映画と夜と音楽と…[368]ノスタルジーは心を溶かす
── 十河 進 ──

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●初めて見た映画の撮影現場に旭がいた

初めて映画の撮影現場を見たのは、昭和37年(1962年)の夏だったと思う。正確な日にちは憶えていないが、町内の盆踊り大会の日だった記憶がある。だが、記録によると、その映画はお盆映画として封切られたことになっている。ということは、映画を見たのがお盆の頃で、ロケを見たのは夏前のことだったのだろうか。

しかし、僕は浴衣を着て自宅の前にあった空き地に組まれたやぐらを見ていたとき、町内の誰かが「観光通りのガソリンスタンドに旭がきとるぞ」と言うのが聞こえたと数十年も記憶していた。そして、その言葉にすぐに反応したのは父だった。「ススム、見にいくぞ」と父は腰を浮かしながら言った。

僕の映画好きのDNAは、間違いなく父親から受け継いだものだ。父は映画が好きで、僕も子供の頃から毎週のように連れていってもらった。東映の時代劇やギャング映画、日活の無国籍なアクション映画が中心だった。僕の邦画好き、B級映画好きは、その頃に培われたものかもしれない。


国道11号線、通称「観光通り」にある新築のガソリンスタンドは、その当時、高松市で話題になっていた場所のひとつである。屋根が貝殻のデザインをしたシェル石油のガソリンスタンドだった。我が家からは歩いていったと思うが、20分ほどかかったのではあるまいか。まさに黒山の人だかりだった。

そのときの光景は、今も鮮やかに浮かんでくる。父に肩車をしてもらって、見物人の群れの中から僕は遠くにいる旭らしき人物を見た。もう完全に陽は落ちていたが、大量のライトに照らされてガソリンスタンドは昼間のように明るかった。フィルムの感度が低いからライトの光量が必要なのだと知るのは、後のこと。その明るさ、華やかさに「さすがに映画だなあ」と僕は感嘆した。

シーンは単純だった。車から降りた小林旭がガソリンスタンドに入ってくる、というのを何度か繰り返していた。旭の薄い黄色のスーツが大量のライトを浴びて、ほとんど白に見えていた。今なら、キャメラの位置や音声はどうしているのだろうという興味で見るだろうが、当時は、小林旭という大スターに釘付けだった。

渡り鳥故郷へ帰るその映画には香川県と高松市が全面協力していたし、当時の高松市長がフェリーの客としてエキストラ出演していると聞いた。国鉄連絡船より早く宇野に着くのが話題になっていた、開通したばかりの宇高国道フェリーの桟橋がしきりに出てきたが、それも完全にタイアップだった。

「渡り鳥」こと小林旭は宇高国道フェリーで来高し、同じフェリーで去っていく。見送るのは、それまでの「渡り鳥」シリーズのヒロインである浅丘ルリ子ではなく、南田洋子と笹森礼子だった。なぜ、浅丘ルリ子が出ていないのかについて、事情通らしく父はこう断言した。

──あれはの、旭がひばりと結婚して、ルリ子が振られたからや。

本当にそうだろうか、と僕は思った。だいたい、旭とルリ子は映画の中で恋人同士の役をやっているだけではないのか。それなら裕次郎とルリ子はどうなのだ。裕次郎映画のヒロインは、ほとんどルリ子じゃないか。小学5年生の僕はそんな疑問を抱いたものだった。

しかし、調べてみると小林旭と美空ひばりが結婚したのは、まさに昭和37年のことだった。「渡り鳥」シリーズの八作までヒロインをつとめた浅丘ルリ子が、なぜ9作目だけは出ていないのか…、今になって父の言葉に説得力を感じている。それに、裕次郎はすでに北原三枝と結婚していた。浅丘ルリ子も不倫関係は嫌ったのかもしれない。

●渡り鳥が帰った故郷は四国高松だった

南国土佐を後にして小林旭の「渡り鳥」シリーズができるきっかけになったのは、「南国土佐を後にして」(1959年)が興行的に成功したからである。ペギー葉山の大ヒット曲をタイトルにして作られた歌謡映画であり、小林旭もヒーローらしくない悩める前科者の役だったけれど、この映画が大部屋出身の若き俳優をスターにした。

「南国土佐を後にして」を見ていて感じるのは、戦争の影だ。主人公は少年のときに特攻機で出撃していく兄を見送る。兄の恋人(南田洋子)は、ずっとその面影を抱いて生きている。ヤクザになってしまった主人公は、特攻隊で死んだ兄に対して何らかの負い目を感じ続けている。戦後14年が過ぎた頃の映画だが、それは「たった14年」だった。

「南国土佐を後にして」のヒットを受けて、日活は小林旭主演でシリーズものを企画した。流れ者のヒーローが地方都市に現れ、ヒロインの危機を救い土地のボスを懲らしめて去る…、西部劇のような設定である。もちろん、日本にも股旅ものという先例はあったが、よりバタくさい(無国籍な)設定にしたところが「渡り鳥」シリーズの特徴だった。

その頃の日活は、スターたちにニックネームを付けた。石原裕次郎は「タフガイ」であり、赤木圭一郎は「ナイスガイ」であり、小林旭は「マイトガイ」だった。後に短期間だけ主役を張った二谷英明は「ダンプガイ」と名付けられ、なぜか宍戸錠だけは「エースのジョー」だった。

「タフガイ」「ナイスガイ」はわかるが、「マイトガイ」はどこからきたのか。旭が「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」(1959年)に主演したからだ。もっとも小林旭は前年に「ダイナマイトが百五十屯」というレコードを出している。ちなみに「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」の脚本は、若き池田一朗、後の隆慶一郎が書いた。

日活が「○○ガイ」と名付けた中で最も定着したのが「マイトガイ」だった。小林旭は「銀座旋風児」という二階堂卓也シリーズも持っているが、これには「ギンザ・マイトガイ」とルビを振っていた。「旋風児」を「マイトガイ」と読ませるのも強引である。

僕には小林旭が人気絶頂だった記憶がある。しかし、改めて調べてみると、それは昭和34年(1959年)から37年(1962年)のほんの数年のことだったのがわかる。「渡り鳥」シリーズの最終作とされる「渡り鳥故郷に帰る」は9作目になり、ある種のオーラが旭からは消えていた。しかし、「渡り鳥の故郷は四国高松だったのだ」と、未だに僕は自慢(?)することがある。

●郷愁に充ちた記憶の中にあった風景が映る

先日、WOWOWで放映された「渡り鳥故郷へ帰る」をカミサンとふたりで見た。46年ぶりのことだ。カミサンも同じ頃に高松で少女をやっていたので、「ほらほら、ここは紫雲山よ」などと言う。高松港、栗林公園、屋島など、名所の地名がスーパーで入る。「渡り鳥」シリーズが観光映画の側面を持っていたことを改めて感じた。

僕がロケを見物したシーンは、たった数秒で終わってしまった。しかし、そのガソリンスタンドは、主人公が生まれ故郷に戻ってきて滞在する拠点になるから頻繁に登場する。ただし、室内シーンは明らかにスタジオセットだとわかる。外のシーンだけを集中して撮影したのだろう。

スタンド側からのショットには、当時の観光通りが映っていた。並木の柳が風に揺れている。オート三輪が走っている。記憶の中にある風景だ。「そうだったよなあ」と懐かしさが湧いてきた。繁華街のシーンも僕が記憶しているままに映っていた。旭が瀬戸内海をバックにギターを抱えて歌う屋島の展望台は、その数年後、中学生の僕がデートすることになる場所だった。

そのとき、不意に「旭は、全部、自分でアクションやってるんや。裕次郎みたいに代役は使わん」と言う声が甦った。四十数年、完全に記憶から消えていた声だった。同時に旭ファンの作家、小林信彦さんの「僕は男の子が生まれたら旭と名付けようかと本気で思っていた」という文章を思い出した。

その声の主は小林クンといった。今となっては下の名前は思い出せない。小林クンのことも完全に忘れていたのだ。小林クンとは5年生で同じクラスになった。大阪から引っ越してきたと聞いた。大阪は都会である。讃岐弁の僕らは、何となく小林クンに近寄りがたいものを感じていた。

名前が同じせいか、小林クンは熱心な小林旭ファンだった。その頃、小林と言えば「小林少年」の方が人気があった。「怪人二十面相」が連続テレビドラマで放映されていた頃だ。「勇気凛々ルリの色…」と歌うのはラジオドラマだった記憶があるが、テレビでも使われていたかもしれない。小林少年は「少年探偵団」のリーダーであり、明智小五郎の助手だった。

しかし、小林クンは「小林少年」には見向きもせず、小林旭一筋だった。僕が小林旭のロケを見にいったことを話すと、小林クンはひどく羨ましがった。それから「ええもん見せてやるで。学校の帰りにうちに寄れや」と言った。その日、僕は自宅とは逆の小林クンの家に初めていった。

赤い夕陽の渡り鳥小林クンの家は、西の高級住宅地にあった。父親は大阪から高松支社に転勤になったサラリーマンだったと思うが、もしかしたら支店長クラスだったのだろうか。小林クンは、二階に独立した自分の部屋を持っていた。部屋に入って彼が指さしたのは壁に貼ってある「赤い夕陽の渡り鳥」(1960年)のポスターだった。

──どしたん、これ。
──大阪におったとき、お父ちゃんがもろてきてくれたんや。

その大きなポスターは少し羨ましかったが、小林クンほどの熱烈な旭ファンではなかった僕があまり感激しないので小林クンは落胆した。小林クンはレコードを取り出してプレーヤーにかけた。「カラスのヤロー、どいていな」と、甲高い小林旭の声が響き渡った。「ダイナマイトが百五十屯」だった。

「ねえ、女子商か高商が使われたンと、違うン?」と言うカミサンの声で、僕は小林クンの回想を中断させられた。カミサンが言ったのは、高松女子商業高校と高松商業高校の略称である。どちらも僕が通う小学校の隣にあった。そのカミサンの言葉で、僕は再びまったく忘れていた記憶を甦らせた。

──それは「エデンの海」だよ。高橋英樹と和泉雅子。小学6年生のときにロケにきてたな、そう言えば。同じ監督が山口百恵でリメイクしたことがある。
──三浦友和と?
──いや、相手役は南条豊だった。昔、テレビ放映で見た。
──そんな人、知らン。

その夜、普段、無口なままテレビを見ている冷えた関係の夫婦に珍しく会話が生まれた。郷愁、ノスタルジーは、かくも人の心を溶かすのだと思い知ったのだった。

小林クンは息子を「旭」と名付けただろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
いつの間にか、桜のつぼみがほころぶ時季になりました。春は好きな季節なのですが、花粉で悩まされるようになった数年前から、散歩に出るのも億劫になってしまいました。締めきった部屋で原稿を打ってます。ああ、目が痒い。ゴーグルをして歩く人を笑えません。

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
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by G-Tools , 2008/03/21