[2334] 望みは何と訊かれても

投稿:  著者:  読了時間:23分(本文:約11,100文字)


<なぜ、なんだ。なぜ、こうなったんだ。>

■映画と夜と音楽と…[357]
 望みは何と訊かれても
 十河 進

■うちゅうじん通信[12]
 うちゅう人のクリスマスの過ごし方
 高橋里季

■デジクリトーク
 モールトンで柳沢峠越え
 関谷哲史


■映画と夜と音楽と…[357]
望みは何と訊かれても

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20071214140300.html >
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●不思議な暗合でアノ時代が甦る

小池真理子さんは1978年に「知的悪女のすすめ」というエッセイがベストセラーになり、そういうイメージで売り出した人である。美人であることも出版社のセールスポイントだった。悪女=美女という概念は一般的である。悪女がひどい醜女だったら、概念矛盾になる。

1978年…、実に三十年近い昔だ。小池さんは二十代半ばだった。出版社勤務という経歴である。同じ頃、僕は出版社勤務の二十代半ばの青年だった。そんな僕が「知的悪女のすすめ」などというエッセイを読むわけがない。美人を売り物にしたくだらねぇ本だろ、ケッ、という感じだ。僕は若く不寛容だった。

しかし、小池真理子さんの才能は本物だった、と言わなければならない。1985年に最初の小説を発表し、1996年に「恋」で直木賞を受賞する。1952年生まれだから四十四歳のときのことだ。夫の藤田宣永さんの直木賞受賞より早かった。夫婦で直木賞作家というのも珍しい。

僕は「恋」だけは読んだ。フランスの女性作家カトリーヌ・アルレーが好きだったので、アルレー風の心理サスペンスだなあと思ったのは覚えているが、正直、それほど印象に残っていない。「性を基調にした人間関係」について書かれたものについては、僕はどうも鈍感になるきらいがある。被虐と嗜虐の関係を書く谷崎潤一郎や河野多恵子がまったく面白く思えないのも同じだと思う。

ちなみに先日、光文社文庫の新装版「エンパラ」(大沢在昌さんと十五人の作家との対談集)を読んでいたら、小池真理子さんも出ていて「アルレーと出会ったとき、こういう書き方があったんだ、とすごく感激したの」と言っているから、僕が感じた「アルレーの影響」も的外れではなかったようだ。

その小池さんの新作「望みは何と訊かれたら」が出たときから気になっていて、書店でパラパラとめくったりしていた。僕は一年浪人しているから、大学へ入ったのは1952年生まれの人と同じ時期である。小池さんとは世代が重なっている。その小池さんがアノ時代を書いたのが「望みは何と訊かれたら」だ。

今朝の朝日新聞の読書欄のトップが「望みは何と訊かれたら」だった。大きな扱いで、評者は重松清さんだ。その書評を読んでも、僕はまだ迷っている。いや、書評を読んだから、よけいに迷い始めた。この本を僕は読むべきだろうか、あるいは、無視すべきなのだろうか。

しかし、妙な暗合が続いている。自分の中で決着の付いていない問題が頭をもたげ始めているのを感じる。先日、何の気なしに読んだ大崎善生さんの「タペストリーホワイト」が、やはりアノ時代を扱っていた。一年前に出た本だったが、1957年生まれの大崎さんは僕よりずっと若いと思っていたので、彼がアノ時代を題材にしたことに驚いたのだった。

それに、今年の「このミステリーがすごい」のナンバーワンを獲得したらしい佐々木譲さんの「警官の血」もアノ時代を扱っていた。祖父、父と続く警察官の話だが、二代目の父になる警官は新左翼のセクトにスパイとして潜入する。彼は、赤軍派の軍事訓練が行われた大菩薩峠の集会に参加し、彼らの大量逮捕を導く。佐々木譲さんは1950年生まれ。僕とは同じ世代だ。

●厳密な意味での団塊世代は三学年しかいない

僕も会社では「団塊の世代」として一緒くたに見られているが、狭い意味で言う「団塊の世代」とは昭和二十二年(1947年)から昭和二十四年(1949年)までに生まれた人たちのことだ。僕は「ポスト団塊世代」に入るらしい。しかし、もうひとつの呼び名がある。団塊の世代は「全共闘世代」と呼ばれ、僕たちは「内ゲバ世代」と呼ばれるのだ。

今年、僕の本が季刊「映画芸術」で紹介されたとき、書評を書いてくださったのは詩人の笠井嗣夫さんという方だった。間違いなく「団塊の世代」であり、「全共闘世代」だと思う。おそらく、アノ時代の「闘争」に躯を張った方だろう。僕がアノ時代のことを「紛争」と書いていることに違和感を表明し、「断じて紛争ではない」と結んでいた。

その書評は、過分に誉めていただいているし、本当に読み込んでいただいたのだと感じられるものだったので、コピーを大切に保管している。その書評の中に「十河進は一九五一年生まれ。全共闘世代への嫌悪感が強い。それは、わかる。『内ゲバ世代』として多くの被害をこうむったし、自己聖別化(自慢話)にもうんざり」とあった。

自分では「全共闘世代への強い嫌悪感」を書いたつもりはなかったので、そういう風に読みとれるのか、と思ったが、意外ではなかった。何かとそういう気分が漂っているのかもしれない。しかし、僕は「全共闘世代への強い嫌悪感」と同時に「強い連帯感と羨望と憧れ」を抱いている。会社の先輩でゴリゴリの全共闘世代の人には「遅れてきた青年」とずっと言われていた。

70年代が過ぎ、80年代に入った頃、僕はためらいながら立花隆の「中核VS革マル」という長い長いノンフィクションを読んだ。アノ時代がどんな時代だったのか、俯瞰したくなったのだ。その本の最後には年表がついている。1973年から1975年までの内ゲバの歴史である。僕の大学時代に見事に重なる。たった数年間で、驚くほどの若者たちが死んだ。

先ほどの大崎善生さんの「タペストリーホワイト」は、ヒロインの回想から物語が始まる。彼女にとって姉は憧れだった。その姉は恋人らしき男の影響からか高校紛争に関わり、東京の大学に入り別のセクトの内ゲバにあって死ぬ。それは誤爆(当時、間違って内ゲバをかけられた人は多かった)だったらしい。

やがて、ヒロインは自分も姉と同じ大学に入り、姉の行動を追跡する。だが、その行動が別のセクトからは敵対するセクトの活動家と見なされ、たまたまヒロインの部屋で寝ていた恋人が内ゲバの誤爆にあって死ぬ。内ゲバの初めの頃は鉄パイプだったが、バールが登場し、その頃には手斧さえ使われていた。

今も僕は問い続けている。三十五年前も「なぜ、なんだ。なぜ、こうなったんだ。革命を志していたのではなかったのか。なぜ、殺し合わなければならないんだ」と、僕は大学の中庭で鉄パイプを持って争う色の違うヘルメットの学生たちを見ながら問い続けていた。答えは見付からない。

すべては、その一年前に始まっていたのかもしれない。誰もが答えを出せない、あの凄惨なリンチ事件が僕たちの世代にとっては、大学生活の始まりだった。

●重すぎるテーマの映画から目は背けられない

凄惨なリンチシーンばかりが続き、若い男女が泣き叫ぶ場面に辟易したのだろう、カミサンは「自分の部屋で見てよ」と僕に言った。ワウワウで放映されたときに録画した「光の雨」(2001年)を見ていたときのことである。僕は自分の部屋に入って映画を見続けた。目を背けてはいけない、と僕は思っていた。ホントは、カミサンと同じくとっとと停止してしまいたかった。

可愛い顔の裕木奈江が鬼のような形相で、別の女子大生の指輪を「ブルジョワ的で反革命だ」と指弾する。大阪弁で山本太郎が「総括しろ」と女子大生の胸を突く。指弾された若い女は手足を縛られて山小屋の入り口近くの柱に吊される。山本太郎がそこにいる人間たちに命じ、彼らは若い女を殴り続ける。

裕木奈江は永田洋子であり、山本太郎は森恒夫である。監督は高橋伴明、原作は立松和平だ。作家と映画監督の強い意志が、その画面を見続けることを僕に強いる。立松和平は「光の雨」を書き続けながら問い続けていたのだ。高橋伴明も映画を作りながら、問い続けていたに違いない。「なぜ、こんなことになったのだ」と。

「光の雨」を読んだのは、その数年前のことだと思う。連合赤軍の幹部だった拘留中の坂口をモデルにした人物が語り手だ。彼が老人になって釈放され、孤独に暮らすアパートの隣人の若い男女に昔のことを話してきかせる構成になっていた。近未来の話である。若い男女にとっては、太平洋戦争の話を聞いているようなものである。

しかし、設定以外は、現在、判明している連合赤軍事件をほぼ事実通りにたどる。立松和平は「光の雨」連載中、資料をそのまま書き写したということで盗作騒ぎに巻き込まれた。僕は元資料に当たったことはないが、多くの資料を精読し「一九七二」という著作に結実させた坪内祐三の本を読んで確認した。

映画版「光の雨」は、現代の設定である。連合赤軍事件の映画を作っている現場をレポーターが取材するという構成だった。大杉漣が演じた監督と若い出演者たちとのギャップも描かれていた。演じる若者たちには、連合赤軍の若者たちの気持ちが理解できないのだ。

しかし、その同時代を若者として生きた監督は、あまりに重いテーマに押し潰され、途中で映画が撮れなくなる。撮影を放棄して逃亡する。彼も学生時代に全共闘運動に関わっていたのだろう。その監督の姿を見て、僕は長谷川和彦という天才監督を連想した。

「青春の殺人者」(1976年)と「太陽を盗んだ男」(1979年)の名作二本を作っただけの監督だ。彼は、連合赤軍事件を映画化することに執念を燃やすが、あれから三十年、未だに作ることができない。「映画を撮らない映画監督」と言われて、すでに久しい。

連合赤軍事件の全容が明らかになったのは、1972年の春のことだった。僕は今もはっきりと覚えている。僕は二十歳だった。その日、新宿の寮に入っていた今のカミサンが四月から住むアパートを探して、僕たちは私鉄の駅を順番に降り駅前の不動産屋を巡っていた。

何軒かの不動産屋では門前払いのような扱いを受けたし、僕たちの予算を聞いてすぐに「無理だな」と言われてばかりいた。いくつか見た部屋は、若い娘がひとりで住むような環境ではなかった。彼女がなぜ寮を出るのか、なぜ故郷に帰らないことを選んだのか、僕には痛いほどわかっていた。

僕たちは歩き疲れ、顔を見合わせて「お腹がすいたね」と口にし、一軒のあまりきれいではない安そうな大衆食堂に入った。テーブルに腰掛け、定食を注文してからぼんやりと隅に置かれたテレビを見た。ニュースだった。山中から続々と死体が発見されていた。中には妊娠していた女性もいた。裸で殴打の跡も痛ましい死体が見付かっていた。

その日、僕たちはそれ以上、不動産屋を巡る気力をなくした。僕は、彼女を初台の近くの女子寮まで送っていった。そのときも訳のわからない重い気分になっていた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
12月も半ば、年末気分が漂い始めています。今年も何とか書ききった、という感慨もあります。この連載も、もう丸8年になりますか。おぎゃーと生まれた赤ん坊が小学校に入る年数ですね。考えてみれば、ずいぶん変化があった8年間でした。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >

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■うちゅうじん通信[12]
うちゅう人のクリスマスの過ごし方

高橋里季
< http://bn.dgcr.com/archives/20071214140200.html >
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みなさま、クリスマスのご予定はいかがですか?

私は、品川のO美術館(オー美術館)で開催される「ディジタル・イメージ2007展」(12月22日/土〜26日/水)に参加します。
< http://www.digitalimage.org/ >

「ディジタル・イメージ」というのは、CGの作家の集まりです。絵や写真、ムービー作品もあります。会員の中には、有名なクリエイターもいるらしいのですが、なんといっても私はそういう事にうといので、誰の名前を出せば、みんなが知っているのかよくわかりません。会員なのにこれでよいのかというと、入会当初からまったく大丈夫な雰囲気で、みんな親切でした。

私のイラストの先生は、手描きのイラストレーターなのですが、手描きのイラストレーターのお名前も、私はあんまり知らないんです。お会いした事があれば覚えているけれど、、、私はタレントの名前も覚えないし、なぜなのか、自分でもわからないんだけど。

「ディジタル・イメージ」には、美術大学や専門学校で教えている作家もいるので、学生さんたちが見に来てくれたり、会場は毎年盛況です。私も、先輩方の新しい技法などを見て、「え〜? これどうやったんですか〜?」とか、いろいろ教えてもらったり、みなさんの作品を楽しみにしています。

展覧会とかって、私は友だちと一緒の事が多いので、おしゃべりして、お菓子を食べたりしているのですが、ふと気づくとまわりの人たちは、とても静かに絵を見ているようだったりして、不思議な感じ。

そういえば昔、パルコの展覧会で村上隆さんが、「後ろ、気をつけてね。」と声をかけてくれた事があったわ。あろう事か私は、壁の絵に軽くよりかかっていたのでした(会場が暗かったせいもあって、黒っぽい大きな絵に気がつかなかったの私)。

村上隆さんは、どういう訳か偶然「あ、あの、<後ろ気をつけて>の人だ。」とお見かけする事があって、そういう時に村上さんが、ディレクターとかに、大きな声で「村上隆です!」と挨拶するのを見て、私も、とにかくどこかで知り合いに会ったら、大きな声で「高橋里季です!」と挨拶するのがクリエイターなのだと思い込んで今に至るのだわ。

もっとずっと昔、パルコの壁に絵を描いていた人に、私は聞いてみた事がある。「あの、こういう所に絵を描くには、ペンキ屋さんに就職するんでしょうか?」すると、その人は、子供だった私に優しく「僕は、一応、芸大出てるんですよ〜(^^)」と答えてくれました。

どうも、この人が、後から思えば日比野克彦さんだったような気がするんだけど。日比野さんは、私がよく応募していたパルコのJPS展やアゴストの日本デジタルアート展の審査委員だったりして、私は日比野さんをお見かけする度に、パルコの壁の事を思い出していました。

私、ぜんぜん知らなかった。日比野克彦とか村上隆とか有名な人だったのだ!(私は大勢の中のひとりだったので、日比野さんや村上さんも私を知らないと思うけど、私の知り合いの友人だったりするのかも知れません)

そう、今も、私は友だちの絵のテクスチャーが面白かったりすると、平気で指で触ってみたりするのよね。「これ、面白いね、あ、思ったより厚みがあるんだね」とか言ってるけど、考えてみたらプロの作家の作品なのだわ。

さて、こういう私をあたたかく見守ってくれている「ディジタル・イメージ」の展覧会なので、楽しく観る事ができると思います。皆様、ぜひ見に来て下さいね。私にメールを頂ければ、できるかぎりお会いできるように、時間を合わせて会場に居るようにします!

この原稿を書いている今、出品作品に、急にアイデアを試したくなって、アクリル絵の具が乾くのを待っているところ。デジタルに手描きの味をプラスなのだ! 、、、って、失敗したら やりなおしだぞ!(絵のサイズは、B1 2枚)いつもの事ですが、一年中で一番多く私の頭の中を占めるセリフは、「え〜?ヤダ〜どうしよう???」だと思うの。

日比野さんや村上さんは、「ディジタル・イメージ」の会員ではありません。もしかして、日比野さんも村上さんも、このメルマガを読んでいたら、遊びに来て下さいね〜!

【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
専門学校東京デザイナー学院の雑誌広告のイラストを描きました。進学、卒業準備のシーズン、みんながんばって乗り切るのだ! 風邪とか気をつけてね。
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/ >

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■デジクリトーク
モールトンで柳沢峠越え

関谷哲史
< http://bn.dgcr.com/archives/20071214140100.html >
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みなさん、こんにちは、「Fanny Fase」の関谷哲史です。

前回は少し本格的に自転車に乗り始めたお話でした。今回はその後、5月の末に川崎から奥多摩の柳沢峠を越えて、山梨の実家に行ったときのことと、現在はどうなのかという話をします。

今年の5月は休暇だったので、父親に煽られ、昔父親も挑戦したらしい、柳沢越えをしてみようと予定を立てました。しかし、その前にひょんな事から中学の頃の旧友が福生で実家の自転車屋を継いだと聞き、早速遊びに行って来ました。

会うのはまさに20年振り。福生までは往復70キロ。わたしのことは大体覚えてくれてました。当時に比べて、「やせた?」とも。お店でも、懐かしいひと時と自転車の話をしまくり、買い物も少ししました。しかし家業で自転車屋とはうらやましいと聞いたところ、新卒で大手自転車パーツメーカーも受けたそうで、最終面接で、実家の事を聞かれ気まずくなったそうだ。

それから暫く経って、大井埠頭にツアーオブジャパンを見に行こうと前の職場の友達に誘われました。約200キロを時速40キロのペースで走るレースを目の当たりにして、住んでる世界が違うとこれまた納得しました。

柳沢峠越えはレース観戦の翌日でした。天気も体調もよく、気持ちよく午前9時に出発しました。事前に調べたら山梨の実家まで、110キロくらいだったので6時間くらいで到着予定でした。今まで自転車で一気に走った距離は最大で60キロくらい、その先が未知数でした。自転車で峠に行くのも初めてでした。

あとで知ったのですが、柳沢峠は、峠の中では横綱の部類に入るそうです。色んな人に自転車で柳沢峠に行くと話したのですが、この時点で止められなかったのが、とても不思議です。

福生までは、この前旧友の自転車屋に行った時と同じ感じでした。ここまで約40キロ近く。福生は少年時代を過ごした懐かしの場所、しかもモールトンで。タイムスリップ?!

途中、日野で、同じ自転車に乗っておられる初老の方と一緒になりました。初対面でも世代を超えてに話せるのは、とてもいいなぁと思いました。日野は、青春時代を過ごしたこれまた懐かしの場所。そこから更に多摩川の上流を目指して上がっていきました。

道のりは青梅街道から国道411号へ。後に411という数字だけみると気持ち悪くなる現象が。。。しかし、この時はまだ平気でした。奥多摩までの道は、初夏の雰囲気満点で、アップダウンはあったもののかなり満喫できました。

青梅線沿いの駅周辺がとてもきれいで、来て良かったと実感しました。トンネルが沢山あって怖かったり、車に煽られたりで、だんだん体力が消耗して行きました。大学時代に、バイクでこの道を使って帰ったのを思い出し、確か、、道のりはまだまだ。。。と不安になりましたが、今更戻れないし進むしかありませんでした。

しかも当初は、奥多摩で蕎麦でも食おうと思っていたのですが、食欲不振で奥多摩産ミネラルウォーターとカロリーメイトで満足でした。小河内ダムに到着。午後2時くらいでした。ここまで約70キロ。体力的にも気分的にも、もう一踏ん張りくらいだろうというくらいでした。

しかし、あと40キロ、40キロってどれくらいだっけ? すぐでしょ、すぐなはずだ! と感覚は完全麻痺してました。ここからは、寂しい道が続きます。お気に入りのミネラルウォーターも売ってません。自販機でスポーツ飲料があればいい方で、自販機がある度に休憩となりました。一本道を進んでいるのになんだか道に迷った気分。長く〜ゆる〜く上っていて、スピードは出ないし心拍数は上がったまま下がりません。

ガードレールにもたれかかりながら進みます。その横を峠を攻めるスポーツカーが通ります。なんだかとても可笑しい光景ですが、全く余裕がありません。ギアは一番軽いのに、ニ人乗りしている気分です。同じカーブ、同じ坂を永遠に上ってる気がしました。途中、おいらん淵という心霊スポットがあったのですが、全く気にせず、自販機の缶コーヒー、ドリンク剤で出直しました。ここらで飲んだ缶コーヒーのおかげで、後々、腹を下す結果になりました。80キロ地点。

とにかく、心拍数はあがりっ放し、距離は伸びません。ああ、ダンシングをちゃんと練習しておけばよかったと後悔しました。甲州市と411号という表示を何回も見ました。なんだか吐き気すら催してきました。とうとう、ペダリングもきつくなって歩く。歩いていても心拍数は変わらない。なってこった。

日が暮れる前に峠を越せるかどうか心配になってきた。どうしよう、迎えに来てもらおうかな? なんかかっこ悪いな。でも、少しだけ元気になってきた。ペダリングできるぞ。

「柳沢峠」の表示。。。やった! 標高1472メートルを登り切り、自転車と看板を写メし、駐車場のトイレに入る。至福の時でした。そこからは、永遠の下り坂、上がるのを考えたくない下り坂。ヘルター・スケルター。慎重にブレーキングしながら、帰りは車で乗せてってもらおうと予定を立てました。

下界の塩山に着くと、とても暖かく感じられました。山梨の実家に無事着くと総距離115キロ、消費カロリーは、5000キロカロリー。時間は約9時間。到着と同時に日が暮れました。

翌日は、筋肉痛にはなりましたが、それほど酷いものではなかったです。そのかわり411という数字をみると今でも嫌な気分になります。

現在は、自転車通勤はしていません。その代わり、週に一度13キロの道のりをジョギングで帰ってます。自転車もたまに40キロを2時間くらいで、LSDトレーニングとして利用してます。ジムにも通い始めました。プールが利用できるのがとてもいいです。となると次は、トライアスロンでしょうか。その前に、柳沢峠リベンジ? この話はまた次回にでも。。。

【せきや・てつし】sekiyac@triton.ocn.ne.jp
Flash Demo せいうちと大工
< http://www.sphereframe.co.jp/flash/top10.html >
株式会社スフィアフレーム所属。ゲームのグラフィックなどを受注しています。
何かありましたらお気軽にご相談下さい。
< http://www.sphereframe.co.jp/ >

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■編集後記(12/14)

平成関東大震災--いつか来るとは知っていたが今日来るとは思わなかった--・福井晴敏「平成関東大震災 いつか来るとは知っていたが今日来るとは思わなかった」(講談社、2007)を読む。「亡国のイージス」「終戦のローレライ」のあの作家による「リアルなデータと情報を満載した実用的シミュレーション小説」とあっては興味津々。「週刊現代」で短期集中連載されたもので(読んでいなかった)、とくに「実用的」という切り口に注目だ。小説の進行にあわせた実用情報コラムが挿入される構成で、さっさと読める新書版だ。10月16日午後6時29分、それがやってきた。震度6強、震源は羽田沖10キロ、深さ20キロ、マグニチュード7.3。東京都庁のエレベーター内でそれに遭遇したサラリーマン西谷久太郎42歳、ようやく脱出し、墨田区京島の自宅まで直線で8キロの道を歩いて帰る道中記が小説部分だ。彼に寄り添うのは変に博学で冷静な謎の青年・甲斐説男。その名の通り、極めて深刻な状況に振り回される西谷に、さまざまな情報を知らせ解説する(その正体は終わりの方で明かされるが、意外に陳腐だ)。正直いって、あまりよくできた小説ではない。実用的というより実験的。それも無理のある実験、というか発注。小説家だって困ったのではないか。コラムは書き下ろしということだが、これが加わってようやくソコソコの一冊に仕上がった。役に立つかというとビミョーだが、「サバイバルの分かれ目は72時間、そして心の危機はそのあとにやってくる」ということだけは理解できた。いつか来るとは知っているそれを気にしていながら備えのないわたし。(柴田)

・ほんま好っきゃわー、里季さん。この好きさ加減は、地球人が宇宙人に憧れるのに近い。宇宙人を研究したって無理よね。/今日はバレエの先生の舞台を見に行くのだ。会場のある六甲アイランドへは片道二時間かかる。ここには、私がアルバイトとしてついていた人が所属していた会社(このメルマガを当初発行していたのはここから)が潰れた時に、その人から急に放り出され(連絡すらとれん)、それでもメルマガを続けようとしていたら、神田さんから「収入なしには続けられないって」と現実的な説得をされ、放り込まれたIT企業があった。往復四時間というのにめげて(時間もったいない〜体しんどい〜乗り換え4本〜)一ヶ月ほどでやめた。いや、もっといたっけ? 忘れた。会社自体の福利厚生は良さそうだったし、技術も高かったし、社員さんに凄い人がいて勉強になったし、何しろ毎日のように企業(大手も)が離れ小島の六甲アイランドにまで訪問して、新技術やら新製品やらをPRしていく華やかさがあった。外部の人を呼んでの気軽なパーティーの集客人数も、そこらの異業種交流会より多かった覚えがある。社長さんは個人的には苦手なタイプであったがいい人そうだった。遠距離だからとやめることを申し出たら、徒歩圏内にマンション(社員宿舎として)借りてあげよう、私にとっては破格のお給料を用意してくれるとまで言ってくれた。でもここに通うとメルマガ続けられないよなぁと断った。両立は難しいし、のめりこんだらその会社の発展に尽力する方が面白くなりそうだった。彼は話し合いの末「もう二度と会うことはないと思うけど。」とちょっと嫌な言葉を投げかけた。関西のIT業界なんて狭いから嫌でも会うのに、と思っていた。IT業界の発展に伴い、一時は東京にビルまで用意できた人なのだが、いまは誰に聞いても行方がわからないとしか言ってもらえない。生きてはるんやろか。本当に「もう二度と会わない」ままになっている。とか感傷に浸ったりして。いや、だから、そこへ行くのは久しぶり〜、きれいなところなの〜、舞台楽しみ〜と書きたかっただけなんだけど、脳みそがそっちに向ってしまったわ。初心忘れるべからず、な日。(hammer.mule)
< http://k-bijou.com/ >  ここの公演
< http://www.fashionmuseum.or.jp/ >  神戸ファッション美術館