[2423] 裏切りという犬や不幸せという猫がいる

投稿:  著者:  読了時間:27分(本文:約13,000文字)


<死をめぐる思索には墓地がよい>

■映画と夜と音楽と…[374]
 裏切りという犬や不幸せという猫がいる
 十河 進

■Otakuワールドへようこそ![73]
 桜の樹の下で人形を撮る
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[374]
裏切りという犬や不幸せという猫がいる

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20080516140200.html >
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●タイトルだけで見にいきたくなった映画

ここ数年に公開された映画の中でタイトルだけで見にいきたくなったのは、何と言っても「あるいは裏切りという名の犬」(2004年)だった。「裏切りという名の犬」だけでもタイトルとしては成立するが、「あるいは」と付けたところにセンスを感じた。ちょっとそそるタイトルである。

これは日本の配給会社の仕事だ。この映画を見て、昔のフランス製フィルム・ノアールを連想した。フィルム・ノアールの神様ジャン・ピエール・メルヴィル監督は「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切りだ」と言ったが、「裏切り」というフレーズが入るだけで内容を期待させる何かがある。

この映画の原題は単に「36」であるらしい。スクリーンでも「36」としか出てこない。「36」とはパリ警視庁があるシテ島のオルフェヴル河岸36番地のことだ。かのメグレ警視も勤めていた場所である。日本で「桜田門」と言えば警視庁をさすが、パリっ子たちはパリ警視庁を「36」と呼んでいるのだろうか。

主演はダニエル・オートゥイユ。僕の大好きなフランスの俳優だ。最初に見たのは「愛と宿命の泉/フロレット家のジャン」(1986年)だった。第二部「愛と宿命の泉/泉のマノン」では初めてエマニュエル・ベアールを見た。後にふたりは結婚し「愛を弾く女」(1992年)という名作で再び共演した。

ダニエル・オートゥイユは喜劇からシリアスドラマや恋愛映画、刑事映画までこなす演技派である。ダウン症の青年と共演したジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品「八日目」(1996年)の演技も忘れがたい。これでカンヌ映画祭主演男優賞を獲得した。パトリス・ルコント監督の「橋の上の娘」(1999年)のナイフ投げ芸人の役も印象に残っている。

「愛と宿命の泉」でダニエル・オートゥイユは屈折した悪人を演じ、ジェラール・ドバルデューが善人を演じた。ところが「あるいは裏切りという名の犬」では、ジェラール・ドバルデューが権力欲の権化のような役をやっている。フランス一の名優という評判だが、独特の鼻をしたあくの強い顔である。

もっとも、ダニエル・オートゥイユも決してハンサムではない。「愛と宿命の泉」では醜い容貌に対するコンプレックスが性格をねじ曲げ、他者への悪意を抱えている複雑な役だった。ピノキオのような鼻と鋭い目が目立つが、「あるいは裏切りという名の犬」の敏腕警視役には、その容貌が合っていた。

ところが、「あるいは裏切りという名の犬」は刑務所の独房のベッドでダニエル・オートゥイユがさめざめと涙を流すシーンから始まる。そのシーンは映画の後半になってから再び出てくるが、そのシーンの謎が映画への興味を掻き立てる。期待を抱かせる。

余談だが、映画が始まってすぐに出てくるバーの豊満なマダムに見覚えがあると思ったら、何とミレーヌ・ドモンジョだった。1950年代から60年代にかけて活躍した肉体派女優である。一時期はブリジッド・バルドーと張り合った。19 38年生まれだから、66歳のときの出演。相変わらずの金髪が美しい。

彼女が最初に人気が出たのは「女は一回勝負する」(1956年)だった。僕が見たのは十代になってからだけれど、ビキニ姿のグラマーぶりにウブな少年の頭はクラクラした。フランスで人気があった作家ハドリー・チェイスの原作で、十八番の悪女ものだった。

●現場で職務をまっとうする男と権力志向の男

パリ警視庁にふたりの警視がいる。次期長官候補だ。レオ(ダニエル・オートゥイユ)は部下たちからの人望もあり、率先して先頭に立ち抜群の実績を誇る。現長官は彼を後任に推しているが、レオ自身はそのことに執着はしていない。組織の中の出世より、現場にいたいタイプなのだ。

もうひとりのドニ(ジェラール・ドパルデュー)は、何が何でも長官になることを欲している。権力を握らなければ何もできないと思っている。レオが指揮するBRI(探索出動班)とドニがトップであるBRB(強盗鎮圧班)は、警視庁内部で互いに対立する部署であり、メンバー同士も会話をしないほど反発し合っている。

パリでは現金輸送車強奪事件が多発していた。機関銃や爆薬を使った手荒いやり方で一年半のうちに7件も同じ手口でやられている。何人も殺されたのに手がかりがない。長官はレオとドニに特別命令を下す。ドニは、どんな強引な手を使ってでも強盗団を逮捕しようとする。そうすれば、自分が長官になれると思っている。

レオは違う。殺人と強奪を繰り返す強盗団が許せないのだ。だから、今は服役中の情報屋から「仮釈放前の特別外泊でパリにいる」と呼び出されて会いにいく。きれい事だけ言っていたのでは犯罪者は捕まえられないと、彼にはわかっている。泥をかぶっても、職務をまっとうしようとする覚悟が彼にはある。

情報屋はレオの目前で人を殺し「俺のアリバイを証言すれば、強盗団の隠れ家を教える」と交換条件を出す。レオはその取引を呑み、強盗団の情報を入手する。情報屋は自分を警察に売ったギャングのボスを射殺したのだ。暗黒街に棲む人間同士の殺し合いにすぎない、強盗団を捕まえる方が重要だ。レオは、そう考えたのかもしれない。

レオは部下たちと強盗団を包囲する。しかし、レオの指示を無視したドニの介入で長年の同僚を射殺される。ドニは調査委員会に査問されることになり焦る。しかし、ドニはレオが情報屋と取り引きしたことを探り出し、反撃に出る。その結果、レオは殺人の共犯として逮捕され、ドニは過失はなかったと放免される。ドニは晴れて長官の地位を手に入れる。

権力欲に凝り固まり汚い手を使ってライバルを陥れる男、自分が泥まみれになっても職務をまっとうしようとする男、観客はどちらに感情移入するだろうか。もちろん、後者だろう。だが、組織の中で後者のような生き方を貫くことが、果たしてできるものだろうか。

●「組織と個人」というテーマさえナンセンスな現代

「組織と個人」というテーマは、近代文学のテーマである。戦後、特に重要なテーマになったのかもしれない。組織が個人に大きな影響を与えるようになったからだろう。開高健の初期作品に「巨人と玩具」という短編がある。昔、誰かの評論で、その作品のテーマは「組織と個人」だと読んだことがある。その小説は昭和32年に発表になっている。

その頃に比べて、組織は一段と増殖し拡大している。力も持った。どんな人間にも自分に大きな影響力を持つ組織の存在があるのではないか。組織に縛られ、同時に組織に守られて生きている。だから、人は組織から離れられない。組織を頼る。個人の自由より組織の価値観を優先する。自分を殺す。諦める。耐える。現代では「組織と個人」というテーマを問うことさえナンセンスだ。

最近、日本でも警察小説が大流行だが、ある出版社の編集者に聞くと「小説を読まない中年層が読んでいる。複雑な組織の中で生きるヒーローという設定が受けているようです。組織の中の自分を仮託して読まれているのかもしれませんね」とのことだった。

警察小説が組織を描いた小説として読まれている理由は、警察が巨大な組織であり、保守的な体質を持ち、階級制度が明確であり、ちょっとしたミスが命取りになり、本音とタテマエが使い分けられる世界だからではないだろうか。組織の堕落が明らかになるたびに幹部たちが頭を下げるが、相変わらず裏金作りなどの噂はなくならない。

そんな矛盾だらけの組織の中で、犯罪者を捕らえるという当たり前の仕事を貫こうとする孤高のヒーローたちが中堅サラリーマンの心を捉えるのかもしれない。だが、「あるいは裏切りという名の犬」のヒーローであるレオは7年の懲役刑になり、ドニは警視長官になる。警察組織の中の矛盾は、フランスでも同じだなと僕は映画を見ながら思った。

組織には権力闘争がある。本人がそんな世界から降りていたとしても、巻き込まれてしまう。結局、政治的な立ち回りのうまい人間が、組織の中の階段を順調に登っていく。警察の本来の職務である犯罪者を逮捕する仕事で優秀さを発揮しても評価されず、捜査の方法に多少でも違法性があれば組織からは責められる。

多くの人がそんな組織に息苦しさを感じている。それでいて、現実の人生を生きる人たちは、ドニのような生き方を否定しきれない。レオのように組織の中のポジションを気にせず、仕事に邁進するだけという生き方はできない。なぜなら、いい仕事をしようと思ったら、組織の中のポジションを上がらなければならないからだ。

どんな組織にもランクがある。階級と言ってもいいし、序列と言ってもいい。組織の実態は、個人の集積である。トップの人間がいて、次のランクの人間たちがいる。さらに、その下のクラスの人たち…というように広がっていく。そして、そのランクを上がるに連れて見えてくるものが違う。権限が広がる。決定権が得られる。もちろんそれに相当する責任も…。

そうしたランクアップと経験の集積は比例する。様々な経験をしランクがアップすると、人は視野が広がるものだ。いつまでも現場にこだわり、現場から離れない人間には見えないものが見えてくる。だから、僕は一概にランクアップをめざすことを否定はしない。ランクアップを目的にしたくないだけだ。職務をまっとうし、結果としてランクアップする。それでいいと思う。

トニのように長官になることを目的にし、汚い手を使って同僚を陥れたりすることの醜悪さは誰でもわかる。レオのように職務をまっとうした結果、評価され人望を得て長官に推されることが健全なのだ。そんな人間が評価される組織であってほしいと誰もが思っている。

しかし、多くの組織はそんなに風通しはよくないし健全ではないという諦念が、現在の警察小説の流行を作り出しているのかもしれない。どんな組織も理不尽な部分を持っているし、組織的意志という不可解な怪物が跋扈する。だが、諦めるな、個人的意志を通すべきときは通せ、主張しろ、僕はそう言い聞かせる。

ちなみに「あるいは裏切りという名の犬」のタイトルを見たとき、浅川マキの「ふしあわせという名の猫」という歌を思い出した。作詞は寺山修司。しかし、それ以前にテネシー・ウィリアムズの名作「欲望という名の電車」がある。ヴイヴィアン・リーとマーロン・ブランドでの映画化作品(1951年)もあるし、杉村春子の文学座公演も有名だった。

あれは「欲望という名の電車」に乗って、「絶望という名の街」に着くのだったかな? いやいや、物語はニューオリンズの街が舞台だった。そういえば、「希望という名のあなた」を訪ねて、あてのない旅に出た人もいたなあ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
連休があけたのに風が冷たい。Tシャツに綿の長袖シャツを着ていても寒い。いつもならTシャツ一枚でいい季節だ。しかし、シャツの裾を出したままのスタイルは楽だが、今では裾をズボンに入れている方がおかしく見えるのはなぜだろう。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otakuワールドへようこそ![73]
桜の樹の下で人形を撮る

GrowHair
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満開の桜の樹の下で、和装の男の子の人形を撮らせてもらえる話になった。問題は、場所である。ネクタイを鉢巻にしてマイクを握る赤ら顔のおじさんなんかが背景に写っては台無しなので、できれば人の少ない、落ち着いた雰囲気のところがいい。都内にそんなところ、あるのか? どうしたって、思いつくのは墓地である。小平、八王子、青山と下見して、結局青山で撮った。

墓地を遊び場にするなんて罰当たりなことしてたら、あっちの世界に住む方々の不興を買っても仕方あるまい。霊障のひとつやふたつは覚悟の上で臨んだが、どうやらあきれて怒る気も起きなかったらしい。こうむったのがこっちの世界の人々からの冷笑ぐらいで済んだのは幸いである。

●死をめぐる思索には墓地がよい

人間は、生物の一種である以上、死を全力で回避するように設計されている。また一方、人間は生物の一種である以上、いつかは必ず死ぬように設計されている。前者の視点に立てば、どんな苦難でも死ぬよりはましであり、死とは、人生最大最悪の事件である。一方、後者の視点に立てば、死とは、ありきたりの日常となんら変わらない、あたりまえのことである。さて、この矛盾をどうしたものか。

動物を見ていると、来るべき死についてくよくよ悩んでいるようには見えない。今この瞬間を精一杯生き、その日が来たら、ぱっと覚悟を決める。それが、与えられた生を最大限に楽しむことであり、生というものを与えてくれた、何か大きな者に対する感謝と賛美のしるしのようにも見える。

人間だって、これに見習えばいい。暗いことは考えないようにして、今この瞬間を楽しく生きる。大変野性的と言えるが、悪いことではない。健全に生きることの基本である。野球選手は、バッターボックスに入れば、投げられた球を打ち返すことに全力を集中する。その瞬間、生が輝いている。

一方、ソクラテスは「哲学は死の練習」であると言った。仏教には「生死一如」という言葉もある。どうも、人間は、他の動物に比べると、あり余る想像力を備えさせられてしまったようである。それがそもそも不健全なような気がしてならない。やっぱり禁断の実を食べちゃったのがいけなかったのだろうか。死について、あれこれ考えちゃうのである。

しかしそれは、いつか必ず来る自分の死という具体的な現実に対して、無駄にくよくよ悩むというネガティブな精神作用をもたらしているばかりではなく、死を抽象概念に昇華させ、それを核にして、思想的に深まっていくというポジティブな精神作用をももたらしているように見える。だとすれば、私はこの路線も悪くないと思う。

死というものを、いたずらに恐怖するのではなく、かといって、非現実的なまでに美化するでもなく、携帯電話を肌身離さず持ち歩くように(私は持ってないけど)、概念としての死をすぐ脇に置いて、常に参照していたい。そして、たまには深く考えごとに浸りたい。それにいい場所は、なんといっても墓地である。落ち着く。

去年の春は雑司ヶ谷に行った。夏目漱石の「こころ」に出てくる場所である。作中では、「私」がいつものように「先生」を訪ねていくと、留守で、奥さんから雑司ヶ谷の墓地に行っていると聞く。行ってみると、いる。帰り道、「先生」が「私」に向かって言う。「あなたは死についてよく考えたことがありませんね」。

金曜日の仕事帰り、夜11時ごろ池袋駅に着いて、東口から外へ出ると、「給食当番」のピンクの車が止まってて、揚げパンを売ってる。ひとつ買う。100円。その場で揚げて、砂糖をまぶしてくれる。小さな紙袋に入れてくれたので、それを提げて、雑司ヶ谷まで歩く。

何年か前に行った青山や谷中の桜は見事だったので、ここもさぞかしと期待していたのだが、行ってみると、桜の木が全然植わってない。ケヤキとかカエデとか、そんなんばっか。花がなければ、人もいない。管理事務所前に大きな桜の木があって満開だったが、ビルの前ではいかにも風情がない。もっと落ち着けるところはないものかと、歩き回っていると、さほど背の高くない木があって、なんか八重のもんが咲いている。

花の色も分からないほど、あたりは暗い。木は横方向への広がりがなく、箒を逆さにしたように、上にばかり鋭角に枝分かれしている。だけど、幹は何となく、桜だ。ま、ここでいっか。鈴木さんちの低い石の囲いに腰掛けて、揚げパンを食す。うまいっ。いるほどに気分が落ち着いてくる。いい場所ではあったのだが、桜が期待はずれだったこともあり、結局、あんまり深い思索に耽ることもなく、立ち去る。

ひとつだけ、ちょっと不思議なことがあった。桜を求めて歩きまわっていたとき、すぐ横で、卒塔婆が触れ合う「かしゃん」という軽い音がした。そのタイミングがあまりによかったので、まるで私の存在に意図的に働きかけているように感じられ、ちょっとびくっとした。帰りがけにまた同じようにやられて、見ると、往きと同じ場所だった。ほぼ無風状態であったのだが。

ひっきりなしに鳴っているのかもしれないと思い、しばらく立ち止まって見ていたが、もう鳴らなかった。なかなか耳に心地よい音で、それほど悪い空気は感じられなかった。よく来たな、という軽いあいさつみたいなもんだったんだろうか。

●夕刻の小平霊園で恐怖漫画を読む

桜を撮りに行って、桜が咲いてなかったでは話にならないので、下見は必須だ。3月16日(日)、小平霊園に行ってみる。

ところで、以前にこの欄で、和歌山の淡島神社のことを書いた。人形が怖いという人のために、安心して下さい、怖くありません、と言いたくて書いたつもりだったのだが、編集後記で柴田さんは、「なんと言われようと、わたしは人形が怖い」。がくっ。山岸涼子の「わたしの人形は良い人形」を読んでからだと思う、とのことだが、私は読んでいない。読んだら考えが変わるだろうか、と本屋を探してみる。だが、絶版で、在庫もないという。同じ作家の別作品で、柴田さんも怖いと言及していた「鬼」と「白眼子」があったので、それを買う。

「わたしの人形〜」のほうは、熱帯雨林で調べると、中古が何冊か出ている。一番安いのは36円。よほど手放したいのかね。それを注文。小平に行ったのは、それが届く前だったので、「鬼」と「白眼子」を持っていく。図らずも、墓地で恐怖漫画。絶好の取り合わせではないか。

天気がよくて、あったかい。着いたらすでに16:30ぐらいになってたが、のどかだ。寒くもなく、暑くもなく、快適。霊園はやたらとだだっ広く、きれいに区画整理されている。舗装された広い通りが入口から中央に向かって伸び、その他の小道は芝生。ところどころにベンチがある。彼岸なので、昼は人がたくさん来ていたのであろうが、この時間はもう、ちらほらいる程度。土の下の人も入れれば、そうとうにぎやかになるだろうけど。桜の樹は、あることはあるが、まばらで、ロケ地としては、どうかな?

かなり奥のほうまで歩き、ベンチに座り、持ってきた漫画を読んで過ごす。遠景に、葉を完全に落としたケヤキの大木があり、その後ろに入った太陽がでっかく、美しい。二冊とも、それほど怖くはなく、心あたたまる、いい話。化けて出る側の悲しみというものがよく描かれていて、たいへん面白い。

山岸涼子のホラー漫画には「救い」がない、と方々で言われている。ここでいう「救い」とは、ひとつには、登場人物にとってのものがあろう。長年の悩みが、ある時ついに解決して緊張が解け、心の平安が訪れるという展開である。それともうひとつ、読者にとっての「救い」というものが考えられると思う。それは、ストーリーを「教訓」へと転化して「そういう悪事さえ働かなければこっちへ災いが降りかかってくることはないはずだ」と、自分を安全地帯へと逃がすための避難路である。

「鬼」は、山岸作品にしては珍しいことらしいが、救いまで描かれている。(思いっきり簡略化して言うと)子供が共食いする話だが、長年成仏できないでいた子供の亡霊が、やっと親をも自分をも「許す」という境地に達して成仏できる、という形で救われている。と同時に、読む側にとっての救いとなる「教訓」は、「やっかい払い」の供養じゃ成仏できませんからね、というところに求めることができるように思う。

供養とは、浮かばれぬ霊の悲しみを理解した上で、安らかに成仏できるように願うべきものであって、自分にさえ災厄が降りかからなければいいので、どっかへ行ってしまえ、とばかりに追っ払うような気持ちで半端な供養なんかしてると、余計に祟りますよ〜、と言っているように感じる。

だんだん暗くなってきて、読めなくなってくる。街灯は、ぜんぜんない。だけど、面白くて、止まらない。敷地のほぼど真ん中にトイレがあり、そこだけ電気がついて、明るい。入口前には、待つ人用にベンチがある。そこへ移って、続きを読む。

誰もいないはずのトイレから、急に物音がしたりして、ちょっと怖い。漫画では、土の中から子供の手が伸びてきて、通る人の足を捉えて地中へひきずり込もうとするシーンがあり。思わず、自分の足をベンチの上にあげ、あぐらをかいて、続きを読む。

最後まで読み終わると、あたりは真っ暗。人っ子ひとりいない。いや、いたとしても分からん。長居しすぎたか。人間タイムはとっくに終了していたようで。墓地の出入り口に戻る道は、すぐ近くだけはトイレの電灯に照らし出されているが、先は真っ暗闇に吸い込まれている。その闇に入って行かないことには、帰れない。うっ。

意を決して、進む。目が慣れたら、実はそんなに暗くなかった。ほぼ真上に半月がかかっている。足許には水溜りのように見える黒っぽい領域が大きなまだら模様を描いているが、よくよく見たら、道の脇から枝を張り出す樹木の影であった。メインストリートは舗装されているので、手が出てくる心配はないし、遠くには明かりが見えている。これなら難なく出られそう。

その明かりが動いたような気がした。こっちが動いているせいだろうか。立ち止まってしばらく見ていると、動かない。こっちが動くと、向こうもときおり動く。そうこうするうちに、いきなりすぐ目の前に自転車が現れた。さっきから見えていた明かりは、そのヘッドライトだった。最初、自転車だけが勝手に走っているのかのように見えたが、よくよく見ると黒い服を着た人が乗っている。係員の見回りだろうか。手には懐中電灯を持っている。こっちもビビったけど、向こうもビビっただろうな。お互い無言ですれ違う。振り返ると、もう見えなくなっている。ほどなく出口に到着。ふう。

●いちばんよかったのは青山

3月29日(土)には、八王子霊園に行ったが、大ハズレ。ぜんっぜんおもしろくない。まず、墓石の高さが70cmぐらいに制限されているようで、伝統的な柱状ではなく、横長のにほぼ統一されている。で、少し斜めに切られた手前の面に、「○○家」という墓碑銘が横書き。せめて右から左にすりゃ、まだしもなのに。それと、卒塔婆がなぜか、一本もなし。なんか、味気ないこと極まりない。こんな墓地ばかりになったら、今にお化けが絶滅しちゃうぞ。

変な現象についても、大したことは起きなかった。帰り際、ベンチで休んで立ち上がると、左膝に冷たい感触がした。あれ、いつの間に水に濡れたか、とジーンズの上から触ってみると、からからに乾いている。まあ、いちいち気にとめるほどのこともない、些細なことである。

翌日は、青山へ。どうしても墓地らしい墓地を堪能したくなり、今まで行った中でいちばんよかったここを再訪。「東京国際アニメフェア2008」に行ってからだったので、着いたらもう17時すぎ。肌寒くて、雨がしょぼしょぼ降っている。桜は満開、ちょうど見ごろ。だけど、ぜんぜん人がいない。ここは、いい。気分が出る。放ったらかしの区画などは草ぼうぼうで、墓石につる草が絡まっていたりする。

広い敷地を道が十字に貫き、桜並木になっている。そこだけは街灯がともり、人や車の往来がけっこうある。花見客を当てにした、やきとりの屋台とたこやきの屋台が並んでいる。たこやきを買う。8個入り500円。食うのにいい場所はないかと墓地内に入っていくと、針葉樹が上を覆っているおかげで乾いている区画がある。坂元さん、ちょいとおじゃまします。石の囲いに腰掛けて、背中に視線を感じつつ、たこやきを食す。そうとう長く焼かれてたとみえ、片側がおこげになってる。それはそれで美味い。

それから、よい撮影ポイントを求めて歩き回る。ほんの少しばかり不思議なことがあった。そのときは、日没後ながら、まだ空は明るく、歩くのには困らない。車の道からT字に入っていく墓地内の通路から、さらにT字に入っていく細い芝生の通路がある。そっちを見ると、なんとなく、行ってはいけないような気配がする。

私は限りなく霊感が鈍いほう。めったに気配なんて感じないんだけど、たま〜にこれはなんかやだな、と感じることがある。そういうときは、きっとよほど強い妖気が出てるんだろうと察して、近づかないようにしている。だけど、そのときはなぜかちょっと強気な気分になっていた。

行ったらいったいどうなるってんだよ? なんかあればやっぱり虫の知らせだったんだな、って話になるけど、何もなければただの勘違いじゃん、と。思い切って行ってみる。芝生の道は別の道へT字に突き当たる。気配は右のほうから来る。見てみると……。あ、これじゃん。一見してそうとう古い墓だと分かる。墓石が四角くない。概形は縦長の楕円の上半分みたいなんだけど、輪郭はすごくでこぼこで、適当な形。厚みのやや薄めの石が立ててある感じ。気配の源はこれだ、とはっきり感じられる。鉄柵で囲われていて、石のところまでは行けない。文字を読み取ろうとしたが、暗すぎて読めない。しばらく見ていたが、何が起きるというわけでもない。とてもじゃないが、背を向ける気がしないので、後ずさりで立ち去る。

さて、一週間後の4月6日(日)、八裕(やひろ)沙(まさご)さんが自作の人形を連れてきてくれて、一緒に青山墓地へ。八裕さんは、私とは対照的に、霊感が強いほうみたい。あの、銀座のヴァニラ画廊でのオリエント工業の人形展のこともあるし。それなんで、先週の場所に行ってもらって、どんな感じがするか、ぜひ聞かせてもらおうと決めていた。確かこの辺だったはず、というあたりへ、まず行ってみる。あれ? ないなぁ。どこだっけ? 探し回りつつ、撮影に手ごろな場所を見つけては、そこで撮る。

3時間ぐらい撮って、16時ごろになる。さあこれで撮影終了ということにして、その場に一人で待ってもらい、私はそこらじゅうを駆けずりまわって探した。それでも、見つからない。あきらめる。なんかくやしい。化かされた気分。そのうちもう一度来て、よく探してみよう。猫がいたので、撮る。

夜桜で一杯やろうという話になり、やはり人形を作る、橘(たちばな)明(あきら)さんに電話して誘ったら、来るという。「仮面ライダー」の「ショッカー幹部ワイン」を持ってきてくれた。
< http://lalabitmarket.channel.or.jp/site/feature/shocker_wine.html >
先週の屋台はこの日も来ていたので、今度は焼き鳥も買う。

日が暮れかけている。墓地の奥のほうに立派な桜の木があり、満開。他の桜は七割方散ってるような木が多い中、この桜は、まだ散り始めてもいない。いい感じだ。近くに、通路が石段になってるところがあったので、そこに腰掛ける。世界征服を誓って、乾杯。イーイーイー。真っ暗になってからもしばらく宴は続いた。死をめぐる思索も、三人ですれば実に楽しく、大いに話がはずんだ。

写真の出来も、自分としては、上々。特に変なものが写り込むこともなく、八裕さんもきれいだと喜んでくれた。写真はこちらでご覧ください。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR080516/ >

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。5月11日(日)、鳥取県にある中国庭園「燕趙園」で開かれた「中華コスプレ日本大会」の打上げの後、地域にまつわる怪談はないかと地元の方々に聞いてみた。すると、こんな話が。倉吉と関金(せきがね)との間に山があり、中腹に石碑が建っているが、それに触ると死ぬと言われている。実際、触ったと自慢していた人が、ぽっくりと亡くなった。生前の友人たちが、その石碑を見に行ったが、どんなに探しても見つからず、怖くなって逃げてきたという。それ、私が青山で見た墓の話に似てないか? あの墓が私の前に出現したことの意味は何? それが、気配と鉄柵によって、私を近づかせまいと二重にブロックされていたことの意味は何?

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■編集後記(5/16)

・玄光社から藤田一咲の「きまぐれカメラ」シリーズの第2弾、「ましかく写真BOOK」が発行された。前号は、デジタルカメラが主流になったいまこそ、何台ものフィルムカメラを手に入れるチャンス、思う存分フィルムカメラ楽しもうという提案だった。今号は、ファンの増えている真四角(ましかく)写真の魅力を全開した、またしても楽しい企画だ。パート1はガイド編で、ましかく写真を撮るにはどういうカメラを使うのかを見せる。ピンホールカメラ、トイカメラ、ポラロイド、今はもう製造されていないましかくカメラ、最強ましかくカメラ「ハッセルブラッド」、ローライフレックなどが登場し、もちろん作例も掲載される。パート2はいろいろ編で、どういう被写体がどう写るのかを見せる。室内で、旅先で、街歩きで、ポートレートで、さまざまな場面でのましかく写真が豊富に掲載されていて楽しい楽しい。こむずかしいことを全然言わないコラムがいい。ましかくの独特の安定感って快いなあと再認識。この本では、ましかく写真をいろいろなサイズで、いろいろな見せ方をしている。レイアウトも、書体の種類やサイズも多彩(ごちゃごちゃ)である。楽しさを演出する設計なのだと思う。それはそれでいいが、これだけのいいネタなら、端正な設計で真四角写真を配した美しい本もできると思う(しかも正方形判)。そういう本作りの注文が来ないもんかな〜。(柴田)
< http://issaque.com/blog/203.html > 藤田一咲サイト
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768302653/dgcrcom-22/ >
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< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768302483/dgcrcom-22/ >
「気まぐれカメラBOOK」をアマゾンで見る

・焼肉食べに行きたいなぁ。ポミエの豚の角煮でもいいなぁ。ポミエというのは大阪日本橋にある小さな喫茶店で、日本橋に行ったら、たいていここで食べるのだ。安いのにおいしくてご飯の量が半端じゃない。コストパフォーマンス高し。好きなのは煮卵入りの角煮定食A。食べたことないけどカツ丼や生姜焼き、ハンバーグも人気らしい。最近は混雑しているので時間帯をずらして行くようにしている。二号店作らないのかな。(hammer.mule)
< http://kansaifoodlab.blog114.fc2.com/blog-entry-75.html > メニュー
< http://r.tabelog.com/osaka/rstdtl/27012039/ >  ポミエ