[2400] うちゅう人の究極の理想

投稿:  著者:  読了時間:19分(本文:約9,100文字)


<まさに「親父の背中」を見た思いだった>

■映画と本と音楽と…[再録]
 父から子へ伝わるもの
 十河 進

■うちゅうじん通信[19]
 うちゅう人の究極の理想
 高橋里季


■映画と本と音楽と…[再録]
父から子へ伝わるもの

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20080404140200.html >
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●共に家を建てる

ケビン・クライン主演の「海辺の家」(2001年)を見ていたら、昔の建築現場を思い出した。「海辺の家」は、数カ月後に死ぬことを知った主人公が息子と共に家を建て直す話である。16才の息子は離婚した妻と暮らしており、自分を持て余すようにマリファナやシンナーに溺れ、荒れている設定だ。

もちろん、ふたりは家を建てる過程で理解し合い、荒れていた息子は穏やかになり、主人公の死後、ひとりで家を完成させる。お約束のような展開だが、そうなることを期待している観客たちに、どんな結末を提供できる? どちらにしろ映画なのである。苦い結末だったら、僕も見たくはない。

父と子、という関係はなかなかむずかしい。僕にも息子と娘がいるけれど、ことさら何かを伝えようとすることなど、普通の親子関係の中では成立しないと思う。親の背中を見て子供は育つというが、自分のことを思い返しても父親から改まって何かを継承したことなどなく、結局、その生き方を見て育ったと実感する。その姿は時には教師であり、時には反面教師だった。

家を建てることでコミュニケーションを成立させていく話としては、ロバート・B・パーカーの「初秋」が印象深い。探偵スペンサーの7作目の長篇だ。スペンサー・シリーズで僕が最も好きな話である。両親に見放された自閉症気味の少年に、スペンサーは一緒に家を建てることによって、人生に立ち向かうことを教えていく。生き方を学ばせる。自立心を培わせる。

しかし、この小説が成立するのはスペンサーと少年が親子ではないからだ。ここには擬似的な親子関係の成立が描かれるが、男同士の友情と同じように、肉親ではないからこそ「教える立場」と「教えられる立場」が素直に成り立つのだ。肉親であれば、そこにはいろいろと複雑でややこしい感情がからんでくるだろう。

僕も息子ができたら「初秋」のスペンサーのように何かを教えられたらいいなと思っていたけれど、実際に息子ができると子供を育てるというのはメシを食わせ教育を受けさせ、人に迷惑をかけないようにしつけ、それ以外は見守っていることしかできないのだと思い知らされた。

●父親の仕事現場

「海辺の家」を見ながら昔の建築現場を思い出したのは、子供の頃からなじみがあったからだろう。今と違って、昔は近所の建築途中の家の中で遊び回れたものだったが、僕の場合は父がタイル職人だったので子供の頃から父の仕事現場にいくことが多かった。

忙しい時には母も僕を連れて現場に手伝いにいっていた。親方をやっていた父のところには多い時で10人近くの職人がいたが、景気がいい時は下働きが不足することがあったのだ。中学を卒業したばかりのアンちゃんがふたりほど住み込みでいたが、忙しくなると母は現場に入りセメントと砂をこねたりした。

考えてみれば、普通の民家とはいえ建築現場だから、けっこう危険だったはずだが、僕は父や母が働いている横で機嫌よく遊んでいたらしい。少し大きくなると、休みの時に小遣い稼ぎのために父の手伝いに出るようになった。一輪車に30キロもあるセメント袋を積んでフラフラしながら運んだ記憶がある。

現場での父は弟子たちにテキパキと指示を出し、黙々と働いていた。昼休みになると弁当を食べ、寒くなると石油缶で木っ端を燃やしながら暖をとり、大工や左官たちと話をした。そんな時、僕は黙って父の横で話を聞いているだけだったが、家にいる時とは父の印象はずいぶん違っていた。

昼休みの会話には、今から思うとかなりきわどい話題もあった。内容はわからなかったが、大人たちの笑いのニュアンスで僕はそれを感じた。時には僕に向かって卑猥な冗談を言う職人もいた。僕には何のことかわからなかったが、言葉のニュアンスと周りの反応でヘンだなと感じた。

父を見ると一緒になって笑っている。家ではほとんど口を利かなかった父の意外な一面を見た思いだった。しかし、今から思えば、働いている父を見たことはよかった、とつくづく思う。まさに「親父の背中」を見た思いだった。

●建築現場の想い出

建築現場の想い出では、ひとつ忘れられないことがある。小学校五年生の時だったと思う。いくら親方だといっても、職人だから日雇い仕事である。不景気になると仕事にあぶれることもあった。そんな不安定な経済を改善するためだったのだろう、我が家の裏庭をつぶして二階建てのアパートを建てることになった。その時、僕は初めて棟上げを経験した。

最近、棟上げをやっている家などは見かけないが、昔はどこの家でもやったものだ。子供たちの間にはそんな情報網があり「今日は、どこどこで棟上げがある」というニュースはクラスの中で飛び交った。僕らは学校が終わると急いで帰宅し、鞄を放り投げて自転車で新築の建設現場まで走った。

その日、我が家の棟上げのことは、もちろんみんな知っていた。神主がくる。簡単な神棚が作られて祭られる。父親と母親が真ん前に立ち、僕と兄はその後ろに並ぶ。神妙な顔をして大工の棟梁の後ろに立つ。祝詞が始まる。その頃の僕にとっては耐えられないほど長い時間だった。

儀式が終わり、いよいよお菓子や餅や木札をばらまく時がやってくる。見下ろすと大勢の人々がこちらを期待に充ちて見上げていた。「ソゴー、こっちや」と叫んでいるデブは学校一の乱暴者の中村君だった。薫という名に似合わないガキ大将で、僕も何度かいじめられたことがある。

誰があんな奴のところに投げてやるかと思ったが、何かを拾わせないと学校でまたいじめられるな、という考えが脳裏をよぎる。まず、父が大きな木箱に手を入れて両手に餅やらお菓子やらを抱えるように取り出した。一斉に振りまく。人々が争って拾い始める。

僕はなるべく遠くへ投げた。ほとんどが顔を知っている人たちだったが、誰がいるのかはよくわからなかった。二学期になって転校してきた同じクラスの中西君の顔が見えたけれど、シャイな中西君は少し遠くにいた。中西君は、人と争ってまで何かを手に入れようとする性格ではなかった。

僕は彼に向かってグリコのサイコロキャラメルやカバヤの付録付きキャラメル、前田のクリケットや森永のチョコレートを投げたけれど、彼が拾えたかどうかはわからなかった。

ちょっと高価な景品は最後に投げる。父が「酒一升」などと書かれた木札を何枚か投げ、人の群れが一斉にその木札をめざした。最後に、木箱を持ち上げて逆さにしてばらまく。もうすべて投げ終わったよ、という合図である。

●もうひとつの父と子

棟上げの後は自宅の座敷で宴会が始まった。職人たちに祝い膳と酒が振る舞われる。父は一滴も飲めなかったから、ひとりで酌をしてまわった。母親は酒を燗したり、料理を追加したりと忙しかった。僕と兄は食事をして玄関脇の小部屋に籠もっていた。

その時、玄関をドンドンと叩く音がした。ひどく乱暴な叩き方だった。父が玄関を開けると、その男が入ってきた。酔っているようだった。男は、そのまま玄関の上がりがまちに腰を据えた。

子供心に不安に感じたのだろう、その時のことは今でも映像が浮かぶほどよく覚えている。その夜、やってきた男はかなり酔っていて、応対に出た父に最初からからんでいた。上がりがまちに腰を下ろし、怒鳴り声をあげた。僕は玄関の隣の部屋にいて兄と身を寄せ合っていたが、次第に男が何を言っているのかがわかってきた。

男は棟上げで一升酒の札を拾ったのだが、失くしてしまった、ただし、拾ったのは間違いないから酒を寄こせ、と言っているのだった。父は何度も「札は全部交換したのだからそんなはずはない」と繰り返すのだが、男は「拾ったのは確かだ。誰かが俺が落とした札を持ってきたのだ」と言い募った。

暴力までは振るわなかったが、床を叩くことは度々だった。怒鳴り声も続き、さすがに父も答える言葉がなくなったのだろう、一度、座敷に入り母親と何か相談していた。僕が母親に呼ばれたのは、そのすぐ後だった。

僕は、近くの酒屋まで使いに出された。一番安いのでよいから、酒を一升瓶で買ってこいと命じられたのだ。僕は一升瓶を抱えてうちを出た。その頃は、まだ升での量り売りをやっていたのだ。

その酒屋は近所だから顔なじみだったけれど、客としていくのは珍しかった。その日、初めて我が家は上客になったのだ。「酒、足らんようになったんか」と酒屋の主人が気安く声をかけてきた。

僕は事情を話した。「どんな男や」と聞く主人に、僕はやってきた男の特徴を話した。主人はゆっくりとうなずくと口を開いた。

──あれは中西ゆうて、この夏に西浜の方から引っ越してきた奴や。向こうで
もいろいろ不義理しておられんようになったゆうて聞いたなあ。何もせんで、
昼真っから酒ばっかり喰ろうとるゴクツブシや。カミサンが働きに出とるらし
い……、子供がよううちに酒買いにきよるけど、掛売りは断っとる。

その時、僕は、一升瓶を抱えて酒屋にやってくる中西君を思い浮かべた。掛売りを断られても、中西君は店先でじっと立っていそうな気がした。何も言わず、いつものように少しはにかんだ表情をして立っている中西君……

あの頃、中西君は父親のどんな背中を見ていたのだろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
金曜日に咳と喘鳴がひどくなり土曜日の午前中に病院で点滴を受けたが、あまり回復しない。午後、心配しながら新幹線で熱海へ。冒険小説協会の26回目の全国大会に参加。大賞受賞の国内作品は「警官の血」の佐々木譲さん。海外作品は「ウォッチメーカー」だった。ディーバーのメッセージが読み上げられた。佐々木譲さんと同室になり、咳をこらえて寝ていたので睡眠不足。ということで、今週は再録にさせてください。そういえば、冒険小説協会の第一回大賞の海外作品はパーカーの「初秋」でした。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >

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■うちゅうじん通信[19]
うちゅう人の究極の理想

高橋里季
< http://bn.dgcr.com/archives/20080404140100.html >
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「理想解除」というキーワードから、その後考えていることを書きます。
「理想解除」については、デジクリサイトを見てね。
< http://bn.dgcr.com/archives/20080208140200.html >

さて、理想解除から再構築に向かっています。最近は、「究極の理想主義」の私。コンセプトを考えるときに、構造主義とか、行動主義とか、そうゆう方法は、全部、使えばいいと思うんです。ただ、たったひとつの方法で、やっていける訳ではないので、ここまでは構築、ここからは脱構築とか、自分の考え方の文脈を自分で「理想解除」したり「再構築」したりできる事が大事かな。という気がしています。

●一億年後ヒトは矛盾から解放される

21世紀は、まだ「縄張り争い(闘)」に負けたら職を失い、「種族保存本能(性)」や「自己保存本能(食)」の危機に怯えて生きていかなければならないのが現実かもしれません。結果的に餓えて死んだり、予期不安のストレスから狂気を発した殺人鬼に殺されるかもしれない世の中です。女の子が、「あんまり気乗りしないんだけど。食べていくためには不安なまま結婚や子育てしなくちゃ」な状況も、まだまだあると思います。もっと恐いのは「私が」正気でいられるかどうか。

そして、「どのように生きるべきか」をみんなが考えたいと思っているっていうのは、今の時代の気分だと思います。楽しければいいっていう考えかたも、古い感じがするよね。エイズとか、テロとか、いろんな事があったしね。

みんな、何か「信じるべきもの」が欲しいと思ってる。では何を信じるのか。家族? 人類愛? 家族を信じて矛盾を感じないなんて、日本人だって一割に満たないでしょう。

親がね、「この程度の生活で そこそこ楽しく生きられればいいじゃないか」っていうのはね、「家族幻想リカちゃん世代」に対抗した時代的な気分であって、決して生きるための考え方にはならないと思うんです。根本的なヒトの矛盾とは関係のない、狭い時代的気分だと思います。

だからと言って、般若心経や論語を「参考になる読み物」ではなくて、人生の指針にできるかというと、ちょっと無理な感じ。私たちは神様に恥ずかしくないように生きたり、死んでから極楽に行くために善行を重ねたりする訳じゃないのは、みんな知ってると思うの。

きっと神様は、ヒトが殺し合っても、地球を丸ごとふっとばしても、許して下さるでしょう。だいたい、食べる食べられるなんてことになっているのは、神様のせいかもしれないんですからね。

私たちは矛盾をかかえながら生きています。それは、はっきり自覚した方がいいと思うけど、ヒトは、動物的な本能と「予想する能力」との矛盾から、いつか解放される事が理想なんだ! って、おとなが言えばいいと思うの。

それは、社会のルールを変えたり、「生き方を説いたり」する事で、なんとかなる問題じゃありません。「生き方」という事で言えば、「私たちは、一億年後だろうが、この辛い矛盾を解決できる。だからこそ、子孫を残す意味があるのだ」と信じて生きて行くのが気持ちいいと思います。

私たちは、まだまだ、動物的な本能に振り回されて、辛い矛盾を抱えたまま生きるでしょう。戦争はダメだって言っていても、平気でまだ死刑とかはやってる。毎日の生活を「幸せ!」って感じるよりは、「まあ幸せなんだろう」と自分に言い聞かせている。

老人がね、「私は矛盾を抱えたまま、なんの解決策も示すことができずに、もうそろそろ仕事も終る。でも、精一杯やったのだと思って死んで行く」ということを言うのはいいと思うんです。「次世代のみんなも、たぶんそんな感じだと思うけどがんばってね、って言うのはいいと思うんです。だけど、「矛盾を抱えながら生きるのが、人間のあるべき姿」じゃないと思うの。

「もっと高い理想が本来あったからこそ、子孫を残す、教育というシステムは残っていく」と言ってくれないと、がっかりしちゃうわ。

どこかで「中庸を知る」ということの意味を読んだことがある。中庸を知るというのは、無難にホドホドで良しとすることではない。どんなに辛く絶望的な時も、どんなに嬉しくて幸せな時も、これがヒトというもので、「特別なことではないのだ」という客観性を持つことだと、、、。その時その時が、大きな中庸の流れの中にあるのだということだと、、、。

こういう意味や解釈を、自分なりに考えてみるのは楽しいし大切なことだと思うんだけど、私は、自分たちがバカで惨めだとしても、まだまだ人類の途中なんだ、、、と可能性を信じることはできるんじゃないか、、、と思っています。死ぬ時に、自分の惨めな時代だけでなく、一億年後の希望を胸に死んでいけたらいいな、と思っています。

神や仏や大昔の賢人の尊い教えに支えられて、「矛盾に悩みながらも生きていく」のは、ヒトにとって、あと一億年くらいは必要な事かもしれません。でも神様に、私は今ここに自分が在ること、たった一歩でも矛盾の解決に向かうことができることを感謝するのであって、信じている、、、神様は、ヒトをもっと進化させるつもりでいることをね。だからこそ、子供を産むことも、生活することも、意味があるんです。そして、だからこそ、クリエイティブの意味も信じることができるんです。

本能的でない子孫の残し方(性)が、たぶん見つかるでしょう。動物的でない欲望を持つことが、たぶんヒトはできるようになるでしょう。本能の能力を活かしながら、新しい「食・性・闘」を開発するでしょう。

ちなみに資本主義というのは、比較的新しい闘い方なんだと思っています。せっかく闘い方が洗練されてきたのに、仕事場で「これは闘いだ!」なんて志気をワイルドなムードに逆戻りさせなくっても、女性の社会進出で、どんどん仕事場がエレガントになるといいな〜と思っています。

殺すな、死ぬな、狂気に走るな、最高の幸福を手にいれる一億年後の未来を信じろ。むくわれないまま、御先祖様はかれこれ700万年もやってきたのだ。21世紀の私たちも、ほとんどが犬死に、、、まさに、ケダモノのまま死んでいくのだけど、一億人にひとりくらいは人類の進歩に繋がる発見や開発をするでしょう。

愛とか夢とか、観念的な言葉でごまかすのではなくて、私はもっとストレートに「ヒトの可能性」を信じていいと思います。「可能性を用意した神」を信じていいと思います。ヒトは、この地球史上初の「殺さない死なない美しい生き物」になるのだわ!

それは目的志向的にではなく、錬金術的に達成されるのかもしれません。だって、ちょっと考えたって、100年前より今の方が、ずっと世の中、素敵になってるもんね。奴隷は自殺もできない時代があったんですもの。

もしかしたら、命は全部、「時間」に食べられるためにあるのかもしれない。それくらい人智の及ばない、神の視点というものがあるのかも知れない。そんなことがあったとしても、ヒトはそういう運命を自ら知り、解決していくのだと、そう思っています。

次回「究極の理想主義」を支える「時間についてのこと」を書きます。難しいので、上手に書けるかな? とは思いますが、、、。

【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/ >
ひさしぶりにワクワクして読める本を見つけました。「ヒトとサルのあいだ」吉田脩二(文芸春秋)…吉田シュウジのシュウの字が難しい…それと一緒に読んでいる本「もっとも美しい数学 ゲーム理論」トム・ジーグフリード著・富永星訳(文芸春秋) 「宇宙は“地球”であふれている」(技術評論社)

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■編集後記(4/4)

・メガ文字になった新聞はたしかに読みやすいが、なんだか読み応えがないと感じるここ数日。従来だったら、朝食後すぐに朝刊を読み始めて、しばらく経って妻と掃除機が居間に入ってくるまでにだいたい半分くらいまで読み進んでいた。ところが、最近はそのタイミングではほとんど読み終えていることが多い。文字数が少なくなったのだから早く読めるのは当然かもしれないが、それにしてもあまりのあっけなさである。情報量が大幅に減っているのではないか。逆に、広告のスペースが気のせいか大きいようなかんじもする(巨人軍のスペースも<前からそうか)。游明朝体R、タイポス、簡略字、NHKの発音アクセント辞典など、興味深い文字の世界をさぐる連載コラム「おもしろ字典」を楽しみにしていたら、早くも5回で終了、なんということだ。メガ文字になった読売新聞はつまらなくなった。/掃除機が2台、相次いで壊れた。素人目では回復の見込みがない。同時期に買ったものだから寿命も同じか。次はどの家電が危ないか、戦々恐々。/犬にも花粉症があるのだろうか。数日前から、散歩に連れ出したときに急に変な呼吸音(?)を発することがある。フガフガいうようなかんじ。のどに何かひっかかっているのかと、むりやり口をあけて調べたがそうでもない。鼻水が出ているわけでもない。呼吸が苦しいわけでもなさそうだ。平気で散歩している。症状は5分も続くと止むのだが、どうも気になる。狂犬病の予防注射に行ったときに医師に相談するか。でもそのタイミングで症状が出ていないとわからないだろうな。自分を含めて、生き物も機械も老化が進んできていると実感する春である。(柴田)

・自分のうまれた病院が、まだ残っているというのは嬉しいものだ。聖バルナバ病院というところで、アメリカの宣教医師ヘンリー・ラニング博士という方が創立し、130年の歴史を持つそうな。130年も続いているなら、同じ病院出身者は大量にいるんだろうな〜。出身学校で親近感がわくように、同じ病院出身で、というのはなさそうだな(汗)。3年前に建て替えられたそうで、これからもまだまだ続けますよ、という宣言のように思える。分娩施設は出生率を上回る早さで閉鎖しているそうなので、長く続いて欲しいな。ふとサイトにアクセスして、子どもの時からの「バルナバってへんななまえ〜」の謎の答えを知った。「慰めの子—偉大なる聖者:Barnaba」なのだそうだ。宣教医師さんの病院でうまれたのに、わたしゃ仏教系高校に進んでしまったぞ。ま、関係ないんだけどさ。/「ノンちゃん雲にのる」の石井桃子さんの訃報記事を見た。子どもの時にお世話になりました。また読み返してみたくなった。(hammer.mule)
< http://www.barnaba.or.jp/ >  聖バルナバ病院
< http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20070219ik01.htm >  3割減
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=18189136 >  バルナバ
< http://en.wikipedia.org/wiki/Barnabas >  あれ? sつくのね
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=16352400 >
あら、病院のWikipediaまで