。だから、言葉の体系の外から何かを借りてこないことには「言葉」という概念は定義できないのである。だけど、概念を表現するものとして、言葉以外にいったい何があるというのだ? ここら辺に言葉の限界が見える。

幸いにして、我々には現実世界があるので、なにも存在や空間といった根本から説き起こさなくても、実際に傘立てに入っている傘を差して、「これも傘だよ」「あれも傘だよ」とやれば、それらの共通項から「傘」という概念にたどり着くことはできるので、現実の生活上は意味の伝達に困らない。だけど、それは現実世界あっての言語体系ということであって、辞書のように現実世界を切り離して言葉だけで閉じた体系を作ろうと思うと、何もかも、まったく意味をなさくなるのである。

あ、それで先ほどの「円」の定義の話。数学は数学で閉じた体系を構築しようとしてきた。閉じた体系だから、外から月やスッポンを借りてきてはいけない。それと、数学の中で定義が回るなんて間抜けなことは絶対にあってはならない。定義を次々にたどっていくと、最後には「点」とか「距離」といった無定義用語に行き着くようになっている。この体系に違反しないためにも、「円」はぜひとも「一点からの距離が一定な点からなる集合」のようにやっておく必要があるのである。

数学がある程度分かる方に向けて、ひとつ注釈しておこう。通常「距離」と言えば、幾何学的な空間の中にある「点」と「点」との間に生じる量であるが、「点」や「距離」自体は無定義用語である。いま、関数f(x) をある種の「点」であるとみなして、ここへ「距離」という概念を新たに導入する。関数 f(x)と関数 g(x) との間の「距離」とは、f(x) と g(x) との差の2乗をxについて0から1まで積分した値の平方根のことである、と勝手に決めちゃう。そうすると、f(x) の2乗をxについて0から1まで積分した値が1になるような関数 f(x)全体の集合というのは、原点を中心として、半径が1の、れっきとした「円」なのである。月やスッポンのような丸っこさなんて、影も形もない。こういう比喩的な「円」までもが堂々と市民権を授かれる自由さが、数学の面白いところである。

●存在と認識

ソクラテスの「無知の知」ではないけれど、我々は本当はものを何も知らないのだ、ということを一度認識してみるのはよいことなのかもしれない。さきほどどん詰まりに陥ってしまった「存在」と「空間」をはたして我々はどれほどよく知っているか? まわりを見回せば、時計だの電灯だの、ものがあふれかえっているわけだから、それが存在していることぐらい、感覚的によく分かる。それらの存在を入れている広がりが空間であるから、これもよく分かっている。そんな感じがするかもしれない。

だけど、存在は視覚や触覚といった感覚を通じて認識されるのであって、その頼みの綱の感覚は時としてさほど当てにならないことも知っている。鏡に映った像やレンズを通して見える像、ホログラムで浮かび上がる立体映像などは、あたかもそこにあるように見えるが、そこに実体はない。

物質は分子という単位が大量に寄り集まって構成されていることを、我々は習って知っているが、その感じを感覚的に受け入れることができているだろうか。分子はさらに原子からなり、原子はさらに原子核と電子からなり、原子核はさらに陽子と中性子からなることも、我々は習って知っている。とりあえず陽子や中性子や電子を小さなパチンコ玉みたいなものかと想像して間に合わせてみるが、現実にはどんなふうかなんて想像の域外のことだ。

多分、そこに何があるというわけではない。おのおのの素粒子の中心位置がこの辺にあるという位置座標があり、お互いにこれだけ離れていればこれほどの力が働くはずだというポテンシャル関数があるだけ。つまり存在と言ったって、そこに実体として何かカチッとしたものがあるというものではなく、あるのは座標とか関数とかエネルギーといった抽象的なものであって、各存在単位が相互に働きあって運動しているという現象だけなのである。硬いだのやわらかいだのといった触覚だって、そういう原子間の相互作用の総体である。結局、存在の本質って、とてもつかみづらいのだ。

そこが分からないせいで、連鎖的に何もかもが分からなくなって、世界観が崩壊してはかなわないから、それを何とかするために哲学はあるのだ。デカルトは、我々の感覚が当てにならないということをよーく自覚していた。それなので、感覚を通じて確かめられたつもりになっているだけのあやふやな「存在」ではなく、もっと確実な「存在」はないかと考えた。考えに考えて、ついに思い至ったのが「我思う、ゆえに我在り」である。「方法序説」に書かれている。「我」という言葉に引っ張られて、これを「近代自我の芽生えである」というふうに捉えるのがまるで主流みたいに言われているようだが、私はまったく逆に解釈している。

私がごちゃごちゃ考えていることの内容は正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。いや、それどころか、私が何かを考えているということ自体も、感覚からくる錯覚なのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、仮にいま、「私が何かを考えている」ということを正しいと仮定すれば、その「考える」という行為を行っている主体としての「私」は絶対に存在しないわけにはいかないから、「私が存在する」ということも正しいと帰結されるであろう、というこの「論理の運び」自体に誤りはないだろうということである。

つまり、ものごとを正しく捉えるために、少しでも間違いを犯す可能性のあることはすべて排除して、これだけは絶対に間違いなかろうということをひとつでも見つけようとするならば、思い込みや錯覚に陥りやすい自我なんてものは邪魔っけでしかない。物質の存在は、当てにならない感覚を通じてしか認識されないから、絶対的な確実性はない。物質の存在以前に、もっと確実な存在として、論理の存在がある。つまり、「物質以前に論理あり」という主張である。

例えばピタゴラスの定理。直角三角形の斜辺の長さの2乗は、残る2辺の長さの2乗の和に等しいという定理だが、これは、理解する人類がいようがいまいが、物質やら宇宙空間があろうがなかろうが、成り立つ真理なのではなかろうか。私はそうだと思う。いやいや、そんなことはない、という考え方もありうる。ピタゴラスの定理とは、ひとつの概念である。概念であるからには、頭で考えるものである。こういうことを考える頭は人間に属している。したがって、人間なくしては、ピタゴラスの定理も存在しえないのではないか。うーん、それも一理ある。それだと自我が中心になる。

だけど、やっぱり、私は、人間よりも偉い絶対真理があって、人間はただ発掘したに過ぎないと考えている。そういう立場から見ると、デカルト以降、哲学はあさっての方向に迷走しちゃったように見える。時には数学や物理学と一体になって真理を追究していくようなそぶりを見せながらも、純粋な理系を離れて文系的な学問に行き、人間や社会を論ずるようになってしまった。科学の考え方を借り物のように引っ張ってきて、「自我」を捨てるどころか中心に据えてみんな好き勝手なことをぐだぐだぐだぐだ述べている。それを、科学の側から粉砕してくれた「ソーカル事件」は、実にスカッとする、小気味よい事件である。悪いこと言わないから、ねえみんな、近代哲学を一度ご破算にして、デカルトあたりからやりなおそうよ。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
火曜の朝、会社を30分遅刻。いつも通りの時間に起きて、いつも通りに出かけたつもりだったのに、電車を乗り換えるときになって、駅のホームの時計がいつもより30分も遅い時間を指していて、わが目を疑った。あれ〜、時間がどっかに消えたよ。そう言えば、出掛けにハイデッガーの「存在と時間」について考えを巡らしていたかもー。/そろそろ禁断症状が出てきそう。Novaうさぎの幻覚が現れたりするんではないかと。早く再開してくれないかなー。/11/29(木)に白内障の手術の予定。ひー、こわいよ〜。

photo
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)
マルティン ハイデッガー Martin Heidegger 細谷 貞雄
筑摩書房 1994-06
おすすめ平均 star
starようこそ、存在と時間の廃墟へ
star難解さととても身近な思索が織成す名著。後世への甚大なる影響。
star「死へ臨む実存的な存在の実存論的構造こそ、実は現存在の全体存在可能の存在論的構成にほかならないのである」といわれてもねぇ・・・
starとりあえず避けて通れない
star適切なレジュメがないと読めません。

存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫) ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫) ハイデガーの思想 (岩波新書) 論理哲学論考 (岩波文庫) ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)



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存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)
マルティン ハイデッガー Martin Heidegger 細谷 貞雄
筑摩書房 1994-06
おすすめ平均 star
starようこそ、存在と時間の廃墟へ
star数種ある『存在と時間』の翻訳の中で…
star概ね理解しやすい翻訳
star天才と出会えるからこそ 読書はすばらしい(;'Д`)ハァハァ

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫) ハイデガーの思想 (岩波新書) ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術) 論理哲学論考 (岩波文庫)

by G-Tools , 2007/11/16