Otaku ワールドへようこそ![64]自己の内部を漁ってみる/GrowHair

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前々回、定義や存在をめぐり思索したことを書いたが、今回も目を内側に向けて、自分の内部からネタを引っ張り出してみました。小ネタ3題。


その壱●昔、授業で習ったこと

高校の授業で教わったことなんて、30年も経った今ではほとんどすっからかんに忘れているが、それでも私はこれを習ったのだと誇りをもって言えることがわずかながら残っている。化学の宮田先生は、生徒のことをよく思って、いつも面白い授業をした。元素をイオン化傾向の順に並べたものを、生徒が覚えやすいようにと、みずから語呂合わせを考えてくれた。「カカア生臭くある、悪郎テニスなす、度過ぎて吐きたり」。

先生は教鞭をとる傍ら、公害の研究をしていた。当時は公害というと水俣病とか四日市喘息のように地域に特化したものと考えられがちだったが、先生はもっとグローバルな視点で環境を見ていた。そして、よく「飛行機は飛んじゃいかん」と言った。大気圏内の高いところにはオゾン層があるが、オゾンというのは酸素原子3つからなる分子で、これは酸素原子2個からなる酸素分子よりも安定性が低いので、ちょっと刺激を与えると、オゾン分子2つがぱっと組み替わって酸素分子3つになっちゃうのである。オゾン層を破壊しつづけたら、紫外線が通り抜けて、今に大変なことになると言っていた。だけど、その後、地球が温暖化したなんていう話は聞いたことがないから、きっと先生の思い過ごしだったのであろう(実際にはフロンが規制されたが、それだけで解決したのだろうか?)。

高校の授業では、もうひとつ記憶に残ったことがある。美術は苦手だった。いや、美しいものが嫌いというわけではないのだが、自分で何かが作れるかとなるとからっきし駄目で、小学校時代にはすでに自分の才能に見切りをつけていた。こういう科目はないほうが悩みが少なくていいんだがなぁ、といつも思っていた。あるときの課題は薄い真鍮板を糸ノコで抜いて、何か形を作れというもの。醜いものを作ったら「美」術になるかという逆説を思いついて妙に得意になってしまい、蛾を作ることにした。図鑑を写した下書きを先生に見せたら、これがこっぴどく叱られた。

「ちゃんと見てるのか」と。先生は昆虫の研究家だった。蝶の羽の輪郭が丸っこくて力が抜けているのに対し、蛾の羽はシャープで緊張感があり、それはそれは美しいのだという。そこが表現できていない、と。言われてよくよく見れば、なるほどそのとおりだ。長く見ていると、刷り込まれていたイメージのフィルタが薄れてきて、造形そのものと直接対峙できるようになってくる。そうすると美しいという感じも何となくわかってくる。参照したのが図鑑では、平面図のような生気のないものになったが、羽の輪郭線だけは何とか形になった。

以来、蛾が好きになった。大学時代、那須に行ったとき、たまたま大きなオオミズアオを見かけた。あまりの美しさにすっかり魅了され、いつまでも目を離すことができなかった。

その弐●んで? 平成のオタク男子はどうなんだい?

平成男子図鑑 リスペクト男子としらふ男子深澤真紀の「平成男子図鑑」を読む。んもー、かんべんしてよ。これ、俺を笑わす狙いで書いたんかいっ、て言いたくなるほどツボにはまった。電車ん中で笑いをこらえるのが大変だったぞ。始めのほうはいいのである。編集の仕事を通じて、おそらく非常に多くの人と会ってきたであろう経験を生かし、今の若者はおやじ世代からは想像もつかないくらい、ものの考え方やライフスタイルが変わってきてますぞ、と世に訴えている。

興味の射程距離が短く、地元志向、家族志向、友達志向。自分と自分のまわりを全肯定。自分最高! 友達最高! 世の中のいろいろな分野の第一人者を「尊敬」するのではなく、身近な人の「選ぶ古着のセンスがすげえ!」というようなことを「リスペクト」する。女の子なみにおしゃれや買い物や占いが大好きで、泣き虫だったりもする。人の話に上手にツッコミを入れて場の空気を盛り上げるのが得意。物を所有することにも、人と競争することにも、女の子とHすることにも、がつがつしていない。草食男子。情報源は、見る読む鑑賞するではなく、何でもかんでもとりあえず「チェック」。

これって、生まれたときからずっと豊かで安定した社会の中で暮らしてきて、兄弟でおやつの取り合いなんかあんまりしてこなかったとか、ものごころついてからずっと膨大な情報の洪水の中に置かれているという環境によるところが大きいんでしょうかねぇ、という調子で、ぬる〜く、ゆる〜く論じている。

若い世代にだってオタクはいるはずなのに、いっこうに登場しないのがだんだんじれったくなってくる。「平成男子図鑑」と言ったって、あらゆるタイプを網羅するのではなく、自分がつきあってもいいかなと思える、ある水準よりも上の、興味を惹かれた男子のことだけにしか目を向けてないんじゃないのー?偏ってませんかー? しょせんオタクなんて、存在することすら認識されていない、完全な透明人間、インヴィジブルなんだよなー、どうせどうせ……。

ところが最後に大どんでん返し。特にオタクっぽくない一般の男子だって、ガンダムからはけっこう影響を受けてますよー、という「ガンダム男子」の話になったあたりから論じる調子が一変して、ぐわーっと一気に温度急上昇。ガンダムがいかにそれまでのアニメと一線を画するものであるかを言うために、ガンダム以前の「マジンガーZ」や、以降の「新世紀エヴァンゲリオン」を引き合いに出してきて、状況設定やら世界観やら登場人物やら筋書きやら、語る語る語る。

「少年ジャンプ男子」の話になると、男子を論じるなんてテーマはどっかへそっちのけで、歴代のヒット作品がいかにすごいかをこれでもかってくらい次から次へと……。キャプテン翼、ドラゴンボール、SLAM DUNK、DEATH NOTE……。その語りの熱さは、調べて論じるなんて調子ではなく、もう好きで好きでたまらないと言わんばかり。ププッ、自身、オタクなんじゃん。好きなことを語り始めたら止まらないという、セオリーどおりのオタク丸出し。あのー、暴走してますけどー。

その参●社会を俯瞰的に論じてみる

世の中で起きているさまざまな問題に関して、現実的に解決策を講じていこうとするならば、ひとつひとつの問題に対して個別に取り組み、それぞれの状況を詳細に調べていかなくてはならないだろう。だが、一方、個々のひっからまった事情からはいったん距離を置き、俯瞰的な視点に立ってものごとを広く眺め渡し、抽象的に論じてみるというアプローチはどうだろう。それによって、多くの問題に共通して底流をなす根本原因を探り当てることができれば、ものごとの見通しがよくなり、問題解決の方向性を見定めやすくなるのではあるまいか。

人間の本性が善か悪かと問われれば、根本的には、それほど悪いものではないと思いたい。しかし、我々に備わっている自意識のありようは、それ自体が悪だと言うほどのものではないにせよ、放っておけば人間関係のごたごたを誘発しかねない要因ともなりうるのではあるまいか。それは、矯正しなくてはいけないというほどのものではなく、我々はそういうふうに出来ているのだということに自覚的であれば、十分なのだと思う。

多くの問題の底流をなす、その根本原因とは何か。大きく括って抽象的にまとめれば、次のように言えるのではあるまいか。「自分のこいた屁は臭くない」。自分の屁の臭さを自覚するには、想像力が要る。他人が自分なら自分は他人、自分が他人なら他人は自分という、自他の対称性。他人の屁が自分にとって臭く感じられるということをもって、自分の屁もひょっとしたら他人にとって臭く感じられるのではなかろうかと想像できること。これがすなわち「教養」の根っこの部分をなすのではないかと思う。

人はなぜ、カラオケで歌うことが可能であるか。自分のこいた屁は臭くないから。ここに気がついちゃうと、どうにもこうにも歌えなくなるね。声楽の学校にでも通って臭くない屁が出せるようにならない限り、とうてい人前でなんか歌えたもんじゃない。ただし、これには簡単な抜け道がある。酒をしこたま摂取しておくと、屁は適度に香りがよくなる。

自分だけは特別に幸運の女神に見守られているのではないかと期待しちゃうのも、自分の屁だけは臭くないの原理に無関係ではないような気がする。相場や賭け事に深入りしすぎて家財を失ったなんて話は昔からいやというほど聞くが、自分だけは破滅のリスクから免除されているはずだ、きっと儲かるはずだ。やはり例外ではなかったと思い知らされたときは、相当痛い目にあってるわけで、この種の教訓はなかなか次の世代へと生かされない。

世の中にうまくいっていない夫婦が山といるのを見てはきているが、それでも自分だけはなんとなく幸せな結婚ができるような気がするもののようで。私には人を見る目があるから、慎重に相手を選んだから、と。それでうまくいくなら、みんなもっと幸せになっとるはずではないかなー? これもやっぱり屁の原理か。

ひところ、外資系の会社に勤めることがカッコいいというのをよく聞いた。ぬるま湯的な年功序列をよしとせず、個人の能力がものを言う競争原理の風土を生き抜くことが、戦士っぽくていいらしい。そりゃ、厳しい環境に身を置いて鍛え抜かれることは、能力と収入という形で本人に還元されるわけだから、いいでしょう。だけど、そういう環境にいさえすれば、自分は「勝ち」の側に生き残れるはずだ、と訳もなく信じることができるとしたら、そこにもやはり屁の臭いが……。

自分の屁の臭さに自覚的であるためには想像力が要る、と書いたが、この想像力には二つある。サンタクロースについて、詳細に思い描くことができるのは、ひとつの想像力だ。だけど、もしかするとサンタクロースって実在しないんじゃないか、と気づくことができるのもまた、もうひとつの想像力だ。

宝くじを買うと、もし当たったらあんないいことやこんないいことがある、と想像してわくわくするであろう。だからこそ買うわけで、それはそれでいいのだが、実際に当たった人がどうなったかという実例には、幸福とはほど遠いのがけっこうある。つきあっていた恋人から高額の訴訟を起こされたとか。建てた別荘が、直しても直しても何者かによって破壊され続けたとか。飲み食いが過ぎて、結局寿命を縮めたとか。お客さんたちとは友達レベルのつきあいをしてきたと思っていたお寿司屋さん、宝くじに当たったと知れるやいなや、客足はぱったりと途絶え。自殺してしまった。

友達どうしで軽くおしゃべりするときなど、最近は場の空気というものが最重要視されるものらしい。それはそれで結構なことだが、場に好まれない話は避けなさいと暗に言われているようでもある。重い話や暗い話を持ち出すと、一瞬の気まずい沈黙が訪れた後、すぐに誰かが違う話題を切り出して、きれいに掃除されちゃう。何となく、空気様が一番偉くて、個人個人の心の深いところはお互いに立ち入り禁止になっている感じ。

「王様の耳はロバの耳」じゃないけど、そういう場で言えなかったことを匿名のブログなどで吐き出す人も、けっこういるようだ。本当の自分というものが誰からも理解されていないことに寂しさを覚えるもののようで。それは分かる。ただ、それが高じると、「みんな私にだけ注目して〜」という、いわゆる「かまってちゃん」という方向に行きかねない。「自分だけは特別に、人々から関心をもってもらえるはずだ」と期待するのは屁の原理と相通ずるものが感じられる。自他の対称性に自覚的であれば、流れを変えることができるのではあるまいか。まず、自分が先に、他人を深く知ろうと努めてみてはいかがだろう。

自分のこいた屁を、臭くないと言い張って他人に強制的にかがせることを「自由」と称して積極的に推進している国がある。アメリカである。日本は太平洋戦争に負けて以来60年間、アメリカの臭い屁をかがされ続けてきた。だけど、その日本も、腹いせにアジア方面に尻を向けて、相当臭いやつをぶっ放してはいないだろうか。

まあ、屁理屈だけど。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
純粋理性批判 上   岩波文庫 青 625-3屁理屈商人。もの書く人は二度死ぬ。書いたものがついに誰にも読まれなくなるときが二度目の死だ。だけど、ネット上の膨大な文章のほとんどは蜻蛉ほどの寿命もなかったりする。毎日数百点もの新刊が出ると言われる書籍も、ほとんどは短命に終わるらしい。百年生きる文章ってどんなものだろう。そんなことを考えて、カントの「純粋理性批判」(1787年)の最初のほうをちょこっと読んでみた。経験から得た一切の知識をいったん忘れ去ったと仮定するとき、純粋理性の力だけで、いったいどれだけの真理に到達しうるかを論じている。純粋理性のなしうることとなしえないこととをはっきりと区別し、数学や物理学と同等の確実さをもって形而上学の基礎を築きたいと望んでいる。ところが、カント以降も数学や物理学が進歩したおかげで、彼の論のかなりの部分がもはや無効になっているように感じられる。読まれてはいても、内容が死にかけているのだ。恐ろしいことだ。今書かれて百年後も生きている文章って、あるのだろうか。願わくは、百年間臭い続ける屁をぶっ放して、世間をうわっと言わせることができたなら。