[2405] 熱海の咳にむせぶ夜

投稿:  著者:


<YouTubeで 動画を見まくり 現実逃避>

■映画と夜と音楽と…[370]
 熱海の咳にむせぶ夜
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![71]
 '70年代アイドルを振り返る
 GrowHair

■展覧会情報
 F1疾走するデザイン


■映画と夜と音楽と…[370]
熱海の咳にむせぶ夜

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080411140300.html
>
───────────────────────────────────

●朝日新聞の書評欄に載った辻真先さんのミステリ

今朝(2008年4月6日)の朝日新聞の読書欄のトップは、辻真先さんの「完全恋愛」の書評だった。もっとも、作者名は牧薩次(まき・さつじ)になっているが、これは「つじ・まさき」のアナグラムだとすぐにわかる。作者は「32年生まれ。アニメ脚本家、作家」と紹介されていた。

辻さんが、ずいぶん前からミステリを書いていて高い評価を受けていることは知っていたが、僕は一冊も読んだことがない。辻真先さんと言えば、僕らの世代にとっては、マンガ原作者でありアニメの脚本を書く人であった。テレビアニメ「サザエさん」の第一回目の脚本も辻さんだという。

その辻さんが「日本冒険小説協会」の会員らしいことは、昨年の25周年記念会報誌「鷲(イーグル)82号」に寄稿した辻さんの文章を読んで知っていた。ちなみに、82号には逢坂剛、大沢在昌、川又千秋、北方謙三、桐生祐狩、今野敏、佐々木譲、西村健、馳星周、平山夢明、福井晴敏、藤田宣永、船戸与一、宮部みゆき…といった綺羅星のごとき作家たちが寄稿している。

その25周年記念大会で、僕は「映画がなければ生きていけない」二巻本によって特別賞「最優秀映画コラム賞」をいただいたのだが、それも一年前のことになった。今年も「参加しませんか」とお誘いをいただき、3月末の土曜日に熱海の金城館へ赴いた。その前日から、花粉症で再発したらしい喘息がひどく、午前中に医者で点滴をしてもらっての参加だった。

僕が気にしたのは、咳き込んで相部屋の人に迷惑をかけることだった。夜中に隣の布団で咳き込まれたら僕だってイヤだ。点滴をして薬を大量にもらったが、不安は去らない。さらに受付をして指定された部屋へいって驚いた。部屋のドアに貼ってある名前は、「佐々木譲、辻真先、十河進」だったのである。

大会の宴は9時頃には終わり、その後は明け方まで続く二次会になる。僕は咳がおさまらなければ、10時くらいの新幹線で帰ろうと考えた。自宅でひとりで寝ているのなら、いくら咳き込んでも迷惑にはならないし、気が楽だ。あるいは、二次会で明け方まで呑んで、そのまま帰るという手もあるなと考えたものである。

しかし、その相部屋のメンバー表に僕はひびった。高名な作家ふたりと一緒なのである。佐々木譲さんの名前を見て、今年の日本軍大賞作品は「警官の血」だろうと思ったが、辻さんも特別賞かなにかを受賞したのかと思ったのだ。だとすれば、長年の功労賞のようなものだろうか。

辻さんは、昨年の会報誌に「25周年の3倍の年齢」と書いてあった。今年で76歳になる。テレビ、アニメ、ミステリの世界で半世紀以上、活躍してきた人である。しかし、辻さんがNHKの演出家としてスタートしたことは、僕も最近まで知らなかった。

●「バス通り裏」の演出家だった辻真先さん

後に岩下志麻のデビュー作品だと知って驚いたのだが、NHK「バス通り裏」は、最近「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)で有名になった昭和33年に放映された生放送の連続ドラマだった。主役の十朱幸代がデビューしたドラマでもある。岩下志麻は彼女の同級生役だった。その「バス通り裏」を演出していたのが辻真先さんだ。

昭和33年(1958年)は、東京タワーが完成した年として有名である。僕の叔父が結婚して四国から東京と熱海に新婚旅行にいき、お土産に東京タワーの模型の文鎮を買ってきてくれたことがあるけれど、あれはまさにその時代だったのだろう。昭和33年とは、東京タワーが徐々に天空に延びていった年なのだ。

その年の4月から「バス通り裏」はスタートし、翌年の3月まで一年間放映された。生本番ドラマだから、いろいろなことがあったと思うけれど、僕はそんなに熱心に見ていなかったので、詳しくは憶えていない。それに、まだ我が家にテレビがなかった頃だから、どこかで見せてもらったのだろう。

我が家にいつテレビが入ったか、はっきりした年月日は記憶していないが、少なくとも「月光仮面」の放映が終わった後であることは間違いない。「月光仮面」の放映は、昭和34年(1959年)7月に終了した。子どもたちが月光仮面の真似をして高いところから飛び降りて怪我をする事件が相次ぎ「危険だ」と批判が起こったからである。

その頃は、「一億総白痴化」という批判があったように、テレビ番組に対する風当たりは強かった。当時、小学生だった僕の印象では、しょっちゅうPTAが騒いでいた印象がある。「あの番組はダメ、この番組はダメ」と槍玉に挙げられる番組ばかりだった。

そんな中で、さすがにNHKの番組は、どれもPTAのお墨付きをもらえそうなものばかりだった。「ジェスチャー」「事件記者」など、今では考えられないような高い視聴率をNHKの番組があげていたのだ。第一回目の大河ドラマ「花の生涯」が始まるのが、昭和38年(1963年)のこと。それよりずっと前の時代、テレビ草創期のことだった。

さて、辻さんはバラエティ「お笑い三人組」の演出も手掛けたようだ。昭和30年(1955年)にラジオ番組として始まり、昭和31年(1956年)からはテレビ放送も始まった。昭和35年(1960年)からはテレビ放映だけになり、昭和41年(1966年)まで続いた公開バラエティ番組である。

僕は今も思い出す。小学生の時に担任教師に「みんな、どんなテレビを見ているのか」と調べられ、「怪傑ハリマオ」と答えた生徒は叱られ、「お笑い三人組」と答えた生徒は誉められた。担任の教師は「あれは、先生とこでも家族で見てるよ、ええ番組やね」と言った。僕は、どうしても納得できなかった。

●NHK少年ドラマシリーズ「ふしぎな少年」の思い出

辻さんのNHK時代の演出作品に「ふしぎな少年」があるという。同名の手塚治虫のマンガがテレビドラマと併行してマンガ雑誌に連載された。テレビドラマは、昭和36年(1961年)の4月から翌年の3月まで夕方に放映されていた。これはテレビドラマの企画が先行し、それを手塚治虫がマンガにしたといういきさつらしい。

当時、僕は小学4年生だった。テレビドラマとマンガの両方を見ていた記憶がある。「ふしぎな少年」の主人公(太田博之)は時間をとめる能力を持ち、危機に陥ると「時間よ、とまれ」と叫ぶ。途端に、主人公以外の人々はストップモーションになり、彼だけがとまった時間の中で動き出す。「時間よ、とまれ」というセリフは当時の流行語になった。

昭和36年の4月からは、NHK連続テレビ小説の第一作目「娘と私」も始まっている。当時は一年間続くドラマだった。「おはなはん」が大ヒットして連続テレビ小説の名を高めるのは5年後のことである。また、同じ4月からNHKのヒット番組になった「若い季節」と「夢で逢いましょう」がスタートした。

「夢であいましょう」に遅れること二か月、6月4日の日曜日の夕方、日本テレビ系列で「シャボン玉ホリデー」が始まった。エンディングテーマでザ・ピーナッツが歌う「スターダスト」が、もしかしたら僕が初めて意識したアメリカン・スタンダードナンバーだったかもしれない。

振り返ってみると、僕が鮮明に覚えているのは昭和36年以降のことが多い。その前年に起こった60年安保は何のことかまったくわからず、ただ「アンコ反対」と言いながら悪友たちとおしくらまんじゅうをするだけだったし、同じ年、浅沼稲次郎が刺される写真を見たことはあるが、やはりその意味は理解できなかった。

昭和36年は、47年前のことになる。その頃、まだ二十代だった辻真先さんはNHKディレクターとして「ふしぎな少年」を企画し演出していた。四国高松に住む10歳の少年は欠かさず「ふしぎな少年」を見ていたし、時間をとめる能力が自分にあったらなあ、と夢想していた。

それから長い長い時間が過ぎ去り、2008年3月末、僕は熱海金城館・別館5階の部屋の前に立ち、途方に暮れていた。佐々木譲さんは「警官の血」で旬の作家だし、30年近い作家生活で数十冊の作品を持つ人である。ただ、佐々木さんは僕のひとつ年上だから同世代だし、25年ほど前に一度だけ酒席で同席したこともある。

だからといって緊張しないわけではないが、僕の生まれた頃からテレビの世界で活躍し、「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」「巨人の星」「タイガーマスク」といったアニメを作ってきた大御所である辻真先さんと同室だと思うと、さらに緊張は高まった。

しかし、その夜、結局、辻さんは現れなかった。聞いたところによると、大会前に一度顔を出し、「仕事で参加できなくなりました」と挨拶をして帰ったそうである。わざわざ熱海まで…と思ったが、辻さんの仕事場は熱海にあるのだという。なるほど、それなら…と納得した。

ということで、雑誌の締め切りを抱えながらも仕事場の北海道から熱海までやってきた佐々木譲さんとふたりだけの相部屋になってしまった。佐々木譲さんについては、以前「真夜中の遠い彼方に…」(No.348)で書かせていただいたが、穏やかなとてもいい人で自作についても気さくに話してくれた。

その話の中で僕の思い込みもいくつか修正された。「黒頭巾旋風録」という小説を佐々木さんは書いているが、あの発想は大友柳太朗主演の東映映画「怪傑黒頭巾」シリーズではなく「怪傑ゾロ」が基になっているとのこと。「なるほど、それで主人公がムチを使うのか」と僕はうなずいた。

また「真夜中の遠い彼方」を原作とした「われに撃つ用意あり」(1990年)は、佐々木さんとしても好きな映画らしく、今でも見ることがあるという。僕が大学の助教授と思っていた小倉一郎の役は「予備校の教師です」と訂正された。僕があるセリフを言うと「よく憶えてますね」と感心された。

そんな話をしながら、午前2時近くになった頃だろうか、僕らは寝ることにした。「咳き込んでご迷惑をかけるかもしれませんから」と断り、咳が出たときに飲めるように枕元に水のボトルを置く。佐々木さんが電気を消し、僕は真っ暗な天井を見つめた。しばらくして、佐々木さんの寝息が聞こえ始めた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
4月になったと思ったら、早くも一週間ほどが過ぎてしまいました。この原稿が載るのは11日だから、もう中旬です。桜も散っていることでしょう。先日、初めて神田明神にいったら桜の木の下で大勢の人が酒盛りをしていました。ライトアップされた桜は満開でした。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■Otaku ワールドへようこそ![71]
'70年代アイドルを振り返る

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20080411140200.html
>
───────────────────────────────────
「石川ひとみと倉田まり子は似ていない!」そう主張しつづけて、高校時代を駆け抜けた。もし10年ばかり早く生まれていたら、日米安保がどうしたとか、もっと高級な主張を述べていたかもしれない。学生運動は'72年の浅間山荘事件をもってほぼ終焉しており、世間からは「あんな悪い子に育てた親が悪い」ということで片付けらていた。そのとき10歳だった私には何の接点もなく、高校に上がってからも政治思想には関心が起きなかった。血気盛りのエネルギーの注ぎどころとしては、アイドルがちょうどよかった。

●なぜ'70年代アイドルか

アイドルはいつの時代にも存在してきたのかもしれないが、私にとっては'70年代の、というところに特別の思い入れがある。'60年代の歌謡曲や演歌の歌手は、上の世代にとってはアイドルとして機能していたのかもしれないが、自分の中では「本格派歌手」とラベルされた箱に入っている。和田アキ子、水前寺清子、小柳ルミ子、佐良直美、藤圭子などである。

レコードプレイヤーを所有している家庭が珍しかった当時、歌でメシを食っていこうなんて、大変な覚悟が要ったに違いない。どの歌手も、なんだか凄みがにじみ出ていた。「歌が上手い」なんて言い方したら失礼なほどで、「私が歌そのもの」と言わんばかりの気迫すらあった。しみじみと歌のよさを感じさせてくれるが、私がそう気がついたのは流行が過ぎてだいぶ経ってからだった。中学に入ってから NHKラジオのFM放送の「昼の歌謡曲」などで歌手別の特集が組まれたときなどに聞くことのできる「やや古めの歌手」という認識だった。

'70年代のアイドル歌手は、リアルタイムに見てきた。本格派に劣らず歌は上手かったけれど、その上手さは、練習を怠らなかった努力の賜物という優等生的なものに感じられる。がんばりが報われてスターの座を手中にしました、というさわやかで好ましい印象を放っていた。象徴的なのは岩崎宏美である。声がのびやか、口の開き方がきれいで言葉が明瞭、音程が正確、リズム感がある、そういう技術に裏打ちされた上で、歌に情緒が込められていて、美しさを感じさせてくれる。美しいのは容姿もで、特に、長い髪がすばらしい。

しかし、'70年代アイドルのほとんどは、「美しい」よりはどちらかというと「かわいい」がまさる。キャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、中森明菜、河合奈保子、柏原芳恵、石野真子、石川ひとみ、榊原郁恵、高田みづえ、倉田まり子、甲斐智枝美、などなど。私の中では、歌唱力では「本格派歌手」よりほんのちょっと格下だけど、個人的な思い入れでは一番の「実力派アイドル」という箱に入っている。

「知らない」とおっしゃる方は、一度はYouTubeあたりで検索して、聞いてみてくださいませ。かわいいという要素も大事だけど、歌が下手では話にならないという不文律のようなものがあり、みんな、声ののびやかさや言葉の明瞭さは、耳にたいへん心地よいと思います(振り付けには多少のぎこちなさが感じられるかもしれませんが)。

想像だが、松田トシの尽力が大きかったのではないか。実際、岩崎宏美に歌唱指導しているし、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」では審査員を10年間務めている。出場者に対する講評で、幼稚っぽい甘ったれたような発声を決して許さなかった。はつらつとした若さを売り物にするのはよいが、幼稚っぽさで気を惹こうとするのは芸とは呼ばない、と言っているようであった。

みんな歌は上手かったが、歌のテーマは単純素朴で善良無害なものが多かったように思う。倉田まり子のデビュー曲「グラジュエイション」は象徴的で、「♪グラジュエイション、グラジュエイション、うれし〜く、さびしい〜」である。それは、'70年代の時代の雰囲気を反映していた。'70年代は大阪万博の「♪こんにちは〜、こんにちは〜、世界の〜、国から〜」で幕を開けた、お祭りさわぎの時代であった。「1970年でこんなに盛り上がっているんだから、2000 年になったらきっとすごいことになるね」なんて言いあっていた。人々は浮かれ気分で、付和雷同的で、活気があった。単純なものがウケたのだ。

私にとって、'70年代アイドルは何であったかというと、今の流行りの表現でいうところの「元気をもらう」源であった。みんなすご〜くがんばってるなあ、と感じられた。それは、何か目的を達成するための過程としての悲壮ながんばりではなく、先のことは考えずに、今この時点で最高に輝くために全力を注いでいる。そのがんばり自体が尊いんだ、と思わせてくれる。よし、俺もがんばるぞ、というわけである。

甲斐智枝美のデビュー曲「スタア」からは特にいっぱい「元気をもらっ」た。よく頭の中でずっと鳴っていることがあった。正確には '80年代に入っているんだけど、'81年に高校を卒業した私の中では、まだそこには境界線はないのです(皮肉なことに、元気の源であった本人はずっとのちに自殺してしまいましたね)。

'80年代に入ったあたりで、時代が徐々にシラケてきた。何かに夢中になってがんばる側にいるよりも、それを冷めた目で静観して「よくやるよ」と哀れむ側にいたほうが、大人っぽくて、優位に立てるような空気になってきた。アイドルに血道を上げてるやつは、商業主義に踊らされているのに気づいていない哀れな人であるかのように言われた。

あるアイドル歌手が海外から帰国した際に、税関で荷物を調べられたら性遊具が出てきた、なんてエピソードがまことしやかに語られた。そんな事実があったとはとても思えないのだが、ものごとには裏があって、それを分かってるやつが大人、みたいな風潮の中で、じつにまことしやかな響きがあった。アイドルの純潔性を本気で信じているやつは馬鹿だ、裏では汚い欲望が渦巻き、金が飛び交う世界なんだ、それを見破った者が勝ち、みたいになってきた。

私はアイドルの純潔性を信じたがゆえに夢中になっていたというわけではなく、歌がよくて、がんばりが伝わってくればよかったので、舞台裏が多少散らかっていようと構わなかったのだが、ガキっぽいように見られるのはなんとなく面白くなかった。けど、それだけだったらまだ素知らぬ顔で応援しつづけることもできた。

そのうち、アイドル自身がだんだん安っぽくなってきて、あんまり熱くなって応援するほどでもないと思えてきたのである。「歌がいい」という基本の上に「かわいい」という付加価値が乗っかっている、という構造が逆転し、かわいいことがまず一番で、歌は多少下手でもOK、となってきた。「かわいい」が金に化けるの経済法則。シラケて静観している側の言っている商業主義が、本当になってきた。アイドルが大集団でユニットを組んで出てきたあたりから、私はだんだん離れていった。

こう言うと、時代を下るにつれて、歌は退化の一途をたどってきたかのようだが、そうでもない一面もある。'70年代の歌は万人ウケを狙ったものが多く、表現できることに限りがあった。あのころは、レコードを百万枚売り上げるにしても、まず、国民全員にほぼ知れ渡るほどの知名度を獲得し、ごくごく一部の裕福層がレコードを買うことで達成された。今は、絞り込んだターゲット層に対して重点的に売ろうとするような構造になっている。だから、CDの売れ行きのよい歌手だからといって、国民全体からみればさほど知られていない、ということも起きうる。「情報のセグメンテーション化」と私が勝手に呼んでいる構造。

つまり、情報の流通が限られた区画内(セグメント)に限定され、各情報単位はひとつのセグメント内を瞬時にして駆け巡るのに、セグメントの壁を越えた伝達はあまり起きないという構造である。これは、セグメントをまたいだコミュニケーションが阻害されるというマイナスの面もあるのだが、各セグメント内での表現活動においては、万人ウケ狙いという束縛から解放され、幅の広がりと、テーマの思想的深まりをもたらしたように思う。

かつては、歌のテーマとしては取り上げづらかったネガティブな感情、たとえば厭世感、反抗心、殺伐、荒廃なども、アリになってきた。2005年に犬神サーカス団が出した詩集「老婆の処女膜」にはぶっ飛んだけど。そんなものが詩のテーマになるんですかい、と。まあ、'70年代の歌が概して誰にとっても覚えやすく、耳に心地よいものだったのに対し、今は多様化・複雑化の方向へ進化しているということでしょう。

●なぜ倉田まり子か

高校〜浪人時代、私が特に夢中になったのは倉田まり子なのであるが、まあ、ご存知ない方も多いのでしょうか。グリコポッキーのCMに、長崎のオランダ坂(だっけ?)を背景にして出ていて、そこで使われた「HOW! ワンダフル」はそこそこヒットしたんですがね。

倉田まり子のファンになったのは、自分で決めてなったというよりは、偶発的な事情による。私がアイドル系の歌にあまりにも夢中になっているもんだから、まわりの連中は、きっとだれか目当てがひとりいるのだろうと思ったのである。それを知られまいとして、カモフラージュに他の人のも聴くんだろう、と。

実はそれは誤解で、私は特にひとりだけを応援しているということはなかったのだが、まわりは納得してくれなかった。たまたま何かのときに倉田まり子がいいと言ったら、それだろうということに決まってしまった。雑誌などに写真が載ってたりすると、切り抜いて持ってきてくれるやつもいた。「有効に使ってくれ」と。いや、特にファンじゃないから、と受け取らないのも変なので、まあいいや、と屈してしまった。そうこうするうちに、自分でも倉田まり子のファンなのだという暗示にかかってしまった。

「月刊平凡」や「月刊明星」をときどき買ったし、「別冊近代映画」が倉田まり子特集号を出したときにも迷わず買った。それで、日出女子学園高校を卒業したのだと知ると、それはどんな学校かと目黒まで見に行ったりもした。しかし、なぜか本人を見に行こうという考えが起きなかった。アイドルは遠くにありて思うもの、であって、自分と同じ平面に降りてきてはいけないような気がしていた。

芸能人の実物を初めて見たのは、浪人してからである。私は駿台予備校市ヶ谷校舎の午前中のクラスにいた。途中にあるシャープのショールームで森田公一が司会を務めるラジオ番組の公開録音が週に一回、昼ごろ行われた。授業の帰りに、外からガラス越しに眺めて行くのが楽しみであった。毎回、ゲストが来たのだが、旬のタレントが来ることはまずなく、まだそれほど名の売れてない新人か、山を越えた過去の人ばかりであった。それでも私にとっては十分すぎるくらいすごいことだったのだが。

浪人生活も大詰めに差し掛かったころ、倉田まり子の描く軌道が、私の軌道とついに接点をもった。その番組収録のゲストとして来たのである。私は整理券をもらって中で見ることができ、収録後には一言言葉を交わすことができた。いや、何を言ったのかよく覚えていない。言葉に詰まってずいぶん長く沈黙が続いたあげく、「がんばってください」、「ありがとうございます」のようなありきたりのあいさつに終わったような気がする。とにかく、握手をした。浪人してよかったとしみじみ思った。今にして思えば、私の人生のクライマックスであった。

大学の3年のときだったか、投資ジャーナル事件が発覚した。中江滋樹会長が「絶対に儲かる」という触れ込みで利用者から金を集め、実際には投資をせずに着服していた、詐欺事件である。倉田まり子は週刊誌に「中江の愛人で7000万円の家をもらった」と書かれ、スキャンダルになった。

記者会見のことはおぼろげながら覚えている。若い女性記者が、侮蔑しきった調子で「あんたそんなことして恥ずかしくないの?」と責めるのを、泣くこともなく黙ってにらみ返していたのではなかったか。私は打ち負かされた気分だった。芸能界の舞台裏は汚いという、シラケ側の言い分を認めざるを得ない格好だ。まわりがからかうのに合わせて、私も「これから何を糧に生きていったらいいのか分からなくなった」などと冗談半分に言っていた。

倉田まり子は、芸能界を追われるようにして、引退した。実は、7000万円のことは濡れ衣だったらしい。しかも、身の潔白は引退前に明らかになっていたらしい。しかし、マスコミは謝罪することもなく、不当に貶められた名誉が回復できなかったということらしい。

その後、法律事務所の秘書、法律の予備校の講師を経て、現在は独立してキャリア・カウンセラーになっている。
< http://www.tsubotamariko.com/
>

うーん、その姿は、かつてのアイドル歌手というイメージからすると、ちょっと幻滅なところもなくはなく、あー、見なくてもよかったかなーという思いがないでもない。しかし、よく曲がる人生、なかなか大変だったんだろうなあと想像すれば、沸き起こる敬意もけっして小さくない。紆余曲折を経て、いろんな人に出会い、人生への理解が深まっていったのだろうなぁ。

……とまあ、今回は私の過去の趣味のことを筆にまかせてつらつらと書いてきたわけで、あらためて、何が言いたいのかと問われても困るのだが、まあそういうわけで、倉田まり子と石川ひとみは断固として似てないのである。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

今回は何を書くか、けっこう迷いました。1月に山へ人形を撮りに行った話もあるし、桜を背景に人形を撮るためのロケハンで墓地めぐりもしたし、そのついでに山岸涼子の恐怖漫画を墓地で読んだりしたし、行きつけのメイドバーでは面白い人に会ったし、荒川沖連続殺傷事件では犯人がゲームオタクだったというので何かコメントしておきたいし。あれこれ考えるうちについつい現実逃避して、YouTubeで動画を見まくり、30年ばかり過去へタイムスリップして過
ごしてしまったので、結局その話題になったというわけです。/「MANDALA」
Vol.2、読みました。創造性の高い絵に圧倒されました。/裁判員 月に代わっ
て お仕置きよ! ... mixiの「中途半端なオタク」コミュに裁判員制度のPR看
板の言葉を考えるトピを立てたら、一日で300件以上のアイデアが寄せられま
した。いや〜、笑った笑った。実際、キャラになりきった裁判員とか出てきそ
う。日本、終わったか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■展覧会情報
F1疾走するデザイン
< http://www.operacity.jp/ag/exh93/
>
< https://bn.dgcr.com/archives/20080411140100.html
>
───────────────────────────────────
会期:4月12日(土)〜6月29日(日)11:00〜19:00 金土11:00〜20:00 月休
但し4/28、5/5は開館
会場:東京オペラシティアートギャラリー(東京都新宿区西新宿3-20-2 東京
オペラシティタワー3F)
入場料:一般1,200円(1,000円)、大学・高校生1,000円(800円)、中学・小
学生600円(400円)
内容:本展では、F1が発展するプロセスにおいてデザインが果たしてきた役割
を、初めてF1グランプリが開催された1950年から現在にわたって、各時代を代
表する実物のF1カーによって検証します。F1黎明期の名車クーパーT51にはじ
まり、60、70年代を競ったブラバム、ロータス、88年圧倒的な強さを誇り、不
世出のドライバー、アイルトン・セナに初のタイトルをもたらしたマクラーレ
ン・ホンダMP4/4などの歴史的なF1カーなどにより、これらのマシンが成功を
収めた理由を感じ取っていただけます。          (サイトより)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■編集後記(4/11)

・昨日紹介したコラム「ケータイ新事情」のまとめの回が、「日刊!関西インターネットプレス」昨日の号に掲載されていた。ケータイ教育の現状はどうなっているのか、何を目標に法やルールを定めればいいのか、どういう結論に導くのかおおいに期待して読んだが……。「結局、フィルタリングサービスや有害情報規制法案といえども、万能ではありません。では、子供たちを有害情報からどうやって守れば良いのでしょうか? 結論は実にシンプルです。子供らを守れるのは子供らだけ…なのです。有害情報を取り除いて純粋培養する教育も確かに効果があると思えますけれど、それだけでは免疫力の無い人間を育ててしまうことにもなりかねません。有害情報とは何か? まず、その内容を子供たちに理解してもらうことからはじめなければならないのでしょう。そのために頼りになるのは、学校でもキャリアでも、行政や立法などでもなく、最終的に親と子の関係にあるのではないかと筆者は考えます。」……だって。「子供らを守れるのは子供らだけ」「最終的に親と子の関係にある」こんなテレビのニュースショーの、無責任に言いたい放題のコメント屋みたいな、ほとんどお気楽としか言えない結論でいいのだろうか。わたしはまったく同感できない。フィルタリングサービスや有害情報規制法は、まだ問題を少なからず含んではいるものの、子どもを守るために考えられた具体的なアクションである。まずは乗り出し、不都合な部分はどんどん変えていけばいいではないか。いまの親子の関係で解決できることではない。目に余るバカ親バカ子どもだらけなのに。頼りになるのは、むしろ学校であり、行政や立法である。携帯電話屋にも協力させなければならない。子どもにケータイは持たさない、という選択がベストだといまでも思っているが。(柴田)
< http://archive.mag2.com/0000000122/20080410183000000.html
>
ケータイ新事情4

・事務所の引っ越しのために本を本棚一本分は捨てる事にした。百万円超分なり。ほとんどが古い情報になっている。たとえばチュートリアル本は、曖昧にしていたことが勉強できて、その当時のことをえると捨てるのを躊躇するのだが、いまこれが本屋にあっても買わないなぁと。ホームページをつくろう、というような類はWeb標準な今はまったく使えないし。残すのは考え方、理論、色、仕組み、デザイン、リファレンスの類、好きな雑誌、今でも参考になるもの、少しだけ前のバージョンのチュートリアル本。捨てる本、残す本を見ながら、「誰でもできる」と値切られるWebサイト制作には自己投資や勉強が必要なのになぁ、技術職だよなぁ、と。ScanSnapが欲しいんだが、さくさくスキャンしてもらえるのはA4サイズまでで、雑誌類の保存のためにはA3キャリアシートというものにはさみ、はみ出た部分の二つ折作業が必要になる。めんどくさそうだ。しかしA3ドキュメントスキャナが常時必要かと言うと、うーん、である。名刺や年賀状、請求書類のスキャンは便利だよなぁ。/ダライ・ラマ記者会見。ニュース番組によって切り取る部分が違い、印象が変わってくる。ノーカット版と比較してみると面白いよ。他人は変えられない、気付かせることはできる、その後の判断はその人次第、だよね。(hammer.mule)
< http://scansnap.fujitsu.com/jp/
>  ScanSnap
< http://scansnap.fujitsu.com/jp/mac/lifestyle.html
>  4/14スタート
< http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/tokushu/gen/20050822/113196/
>
OCRならDR
< http://jp.youtube.com/watch?v=TQqePE7OR08
>  ノーカット版1/5