[2415] ウォルター・マッソーの丸い鼻

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<パンチラ盗撮オヤジ... ではない!!>

■映画と夜と音楽と…[372]
 ウォルター・マッソーの丸い鼻
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![72]
 「情報のセグメンテーション化」とは何か
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[372]
ウォルター・マッソーの丸い鼻

十河 進
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●ジャック・レモンとのコンビで売れたウォルター・マッソー

我が家の近所に僕が秘かに「ウォルター・マッソー」と名付けた人物がいる。背の高い大きな人で、そういう人にありがちだが、少し猫背である。もちろん顔はウォルター・マッソーによく似ている。ウォルター・マッソーに似ているためには団子鼻であることが第一条件だが、その人の場合は顔の輪郭も目のあたりも実によく似ている。

そのウォルター・マッソーさんとは、よくバスで一緒になっていたのだが、最近、あまり見かけない。本家のウォルター・マッソーは8年前に亡くなったけれど、近所のマッソーさんは僕より数歳上だろうから、リタイアして通勤しなくてもよくなったのかもしれない。

ちなみに、僕がウォルター・マッソーを初めて見たのは、中学生のときにリバイバル上映されたオードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」(1963年)だった。その映画で初めて見たという意味では、ケイリー・グラントもジェームズ・コバーンもジョージ・ケネディもそうだったのだけれど…。

ウォルター・マッソーの役は、最初、アメリカ大使館員として登場し、ヒロインのオードリーを助ける役なのだが、これが、大どんでん返し。ラストシーンでオードリーを追いつめるウォルター・マッソーはかなり怖い。ウォルター・マッソーは、文字通り奈落の底に落とされてしまうのだが、同情の余地はないほどの悪役だった。

その後、コメディー出演がメインになり、ウォルター・マッソーはコメディアンとして認知される。もっとも、僕は最初に強烈な悪役を見たものだから、ウォルター・マッソーをコメディアンと思ったことはなかった。しかし、多くの人はウォルター・マッソーをクセのある喜劇役者と思っているだろう。

ウォルター・マッソーがアカデミー助演男優賞を受賞したのは、ビリー・ワイルダー監督作品「恋人よ帰れ!わが胸に」(1966年)である。アメリカンフットボールの試合で選手と衝突し、怪我をした真面目で小心なテレビ局員のジャック・レモンをたきつけ高額な賠償金を得ようとする悪徳弁護士役だった。

この後、「おかしな二人」(1968年)が続き、ジャック・レモンとウォルター・マッソーは名コンビになっていく。ビリー・ワイルダー監督の「フロントページ」(1974年)では、ジャック・レモンとウォルター・マッソーの掛け合いは名人芸の域に達していた。

その後、ウォルター・マッソーが「善い人」のイメージを一般的にしたのは、「がんばれ!ベアーズ」(1976年)がヒットしたからだろう。酔っ払いでだらしない偏屈でクセのある人間だが、実は善人で子どもたちに優しい、というイメージの確立である。

そのイメージ作りには、やはりウォルター・マッソーの顔が役に立ったと思う。丸い団子鼻と垂れた頬が目立つくしゃくしゃ顔と言ったらいいのだろうか、一度見たら絶対に忘れない。まず、コメディ以外に主演はとれないだろうと思うのだが、ハリウッドは意外に懐が深く幅が広い。彼に刑事やプロの犯罪者をやらせてみようというプロデューサーがいたのである。

●刑事・警官映画ブームのハリウッドが生んだB級佳作

1970年代の前半、厳密に言えば1973年と1974年の2年間、ウォルター・マッソーを主演にしたB級犯罪映画の名品が3本も作られたことがある。ウォルター・マッソーは、刑事や犯罪者を飄々と演じて、その実力を見せつけた。先日、NHK-BSとWOWOWで、そのうちの2本が放映され、ちょっと懐かしかった。

マッソーが初めて刑事を演じたのは「マシンガン・パニック」(1973年)だ。このタイトルは、当時、パニック映画が流行っていたからつけたのだろうか。僕は、そんなタイトルにしたことに腹を立てたことを憶えている。バスの中でマシンガンを乱射する大量殺人事件が起こり、それを調べるのがウォルター・マッソーとブルース・ダーンの刑事コンビだった。

原作は、スウェーデンのM・シューヴァルとP・ヴァールーという夫婦作家が書いたマルティン・ベック・シリーズの「笑う警官」だ。エド・マクベインの87分署シリーズに影響されて書き始めたという警察小説だった。当時、角川文庫から全10巻が発売されていた世界的なベストセラーである。

舞台は原作のストックホルムからサンフランシスコに移ったが、バスの中でマシンガンを乱射する大量殺人事件という都市型犯罪には相応しかったかもしれない。地味なジャケットに地味なネクタイ、ウールのベストを身につけたウォルター・マッソーの刑事は、地味な捜査を行うのには似合っていた。

その頃は、「ダーティハリー」「フレンチ・コネクション」(共に1971年)がヒットして、ハリウッド映画は空前の刑事映画・警官映画のブームだったのだ。若禿げのジーン・ハックマン主演で客が呼べるのなら、ウォルター・マッソーでもヒットするんじゃないかと考えたプロデューサーがいたのだろう。

ウォルター・マッソーが地下鉄の公安警察官を演じたのは「サブウェイ・パニック」(1974年)だ。4人の男たちがニューヨークの地下鉄を占拠し、乗客を人質にニューヨーク市に身代金を要求する。男たちのリーダーはオリエント急行の中でジェイムズ・ボンドを殺し損ね、後にジョーズと対決するロバート・ショー。元地下鉄運転手で犯罪に加わるのがマーチン・バルサムだった。

犯人側にそれだけ渋い役者を揃えたのだから、警察側にもそれなりの役者が必要である。という理由かどうかは知らないが、地下鉄の本部で犯人との交渉に当たるのがウォルター・マッソーだった。しかし、無線での交渉だけでは見せ場がない。大詰めになって、ウォルター・マッソーはトリックを使い、犯人たちを追い詰めていく。

原作は、登場人物ひとりひとりの視点で細かく描かれている。たとえば、人質になった乗客の中に、たまたま刑事がひとりいるのだが、彼の視点の章が何度も登場する。しかし、映画では「人質の中に特捜の刑事がいる」とセリフで説明されるだけだ。映画化に当たって整理する必要もあったのだろうが、ウォルター・マッソーが演じる地下鉄公安警察官ひとりが中心になった。

しかし、ウォルター・マッソーは善戦している。事件が解決し、たったひとり逃げ延びた犯人を捜して聞き込みをしているとき、あることをきっかけに犯人がわかるのだが、犯人の部屋のドアを一度閉めた後、再び開けてヌッと顔を突き出したウォルター・マッソーのアップで映画は終わる。そのウォルター・マッソーの表情が忘れられない。

●仲間の死体さえ利用するクールなプロの犯罪者を演じた

ウォルター・マッソーは刑事役と地下鉄公安警察官の役の間に、プロの犯罪者を演じている。「突破口」(1973年)だ。ドン・シーゲル監督が「ダーティハリー」の次に作った傑作犯罪映画である。「ダーティハリー」の異常犯を演じたアンディ・ロビンソンがウォルター・マッソーの相棒役で出ているが、とても可哀想な役だった。

「突破口」は、最初、なぜかお蔵になるという話だった。それは小林信彦さんが「突破口」の試写を見たときの文章で知った。小林さんは「突破口」の試写で渥美清と出会い、ふたりでワクワクしながら見たらしい。

小林さんの「ドン・シーゲルの暴力的祭典」(「われわれはなぜ映画館にいるのか」所収)によると、「面白いねえ! アメリカ映画ってのは、色んなことを考えるじゃないの!」と渥美清が言い、「むかしなら、キャグニィの役だよね。マッソーだと動きが鈍いけど、あの味が、アメリカ人には、こたえられないんだろうなあ! ウォルター・マッソーの活劇というだけで、ウケるんだろうなあ」と小林さんが応えている。

「突破口」がロードショー公開になったかどうかは憶えていないのだが、僕は池袋の文芸坐で見た。学生時代の話だ。タイトルバックはニューメキシコの田舎町の朝の穏やかな風景である。芝刈りする人、水をまく人、遊ぶ子どもたちなどのカットがスケッチ風に続く。

小さな銀行の前に女が運転する車が停車する。隣りに座っている老人は、片足がギブス。そこへパトカーを降りた警官がやってきて「駐車できませんよ。駐車場へいれてください」と注意する。老人がギブスを示し「小切手を換金するだけだから」と言うと、警官は仕方なく許可する。

老人が銀行に入っていく。窓口で小切手の換金を依頼する。老警備員の動きを追うようにカメラが狭い銀行のロビーを移動撮影する。窓辺に二人の男がいる。背中を見せたままだ…。このあたりから観客は何かを感じる。ゾクゾクし始める。カットが変わると、先ほどの警官が同僚に「あの車のナンバー、盗難リストに出ていた気がする」と言っている。

この後の10分間ほどのシークェンスが凄い。ドン・シーゲルは犯罪映画の名手だと思う。逃走する車の中で、ウォルター・マッソーが、つけ髭やカツラなど老人のメーキャップを取り、ギブスを外していくシーンのワクワクさ加減は見事なものだ。

さらに、話はここから面白くなる。田舎町の小さな銀行だから、せいぜい数万ドルしかないだろうと思っていたのに、強奪金は75万ドルもあった。しかし、銀行はなぜか被害額は数万ドルとしか発表しない。浮かれる相棒(アンディ・ロビンソン)にマッソーはくぎを差す。

──この金はマフィアの隠し金かもしれない。
  警察なら逃げられるが、マフィアからは逃げきれない。

案の定、組織は優秀な殺し屋を送り込んでくる。「アイム・モリー」と名乗るテンガロン・ハットをかぶった大男の殺し屋を演じたのは、当時、売り出し中のジョー・ドン・べイカーだった。僕は今まで、映画で様々な殺し屋を見たが、最も印象深いのがジョー・ドン・べイカーのモリーである。

ここから主人公チャーリー・ヴァリック(これが原題)とモリーの頭脳戦になっていく。チャーリー・ヴァリックはモリーが追跡できるような痕跡を残しながら伏線を張り、ある罠へ誘い込む。しかし、それが伏線なのか、どんな罠なのかは、最後まで見ないとわからない。そして、最後にアッと驚く結末が待っている。

アンディ・ロビンソンが可哀想だなあと思うのは、彼はモリーに殺された後、その死体までヴァリックに利用されるからだ。モリーに殺されるのだって、ヴァリックがそうし向けたのである。仲間さえ非情に利用する冷徹な頭のいい犯罪者を演じて、ウォルター・マッソーほどはまった役者はそういない。どことなく憎めない面貌が、そんな冷酷さを中和させるのかもしれない。

ウォルター・マッソーは、2000年7月1日に79歳で亡くなった。遺作になったのは、メグ・ライアン、リサ・クドロー、ダイアン・キートンの三姉妹の父親役をやった「電話で抱きしめて」(1999年)だった。死期間近なのに、相変わらずわがままな酔っ払いオヤジを演じていて、「ああ、いつものウォルター・マッソーだなあ」と僕は思った。最後まで印象の変わらない人だった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
体調が悪く、自宅でのアルコール摂取が激減した。元々、自宅では適量しか呑まなかったが、最近は、まったく呑まない日が増えた。やっぱり、歳なのかなあ。このところ、同じ話を繰り返すことをしきりに指摘されるのも、歳のせいなのでしょうか。それとも、元々、くどい性格?

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otaku ワールドへようこそ![72]
「情報のセグメンテーション化」とは何か

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20080425140100.html
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今まで、ときたま「情報のセグメンテーション化」という概念を持ち出して、最近の日本社会を語ってきたが、いつも断片的に触れるだけだったので、そのうち体系的に論じてみたいと思っていた。ここらでひとつ。

情報のセグメンテーション化とは、偉い学者が提唱した概念ではなく、私が勝手に言っているだけなのだが、社会を論じる上でのひとつの切り口になりうるような気がしている。例えば日本なら日本という、ひとつのまとまった社会について、30年前と比べて時代の空気が大きく変わったよなぁ、とか、諸外国に比べてどこか違うところがあるよなぁ、とか、感想として漠然と述べることはできるが、それをもう少し客観的に捉えようとするとき、この概念を持ち出すことでひとつの指標の役割を果たすのではないかと。

もしそうなら、今後、もっと深く掘り下げて考えていけば、何かが掘り出せそうな感じがしないだろうか。どなたか続きをやってくれないかなぁ。……という甘い期待は置いておいても、確かに何か本質的なものが埋まっているかもしれないという感覚に、多少なりとも共感していただければ幸いということで、私は今の時点でこんなふうに考えています、というのを述べておこうと思う。

●情報のセグメンテーション化とは何か

定義らしきことを述べる前に、大雑把な感覚で言うと、情報の流通を誰かが意図的にブロックしているわけでもないのに、現実の情報の流れに相当の偏りが自然に生じてしまうような状態になっているとき、私は「情報がセグメンテーション化しているなぁ」と感じている。

元はと言えば、オタクという人々が世間一般からは、ずいぶんと実態からかけ離れたイメージで十把一絡げにされているなぁ、という印象を抱いたことをきっかけに意識しはじめたことなのだが。オタクのイメージも、今はずいぶんよくなってきたように感じるが、ひところは、性格が暗いとか、コミュニケーション能力に劣るとか、精神的に幼稚なまま成長しないとか、社会性がないとか、犯罪予備軍だとか、いろいろ言われていた。

もしオタクを正しく理解しようという動機があるのならば、ネットにいくらでも情報は転がっているし、「オタク論」的な書籍も多数出版されているので手段はいくらでもある。しかし、世間一般には、わざわざそこまで深入りするほど関心が高いわけではなく、実態を正しく反映しているかどうかという確認が行われないまま、ネガティブなイメージばかりが繰り返し語られて固定化していったように思う。

ところが、実際にオタクの集まる場所へと足を踏み入れて実態を目の当たりにしてみると、このイメージにかなりの違和感を抱く。世間一般に言うところの典型的なオタクってどこにもおらんなぁ、と。この状況をみて、情報の流通に分離が生じていると感じたわけである。

情報伝達のもっとも基本的な単位は、人と人との一対一の口頭による伝達であろう。AさんがBさんに「駅前に新しく開店したラーメン屋、試しに食べに行ったら美味かったよ」と教えてあげる。Bさんは、会う人ごとに言うかもしれないし、関心のありそうな人を選んで言うかもしれないし、出し惜しみをして黙っているかもしれない。個別に見れば、情報の流れはそんなもんだが、これの総体として、社会全体で、あらゆる人の間であらゆる情報が伝達されていく流れの全体をみようとするとき、それはいったいどんな構造をもっているのか、その辺が気になるところである。

もし、情報の伝達にまったくクセがないならば、ひとつの情報単位は、テーブルクロスにこぼしたワインのしみのように、全方向に均等に広まっていくであろう。Aさんが仕入れてきたラーメン情報をBさんとCさんに伝えれば、BさんはそれをDさんとEさんに伝え、CさんはFさんとGさんに伝え、……という具合に、指数関数的に情報が広まっていき、最終的には、全員に共有される。あらゆる情報がそのように伝達されれば、たまたま情報源の近くにいる人が早く正確に知るという多少の不均衡はあるにせよ、時間が経てば、最終的には、あらゆる人があらゆる情報を均等に共有するという定常状態に落ち着く。だが、現実の社会を見ると、そうはなっていない。情報の流れ方には、クセがあるのである。

さて、それで「情報のセグメンテーション化」の定義だが、次のような感じでいかがだろうか。情報のセグメンテーション化とは、ある社会の内部を情報が流通する際の伝達のしかたの構造において、個々の情報単位がそれの属する分野に関心のある人たちであらかじめ構成された集団の間を非常に迅速にあまねく流通するけれども、その集団の外ではほとんど流通することのないような情報伝達構造のことである。

最近の例では、漫画版の「ローゼンメイデン」は掲載誌を幻冬舎の「月刊コミックバーズ」から集英社の「週刊ヤングジャンプ」に移して連載が再開されたが、このニュースは、ローゼンメイデンファンはもとより、漫画好きの間を瞬く間に駆け巡り、お祭り騒ぎのような喜びをもって迎えられた。一方、世間一般では、そもそもこの作品自体があまり知られていなかったりする。

えーっと、ローゼンメイデン、ご存知ないですかねぇ。当時外務大臣だった麻生太郎氏が空港で読んでいたのが目撃されたという情報がネットに流れて話題になり、講談社の「メカビ」が麻生大臣に直接インタビューして読んでいたことを白状させちゃったという、話題沸騰な作品なんですがねぇ。しかも、麻生氏もほめていたという、いい作品なんですがねぇ。

●情報流通の偏りは、関心度の偏りによって生じる

さて、情報の流通にこのような偏りが生じるのは、なぜだろうか。実際にはいろいろな要因があるだろうが、単純化したモデルで考えるならば、個人個人が各分野に対してもっている関心度が均等ではないということが大きく効いているのではなかろうか。

一人の個人が、個々の分野に対してもっている関心度が均等でなく、非常に興味のある分野、多少興味がある分野、まったく興味がない分野、という具合に、関心度にでこぼこがある。これが第一の不均等。このでこぼこの分布形状が、個人間で異なっている。これが第二の不均等。

ある人がある情報を得たとしても、その人がその情報にあまり興味がなければ、次の人に伝達する可能性は低くなる。また、その人自身に興味があったとしても、次の人に伝える際には、興味をもってくれそうな人を選んで伝えようとする傾向が生じるであろう。

このように、関心度に上記2つの意味での不均等が生じているような人々からなる社会に対し、多種多様な情報を流し込んだとき、結果として情報の流れはどのような挙動を示すのか、これはなかなか興味深い問題なのではなかろうか。また、情報の流通にセグメンテーション化が起きるのは、興味の分布がどのような条件を満たしたときであろうか。

実際にシミュレーションなどで検証したわけでも何でもなく、直感的な仮説にすぎないのだけど、情報のセグメンテーション化は、多分、各個人に内在する興味分布がクリスプ化することによって引き起こされるのではないかと考えている。クリスプ(crisp)とは、パキパキ、パリパリという意味で、要はファジィ(fuzzy)の反対である。

関心度が最大限である状態を1として、まったく無関心な状態を0とすれば、ひとつひとつの分野への実際の関心度は、中間の値をもつ。
例えば、メイド 0.95、ツインテール 0.8、絶対領域 0.7、猫耳 0.5、アホ毛 0.2 といった具合である。これがファジィ。
それに対して、各分野への関心度が両極端に寄ってしまい、1か0かしかなくなってしまった状態がクリスプである。

実際には、関心度の分布が完全にクリスプ化してしまうことはありえないのだが、社会全体を見渡したときに、各人の各分野への関心度分布が両極端に寄って、中間があまりない状態になっているとき、クリスプ化傾向が強まったというふうにみることができる。

情報は、その情報の属する分野への関心度の高い人々の間をよく流れる。とすれば、関心度の分布がクリスプ化すれば、情報の流通はセグメンテーション化する、というのは、直感的に言ってほぼ明らかな気がするのだが、いかがだろうか。

視点をひっくり返してみれば、情報そのものが実は一個の巨大な生き物であり、人間社会はその生き物が住む環境であるというふうにもみえてくる。ファジィな環境とクリスプな環境とでは、情報という生き物の振る舞いが異なってくるということである。

●情報のセグメンテーション化の度合いは測定可能か

ひとつの時代におけるひとつの社会(日本なら日本)を取り上げたとき、その社会において、情報がどの程度セグメンテーション化されているかを定量的に測定することは可能であろうか。ひとつ、次のような手があると思う。情報の流通の様子を直接的に調べるのではなく、関心度のクリスプ化の度合いを調べるのである。

誰でも、関心度の高い分野については、積極的に情報を収集し、蓄積するであろう。ということは、一人の人が各分野に対してもっている関心度のでこぼこは、結果として、その人が各分野について蓄えた知識量のでこぼこに反映されるであろう。

そこで、さまざまな分野について、その分野への知識の深さをテストするアンケート調査を行ってみる。たとえば、「将棋」という分野については、次のような設問を用意する。
1)「詰み」とはどういう状態か
2)「必死」(「必至」とも表記)とはどういう状態か
3)「美濃囲い」とはどのような囲いか
4)「角行」が敵陣に成り込んだときの駒の名称と可能な動きは?
5)現在の名人の名前は?
6)現在の名人位を獲得するのに戦った七番勝負の相手の名前は?

全数調査あるいは無作為抽出でテストを施し、ヒストグラム(頻度分布)をとる。これは、横軸に点数をとり、縦軸に各点数をとった人の人数をとったグラフで表される。

さて、もし人々の将棋に対する知識がクリスプ化していると、このヒストグラムは、中間の凹んだ、2つの山からなる形状を示すであろう。これを双峰(そうほう)性という。双峰性は、次のようなH(大文字のイータのつもりだったがエイチと区別がつかないので、エイチでいいや)として算出できる。

あるひとつの点数tを「しきい値」として、点数がt以上だった人たちからなるAクラスとt未満だった人たちからなるBクラスに分ける。すると、tの値に応じて、次のような指標η(小文字のイータ)を算出することができる。η=(クラス間分散)/(全分散)詳しい説明は割愛させていただくが、ηは0と1の間の値をとり、クラス間の実力がはっきり分離しているほど、値は大きくなる。

tを全域で変化させたときのηの最大値をHとする。このHの値が大きい(1に近い)ほど、元のヒストグラムは双峰性が高い。つまり、Hは、ヒストグラムの双峰性の度合いを表す指標になっているのである。ただし、全分散の値が一定値に達しない場合は、単峰分布と双峰分布の区別がつかなくなるので、設問がまずかったということで、このデータを無効とする。

将棋以外にも、科学、文学、スポーツ、芸能、生活の知恵など、多様な分野について同様の調査を行い、それぞれについてHを算出する。この値が全体的に大きいほど、知識の深さがクリスプ化していると考えることができる。それは、間接的に、関心のクリスプ化の度合いを表し、ひいては情報のセグメンテーション化の度合いを表していることになるのではないか。

●日本は情報のセグメンテーション化が強まる傾向にあるのか

実際に統計をとったわけではないので、はっきりとは言えないが、感覚的に、日本では、情報のセグメンテーション化が急速に進んでいるように思う。将棋の例ひとつをとったって、30年くらい前は、強くも弱くもない、中途半端なレベルの人が大多数を占めていた。ルールを知っていて、中飛車や棒銀などのポピュラーな戦型を知っていて、時の名人が誰かを知っている程度。今は、相当強い人と、まったく無関心な人に分離している。中間はどうかというと、そこに長く留まってはいないのだ。強いソフトがあり、ネット上に対戦環境があり、道場があり、書籍があり、という具合に上達の高速道路が整備されているので、あっという間に駆け抜けてしまうのである。

子供を対象とした学力テストの統計データなどは、過去数十年分にわたって蓄積されているに違いないので、平均と標準偏差といった一般的な統計量をとってみるだけにとどまらず、前述の指標Hを算出してみるべし。きっと、学力も両極化傾向が進んでいるのではあるまいか(全部正規分布になってしまい、Hは一定値かもしれない。いまいち自信がない)。

さて、情報のセグメンテーション化が進行していくことは、社会にとって、よいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。私はずっと、悪いこととして捉えてきたが、最近になって、少し考えが変わってきた。それを詳細に論ずるつもりだったが、すでに相当長くなっているので、早送り( > > >)で進めたい。

悪い面として、同じセグメント内でしかコミュニケーションが成立しづらくなり、セグメントの壁を越えた意思の疎通が希薄化することが挙げられる。
( > > >)狭い視野からくる偏った価値観が是正される機会が減る。( > > >)謬見・妄想・狂信の類が、セグメント内で濃く流通し、固着化されやすい( > > >)
社会全体を俯瞰的に見渡すことが困難になる。( > > >)国家的な意思決定において、総合的な配慮を欠いた、部分最適・全体崩壊を招きかねない荒唐無稽な結論に陥りやすい。裁判員しかり。児ポ法しかり。

だが一方、情報のセグメンテーション化は、誰かが旗を振って強力に推進してきたわけでもないのに自然と進行してきたということは、それなりのよさがあるというだけに留まらず、それ以上の必然性があったのだと考えられる。

テクノロジーの進化やインターネットの普及などの要因により、社会に流通する情報の量が劇的に増大した。すべての情報がすべての人に均等に行き渡るような均質社会を維持していくのは、もはや無理なのである。携帯電話ひとつとっても、これの中の仕組みを隅々まで知悉している人は、世の中に一人もいない。直接間接に関わる特許はおそらく数十万件におよぶであろう。各ユニット(機能単位)にそれぞれ専門家がいて、それらを組み上げる専門家がいて、分業で成り立っている。

つまり、情報のセグメンテーション化が進んだほうが、社会全体として効率がいい。電車の運転士は、農作物の育て方や魚の捕り方を知らなくても、ちゃんと野菜や魚にありつける。そういう分業体制の整った社会が安定的に維持されていれば、個人個人は多方面にわたる膨大な情報の洪水に溺れることなく、各自の役割や趣味嗜好に徹していればよいのである。

だとすれば、情報のセグメンテーション化の悪しき側面が社会全体に悪影響を及ぼさないよう十分に対策を打った上で、それ自体は進むに任せておいてよいのではないか。そのためには、教育のあり方とマスメディアのあり方は根本的に見直されるべきなのではないかと思う。「平均的な人」を想定しても、そこはもはや空洞化しつつあるのだ。スペシャリストの養成と、社会全体がバラバラにならない仕組みづくりが肝要なのだ。

最後に、今後ますます情報のセグメンテーション化が進行していったとき、社会がどうなっていくか、予測を述べておきたい。人類の知の体系という生き物は、もはや巨大化しすぎて、一個の人間の脳内にはとうてい収まりきれなくなっている。ウィキペディアに載っている情報だけでも、一人で読破するのはもはや無理であろう。一人一人が部分部分を分担することによって、この巨大な生き物を維持していくしかなくなっている。情報のセグメンテーション化がどんどん進んでいけば、この生き物はまだまだ大きく育つことができる。

人間の脳細胞ひとつひとつは、単純な機械のような作用しかしていないらしい。しかし、それが140億個集まって、それらの間に、ある種の適度な連携が構築されているとき、全体として、ひとつの脳として機能する。あたかもその階層がひとつ上がったかのごとく、ひとりひとりの人間は断片的な知識をもとに、割と単純な振る舞いをするにすぎないが、彼らが有機的に連携する体制が維持されていることにより、社会全体が、あたかも一個の人格のように意思をもち、思考するようになる。

一人一人の人間よりも、遥かに膨大な情報を処理することが可能な、賢さのレベルが一段階アップした、高等生物の誕生である。私はこれを「人類補完計画」と呼びたい。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

パンチラ盗撮オヤジ... ではない!! 鉄人社の「裏モノジャパン3月号別冊 バカ画像500連発」は、笑える画像をネットから拾い集めて適当にキャプションをつけて作ったと思しき本だが、その中の一枚に私のカメコってる雄姿が!
去年の夏コミでいつの間にか撮影され、2ちゃんに晒された画像だ。そのときは「老兵は死なず」とか「死んでもラッパを離しませんでした」とか言われてたが、この本では「パンチラ盗撮とは、かくも厳しきものらしい。他人の視線も頭髪も気にしちゃおれん」と。お笑いネタとして、世のお役に立てて光栄でございます。ウチの近くのセブンイレブンで売ってたんで、記念に買っちゃったよ。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR080425/
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■編集後記(4/25)

・デジクリは明日よりGWメンテナンス休みに入ります。次にお会いするのは、5月7日(水)となります。

・「アサヒカメラ」5月号の、「巷の『噂』『風評』を徹底調査 あなたの不安に答える デジタル一眼レフは本当に大丈夫か? という特集はなかなか興味深かった。「デジタル一眼レフはAFが甘いといわれるけど、本当?」「デジタルは銀塩より電子部品が多くシャッター回数も増えたから壊れやすい?」「液晶の寿命がつきてしまうことはあるか」「CMOSやCCDは長年使っていると劣化したり壊れたりすることがある?」など、AF、ボディ、ファインダー、撮像素子、メモリーカードに関する23の質問に、まつうらやすし、荻窪圭の二氏がYes、No、どちらとも言えないのいずれかで答え、要領よく解説している。それ以外にも「デジタルカメラの寿命は銀塩時代より短い?」「デジタル写真はどう保存するのが『正解』なのか」などの解説もありおもしろく読めた。わたしは一眼ユーザーではないので、質問自体が重要なことなのか分らないのもあったが、このQアンドAは蘊蓄として利用できると感じた。カメラ雑誌では珍しく読ませる記事だ。ずいぶん昔「アサヒカメラ」編集部に、まだ珍しかった(先進的過ぎた)「デジタルフォト+インクジェットプリントのカレンダー」を持ち込んだことがあるが、「うちはデジタルは扱わない。デジタルは読者に支持されていない」と一蹴されたことを思い出す。では、こんな風評(?)はいかが。「女性ポートレートのカメラマンってへんな趣味なのか」。毎週金曜日に某サイトに現れるモデルはいつもチョットナ〜。あるカメラマンのポートレートの特集本では、モデル全員が(わたしの感覚では)ハズレ。よりによってこういう娘ばかり撮っているのは、こういう娘がタイプなんだろうな、っての。みなさんもチェックしてみ、なくてもいいです。(柴田)

・プレゼントの当選確率高し。締切は月末。ご応募待ってます!/長野の聖火リレー、どうなるんだろう。/お引っ越しの荷造りの際、資料類を処分した。たくさんのお仕事をやってきたんだなぁと感慨深かった。行政関係やいわゆる大手企業さんのお仕事が多い。フリーでのんびりやってるのに、よくこんな大きな先のお仕事をさせてもらっているよなぁと改めて思った。一度作った先からの紹介から細々と続いていったり。5年ほど前にやったサイトが残っていたりすると、恥ずかしいからリニューアルさせてもらえないかなぁとか思ったりもする。Webサイト制作は、企業側の担当者さんの器量で成功不成功が80%決まる。方向性や基準を決めている担当者さんには、どういうアドバイスや提案をしたらいいのかわかるし、スケジュールも予定通りに進む。それどころか雑談で勉強させてもらえる。あちらの何気ない一言があとでボディブローのようにじわじわきいてくるのだ。ありがたいよなぁ。/5月6日までお休みだから、あれもこれもしよう♪ と予定を立てていたが、お仕事山積みでふらふらになりそうだ。しんどいこともあるけど、失敗も成功も後から役に立つ。ある方の講演での「箱庭を作ること」の意味が実感を帯びてくる。箱庭作りって難しそうだな。(hammer.mule)
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プレゼント