[2441] 【アール・ブリュット
── 交差する魂】を観て ──

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<僕はSF者じゃなかったんだ!>

■武&山根の展覧会レビュー
 「アウトサイダー」って、なに?
 ──【アール・ブリュット/交差する魂】を観て
 武 盾一郎&山根康弘

■グラフィック薄氷大魔王[139]
 自称SFファン時代
 吉井 宏


■武&山根の展覧会レビュー
「アウトサイダー」って、なに?
──【アール・ブリュット/交差する魂】を観て

武 盾一郎&山根康弘
< https://bn.dgcr.com/archives/20080611140200.html
>
───────────────────────────────────
山:どーも!

武:こんばんはー! すごいですよ!

山:何が?

武:体調悪くて、3日も酒飲んでない! 奇跡だ。

山:へー、それは珍しい。僕はやっぱり黒霧島やね、立ち返るところは。

武:呑んでるんかいっ!

山:当たり前やん。

武:じゃあ、俺も。。。

山:熱あるんとちゃうの? 止めといた方がええよ〜。

武:なんと、特別本醸造「銀盤」じゃっ! ふっふっふ。一杯分しかないけど。

山:またそうやって人の酒盗んで(笑)。

武:酒はみんなで分かち合うものさ。
  「人生にも四季があるんじゃないですか?」(桑田真澄)

山:酒とどう繋がるんや?

武:「うん、いいところに気がついたね、それは鋭い指摘だよ、トーマス君(吹き替え調で)」


●【アール・ブリュット/交差する魂】展を観て


山:さて、本日は汐留に行ってまいりました!
  【アール・ブリュット/交差する魂】!
< http://www.mew.co.jp/corp/museum/exhibition/08/080524/
>

武:スルーかよっ!!! ……、新橋ってあんなんだったっけ?

山:ちょっと前からあんなんやで。

武:松下電工汐留ミュージアムね。

山:初めて行ったけどな。ナショナル。

武:俺も。あの汚い飲屋街はどこいった?

山:JRの駅前の方やろ。

武:そうか、そうか。ちょっと方角違うだけで、全然違うなあ。

山:松下電工汐留ミュージアムは、ミュージアムと言ってもちっちゃいとこやね。なんでルオー集めてるんやろ。
< http://www.mew.co.jp/corp/museum/about/
>
「20世紀フランスを代表する画家ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)の油彩・版画作品を広く人々にご鑑賞いただくことを目的に、2003年4月松下電工東京本社ビルの建設を機に本ビル4階に開館いたしました。」(サイトより)

武:なんでルオーなんだろ?(再)

山:つながりがわからん……なんでも良かったんとちゃうか。

武:コレクターさんとのつながりが展示室に書いてあったような気がしたが、メモらなかった。。そんでですよ。「アール・ブリュット(Art Brut)」、「生の芸術」と訳されてますね。

山:ウィキペディアでは「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」と説明されている。

武:ふむ。デュビュッフェが作ったんだねー。なんか、妙に納得したりする。会場がそう広くないということろもなんか良かったのかな。実は期待しないで観に行ったってこともあるんだけど、予想以上にオモロかった。

山:僕が最初にアウトサイダー・アートというものを知ったのはこの本やねんけど、これ読んですげー! ってなって。ヘンリーダーガーもこれで知ったんやな。今回ここに出てる人たちの絵が見れてすごく良かった。本は誰かに貸したらなくなった!
< http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK040747
>

武:わはは! 俺はね、「アウトサイダー・アート」ってのが変に神格化されて、一種の「流行」的に語られてしまう部分もあったりして、それに対する危惧、みたいなものがあったんすよ。で、そういうのを「聖なる者・聖なる作品」として、逆に別物にしてしまうことによって、自分らの「外側」に置いちゃってしまう、というベクトルが強く押し出されてるのかな、とか、ちょっと、半信半疑的に観に行った訳ですよ。

山:なるほど。


●1章 人のカタチ


武:で、最初に、アロイーズ(1886〜1964)、スイスの女性ですね。この人の絵を見て、、、もう、いいんですよ。

山:半信半疑がなくなったってこと?

武:やっぱり、絵を見て、ね。この人が何人であろうと、どの時代であろうと、なんか、関係なく、ふーっと世界に連れて行かれる、っていうか、ね。なんの変哲もないつたない絵のようでいるんだけど、「世界」が見えるんですよ。この人アロイーズがアールブリュットの代表的な作家であるらしい、見せかたとしては、「つかみ」を心得てるというか、ね。展示としては、入って最初の場所に、かなり力注いでる感があった。

山:そうか? そうは思わんかったが。最初に「人」を持ってきたのはまあ、わかりやすいしね。

武:展示様式なんですが、5つの章にわけてある。章の区切り方は、なんか展示整理の仕方の後付けっぽかったけど、代表選手からバーンと見せて、しかも、その絵が、なんか俺は惹かれちゃったのね。で、ヨハン・ハウザー(1926〜1996)スロバキア生まれの故人男性と、久保田洋子(1977〜)京都生まれの現代女性の人体ドローイングを並べて、不思議なほど、類似点がある、と。つまり、そこで「アール・ブリュット」というのは「文化潮流や伝統、また流行」とは無縁で「表現したい衝動」である、ということを展示で説明してる、と。

山:僕はそんなにその類似点には興味を引かれへんかったけどな。似てるものを比較検討するならもうちょっと違う方法があるやろし。それよりもむしろ、様々な絵がある、という風に感じたが。

武:まあ、受け取り方は様々だろうけど、展示としてイントロは頑張ってるな、と(笑)。

山:あまりそこに賛同出来ない(笑)。全体的に良かった、ってとにかく作品が良かったからなんやけど。

武:そうそう。作品がよかった。いやね、下手したら、障害者の絵だからいいんだよー! みたいなことになってたらどうしようって思ったんすよ。

山:まさか! アウトサイダー・アートってそういう切り口とちゃうんちゃう?そういう見方をする人も中にはいるかもしらんが。ただアウトサイダー・アートとして作品を集めると、結果として障害者の絵が集まるんやな。これはどういうことや?

武:「生の芸術」を生み出せる人間は別に健常者とか障害者とか関係ないと思うんすよ。ただ、状況として、人間関係が器用な人は、そこの部分の仕事が多くなってしまい、自己世界制作に没頭する時間を奪われてしまいがちなのは確かだよね。

山:それはあるかもね。でもまあ結局選んでいる訳でしょう。それを。

武:小幡正雄(1943〜)この人は、「施設の調理室から捨てられた生臭い段ボールを集めては、夜な夜な絵を描いて部屋に貯めていた」と。施設で仕事はしてるんよね。

山:ほんとうに絵だけを描き続けたかった(描き続けられた)ら、それは確かに病気なのかも知れないけど、ここで紹介されている人たちは、いわゆる仕事、労働をしていない訳ではないし。

武:そうそう。それが、なんか面白かった。この人の段ボールの絵も良かった。なんつーか、デザインがいい。

山:例えば知り合いに、障害者年金を貰って絵を描き続けている(今は知らんけど)人がいるけど、それも彼が選んだ訳で。だけどここで紹介されている人たちの多くは、選ぶというよりも、そもそもそうだった、ということはあるんやろう。

武:それは自意識のなさ、っていうことになるんだろうか?

山:うーん。それは僕はわからん。


●2章 都市の夢


武:なぜ、障害者と呼ばれる人と、絵とか造形(つまり芸術)の相性がいいのか、ということも考えてみる必要があるよね。この章では本岡秀則(1978〜)の『電車』。これはねー、ちょっと見つめ続けてしまいました。なんでだろう? 俺は別に電車オタクじゃないけど、確かに、子供の頃、こういう気持ちがあった。電車の正面の絵を「押し寿司」のように並べて描いている絵。

山:これも良かったな。あれ描けって言われてもなかなか描かれへんで。

武:なんつか、色彩配置がいいんですよ。で、興味深いのは、「年々詰め込む密度が高くなっている」ところ。なんかしらの自己納得を求めているんだろう、けどね、薄々思うんだけど、これって誰でも持っている感覚のような気がするんですよ。

山:誰でも持ってるからって、誰でも出来る訳ではないやろ。状況も含めて。

武:もちろん、すごい、と思うんだけど、なんつーか共感するっていうか。その気持ち分かる! っつーか。このウキウキ感は絶対に自分にもある! みたいな。

山:だからいい絵だ、って思うんやろね。確かに「純粋芸術」と言っていいんだろう。

武:本人が、「純粋」も「芸術」も気にしてないってところもミソなんかもな。辻勇二(1977〜)『心でのぞいた僕の町』のドローイングも好きだったな。

山:いい感じやったね。会場出てから思わず窓から下を眺めてしまった。

武:街の俯瞰を元にしながら、自分オリジナルの街をドローイングしてるんよね。単純化と同じ要素の繰り返し、という仕事が蓄積されて、一つの町の俯瞰図になっている。単純反復作業だからこそ見えてくる手の動きというか。これは後にも出てくるけど。そういうものを感じた。

山:展示全体として、「繰り返し」というのは重要なポイントやな。


●3章 文字という快楽


武:そうそう! で、サクサク行くよー! 俺が一番好きなのがこれ、喜舎場盛也(1979〜)、漢字がびっしりと並んでる、という作品。びっしり埋めようとしてる途中で終わってたり(笑)、隅から隅までびっしり埋まっていたり。

山:ほとんど修行みたいな(笑)。やっぱりそれを僕なんかは修行に見えてしまう、というところが何かありそうやな。

武:あれね、修行じゃないんですよ。快楽なんすよ。

山:いや、だから僕が書くとしたら修行になる。だってそんなん別に書きたくない。

武:わはは!

山:でも確かに画面を埋め尽くしたい欲求というのはある。

武:漢字の形とか、ミョーにそそられたことはあるでしょ?

山:あるな。

武:それを丹念になぞって、繰り返して、埋め尽くして行く、苦役でなく、快楽として。だから、世界が見える。

山:やっぱり修行や、それは(笑)。

武:なるほど。ある種の「境地」ということではね。

山:戸來貴規(1980〜)の『日記』も良かった。綴じてある、というのはどうしても気になる。ちなみにこの作品のポストカードの写真がめちゃかっこいい。

武:これも良かったねー! っつーか、これ、わざとだろ! って思ったよ。

山:どういう意味?

武:あの日記のデザイン。そして、綴じてある日記帳。もう、プロのデザイナーが考えて考え抜いたデザインと制作、という感じすらするよ!

山:本人は凄く粗暴だったそうで。

武:山根か(笑)。

山:なんでやねん。

武:なんか、今回山根がいっぱい居たねー。

山:意味が分からんわ!


●4章 凝縮された宇宙


武:で、次。こっから立体の展示が入ってくるのよ。平面から見せて立体へ、という流れ。

山:見やすいと言えばすごく見やすい、わかりやすい。

武:そうね。

山:西川智之(1974〜)よかったな。これもまた、やはり「繰り返し」やねんけどそれがまたなんかみょーにかわいらしい。にょろにょろがいっぱいいる。

武:面白いのは、水兵さんの集合体が船である、と。ウサギの集合体がりんごである、と。同じものを繰り返し作って集めると違うものになる、と。何か小さな単純作業を繰り返して積み重ねると、結果、違うものに成り変わる。で、小さな作業の集積である作品はやはり何か世界が見えるんだよね。

山:なんでなんやろね。

武:同じ作業なのに、同じにならないつたなさ、その作業の集積、かな。工業製品的に全く同じ水兵さんで船をこしらえていたら、またそれはそれで、世界は見えるかも知らんが。「ウサギの集積がりんごである」という揺るぎない世界観もあるかな。水兵さんを作り続けるけど、その先には「船」になるという、ユートピア観なのだろうか?

山:僕の感想では、「繰り返し」は「刻」を感じさせるんだと思う。物事を繰り返す、あるいは繰り返されたものがある、というのは多分に時間を連想させるものだと思う。

武:「ナンミョーホーレンゲーキョー」と繰り返し唱えると救われる、というの屁理屈とも関係してるかもしれんぞ。

山:修行やん(笑)。でもその場合でもやはり時間と関係しているような気がしないでもない。

武:修行かなあ。。。その繰り返し作業自体に快楽があるんさよ。

山:そこに入り込んでしまえばな。時を忘れるわけやろ。やってる本人はそうやけど、見る方は多分に時間を感じる。時間? いや、「時」、「刻」、やな。

武:うーん、難しいな、それ。

山:集積って、時間かかるやん。集積されたもの、集められたもの、反復するもの、には確実に時が絡んでいる訳で。

武:ふむ。

山:時がなければ集めることはできない。時が存在しなければ、すべてあるか、ないか、やし。

武:確かに、一瞬では作れてないよね。3章に戻るけど、漢字がびっしりの喜舎場盛也作品は一つに半年くらいはかけてるそうだ。

山:ふむ。西川智之は3〜4時間で制作するらしい。

武:はや!

山:制作時間が問題じゃないんやろうけど、結果出てきたものから時を感じる、と。僕は。

武:一つの水兵さん作るの速いで!

山:職人やな(笑)。

武:何人居るんだよ水兵さん。

山:本人にとっては何人でもかまわんのやろうけどな。埋め尽くされさえすればOK。

武:で、船になればいいんだよね。

山:どうなんやろ。船でなくてもいいような気もする。

武:いや、彼の中ではそれは「船」なんですよ。「花瓶」じゃないんですよ。

山:もちろんそうやろうけど、船そのものに何か特別な思いがあるようには感じなかったけど。

武:「船」という言語を辛うじて持ったんじゃないのかな、ある意味でのシンボルというか。

山:初期の頃は人、魚、果物を単体で作ってたらしい。

武:ほう。西川智之にくいつくね。

山:で、パイナップルで密集型のを初めて作って、それが褒められて、そっかららしい。

武:ほう。

山:まあだから、たぶん何でもいいんですよ(笑)

武:あ、わかった! 山根とタメじゃん!

山:そうやね(笑)。

武:なんか、わかるんか?

山:いや、まったくわからん(笑)。あ、でも少し分かる。「パイナップルで密集型のを初めて作って、それが褒められて、そっかららしい。」これはわかる。

武:ふむ。で?

山:まあ、次いこう。

武:では5章……、

山:あ、坂上チユキはいいんですか。この人だけキャプションなかった。気にならへんかった?

武:なった。画面のクオリティーがフツーにたかい。

山:図録もこの人だけ違うんよな。この人は今、闘ってるんやろね。

武:イノセントというより、テクニカル。

山:別に括りはイノセントとはちゃうからな。アウトサイダー・アートやから。

武:んー、健常者っぽい。

山:それが問題?

武:いや、なんつーか作品から「作為」を感じた。

山:当然そうやろな。「思考」が入ってる。

武:「完全に観られることを前提として作っている感」を感じた。ヒジョーに奇妙だった。というか、ふつーに商業ギャラリーでありそうな感じも受けた、タブロー。

山:ではなぜこの展示に入っているのか。

武:わからないけど。。。このひとなんだろうね?

山:そこにいろんなことがあるような気が僕にはするねんけど。まあいいか。

武:「観られるために作ってる感」が満載だったよね。

山:さあ。普通に作品を作ってる、ってこととちゃうか。

武:喜舎場盛也の『漢字』とか本岡秀則の『電車』とかとは全然違う。立体は良かったけどね。

山:僕は彼女の作品があることで「アウトサイダー・アート」がもう違うところに来ているというのをすごく思ったんやけどね。まあいろいろあるんやろうけど。良いとか悪いとかではなくて。

武:いま坂上チユキ調べてる。

山:ま、解釈の問題やけどね。

武:あの展示の中でミョーに浮いていたよね。

山:僕は単純に、障害者として認定されてるか、されてないかのようにおもったんだが。

武:坂上チユキは障害者なの?

山:知らんけど、だってそうじゃないとあそこにいる理由がわからんやん。じゃあなんで、あそこにいるんや? しかもキャプションも無しに。

武:なんかの掲示板で拾った。「坂上チユキはNHK新日曜美術館で正規の美術教育を受けてない人、自分から作品を売り込んだりしない人」という紹介されたけどBゼミという現代美術専門の学校も行ってるしふつうに作品発表や売込みして作家活動してました」だって。真偽は定かではないが。調べておもったんだけど「アール・ブリュット」でありたいと、それこそ最高の名誉だと坂上チユキさんは思ったんじゃないのかしら? で、なんか紛れ込んだ、個人つながり。キュレータとか、松下電工とかのお偉いさんとの個人繋がりで、とか(笑)。

山:ホントにそうやとしたら、まあつまらん話やな。まあいいや。

武:つーか、ほんとに「アール・ブリュット」に収蔵してもらうようプレゼンしたのかもよ。「健常者と障害者を分けるの? 「生の芸術」を私は作ってるわ!」と営業したとか(笑)。

山:そういうもんかね。あ、わかった。コレクションにもう入ってるからここにあったってことか。まあどちらにせよ、僕が思ってたこととは違うのか。残念。次行きましょう。すんませんでしたね。

武:何を思ってたん?

山:アウトサイダー・アートという概念の解体(笑)。

武:坂上チユキがフツーにアーティスト活動してて、アール・ブリュットに入っててもいいんじゃん? 真島直子でもいいんですよ。武盾一郎でも(笑)。

山:そうやな。草間弥生でもええ訳やしね。


●5章 想像の王国


武:澤田真一(1977〜)、ボツボツの造形作品ですな。

山:今回、この人の作品が展示的に前面に押し出されてたな。

武:これも、ボツボツを作ってくという単純作業の繰り返しなんよ。

山:そうやね。ビデオ『日本のダイヤモンドの原石たち』(2007)あったけど、あの作っていく様を見ると、なんか妙に安心する。

武:大雑把な骨子をこしらえて、ボツボツをくっつけてくんよね。で、作りながら寝ちゃうんすよ。もう、ここめっちゃ共感!!!!!!

山:疲れるんやろね(笑)。

武:疲れるっていうか、眠りを誘発する作業でもあるんだよ。ビンビンに感じながら作るというより、ボツボツを一個一個くっつけてくとなんかトロンとしてきて、寝ちゃう。みたいな。そのビデオで、「作ったものは終わり」ってのが印象に残ったな。「作ってる」という作業中に興味がある、みたいな。で、重要なのは根気強く、彼の作品が生まれでるのを待ち、それを支えてる人たちがいるってことなんだよ。

山:ふむ。でもそれはやはり、そういう状況やからなんやろな。確実に作るポジションを獲得している。

武:擁護されているというか、ね。

山:自らの立場を知ってか知らずか。しかもそれに応えている、というのは重要やな。

武:見つめて、表現させて、外に出す他者が居るってことなんすよね。

山:パトロンってことやな。

武:本人はきっとそれが嬉しいんだよ。「ひとりじゃできない」ってところがポイントなんじゃないのかな?

山:それは当たり前のような気もするが。

武:その関係をどのように作るか、持ちうるか、そこらへんは決定的だと思うよ。同じくらいのことをやっていて、コレクションされない人たちも大勢いるってことさよ。

山:はは。そうやろな。

武:それは本人の作品の問題ではなく、本人を売り込む他者(親とか親族とか先生とか)の能力の問題になってしまう感はあるような気がするの。で、ネック・チャンド(1924〜)の王国。

「ネック・チャンドは1924年に現在のパキスタン、ラホールの北にあるテーシル・シャカルガールのの小村ベリアン・カランで生まれました。1947年彼が23歳の時、パキスタン独立戦争の戦乱から逃れるため、家族や村人たちとともに生まれ故郷の村を離れ、1950年にインド北部の町チャンディガールに居を構えます。
そこで道路建設の責任者の職を得た彼がある光景を夢に見たのをきっかけに、チャンディガールの町の近くにある草だらけの土地を開墾し始めたのは1958年、34歳の頃のことでした。チャンドは一日の仕事を終えると、自転車を約40キロ走らせてヒマラヤの支脈に向かいました。神々が棲んでいると考えられている聖なる山で石を集めるために。
(中略)
7年の歳月をかけ、こうして大量の石や廃品を集め、忍耐強い熱意をもって、彼は毎夜自分の王国を建造して行きました。そしてそれを「チャンディガールの石の庭園」と名付けました。
チャンドが造園を開始してから14年後、再開発対象エリアに2ヘクタールにも及ぶこの類を見ない造形物群があることを知り驚いた市当局は、検討の末それらを正式に認め造園が継続されるよう、彼に作業員と給料を提供する決定を下しました。以来チャンドの庭園は今なお拡張を続けて多くの見学者を迎えています。」(ネック・チャンドの王国内容解説ビラより)

山:シュバルの理想宮を思い出すな。
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=18465509
>

武:あーっ! そうそう! で、これはビデオ『ネック・チャンドの王国』を観るとすんげーオモロい。


●展覧会評


山:☆☆☆☆☆ 星5つ。とにかく作品はいいのばっかり。これしかないから、これがある。

武:☆☆☆☆ 星4つ。ホントは星5つだけど、ちょっと冷房効き過ぎでトイレに行きたくなったが、途中にトイレなくって泣く泣く退出したんで。

【アール・ブリュット/交差する魂】
< http://www.mew.co.jp/corp/museum/exhibition/08/080524/
>
開館期間:2008年5月24日(土)〜7月20日(日)
開館時間:10:00〜18:00(入館は17:30まで)
休館日:毎週月曜日
入館料:一般500円(65歳以上400円)、大学・高校生300円、中・小学生200円
(障がい者手帳をご提示の方、および付添者1名まで無料)
会場:松下電工 汐留ミュージアム

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/ 非賃金労働者】
take.junichiro@gmail.com
246表現者会議
< http://kaigi246.exblog.jp/
>

【山根康弘(やまね やすひろ)/ 道草】
yamane@swamp-publication.com
SWAMP-PUBLICATION
< http://swamp-publication.com/
>
交換素描
< http://swamp-publication.com/drawing/
>

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■グラフィック薄氷大魔王[139]
自称SFファン時代

吉井 宏
< https://bn.dgcr.com/archives/20080611140100.html
>
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SFファンから"宇宙大元帥"として親しまれていた野田昌宏氏が亡くなった。僕が今こういう仕事をしているのに、少なからず影響のあった人物でした。
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=20159681
>

禁マンガ・アニメだった子供の頃、外で遊ぶ以外の楽しみといえばプラモデルとか何か作ったり、図書館の本を借りまくって読むことだった。子供向けにやさしく書き直されたSFもたくさん読んだ。もうほとんど何も覚えてないけど、割とハードなSF小説の代表作的もずいぶん読んでいたようだ。

という下地があった上で、高校1年のときのスター・ウォーズ上陸。関連本を買いまくったけど、主なものは野田昌宏氏監修だったし、そもそもスター・ウォーズのノベライズ小説は氏の翻訳だった。スターログ誌も買い始め、SFビジュアルの世界の発見と同時に、ようやく「子供向けじゃないSF小説」の世界があることを知った。それでSFマガジンも買うようになる。

SFマガジンに載ってた小説はたいして読まなかったものの、同誌のお子様向けでないビジュアルや小説の挿画や表紙の加藤直之氏など、イラスト関連に夢中になる。中でも野田昌宏氏の巻頭連載(大昔のパルプマガジンやSFアートの紹介のコラム)は毎回刺激的だった。氏の「SFは絵だねえ」という名言を体現するすごいビジュアルが続々登場。氏特有のノリノリの文章もあって、ワクワク度は振り切れ寸前。

HEAVY METAL誌(フランスのメタル・ユルラン誌の米国版)という大人向けSFコミック誌もその連載で知った。メビウスの代表作「アルザック」の絵がいくつか小さく載っていて、すごい衝撃を受けた。世界にはこんなものがあるのか!って。以来、見たことのないような絵を見つけて驚く快感を求めて、ずっと来た気がする(数年後、全バックナンバー取り寄せを思いついて馴染みの洋書屋さんにお願いするも諸事情により失敗。寺田克也氏も同じく野田氏の連載でメビウスを知り、全バックナンバーの取り寄せに成功したそうだ)。

というように、僕は野田氏の紹介で知ったSFアート/ビジュアルへのあこがれを核として、イラストレーターへの一歩を踏み出したわけなのでした。

たいして読まなかったとはいえ、SFビジュアルをやっていく上で、基礎知識としてのSF小説ははずせない、という意識は強くあった。ハヤカワSF文庫や創元SF文庫などで名作といわれるものを中心に、26歳頃までに相当読んだ。ほとんど忘れちゃったけど、「リングワールド」などおもしろかったものもたくさんある。海外の名作SF以外にも、野田昌宏氏の「銀河乞食軍団シリーズ」や彼が代表だった頃の日本テレワークと絡めた短編シリーズなどは特に大好きだった。

「たいして読んでない」と謙遜のように書いてしまうのは、本当のSFマニアがどれだけたくさん読んでいるか知ってるから。それにくらべれば、僕なんかぜんぜん読んでないに等しいのだ。SFビジュアルは好きだけどSF小説を時間をかけて読むことがそれほど好きでないというのは薄々気がついたけど、自称SFファンの自覚として、なぜか読まなければならないのだ! 知っておかねばならないのだ! と思いこんでいたフシがある。

すでに上京を決めていた25歳頃、なんとか速く大量にSFを読まなくちゃならないと、名古屋の速読術セミナーに通ったことまである。集中力を高め、目の動きを速く滑らかにし、ページにある単語を映像として脳に焼き付け、内容を思い出して書き出す……というような訓練。あまり効果はなかったようで、半年くらいでやめちゃったけど。

上京直前の26歳頃、自信作のSFイラストをSF大会などで見せてまわっていた。絵としての印象は悪くないようなのに、ツッコミどころ満載の絵だったようだ。メカや武器だけでなく、細かい装具などの構造や描写の甘さにツッコミが入る。絵全体の色や雰囲気を見てほしいのに、アクセサリー的に思える部分が実は要で、そこをきちんと押さえていないと通用しないことがわかってきた。SFっぽいだけでツボを押さえてない絵はダメなのだ。だんだんSFアートでやっていく自信がなくなってきた。

1989年に、地元の蒲郡三谷温泉で行われた日本SF大会のスタッフになり、ポスター制作や印刷物のデザインなどを引き受けるなど、SF界に少しだけ深入りしはじめた。そんな頃、ある作家に「どのSF小説が好きか?」と問われ、野田昌宏氏の「銀河乞食軍団」しか挙げられない自分にショックを受ける。「僕はSF者じゃなかったんだ!」。それがきっかけで、SFからだんだん離れていくことになった。SFマガジンは、上京してすぐの創刊400号記念特大号を最後に買わなくなった。

生身の野田昌宏氏とは、一度だけ言葉を交わしたことがある。1988年に水上温泉で行われた日本SF大会の盛り上がる夜中、たまたま廊下でばったり鉢合わせした僕に「トイレどこだ?」「あっ! こっちです」ってだけなんだけど。加藤直之氏が野田氏をキャラクター化したイラストを立体化したレジンフィギュア、実家のどこかにあるはずだなあ。

普通なら「ご冥福をお祈りいたします」とか書くんだろうけど、なんだか野田昌宏氏にかぎっては、今頃、宇宙船「クロパン大王」に乗って、スペースオペラのヒーローたちや銀河乞食軍団の仲間たちと宇宙を駆けめぐっている気がしてならない……。

【吉井 宏/イラストレーター】 hiroshi@yoshii.com

iPhone。意外なほど早く、7月11日に発売だそう。auユーザーなので、iPhoneを使いたかったら乗り換えしなくちゃならないのは、DoCoMoでもソフトバンクでも同じこと。ソフトバンクの発表は、DoCoMoをあせらせて有利に契約を結ぼうってAppleの作戦のような気がする。つまりDoCoMoもiPhoneをやると。でも、非常に残念ながら、僕は使わない可能性が大きそう。CメールやFeliCa機能ははずせないし、ケータイコンテンツ関連の仕事もあることだし、普通の携帯電話を使い続ける必要がある。他にノートパソコン用のモバイル通信アダプタも必須。iPhoneを使うことになったら、固定電話やADSLと合わせて毎月の通信関連の料金をどんだけ払わなくちゃいけないんだ? モバイルコンテンツ仕事絡みでDoCoMo端末も確認用として手に入れたいと思ってたところなのに。一つの携帯電話番号で二つの端末が使えるサービスがあるんだったら、飛びつくかも。

携帯電話といえば、秋葉原の通り魔殺人。僕も最近用事で秋葉原に行くことが多いので、たまたまその時にあそこを歩いていた可能性も少しはあるわけで、ぞっとする。で、ニュースなどで非常に違和感があったのが、携帯電話のカメラで犯人逮捕の瞬間を撮った映像や写真。普通、まだ逮捕前の凶悪犯が視界の範囲にいるのなら、ビューッと一目散に走ってできるだけ遠くに逃げると思うんだけど。おまけに、犯人を撮影した人に人だかりができて何やってるのかと思ったら、写真を赤外線で自分のケータイにコピーさせてもらってたんだって。歩きながらでも電車の中でも自転車に乗ってても携帯電話でメールを打ち続けてる人もそんな感じだけど、携帯電話に意思があって、人間を操ってる感じ。

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■編集後記(6/11)

・「立食いソバ1杯が1000円になる日」(宝島社新書、2008年4月)を読む。タイトルにある数字は、中国産食品の輸入がストップした場合、日本人の食卓はどう変わるかという試算のひとつ。中国からの食料輸入データをもとにしたシミュレーションは、会話体のあまりに古いスタイルなのが気になるが、ここで描かれるさまざまな事態は深刻そのもの、序章からいやな気分になる。そして、中国国内の食料事情と、実は"中国に翻弄されている"日本の食料貿易の脆弱な現実についての解説で、ますます気分は沈みこむ。さらに、世界の食料争奪戦から落ちこぼれる日本、スタグフレーション先進国日本、ときては立ち上がれなくなる。食料自給率が39%しかないということは、海外からの食料輸入に依存しなければ日本人の食卓は成立しないということ。その大半はアメリカと中国に大きく依存しているという、なんたるリスクの大きい現実。しかも中国は、国内需要の急速な拡大や異常気象や政情不安などで、いつ対日食料禁輸を発動してもおかしくない。18.1%という中国に偏った食料依存の状態を各国に分散し、暴食中国に翻弄されない体制作りを、一刻も早く追求しなければならない、ということを痛切に感じた。だが、政治家どもは、やがてやってくる戦中・戦後よりも深刻な食料危機問題をよそに、政局ゴッコに明け暮れて(情けないぞ、民主党)、テレビでは大食いだのデカ盛りだのグルメだの、現今の食料事情をまったく無視したノーテンキなバカ番組が跋扈していて、嗚呼どうなる、無防備日本。子孫にひもじい思いは絶対させたくない。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4796663363/dgcrcom-22/
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・郵便局でプラスチックのポスト型貯金箱をもらった。ボディが透明で、回収用扉にプラスチックの南京錠がついていて、同じくプラスチックの鍵で開けるようになっている。鍵は申し訳程度で、割ろうと思えばいつでも割れるもろそうなもの。甥らが競って小銭を入れたがり(もちろん小銭は私のお財布の中から)、その順番を巡ってケンカしたりする。透明なので落ちて行く動きが見られるし、振ると音が鳴るため、甥三号にとっては楽器にもなり、取り合いになっていた。夜中にこっそり回収しに行ったら、ポストの上側のフタがはずれかけていて、何のための回収用扉と鍵なんだろ?とほんわかな気持ちに。最初、郵便局で渡された時はゴミになるから断ろうかと思ったのだが、子供達があまりに喜ぶので、小銭ができたら入れさせるようにしている。貯まるといいな?。(hammer.mule)