[2410] 自らを犠牲にできる人間とは

投稿:  著者:  読了時間:20分(本文:約9,700文字)


<「べきだ論」って、なんだかキライ>

■映画と夜と音楽と…[371]
 自らを犠牲にできる人間とは
 十河 進

■うちゅうじん通信[20]
 うちゅう人の時間
 高橋里季

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 冒険王・横尾忠則

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 「セカンドライフは儲かるのか?」出版記念セミナー&懇親会


■映画と夜と音楽と…[371]
自らを犠牲にできる人間とは

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20080418140400.html >
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●「本屋さん」大賞と冒険小説協会の日本軍ベストテン

先日、「本屋さん大賞」が発表になり、朝のテレビ番組でもニュース映像が流れた。伊坂幸太郎「ゴールデンスランバー」が一位で、作家自身もインタビューに答えていた。今や本の売れ行きに最も貢献する賞と言われる「本屋さん大賞」だから、取材メディアもかなり集まっているようだった。

そのベストテンを見ると、僕は七冊も読んでいた。最近の作家にはあまり興味がないのだが、昨年の話題作を積極的に読んだ結果、こうなった。これは、昨年に冒険小説協会の会員になり、僕自身が面白本の投票をすることになったからだ。なるべく多くの小説を読まなれば、と僕は努力した。

冒険小説協会の日本軍大賞は「警官の血」(佐々木譲)で「このミステリーがすごい」の一位と同じだったが、冒険小説協会選出のベストテンに入った作品で「本屋さん大賞」ベストテンにも入っていたのは「ミノタウロス」(佐藤亜紀)、「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎)、「サクリファイス」(近藤史恵)の三作品だった。

「本屋さん大賞」には、桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」「私の男」と吉田修一の「悪人」も入っていた。テレビ「SP」で人気の金城一紀「映画篇」も入っている。僕が未読だったのは「有頂天家族」(森見登美彦)、「八日目の蝉」(角田光代)、重松清「カシオペアの丘で」の三作品である。

それぞれに昨年話題になった小説ばかりだ。吉田修一の「悪人」は朝日新聞連載のときにはまったく読んでいなかったのだが、呑み友だちのIさんに薦められて読んだ。犯罪者の孤独と娘を殺された父親の悲しみが伝わるよい作品だと思うが、世評ほどすごいとは思えない。

桜庭一樹の二作品は話題になっていたので読んでみたが、「私の男」の直木賞には納得がいかなかった。小説も映画も、ある作品を好きという人がいれば嫌いだという人もいるけれど、僕は容認しがたい。「赤朽葉家の伝説」は読み始めてすぐ「これは『百年の孤独』だな」と思ったが、作者はマルケスの「百年の孤独」の影響を素直に認めているらしい。

「ミノタウロス」は吉川英治文学新人賞を受賞し「本の雑誌」選出の年間一位だそうだが、好きになれなかった。誰かが「ピカレスク・ロマン」と評していたけれど、僕にはアンモラルな印象しかない。「ピカレスク・ロマン」は「悪漢小説」と訳されるが、主人公が悪漢でも何らかの爽快感が必要だと思う。僕が思うピカレスク・ロマンの名手は、アラン・シリトーだ。

伊坂幸太郎の小説は「魔王」を読んだだけだったが、「ゴールデンスランバー」は「逃亡者」がベースらしいと聞いて読んでみた。正体不明の絶対的権力に追われて逃げる主人公の個人的武器は「信頼」だというので期待しすぎたのだろう、それなりに面白く読んだが、落胆したのも事実だ。

金城一紀「映画篇」を読むと、この作家の映画好きがよく伝わる。「ローマの休日」上映会を軸にして様々な人物を収斂させていくのも映画的で、キューブリック監督「現金に体を張れ」(1956年)やタランティーノ監督「パルプ・フィクション」(1994年)の手法を連想した。

「サクリファイス」の近藤史恵さんは、この作品が二十九冊目というベテラン作家らしいが、僕は名前も知らなかった。だから、まったく予備知識なしに読み始め、夢中で読んだ。読み終えて「この感動を誰かに伝えたい」と思った唯一の小説だった。少なくとも、この一年間に読んだ小説のベストワンである。

「あれはいいよ」と本好きの人に会うと薦めていたら、今年になって大藪春彦賞を受賞した。大藪春彦賞は作品のイメージとは合わないが、やはりミステリとして受け取られているのだろう。作家自身が鮎川哲也賞を受賞してデビューしたらしいから、ミステリ作家と見られている。残念ながら「サクリファイス」は「本屋さん大賞」では二位だった。

●「犠牲」と「生贄」の大きなニュアンスの違い

僕が「サクリファイス」という言葉を覚えたのは、柳田邦男さんの「犠牲(サクリファイス)」というノンフィクション作品が出たときだった。もう、かなり昔のことになる。「サクリファイス」という語感と「犠牲」という日本語がしっくりこなかった。

「SACRIFICE」を辞書で引くと、最初に「生贄」「供物」といった意味が出てくる。次に「犠牲」「犠牲的行為」という意味が解説されている。日本語の「生贄」と「犠牲」には大きなニュアンスの違いがある。英語圏では「生贄」と「犠牲」が同じように捉えられているのだろうか。そんなことを、当時の僕は思った。

「サクリファイス」(1986年)は、アンドレイ・タルコフスキー監督の遺作のタイトルでもある。僕もタルコフスキー・ファンで、ときどき彼の独特の映像にどっぷりと浸りたくなるが、その難解さは筋金入りだ。何度見ても理解できない。理解する必要はないのだけれど、理解したくなるのが業なのかもしれない。

タルコフスキー作品はどんどん物語性が希薄になっていて、映像体験によってしか得られない何かが心の奥深いところを揺さぶる。初期の「僕の村は戦場だった」(1962年)は物語が理解しやすいが、あの作品も繰り返しあらわれる井戸の水面のショットが喚起的だった。

タルコフスキー作品では「サクリファイス」の意味は、自らの身を生贄とする犠牲的な精神として描かれる。僕は「生贄」は他者から強制されるものというニュアンスがあり、「犠牲」には自らが進んで行う行為というニュアンスがあると思っていた。しかし、自己犠牲の行為として自らを差し出すのであれば、それは神への供物であり、他の人々を生かす生贄なのかもしれない。

近藤史恵さんの「サクリファイス」を読み終えたときも、僕はそんなことを考えた。近藤さんの「サクリファイス」の見事さは、ミステリ的などんでん返しを経た結果、真実を知った主人公に精神的な成長が訪れることだ。彼は人生のステージを一段階上がる。ある人物の犠牲的な行為への深い感動を胸に秘めて…。

「サクリファイス」というタイトルは、走る主人公を示すのだと思って僕は読み進めた。しかし、読み終えたとき、「サクリファイス」という言葉が示すものが百八十度ひっくり返ってしまう。まさに、どんでん返しであり、それ故にミステリとして成立しているのだけれど、その逆転には爽やかな感動が伴うのである。

●自転車ロードレースの世界を描きつくした小説

「ツール・ド・フランス」のテレビ・ドキュメンタリーを見たのは、もう二十年以上も前のことだ。子供の頃、競輪場が遊び場だった僕には自転車はなじみ深いものだったが、自転車レースと言えば「競輪」であり、それはギャンブルという後ろめたさを伴うものだった。

しかし、「ツール・ド・フランス」は過酷なスポーツであり、人々が熱中する大きなレースなのだと知った。ヨーロッパでは自転車ロードレースが盛んで、各国にプロチームが存在すると知ったのも、その番組だった。各国のチームが参加する自転車ロードレースの最高の舞台がツール・ド・フランスだ。

一ヶ月近くに及ぶレースであり、一瞬のミスがクラッシュを引き起こし、命をなくす危険さえある。アルプスの山を越えるようなハードなコースを走るのだ。「ツールド・フランス」は、知れば知るほど驚きだった。チームのメカニックたちはレースを車で追い、パンクした車輪を一瞬で交換する。そんなシーンにも目を見張った。

自転車ロードレースは大勢の選手が決められたコースを走るが、個人レースではない。チームで参加し、それぞれに役割がある。チームのエース選手を優勝させるためにアシストたちは、徹底的なチームプレーを要求されるのだ。F1レースのエースドライバーとサブドライバーより、役割は明確だ。

「サクリファイス」は、そんなロードレースの世界が詳細に描かれる。エースの選手がパンクし、メカニックたちの車が遅れていれば、すぐ近くにいたアシストの選手は、自分の自転車の車輪を交換用に差し出さなければならない。エースの力を温存するために正面からの風を受けながら走り、エースの風よけにならなければならない。

「サクリファイス」の主人公は自転車ロードレースに魅せられた青年であり、彼はアシストとしてエースをサポートする。彼は自らが光を浴びるより、影の存在になることを望むような人間だ。オリンピック候補も夢ではないと言われた陸上を棄てロードレースの世界に飛び込んだのは、アシストという存在を知ったからである。

彼のチームには何年もエースを張ってきたベテランの選手がいる。彼には、自分のポジションを奪いそうな若い選手を潰してきたといった噂がある。実際、彼が起こしたクラッシュで半身不随になった若きエース候補がいた。彼はロードレースしか頭にないようなストイックな選手だが、それ故に何を考えているのかわからない不気味さがある。

主人公と一緒にチームに加わった有望選手がいる。彼はエースになることを目標にし、先輩を先輩と思わない傲岸さを見せ、チームの中では浮いた存在だ。しかし、その実力は誰もが認めざるを得ない。また、エースの選手を何年も何年もサポートしてきたベテランのアシストの選手もいる。彼は長い年月をエースの影として生きてきた。

そんな彼らが展開する物語の最後に、本当の「サクリファイス」とは何なのか、その行為の真実の意味は何だったのかが明らかになる。人は互いに誰かの犠牲のうえに生きている。誰かが何かを担ってくれているから、人は生きていける。そのことを知っている人間は、自分が犠牲にならなければならなくなったとき、迷わずサクリファイスになれるのかもしれない。

人は多かれ少なかれ世のため人のため、誰かのために生きている──それを認識し、誰かのためにサクリファイスを迫られたとき(日常では、それはほんの些細なサクリファイスかもしれないが)、それができる人間でありたいと僕は思う。それができない人生に何の意味がある?

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
花粉症がひどくて、しばらく週末は家に籠もっていたが、久しぶりに体を動かした。ところが、翌日、ひどい筋肉痛に襲われた。それでも肉体的な疲労は心地よい。医者からも「運動して体重を落とせ」と言われている。年寄りの冷や水と言われない程度に運動をしようかなあ。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >

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■うちゅうじん通信[20]
うちゅう人の時間

高橋里季
< http://bn.dgcr.com/archives/20080418140300.html >
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「究極の理想主義」を支える「時間についてのこと」を書きます。「究極の理想主義」については、デジクリサイトを見てね。
< http://bn.dgcr.com/archives/20080404140100.html >

私は、「時間」を感じると、とっても幸せなんだけど、ヒトがヒトとして、一番ツライのも時間だと思うんです。たとえば牛や豚にも「情」はあるような気がするの。そういう意味で親子の情っていうのは、私の考えでは、べつに人間的なことではないんです。気がするだけで、研究した訳じゃないんだけど、牛だって、自分の子が自分から引き離されたりする時って、そうとう恐いと感じてるんじゃないかな? 身を引き裂かれるような想いをしていそうな気がする。

ヒトの脳や心の研究も大変なのだから、私たちが牛の脳とか気持ちを真剣に検討する余裕は「一億年経ってもあり得ない」かもしれないんだけど。とりあえず、私は、「情というのは、ヒトのことを考える道具にはならない。」としておきます。

やはりヒトの大問題は、「死ぬことを知りつつ生きている」ということで、この意味は、ただ知っているのではなくて、長い時間知っているということです。牛だって、自分の子が殺される前の晩ぐらいから、恐怖の一夜を親子で過ごしているかも知れません。

(誤解のないように、私の一番好きな料理はビーフシチュー。魚は、そうとうわからないように料理されていないとダメで。魚の形をしているとね、箸でさわるのもイヤ。でも、なぜかハンバーグは嫌い。???)

こういう意味からも、私は、「自分だけは殺人を犯したり、人に迷惑をかけないようにする。倫理的に恥じない生き方をする」だから、「犯罪者は自分とは違う特別に悪い人たちなんだ。」っていう考え方はわかんないわ。

「あんな残酷なことをするなんて、私には理解できない。」っていうような言い方って、ノーテンキな感じ。まあニュース番組のインタビューには、そう答えるしかないと思うけど。

それでね、私の何にでも使える方法のひとつに、「一番ツライことが道しるべになる」っていうのがあってね。「時間」が、ヒトの不安や期待を牛の何千倍にもしているのなら、時間のことを考えればいい。

そんなことを考えて、時間の本などもいろいろ読んでみました。学者さんはすごいな。私が想像するより、ずっとたくさんの時間の考え方が夢物語ではなくて、実際に研究されていたりする。

それでね、思い付いたの。自分が死ぬまでの時間しか考えないから不安や期待が、大きくなりすぎるんじゃないかな、って。考えないというよりも、ヒトが想像できる時間って、せいぜい100年くらいかも。300年後がどうなっているか、具体的には全然想像できない感じ。地球の空気が、今と同じかどうかもわからないものね。

「究極の理想主義」について書いている時に、「生きる意味」のこともがんばって書いているけど、私にはあんまり「生きる意味」は必要ありません。

私が、「時間を知る生き物」だということが、私の一番の苦悩であり、また、幸せの理由です。絵を描くときも、出来上がった絵を想像して、ワクワクできる。たった一枚の絵で、幸せ。

中国の人は、現世主義で、なんといっても「長生き」が大事なことなんだって、本で読んだことがあります。仙人とかね。私はあんまり長生きしなくてもいいや。大雑把に言えば、日本人はやっぱり桜の花が散るのを美しいと思うのかもしれません。自分が死ぬか死なないかより、私は、「殺す」のがイヤだな。

(誤解のないように、桜の花が散るのを美しいと思う、だからヒトも桜のように潔く死ぬべきだ。とか言ってませんからね。)

一億年後、ヒトが、「一億年前の人は、平気で動物を殺して食べていたんですって。そうしないと、タンパク質が不足して、本当に死んでしまう身体だったらしい。」って、「コワ〜イ!」とか言っていたら、いいな。

死ぬ心配のないヒトが、どんな倫理観を持つでしょう? どんな絵を描くのかな? 私、今、そういう絵を想像力いっぱいに描けたらいいなと思いますが、今、書いていることと、仙人のように生きたいということは、全然ちがう。

自分が死にたくないということと、ヒトは一生懸命生きるべきであることと、戦争はすべきでないということと、いろんなことを安易に「だから」で繋ぐのは、変です。そういうクセのある人って、どんなに読書をしても、自分勝手に文脈を取り違えてしまいそう。

「私は殺されたくない。だから、みんな殺しあいはやめよう。」っていうのは、変なの? って感じるのが普通だと思うんだけど。

一億年後のことを想いながら絵を描くのは「狂気」。その狂気が殺人犯の狂気と、なんら質的にも量的にも変わらない神経伝達物質の表出だとして、凶器を買うより絵の具を買った。ほとんど、タイミングや運の問題でしょう? たとえば、今の時代を私が、どういう文脈で捉えることができるのかっていうのは、ほとんど、私の運がそうだった、、、くらいのこと。

絵を描き終えて、初めてわかるの。「私の時間は、絵を描くことに使われたんだな。」いえ、「時間は、絵を描くことに私を使った。」大地震も起きなかったし、世界も終わらなかったらしい。こういう「時間についてのこと」が、私が理想を持つ理由です。

がんばって書いたけど「言うべき時に言うべきだ」っていう言葉自体が、なんだか、海外の本を訳すときに使われるような感じ。TPOと「時と場合」の感覚って、すごく違うと思うし、「場合」っていう感覚もなんとなくわからない感じ。私だけ? 「べきだ論」って、なんだかキライなのは、世代感覚かも。

「思考」「感情」「感覚」「直感」べきだ悲しい好き縄文回帰、全部否定したら、なんにも残らないかと心配していましたが、どうも「時間感受性(感性または本能または、、、)」で、なんとかするつもりの私です。

【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/ >

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■展覧会案内
冒険王・横尾忠則
< http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html >
< http://www.tadanoriyokoo.com/ >
< http://bn.dgcr.com/archives/20080418140200.html >
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会期:4月19日(土)〜6月15日(日)10:00〜18:00 月休(祝日の場合は翌日。4/28、5/5は開館)
会場:世田谷美術館(東京都世田谷区砧公園1-2 TEL.03-3415-6011)
入場料:一般1,200円、高大生・65歳以上900円、中小生・障害者600円
内容:「ターザン映画」や「少年探偵団」、「アングラ演劇」や「平凡パンチ」を愛するすべての世代に贈る、横尾忠則の冒険絵巻。雑誌やポスターに使われた、1960〜70年代のグラフィック原画から、冒険的物語がテーマの最新作まで、約700点を1階2階展示室で壮大に展開する。各種イベントを開催。サイト参照。
◇冒険王との対話 横尾忠則×酒井忠康(同館館長)
日時:4月27日(日)14:00〜
申込方法:当日朝10時より同館エントランスにてチケットを販売。
会場:講堂
定員:200名
参加費:500円(前売りなし、当日券のみ)
◇冒険王との対話 横尾忠則×荒俣宏(作家)
日時:5月4日(日)14:00〜
◇冒険王との対話 横尾忠則×中条省平(学習院大学教授)
日時:6月1日(日)14:00〜

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■イベント案内
「セカンドライフは儲かるのか?」出版記念セミナー&懇親会
< http://dhw.weblogs.jp/gsosaka/2008/04/post-99ae.html >
< http://bn.dgcr.com/archives/20080418140100.html >
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デジタルハリウッド大学院セカンドライフ大阪研究室副室長である稲泉稜二氏が院生と共に著した「セカンドライフは儲かるのか?」の出版を記念して、セカンドライフ大阪研究室によるセミナーとユーザー懇親会を開催する。

日時:4月18日(金)19:00〜21:00
会場:デジタルハリウッド大学院大阪サテライトキャンパス
費用:無料
詳細・申込はサイト参照
< http://gs.dhw.ac.jp/osakasc/0804sl/ >

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■編集後記(4/18)

養老訓・妻との会話を増やして「口でしゃべる」機能を回復するか、と先日書いたが、これはやはり危険なことで、うっかり地雷を踏んでしまうとえらいことになる。なるべく聞き役に回る方が平和だ(忍耐が必要だが)。養老孟司「養老訓」(新潮社、2007)を読んだら、やっぱりなあと納得したことがある。「夫婦は向かい合わないほうがいい」と章題にある。二人きりで暮らしていて喧嘩する原因のひとつが、向かい合いすぎることなのだという。まさしくその通り。妻と35年も暮らしているわたし、しかもここ10数年は会社務めしていないから常に家にいるわたしは、身にしみてそう感じている。引っ越してから以前より平和な感じがするのは、テーブルにつくときの位置関係が変わったからだ。以前は正面から向かい合っていた。いまは直角の関係で、妻はわたしの左方向にいる。これは室内のレイアウト上そうなっただけで、意識してやったことではないが、養老さんは力学的にもそれが正しいと図解で示してくれた。養老さんのユーモラスな物言いの中には真理があるから、するすると機嫌良く読んでいるだけで、いいことを教わって得した気分になれる。養老訓(章立て)は九つあり、それだけ拾ってもうれしくなる。不機嫌なじいさんにならない、感覚的に生きる、夫婦は向かい合わないほうがいい、面白がって生きる、一本足で立たない、こんな年寄りにはならないように、年金を考えない、決まりごとに束縛されない、人生は点線である……どこから読んでもおもしろく、各ページに受け売りしたくなるみごとな表現がいくつも出現する。ああ、痛快痛快。養老さんみたいな老人にわたしもなりたい。「じいさんは笑っていればいいのです。」簡単なようで簡単ではないな。ここしばらく髪の毛を染めていない。めんどうだから。白と茶で白のほうが圧倒的に多い。みるからにじいさんである。しばらくこのままで、笑って過ごそうかという気も。(柴田)
< http://www.shinchosha.co.jp/book/416003/ >
養老訓 新潮社サイト 立ち読みページ、宮崎駿との対談などあり
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104160032/dgcrcom-22/ >
アマゾンのレビュー

・ネタなし。何度も書いているお引っ越し話。電話移転や郵便物の転送依頼は済。メール便にも転送届が出せたらいいのに、と思っていたり。DMとはいえ、次の人に迷惑がかかっちゃうのは困るな。名刺類はまだ。荷造りはほぼ完了。古いパソコンや周辺機器の処分は先延ばし。あとは荷出し。Xデー決まる。天気予報では晴れ。仕事のことで頭の中がいっぱいで、何か漏れがないかと気になりつつ。(hammer.mule)

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養老訓
養老 孟司
新潮社 2007-11
おすすめ平均 star
star70にして心の欲する所に従って矩を踰えず
star養老孟司が説く、老人文化の大切さ
star前から三列目の苦虫じいさん います、います。
starやわらかい養老節
starこの歳で共感していいのかわからないが

小説を読みながら考えた バカにならない読書術 (朝日新書 72) (朝日新書 72) 大人の見識 (新潮新書 237) 人間の関係 ほんとうの環境問題

by G-Tools , 2008/04/18