わが逃走[10]学校のセンセイの巻 その1・始動編/齋藤 浩

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さて記念すべき『わが逃走』10回目。もう10回も書いてるんですね。前回は思い入れ満載の狭くて深い話を書きました。このまま突き進みたい気持ちをぐぐっと抑えて、今回は『学校のセンセイ』について書いてみようと思います。ちなみに今回のタイトルに「その1」と付いていますが、その2がいつ発表されるかは書いてる本人もわかりません。

えー、私は現在、某美術専門学校で広告とグラフィクデザインに関するゼミのセンセイをしています。なんだかんだで今年で7年目。嬉しいことに学生の質も良く、デザイナーとして優れた仕事をしている卒業生も多くいます。

でも、ここまで来るには、いろいろあったんですよー。俺様としましても、どういった経緯でデザイン教育に携わることになったかを記録しておかないと忘れてしまいそうなので、今回はこの場を借りて発表させていただきます。


●1999年3月上旬

2月末日で広告制作会社を退社した。ついにフリーランスのデザイナーになった訳だが、仕事のあてはまったくなかった。すべてゼロからのスタート。

いま目の前にしなければならない仕事がまったくないというのは、ある意味清々しいものである。自分の正しいと思うデザインをじっくりと自主制作しながら、いろんな人達と交流して人脈を増やしていける。まあ、こんな時代だし仕事自体も少ないとは思うが、食えなくて死ぬということもないんじゃないか?と、心配性のオレにしては何故だか妙に落ち着いていたと記憶している。

おそらく人生史上最も緊張した出来事『会社に辞表を提出する』を終えた直後だったので、辞表を出すことに比べれば収入がなくなることなんて恐くもなんともねーやという気持ちになっていたのだろう。ほんとはそっちの方が問題なのだが。

しかし、フリーランスにとってまず必要なのは、収入の保証のなさに対する恐怖心を抑える力。根拠もなく自信を持てる図々しさなのではなかろうか。これを別の言葉で覚悟ともいう。(そうか?)

●2000年2月中旬

なんだかんだでフリーになって一年が過ぎようとしていた。ビンボーだけど、納得のいく仕事だけでギリギリ食っていけてた。

そんなある日電話が鳴った。ムサビ時代の師であり、某CG制作者団体の顔役でもあるK氏からだった。訳あってO美術専門学校の非常勤講師を辞めることになったので、その後任をやってほしいという内容。

以前からデザイン教育には興味があったし、私がデザイナーになることができたのも多くの先輩や先生のおかげである。こんどは私の番だ! 私には真っ当なデザイナーを世に送り出す義務があるのだ!!(85%)定期的な収入があれば家賃の心配も減るぞ!!(15%)「やります。是非ともやらせてください」鼻息も荒く即答した。

●2000年3月中旬

O美術専門学校にて面接。今までの作品をまとめたポートフォリオを持参し、常勤講師に対しプレゼン。デザインとは情報伝達手段です。伝えたいことを相手に対していかに分かりやすく伝えるか。その計画をするのがデザイナーです。デザイナーに最も必要なことはMacを上手に使えるかといった事ではなく、ビジュアルという言語を使って相手を振り向かせ、語る能力なのです。といったようなことを熱く語った。相手の反応も良かったようだ。数日後、正式回答が来た。4月から非常勤講師として採用、ということだった。

当時蔓延していた「Macのオペレーション能力=デザイン能力」という誤解をとき、自らのデザイン論を語り合えるような若手を育てたい。そんな志を掲げる私だったが、「とにかく学生がMacを上手に使えるようにしてください。」ということで、Mac技術指導要員として雇われることになった。まあいいか。「それとwebの授業もお願いします。」「あのwebって…私はグラフィックが専門でして、インターネットのたぐいは全然…」「大丈夫、齋藤さんなら出来ますよ」

翌日、『サルでも分かるMacOS』と『初めてのホームページ』なる本を購入、Macの仕組みも分かってないし、webのウェの字も知らない私は勉強づけの毎日となった。授業スタートまで一か月。間に合うのだろうか。不安にかられる齋藤浩30歳の春であった。

※ここでちょっと説明しておくと、デザインの指導とオペレーションの指導って全く別ものなんです。私はMacを使ってデザインの仕事をしてるけど、必要なソフトの必要な機能だけを我流で使っていただけだったので、例えば矢印をポインタと呼ぶことすら知らなかったのです。デザインの話はMacに触れなくてもできるけど、Macの話はMacを知らないとできないのです。

●2000年4月中旬

講師室でちょっとしたミーティングの後、教室へ移動。さて最初の授業だ。グラフィックデザインの定番ソフト、IllustratorとPhotoshopを使って数か月かけてダラダラと一枚のポストカードを作るといった内容。授業内で全て完結させないといけないので、「来週までにやって来い」というような課題を出してもいけない。

さて、学生の第一印象。バカばっか。学ぼうという姿勢がない。教えてくれるのを口をあけて待ってるだけ。デザインの学校に来たってことはデザイナーになりたいんだろ? そう思っていたオレが間違っていたのだ。奴らの大半が消去法で進路を決めているように思えた。デザイナー志望の者ですら、この状況で満足している。自分が動かないから周りも動かない。言われないからやらない。当然、作品数も増えない。数を作らないからいいものができない。そうこうしているうちに卒業だ。

「彼らを20歳の若者と思ってはだめです。小学14年生です」いつか聞いた常勤講師の言葉を思い出す。こういうことだったのか。とりあえず授業を始めてみた。すぐに理解する者もいれば、なかなか理解できない者もいる。前者に合わせると落ちこぼれが増え、後者に合わせるとできる者がダレる。

当時の学生はパソコンに触ったことのない者も少なくなかった。「はーい皆さん、このまるっこい物をマウスと言います」とか「マウスのボタンをカチカチって押すことをダブルクリックと言います」なんてやってるうちにあっという間に1コマ3時間の授業が終わる。精神的にものすごい疲れるが、内容は一向に進まない。なんとか最初の授業を終えた私は、身も心もボロボロだった。

webの授業はやや状況が違っていた。なんと、すでに自分のホームページを作っている者が受講していたのだ。当時は今と違ってメールもインターネットも知らない学生がまだ多くいた反面、好きな奴はすでにどっぷりハマっていた。一応私はセンセイを名乗っていたが、webに関しては前述のとおりにわか覚えの知識しか持ってない。それを悟られないように授業を進行しなければならないのだ。危険きわまりないミッション。

とにかく、その週の内容を正確に理解した上で授業に臨まなければならない。予習は確実にこなし、翌週以降の内容にかかる質問は(まだ勉強してないので)一切受け付けないという姿勢を貫く。授業前日にやっと理解したことを翌日に教える。そんな綱渡りのようなギャンブル人生。

この時の給料は1コマあたり8000円。時給にして2600円。しかし、事前に授業の進行計画はもちろん、HTMLなどという呪文のような言葉を勉強し、教えられるレベルにまで理解しておかないといけない。授業の準備に時間をかければかけるほど時給は下がる計算になる訳で、結果的に私のギャラは高校生の時給以下だった。

まあ、そんなことはどうでもいい。おかげでwebのウェの字も知らない私はホームページ制作の知識を身に付けてしまったのだから。でも、果たしてこれを教育と呼べるのか。専門分野はその道のプロが指導すべきなのではないか。理想と現実の狭間に苦しむ齋藤浩30歳の春。

●2000年5月

学校にも慣れてきた。最初はバカばっかと思っていた学生の中にも、磨けば光りそうな奴が見えてきた。そんなある日。

画像処理の授業でPhotoshopを使って好き勝手絵を描かせていたところ、「あ、先生。ちっと、いいすかー」ある学生が質問してきた。見せられたのは、戦闘機らしきものがミサイルを発射しようとしているシーンを描いたものだった。

「これさあ、今ピシュゥィピシュゥィピシュゥィッってなってんじゃん。これをドゥルルルルルルルルーゥってしたいんだけど、どうやんの?」
「はい?」
「だからさあ、ここんとこ、ピシュゥィピシュゥィピシュゥィッってなってんじゃん。これをドゥルルルルルルルルーゥってしたいんだけど、どうやんの?」
〈沈黙〉
「ほほう。君はピシュゥィピシュゥィピシュゥィッってなってる部分をドゥルルルルルルルルーゥってしたい訳だね。なるほど」
「あぇい」。うなずきながら発したのだから肯定の意思表示なのだろう。
「すまんが何を言ってんだか分からん。君は君の表現したいイメージがあるのだろう。しかし、まずそれを伝える言葉を知れ」

私はそう言って彼に背を向けた。おそらく彼は私に不満を持ったことだろう。
質問してんのに答えてくんねー。齋藤マジムカツク。とか言ったに違いない。
しかしが私はデザイナーである。デザインに関することなら誠心誠意答えよう。
だが、それ以前の問題まで面倒見る気はねーよ。

もし彼がこのままデザイナーになったとして、自分の案をクライアントにプレゼンする際、どのような言葉で伝えるのだろうか。「えっとー。こんどの広告の案なんすけどー。いままではどっちかってゆーとプシュギュゥァーッッって感じだったじゃないすか。でも、次からはもっとッグバシュゥッッッゥゥゥゥーンてした方が若者に受けるんじゃないかってことで、で、考えてたら、なんか、ッギョゥワァァァァァァーってゆうふうになってきちゃって。で、それもなんかいい感じじゃんて思ったんで、そうしました」
とか言うのだろうか。殺す。

「彼らを20歳の若者と思ってはだめです。小学14年生です」
あの言葉が再び脳裏をよぎった齋藤浩30歳の春。もうすぐ夏。

●2000年10月

なんとか前半を乗り切った。勝手に掲げていたデザイン教育論はいったん引っ込め、オペレーター養成講座と割り切ってしまえばけっこううまく進めることができた。

そんなある日。いつものようにIllustratorの使い方なんぞを指導していると、ある学生が机の上に足を乗せているのに気がついた。ムッとしたオレだったが、穏やかに「きみきみ、授業中なんだから足を机から下ろしなさい」と言ってみたところ「なんでですか?」「うっ…」〈沈黙〉

なんでですかだと?? それが授業を受ける態度かコノヤロー! と、どついてみようかと思ったが、彼の表情をみると本気でそう聞いているらしい。なので私はなぜ机の上に足を乗せて授業を受けてはいけないかを説明した。

私は教育者ではない。なので私のことを先生と呼べとか、それが人からものを教えてもらう者の態度か! などとは言わない。そもそも私は教えているつもりはない。同じ仕事を目指す者に対して、すでにその仕事をしている者としてノウハウを提示しているだけだ。そこから各自が必要なことを学び取ればいいのだ。しかし、である。人として最低限のマナーは守るべきではないか。そう、人として。私は聖人ではない。不愉快な態度をとられても平常心でいられるほど人間ができてないのだ。なので、そういった態度をとられると本来授業を円滑に進めるためのパワーを怒りを抑えるために使うこととなる。授業は君一人に対して行われているものではない。君が机の上に足を乗せることによって進行役である私の力が半減したとしたら、受講している全員が迷惑することになるのだ。君が君の責任で何しようが私の知ったことではない。しかし、君がしたことによりここにいる皆が迷惑するとしたら、それはすべきことではない。違うか? といったようなことを延々20分もかけて語ったと記憶している。

最終的には彼も理解してくれたようで、「わかりました」と言って机から足を下ろした。わかってくれればいいんだ。知らなかっただけなんだよね。どういう教育うけてんだコイツ、子がバカなのは親の責任だよな。とは思ったけど口には出さなかった。授業1コマの時間は180分。実にその1/9の時間を「なぜ机の上に足を乗せて授業を受けてはいけないのか」に使った計算になる。

こう見えても私はデザイナーだ。決して有名じゃないけどそれなりに実力もあるし、いいものを作れるという自負もある。そんな俺様の授業の1/9の内容が「なぜ机の上に足を乗せて授業を受けてはいけないのか」……。

悲しいかった。情けなかった。俺はその程度の男だったんだ。このままやっていく自信はありません。これはデザインの授業ではありません。デザインの学校はデザインの教育をすべきです。私にデザインのゼミを持たせてください。そうしてくれなきゃ今すぐ辞める。だだをこねてみた30歳の秋。

●2001年4月

脅しが功を奏したのか、晴れてデザイナー養成講座『グラフィック研究ゼミ』を開講することができた。ここからやっと本当の意味で学校のセンセイ稼業がスタートしたと言えましょう。コンセプト重視の楽しい課題を毎週どっさり出しました。ぬるま湯に浸かりきっていた若造達はあわてふためき、どんどん脱落していったのです。ヒッヒッヒざまーみろ。

それでもついてきた者達は、なんだかんだでいっぱしのデザイナーとして社会に出てがんばっています。うーん、頼もしい。そんなこんなで、これからくだらないことや楽しいことや悲しいことを沢山経験することとなるのですが、それはまた次の機会にご紹介ってことで。ではまたねー。

※この物語は事実を基に多少脚色を加えたフィクションに近い実話ですと言っても過言ではないと思わなくもない。

学校のセンセイ・始動編でした。今の学生と当時の学生を比較してみると、ぜんぜん違います。最近の学生は文句ひとつ言わずに真面目に課題をこなすけど、突拍子もない馬鹿げた作品を作る者は減ってきました。あの頃、学生と講師がケンカしながら荒っぽい作品が作られていったのに対し、今はそれぞれの作風が比較的おとなしく、似通ってきているように思えるのです。クオリティも環境も良くなっているのは確かなんだけど、根性のあるバカ(もちろんいい意味で)が減ってきているのは残念。

男女比もずいぶん変わった。今は女子が異常に多いのだ。しかも弱々しい感じのぼーっとした少数の男子に対し、覚悟を決めた女子のパワーはどんどん強くなってきている。気づけよ、男。自ら動かねば何も変わらんぞ。

[さいとう・ひろし]saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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