笑わない魚[243]春の狂気
── 永吉克之 ──

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ある朝、寝床でインスタントコーヒーを飲みながら、目覚めたての重い瞼で毎日新聞を呼んでいたときだった。「余録」にスプリング・フィーバーのことが書かれてあるのを読んで一気に目が醒めた。

なるほどそうだったのか! そうなるほどだったのか! なるのだったそうほどか! と吠えて、掛け布団を足で天井まではね上げ、それが宙に舞っている間に洗面所に駆け込み、掻きむしらんばかりの勢いで顔を洗って寝室にもどり、敷き布団の上に体を放り投げたところに舞い降りてきた掛け布団が、聖母の腕のように私を優しく包み込んでくれた。そして私は赤子のように安心して、再びまどろみの淵に自分を見失ったのだった。遠のいてゆく意識の向こうで微かに聞こえたのは、子供の時に聞いた青函連絡船の汽笛だったのか。それとも父ちゃんのポーだったのか。


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スプリング・フィーバー。日本では「春愁」というらしい。春先の物憂い、けだるく落ち着かない気分、春の憂鬱病のことだそうだが、なぜ私がそれに関する記事を読んで、かくもわざとらしく感動したのかというと、今、春愁の物憂い気分がまさに溶岩のように燃えさかっている最中に自分自身がいるからである。何もやる気が起こらないからなのである。

いやもう、なーんにもしたくないのだ。壮絶なまでに何もしたくないのだ。私ほど何もしたくない人間はまだ見たことがない。あまりに何もしたくないので、何かしたくなるほどである。往来にいると、気の弱そうな通行人の胸ぐらを掴んで、私がいかに何もしたくないか、いかに何にも興味がないか、いかに腑抜けか、その思いをぶちまけたくなるのである。

「おい、貴様、ちょっと待て」
「誰ですか? いきなり」
「いいか、俺はな、何もする気が起きないんだ。俺が何かをしたいと思ってるんなら大間違いだぞ。俺のような腑抜けに何ができるんだ。いい加減にしろ!」
「いったい何の話ですか?」
「それだけじゃない。俺は世の中のありとあらゆることに関心がないんだ。北京オリンピックをハイビジョンで見るなんて、そんなことぜったいにしないからな。そのつもりでいろよ!」
「あの、すいません。何を怒ってらっしゃるんですか?」
「だいたい俺は性欲もないんだ。相手がどんなにいい女でも、まったく燃えないんだ。だから貴様の女房とセックスする気はない。帰って、そう伝えろ!」「わ、わかりました、伝えます」
「それと、貴様が晩飯に何を喰おうが、俺にはまったくどうでもいいことだ。すき焼きでも冷やし中華でも何でも勝手に喰え!」
「はい。ありがとうございます」

ここまでやれば、相手も、私がスプリング・フィーバーを患っていることを理解するはずだ。理解してもらおう、ではだめだ。理解させなければならない。事程左様に、スプリング・フィーバーとは、人間の意欲を殺いでしまうものなのである。

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私の場合、症状はある日突然やってきた。今年は、長らくサボっていた絵の制作にエネルギーを充填して、こわっぱどもにベテランの手並みを見せてくれるわ、と息巻いていたのが、つい先月のことである。それが先週のある日を境に、その威勢のいい言葉が、そらぞらしく響くようになった。まるで結果が判っている野球の試合を録画で見るように、自分の決意になんの期待も意気込みも感じなくなってしまったのである。

この原稿にしてもそうである。私の連載は隔週だから余裕をもって書けるはずなのだが、どうしても書く気が起こらず、やっと書き始めたのが、締め切りの二日前だ。あ、いや、二日間もあったら50本は書けるよ、ずいぶんと余裕ぶちかましてるじゃないかキミ、という猛者がおられるのは先刻承知である。どなたとは申さぬが、お会いしたことのある方である。しかし、人はそれぞれだ。「個体差」というものを考慮に入れていただきたい。

例えば同じアーノルド・シュワルツェネッガーの中に、アンドロイドのアーノルド・シュワルツェネッガーもいれば、カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーもいる。アンドロイドのアーノルド・シュワルツェネッガーに知事のアーノルド・シュワルツェネッガーが務まるだろうか。また、知事のアーノルド・シュワルツェネッガーが、アンドロイドのアーノルド・シュワルツェネッガーのように、みずから溶鉱炉のなかに身を投じることができるだろうか。

締め切り三日前になってもアイデアが浮かばないので、いちかばちか、乾坤一擲の策を講じた。まず近くのマーケットでパック入りの刺身の盛り合わせ(サケ、ハマチ、マグロ)を580円で買ってきた。また、刺身を単独で食べるのももったいないので、菊正宗の180mlパックを三つ買って、刺身で一杯やったのである。まあそれだけのことだ。アイデアとは関係ない。

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とにかくこの病は、気合が足らんといったような精神主義で解決できるような代物ではない。身の危険に対してすら無関心になってしまうのだ。現在やっている倉庫作業のバイトの雇用期間が明日18日で明けるので、次の仕事を探さなければならないのだが、仕事探しという、気が遠くなるほどの大事業に身を投じるのと、このまま何もせずに衰弱死するのとでは、どちらが正しい生き方であろうか、などという選択をどことなく本気で考えているから恐ろしい。しかもそれを恐ろしいと感じないところが、また恐ろしい。

昔から「春になると、おかしな奴が出てくる」と言われるが、けだし事実である。また春を代表する桜の樹の恐ろしさについても、坂口安吾や梶井基次郎が、その小説のなかで語っている。実際、満開の桜を見ると憂鬱になるという人が私の知人にいるのだが、それはその人が正常だからそうなるなのである。桜の障気に頭が冒されていることにも気づかずに浮かれている人たちこそが、基地の外なのだ。花見とは集団ヒステリーなのである。

ではなぜ日本では、そんな不穏な季節に、年度初めという大切な時期をもってきたのであろうか? ここまできたら、その疑問を素通りすることはできない。

明治初期、秋を代表する菊が日本の国花だとする政治家と、いやいや春を代表する桜こそが日本の国花であると主張する政治家が対立していた。そこで菊派の総帥、片山重護が公家との姻戚関係を利用して、当時の内閣総理大臣で公家の出である三條實美に秘かに接近し、菊を国花にと推した。しかしそれが、桜派の推進者、葛城國在の知るところとなり、政治対立にまで発展した。騒動の責任を取って退陣した三條實美に代って総理大臣職を継いだ山縣有朋は、日本の国鳥を鶴にしようと主張する一派を抑え、雉を国鳥に制定することで、菊と桜、両派の顔を立てることに成功したのだ。「雉も鳴かずば討たれまいに」とは、歌舞伎『鈴が森』の名セリフである。四月を年度初めにしたのにはそんな経緯があったのだ。

【ながよしかつゆき/太夫】katz@mvc.biglobe.ne.jp
作品名を明かしていいのかどうか判らないので、一応伏せておくが、少し前、ある映画の大阪ロケにエキストラ出演した。エキストラといってもけっこうおいしい役で、某男優ふたりが居酒屋のカウンターに並んで飲みながら話をしているすぐ横に座っているふたりのサラリーマンのひとりが私だった。カメラの角度が微妙で、ひょっとしたら写っていないかもしれないのだが、念のため、とにかく同僚と酌み交わしている役を一生懸命に演じましたとさ。これって、DTPでいうところの「塗り足し」みたいなもんですかな。ちなみに映画のエキストラの出演料の相場は5000円。

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