Otakuワールドへようこそ![73]桜の樹の下で人形を撮る
── GrowHair ──

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満開の桜の樹の下で、和装の男の子の人形を撮らせてもらえる話になった。問題は、場所である。ネクタイを鉢巻にしてマイクを握る赤ら顔のおじさんなんかが背景に写っては台無しなので、できれば人の少ない、落ち着いた雰囲気のところがいい。都内にそんなところ、あるのか? どうしたって、思いつくのは墓地である。小平、八王子、青山と下見して、結局青山で撮った。

墓地を遊び場にするなんて罰当たりなことしてたら、あっちの世界に住む方々の不興を買っても仕方あるまい。霊障のひとつやふたつは覚悟の上で臨んだが、どうやらあきれて怒る気も起きなかったらしい。こうむったのがこっちの世界の人々からの冷笑ぐらいで済んだのは幸いである。



●死をめぐる思索には墓地がよい

人間は、生物の一種である以上、死を全力で回避するように設計されている。また一方、人間は生物の一種である以上、いつかは必ず死ぬように設計されている。前者の視点に立てば、どんな苦難でも死ぬよりはましであり、死とは、人生最大最悪の事件である。一方、後者の視点に立てば、死とは、ありきたりの日常となんら変わらない、あたりまえのことである。さて、この矛盾をどうしたものか。

動物を見ていると、来るべき死についてくよくよ悩んでいるようには見えない。今この瞬間を精一杯生き、その日が来たら、ぱっと覚悟を決める。それが、与えられた生を最大限に楽しむことであり、生というものを与えてくれた、何か大きな者に対する感謝と賛美のしるしのようにも見える。

人間だって、これに見習えばいい。暗いことは考えないようにして、今この瞬間を楽しく生きる。大変野性的と言えるが、悪いことではない。健全に生きることの基本である。野球選手は、バッターボックスに入れば、投げられた球を打ち返すことに全力を集中する。その瞬間、生が輝いている。

一方、ソクラテスは「哲学は死の練習」であると言った。仏教には「生死一如」という言葉もある。どうも、人間は、他の動物に比べると、あり余る想像力を備えさせられてしまったようである。それがそもそも不健全なような気がしてならない。やっぱり禁断の実を食べちゃったのがいけなかったのだろうか。死について、あれこれ考えちゃうのである。

しかしそれは、いつか必ず来る自分の死という具体的な現実に対して、無駄にくよくよ悩むというネガティブな精神作用をもたらしているばかりではなく、死を抽象概念に昇華させ、それを核にして、思想的に深まっていくというポジティブな精神作用をももたらしているように見える。だとすれば、私はこの路線も悪くないと思う。

死というものを、いたずらに恐怖するのではなく、かといって、非現実的なまでに美化するでもなく、携帯電話を肌身離さず持ち歩くように(私は持ってないけど)、概念としての死をすぐ脇に置いて、常に参照していたい。そして、たまには深く考えごとに浸りたい。それにいい場所は、なんといっても墓地である。落ち着く。

去年の春は雑司ヶ谷に行った。夏目漱石の「こころ」に出てくる場所である。作中では、「私」がいつものように「先生」を訪ねていくと、留守で、奥さんから雑司ヶ谷の墓地に行っていると聞く。行ってみると、いる。帰り道、「先生」が「私」に向かって言う。「あなたは死についてよく考えたことがありませんね」。

金曜日の仕事帰り、夜11時ごろ池袋駅に着いて、東口から外へ出ると、「給食当番」のピンクの車が止まってて、揚げパンを売ってる。ひとつ買う。100円。その場で揚げて、砂糖をまぶしてくれる。小さな紙袋に入れてくれたので、それを提げて、雑司ヶ谷まで歩く。

何年か前に行った青山や谷中の桜は見事だったので、ここもさぞかしと期待していたのだが、行ってみると、桜の木が全然植わってない。ケヤキとかカエデとか、そんなんばっか。花がなければ、人もいない。管理事務所前に大きな桜の木があって満開だったが、ビルの前ではいかにも風情がない。もっと落ち着けるところはないものかと、歩き回っていると、さほど背の高くない木があって、なんか八重のもんが咲いている。

花の色も分からないほど、あたりは暗い。木は横方向への広がりがなく、箒を逆さにしたように、上にばかり鋭角に枝分かれしている。だけど、幹は何となく、桜だ。ま、ここでいっか。鈴木さんちの低い石の囲いに腰掛けて、揚げパンを食す。うまいっ。いるほどに気分が落ち着いてくる。いい場所ではあったのだが、桜が期待はずれだったこともあり、結局、あんまり深い思索に耽ることもなく、立ち去る。

ひとつだけ、ちょっと不思議なことがあった。桜を求めて歩きまわっていたとき、すぐ横で、卒塔婆が触れ合う「かしゃん」という軽い音がした。そのタイミングがあまりによかったので、まるで私の存在に意図的に働きかけているように感じられ、ちょっとびくっとした。帰りがけにまた同じようにやられて、見ると、往きと同じ場所だった。ほぼ無風状態であったのだが。

ひっきりなしに鳴っているのかもしれないと思い、しばらく立ち止まって見ていたが、もう鳴らなかった。なかなか耳に心地よい音で、それほど悪い空気は感じられなかった。よく来たな、という軽いあいさつみたいなもんだったんだろうか。

●夕刻の小平霊園で恐怖漫画を読む

桜を撮りに行って、桜が咲いてなかったでは話にならないので、下見は必須だ。3月16日(日)、小平霊園に行ってみる。

ところで、以前にこの欄で、和歌山の淡島神社のことを書いた。人形が怖いという人のために、安心して下さい、怖くありません、と言いたくて書いたつもりだったのだが、編集後記で柴田さんは、「なんと言われようと、わたしは人形が怖い」。がくっ。山岸涼子の「わたしの人形は良い人形」を読んでからだと思う、とのことだが、私は読んでいない。読んだら考えが変わるだろうか、と本屋を探してみる。だが、絶版で、在庫もないという。同じ作家の別作品で、柴田さんも怖いと言及していた「鬼」と「白眼子」があったので、それを買う。

「わたしの人形〜」のほうは、熱帯雨林で調べると、中古が何冊か出ている。一番安いのは36円。よほど手放したいのかね。それを注文。小平に行ったのは、それが届く前だったので、「鬼」と「白眼子」を持っていく。図らずも、墓地で恐怖漫画。絶好の取り合わせではないか。

天気がよくて、あったかい。着いたらすでに16:30ぐらいになってたが、のどかだ。寒くもなく、暑くもなく、快適。霊園はやたらとだだっ広く、きれいに区画整理されている。舗装された広い通りが入口から中央に向かって伸び、その他の小道は芝生。ところどころにベンチがある。彼岸なので、昼は人がたくさん来ていたのであろうが、この時間はもう、ちらほらいる程度。土の下の人も入れれば、そうとうにぎやかになるだろうけど。桜の樹は、あることはあるが、まばらで、ロケ地としては、どうかな?

かなり奥のほうまで歩き、ベンチに座り、持ってきた漫画を読んで過ごす。遠景に、葉を完全に落としたケヤキの大木があり、その後ろに入った太陽がでっかく、美しい。二冊とも、それほど怖くはなく、心あたたまる、いい話。化けて出る側の悲しみというものがよく描かれていて、たいへん面白い。

山岸涼子のホラー漫画には「救い」がない、と方々で言われている。ここでいう「救い」とは、ひとつには、登場人物にとってのものがあろう。長年の悩みが、ある時ついに解決して緊張が解け、心の平安が訪れるという展開である。それともうひとつ、読者にとっての「救い」というものが考えられると思う。それは、ストーリーを「教訓」へと転化して「そういう悪事さえ働かなければこっちへ災いが降りかかってくることはないはずだ」と、自分を安全地帯へと逃がすための避難路である。

「鬼」は、山岸作品にしては珍しいことらしいが、救いまで描かれている。(思いっきり簡略化して言うと)子供が共食いする話だが、長年成仏できないでいた子供の亡霊が、やっと親をも自分をも「許す」という境地に達して成仏できる、という形で救われている。と同時に、読む側にとっての救いとなる「教訓」は、「やっかい払い」の供養じゃ成仏できませんからね、というところに求めることができるように思う。

供養とは、浮かばれぬ霊の悲しみを理解した上で、安らかに成仏できるように願うべきものであって、自分にさえ災厄が降りかからなければいいので、どっかへ行ってしまえ、とばかりに追っ払うような気持ちで半端な供養なんかしてると、余計に祟りますよ〜、と言っているように感じる。

だんだん暗くなってきて、読めなくなってくる。街灯は、ぜんぜんない。だけど、面白くて、止まらない。敷地のほぼど真ん中にトイレがあり、そこだけ電気がついて、明るい。入口前には、待つ人用にベンチがある。そこへ移って、続きを読む。

誰もいないはずのトイレから、急に物音がしたりして、ちょっと怖い。漫画では、土の中から子供の手が伸びてきて、通る人の足を捉えて地中へひきずり込もうとするシーンがあり。思わず、自分の足をベンチの上にあげ、あぐらをかいて、続きを読む。

最後まで読み終わると、あたりは真っ暗。人っ子ひとりいない。いや、いたとしても分からん。長居しすぎたか。人間タイムはとっくに終了していたようで。墓地の出入り口に戻る道は、すぐ近くだけはトイレの電灯に照らし出されているが、先は真っ暗闇に吸い込まれている。その闇に入って行かないことには、帰れない。うっ。

意を決して、進む。目が慣れたら、実はそんなに暗くなかった。ほぼ真上に半月がかかっている。足許には水溜りのように見える黒っぽい領域が大きなまだら模様を描いているが、よくよく見たら、道の脇から枝を張り出す樹木の影であった。メインストリートは舗装されているので、手が出てくる心配はないし、遠くには明かりが見えている。これなら難なく出られそう。

その明かりが動いたような気がした。こっちが動いているせいだろうか。立ち止まってしばらく見ていると、動かない。こっちが動くと、向こうもときおり動く。そうこうするうちに、いきなりすぐ目の前に自転車が現れた。さっきから見えていた明かりは、そのヘッドライトだった。最初、自転車だけが勝手に走っているのかのように見えたが、よくよく見ると黒い服を着た人が乗っている。係員の見回りだろうか。手には懐中電灯を持っている。こっちもビビったけど、向こうもビビっただろうな。お互い無言ですれ違う。振り返ると、もう見えなくなっている。ほどなく出口に到着。ふう。

●いちばんよかったのは青山

3月29日(土)には、八王子霊園に行ったが、大ハズレ。ぜんっぜんおもしろくない。まず、墓石の高さが70cmぐらいに制限されているようで、伝統的な柱状ではなく、横長のにほぼ統一されている。で、少し斜めに切られた手前の面に、「○○家」という墓碑銘が横書き。せめて右から左にすりゃ、まだしもなのに。それと、卒塔婆がなぜか、一本もなし。なんか、味気ないこと極まりない。こんな墓地ばかりになったら、今にお化けが絶滅しちゃうぞ。

変な現象についても、大したことは起きなかった。帰り際、ベンチで休んで立ち上がると、左膝に冷たい感触がした。あれ、いつの間に水に濡れたか、とジーンズの上から触ってみると、からからに乾いている。まあ、いちいち気にとめるほどのこともない、些細なことである。

翌日は、青山へ。どうしても墓地らしい墓地を堪能したくなり、今まで行った中でいちばんよかったここを再訪。「東京国際アニメフェア2008」に行ってからだったので、着いたらもう17時すぎ。肌寒くて、雨がしょぼしょぼ降っている。桜は満開、ちょうど見ごろ。だけど、ぜんぜん人がいない。ここは、いい。気分が出る。放ったらかしの区画などは草ぼうぼうで、墓石につる草が絡まっていたりする。

広い敷地を道が十字に貫き、桜並木になっている。そこだけは街灯がともり、人や車の往来がけっこうある。花見客を当てにした、やきとりの屋台とたこやきの屋台が並んでいる。たこやきを買う。8個入り500円。食うのにいい場所はないかと墓地内に入っていくと、針葉樹が上を覆っているおかげで乾いている区画がある。坂元さん、ちょいとおじゃまします。石の囲いに腰掛けて、背中に視線を感じつつ、たこやきを食す。そうとう長く焼かれてたとみえ、片側がおこげになってる。それはそれで美味い。

それから、よい撮影ポイントを求めて歩き回る。ほんの少しばかり不思議なことがあった。そのときは、日没後ながら、まだ空は明るく、歩くのには困らない。車の道からT字に入っていく墓地内の通路から、さらにT字に入っていく細い芝生の通路がある。そっちを見ると、なんとなく、行ってはいけないような気配がする。

私は限りなく霊感が鈍いほう。めったに気配なんて感じないんだけど、たま〜にこれはなんかやだな、と感じることがある。そういうときは、きっとよほど強い妖気が出てるんだろうと察して、近づかないようにしている。だけど、そのときはなぜかちょっと強気な気分になっていた。

行ったらいったいどうなるってんだよ? なんかあればやっぱり虫の知らせだったんだな、って話になるけど、何もなければただの勘違いじゃん、と。思い切って行ってみる。芝生の道は別の道へT字に突き当たる。気配は右のほうから来る。見てみると……。あ、これじゃん。一見してそうとう古い墓だと分かる。墓石が四角くない。概形は縦長の楕円の上半分みたいなんだけど、輪郭はすごくでこぼこで、適当な形。厚みのやや薄めの石が立ててある感じ。気配の源はこれだ、とはっきり感じられる。鉄柵で囲われていて、石のところまでは行けない。文字を読み取ろうとしたが、暗すぎて読めない。しばらく見ていたが、何が起きるというわけでもない。とてもじゃないが、背を向ける気がしないので、後ずさりで立ち去る。

さて、一週間後の4月6日(日)、八裕(やひろ)沙(まさご)さんが自作の人形を連れてきてくれて、一緒に青山墓地へ。八裕さんは、私とは対照的に、霊感が強いほうみたい。あの、銀座のヴァニラ画廊でのオリエント工業の人形展のこともあるし。それなんで、先週の場所に行ってもらって、どんな感じがするか、ぜひ聞かせてもらおうと決めていた。確かこの辺だったはず、というあたりへ、まず行ってみる。あれ? ないなぁ。どこだっけ? 探し回りつつ、撮影に手ごろな場所を見つけては、そこで撮る。

3時間ぐらい撮って、16時ごろになる。さあこれで撮影終了ということにして、その場に一人で待ってもらい、私はそこらじゅうを駆けずりまわって探した。それでも、見つからない。あきらめる。なんかくやしい。化かされた気分。そのうちもう一度来て、よく探してみよう。猫がいたので、撮る。

夜桜で一杯やろうという話になり、やはり人形を作る、橘(たちばな)明(あきら)さんに電話して誘ったら、来るという。「仮面ライダー」の「ショッカー幹部ワイン」を持ってきてくれた。
< http://lalabitmarket.channel.or.jp/site/feature/shocker_wine.html
>
先週の屋台はこの日も来ていたので、今度は焼き鳥も買う。

日が暮れかけている。墓地の奥のほうに立派な桜の木があり、満開。他の桜は七割方散ってるような木が多い中、この桜は、まだ散り始めてもいない。いい感じだ。近くに、通路が石段になってるところがあったので、そこに腰掛ける。世界征服を誓って、乾杯。イーイーイー。真っ暗になってからもしばらく宴は続いた。死をめぐる思索も、三人ですれば実に楽しく、大いに話がはずんだ。

写真の出来も、自分としては、上々。特に変なものが写り込むこともなく、八裕さんもきれいだと喜んでくれた。写真はこちらでご覧ください。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR080516/
>

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カメコ。5月11日(日)、鳥取県にある中国庭園「燕趙園」で開かれた「中華コスプレ日本大会」の打上げの後、地域にまつわる怪談はないかと地元の方々に聞いてみた。すると、こんな話が。倉吉と関金(せきがね)との間に山があり、中腹に石碑が建っているが、それに触ると死ぬと言われている。実際、触ったと自慢していた人が、ぽっくりと亡くなった。生前の友人たちが、その石碑を見に行ったが、どんなに探しても見つからず、怖くなって逃げてきたという。それ、私が青山で見た墓の話に似てないか? あの墓が私の前に出現したことの意味は何? それが、気配と鉄柵によって、私を近づかせまいと二重にブロックされていたことの意味は何?