笑わない魚[236]ほぼ私小説/永吉克之

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私は長い間、芸術家として永吉先生をお慕い申して参りました。先生のお書きになる文章、描かれる絵、何れも私のやうな凡骨の理解の及ぶところではございませんが、他の物書きや絵描きには見られない力強さと、独特の味はひのある作風が、否応なしに私を支配するのでございました。

ですからどんなに理解し難いことをなさつても、すべてこの方の芸術的衝動に依つて作り上げられた、ひとつの表現形態だと思つてをりました。ご自身の蓄へが減る一方だと云ふのに泰然として、一向に職探しをなされないばかりか、相変はらず酒場で散財してをられるのも、やはり芸術家の矜持だと、むしろ頼もしく思つたほどでございました。

こんなことを打ち明けて、ふしだらな女だとお思いにならないで下さいまし。実を申しますと私、永吉先生を芸術家としてだけではなく、いつしか男性としても想いを寄せるやうになつてゐたのでございます。その時はまだ先生がどのやうなご様子のお方なのか、メエルマガジンにお書きになるものを通してしか存じてをりませんでしたのに。


ある時、思い切つてフアンメエルを送つたのがきつかけで、住まひが近いこともあり、先生と月に一度ほどお逢ひすることができるやうになりました。そして月に一度が週に一度になり、逢瀬の間も昼間に小一時間だつたのが、夜更けにまで及ぶやうになつて行つたのでございます。寝間を共にするやうになつたのも、ごく自然な成り行きだつたと云へませう。

ご無礼は承知で申しますが、先生は決して眉目秀麗な方ではいらつしやいません。またお若くもなく、社会的地位も財産もお持ちではございません。しかし、メエルマガジンにコラムを連載されたり、コムピユウタア・グラフイクス作品を発表されたりと、精力的に芸術活動をされておられた時の先生の姿に胸を熱くしたものでございました。

これは全体何なのでせう。芸術を愛しながら自分にその才覚がない女は、才覚を持つてゐる男を我がものにすることで、その才覚までも所有したやうなつもりになるのでせうか。ならばそれはエゴイスチツクな愛なのではないでせうか。

私は、自分の仕事のお休みの日などにお宅にお邪魔させて頂くやうになつて以来、お独り住まひの先生が身の回りのことに煩はされず、よい作品をお作りになれるやうにと、お食事を作つて差し上げたり、お掃除やお洗濯などもいたしましたが、それらも皆、芸術家としてのあの方を自分のそばに引きつけておかうと云ふエゴイズムが働いた結果なのでせうか。

しかし盲目的な渇愛に己を見失つてゐたころは、そんな考へは毫も浮かんで参りませんでした。先生に抱かれ、その老獪とも云へる巧緻な愛撫に身を任せながら、ああ、あの方が、あの憧れの芸術家が私の体のなかに侵入し、そのエキスを注入しようとしているのだと想像すると、我知らず歓喜の呻きを発してしまふのでございました。

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先生とおつき合ひをするやうになつてから一年以上が経ちました。私が変つたのでせうか、それとも先生がお変わりになつたのでせうか。あるいは二人とも変つてしまつたのでせうか。時の流れは、エゴイズムで結ばれた男と女の絆を弛めはしても、強くはいたさぬものでございます。

口幅つたいことを申します無作法をお赦しくださいまし。近頃の先生のなさること、仰ることを見てをりますと、この方は、ただ世間に甘えてをられるだけなのではないのか、そんな気がして参るのでございます。

昨年の暮のことでございました。先生は、僕は絵描きが本分だと仰りながら、もう一年近く、何もお描きになつてをられなかつたので、私が、そろそろ先生の新しい作品が見とうございます、と申しますと、いや、今はまだ描く時ではない、今はインプツトする時期なのだ、と仰るのです。

それで、何をなさるのかと思つてをりましたら、ある日、俺、映画に出ることになつたよと仰るではありませんか。なんでもオオデシオンに合格して、頭の狂つた男の役をもらつたとかで、無邪気に喜んでおゐででございました。

映画の上映が決まると、メエルマガジンやブログやミクシイなど、およそ宣伝に使えさうなあらゆるメデアに告知を載せられ、あたかも一端の俳優にでもなつたかのやうにはしやいでをられる姿を見て、私は一抹の不安を覚へたのでございます。

その後もどういふ巡り合はせか、テレビ番組にも何本かお出になる機会を得られました。まだ暑い九月のある日、京都でのロケにエキストラで参加されることになつたのですが、俳優はイメージが命だから日焼けはまづいんだ、と仰つしやりながら、鏡の前で日焼け止めクリームなんぞを顔ばかりか腕や手にまでも丹念に塗つてをられるのでございます。その姿は私には、痛々しくさへ思はれました。

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たまに頂くテレビのお仕事の収入だけでは、支出の方が何倍も多く、心配いたしました私が、先生、このままでは借金をしなければならなくなります、何か他にお仕事をなさつては如何ですかと申しますと、分つてゐる、前から目をつけてゐるところがあるんだと仰つしやつて、パソコンで、流行りの執事喫茶のホオムペエジを私にお見せになりながら、ここなら年齢も問題ないし僕の演技力も生かせる、さう考へて、いつも執事らしい立ち居振る舞いの練習をしてゐるんだ、カリスマ執事になつてやるからな、さうしたらテレビでも紹介されて出演依頼もくるだらう、と眼を輝かせながら仰るのでございます。

私にはどうも腑に落ちないところがあつたので、その執事喫茶にはいつから眼をつけておゐでなのですかとお尋ねしますと、半年前からとのことでした。で、そのお店はまだ従業員の募集をしてゐるのでせうね、と問ひただしますと、先生は鼻白んだご様子で、まだ問い合わせをしたことはない、と仰るではありませんか。

私は、腹立たしいやうな、情けないやうな気持になつて、その場で先生の代りにお店に電話で問い合はせいたしましたところ、もう募集はしてゐないとのご返事でございました。私は、先生、眼をおつけになつたのなら、すぐに行動した方がよろしうございますよと、努めて冷静に申しましたが、行動をするには準備と云ふものが要るんだと、半年間ただ手をこまねいていたことを、飽くまで正当化しやうとなさるのでございました。

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そのうち私も、先生に対する遠慮が薄らいで参りまして、ことあるごとに、仕事仕事と突ついてをりましたら、さすがに観念なさつたのか、ヱブサイトに募集広告を出してゐた二つの会社に提出する履歴書と業務経歴書をしぶしぶと一週間もかけてやつとお書きになりました。

そして郵送されたのですが、面接に進む前に二社とも不採用となつてしまつたのでございます。先生は口では、さも落胆したかのやうなことを仰るのですが、どこか、ほっとしたご様子で、どうだ、ちやんと就職活動をしているだらう、もう君にはがみがみ云はせないぞ、と云はんばかりでございました。

とは云つても何も解決したわけではございませんので、私も就職情報誌などを見て、これはと思ふ仕事を先生に持ちかけますと、先生もうんざりなさつたやうで、もういい、カネがなくなったら、保険を解約すりやあいい、このマンシオンを売りやあいい、そうやつて待つてゐれば、映画出演の話も来る、絵も売れる、などとその場しのぎのことを仰るのです。挙げ句に、人生ギャムブルだ、芸術するとは地獄に堕ちることだ、とまで仰いました。

私もたまり兼ねて、先生、それでは子供と同じではありませんか、すべきことをして、ここぞと云ふ時に打つて出るのがギャムブルではないでせうか、先生は棚からぼた餅が落ちてくるのを待つてをられるだけでございます、そのうち誰かが手を差し延べてくれるだらうと思つてをられるのでせう、ご自分から頭を下げて仕事を頂くことが沽券に関わるのでせう、などなど、それまでお腹の中に収めてをりました様々なことが、一度に口をついて出て参りました。

俯いて黙つて聞いていらした先生は、くるりと背を向けると、その辺で呑んでくるとだけ、ぽつりと云つてお家を出られました。いつもならば、少々のいさかひがあつても必ず私もお連れくださるところなのでございますが、その時はお独りでさつさと行かれました。そしてそのお背中が、君は云つてはいけないことを、たうたう云つてしまつたね、と語つてゐるのが私にははつきりと読み取れたのでございます。

先生が出て行かれた戸口のドアをぢつと見てゐるうちに、私が先生だと思つてゐたものは、自分に都合よく調節したフイルタアを通して見てゐた先生だつたと云ふことに気がついたのでございます。すると途端に先生が、ただのわがままで、だらしのない醜い好色な老人に思へて参りました。

私は、そんな男性に自ら進んで心と体を翻弄されて悦び、あまつさへそれを自慢顔で友人に話してゐたのでございます。自分の浅はかさを恥じると同時に、狐に化かされた男が、饅頭だと思つて食べてゐたのが、実は馬糞だつたと云ふ、子供の頃に聞かされた民話をふと思ひ出しました。

私は、先生がお帰りになる前に、お宅に置かせて頂いてをりました自分の歯ブラシとパヂヤマをバツグに放り込んで、東住吉の自宅に帰りました。それから三か月、先生とは一度もお逢ひしてをりません。メエルは何本か頂きましたが、すべて開封せずに削除いたしました。

しかし人づてに、先生が今、郵便局で仕分けのアルバイトをなさつてゐると伺ひました。私のご忠告をお聞き入れになる程度にはご成長なさつたやうでございます。

【ながよしかつゆき/きりぎりす】katz@mvc.biglobe.ne.jp
今回の語り手の女性は架空の人物だが、永吉先生の生活や言動に関する記述は、多少脚色はあるものの、基本的には事実である。

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