映画と夜と音楽と…[379]祭りが終わったとき/十河 進

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●失恋しただけで培ってきた世界が崩壊した

1968年の晩秋だった。高校2年の秋である。僕は17歳になった。夏休み前から準備をした文化祭が終わり、僕は祭りの後の喪失感のようなものに苛まれていた。何かが失われてしまったのだ。心が高揚した、あの素晴らしかった何かが…。それは、もう二度と僕の元には戻ってこない。

その年の4月、何事につけて消極的で引っ込み思案だった僕は、自己改造の志に燃えていた。自己改造をしようと思ったきっかけは簡単である。前年の秋、僕は失恋したのだ。十代半ばの少年にとっては人生における大事件であり、そういう挫折を経験した後、少年は「自分の何かを変えたい」と切望するようになる。

4月は、そんな少年には都合のよい時期だった。クラス替えも終わり、顔なじみも少なくなった。数少ない親しい級友たちとは別々のクラスになり、元々目立たなかった僕のことを知っている人間は少なかった。学校にも慣れたし、まだ受験には時間があった。



僕の高校は一学年に760人ほどいて、クラスは16クラスあった。完全な受験校で理科系と文系に分けられ、理科系は女子が少なかったから4クラスは男子しかいなかった。いわゆる野郎組である。男子は全員が進学する。就職組は1クラスだけあり全員が女子だった。僕は文系志望だったので、男女が半々のクラスにいた。

2年生になって、僕は友人たちが設立した「軽音楽同好会」によく出入りしていたが、正式な会員ではなかった。どこのクラブにも所属していなかったし、何かの活動をしていたわけでもなかった、毎日、レコード屋と本屋を覗いて帰宅し、自宅では本ばかり読んでいた。映画館にはひとりで潜り込んでいたが、1年生のときは後に失恋する相手を誘って何度かデートもした。

日本のいちばん長い日彼女と一緒に見たのは、日本映画なら「あゝ同期の桜」や「日本のいちばん長い日」である。僕は別に軍国少年だったわけではないが、当時、テレビドラマで「あゝ同期の桜」がヒットし、それを東映が映画化したので一緒にいったのだ。僕ひとりだったら絶対に見ない映画だった。「日本のいちばん長い日」は、お気に入りの岡本喜八監督作品で話題の映画だったが、デートには向かない内容だった。

一緒に見た洋画は、「レベッカ」(1940年)「ジェーン・エア」(1944年)といったリバイバルものばかりだ。前者はジョーン・フォンテーンとローレンス・オリビエ、後者はジョーン・フォンテーンとオーソン・ウェルズである。なぜかジョーン・フォンテーンばかり見ていた。

「風と共に去りぬ」(1939年)もリバイバル上映され、一緒にいった。名作ものばかりを選んだのは、僕が背伸びをしていたからだろう。彼女に何かを認めてもらいたかったのだ。「風と共に去りぬ」を見ながら、スカーレットが恋するアシュレーの妻メラニー役のオリビィア・デ・ハヴィランドがジョーン・フォンテーンの実姉であることを自慢そうに解説した。

冒険者たち 40周年アニヴァーサリーエディション・プレミアムその年の秋、僕は「冒険者たち」(1967年)という、生涯、忘れることのできない映画に出会った。好きな女の子と見て後に振られるという不幸な経験をすると、一緒に見た映画さえ忘れたくなるものだが、幸いなことに「冒険者たち」はひとりで見た。

まあ、しかし、高校1年生の僕が本と映画と片想いだけに生きていたのは確かである。クラスにもあまりなじまず、クラブ活動もせず、勉強もせず、社会的関心もなく、個人的な狭い世界だけで生きていた。だから、彼女に失恋したことだけで、それまで培ってきた世界が崩壊したのである。

●積極的に生きる最初の仕事がフルーツパーラーかよ

僕の中に生まれた「自分を変えたい衝動」は、1968年が明けた1年生の三学期から蠢き始めていた。失恋のつらい時期を越え冬休みが終わったとき、僕は自分の少年期が終わったのだと感じていた。僕は今まで何をしてきたのだろう、という気持ちが湧き起こる。そんなときに、何人かの新しい同級生たちと出会った。

中学2年のときの同級生だったKクンとよく一緒にいたYクンは、東京から転勤になった父親と一緒に高松にきたのだが、その父親が群馬に転勤になり、ひとりで寮に入っていた。そのYクンが、ときどき泊まりにいっていたのが新聞部部長のTクンの家だった。その頃、生徒会の役員をやっていた女子のNサンとも知り合った。

2年生になった4月にNサンと同じクラスになった。KクンとYクンは、音楽的才能にあふれたBクンを会長にして「軽音楽同好会」を設立した。「ライト・ミュージック」という呼称が一般的だった(集英社が出していた同タイトルの雑誌もあった)頃である。僕は、かれらが練習する放課後の教室で暇つぶしをしていた。

新聞部のTクンは、兄ふたりと姉ふたりがいたせいか、ひどく早熟で大人びていたし、豊富な知識にあふれていた。映画や本の話をすると、太刀打ちできなかった。彼は自分が読んだ大江健三郎や五木寛之の新刊の単行本を「ソゴー、半額で買わんか」と言った。

それまで単行本など僕には手が出なかったが、半額につられて「さらばモスクワ愚連隊」「海を見ていたジョニー」「蒼ざめた馬を見よ」を買った。僕は五木さんのジャズ小説に夢中になり、ジャズを聴き始めることにもなった。しかし、最も影響を受けたのはTクンの社会的関心の高さ、問題意識の高さだった。

高校の新聞部とはいっても、学校批判を一面に載せたりする独立心の高さは伝統的なものだった。彼が作る高校新聞は全国コンクールで賞をもらったと聞いた。社会的関心や問題意識が高いのは、当然だった。そんな、新しくできた友人たちを見ながら「僕は一体何をしているのだろう」と思い詰めた。

そんな頃、Nサンが「秋の文化祭でクラスとして何かやろう」とホームルームで提起した。Nサンはすでに生徒会役員は降りていたけれど、そういうことに積極的だったのだ。進学校の受験一色に彩られた雰囲気を嫌い、学校の受験体制を批判するような少女だった。もちろん、倉橋由美子の「聖少女」が愛読書だった。

クラスで討議した結果、模擬店でフルーツパーラーを出すことになった。だが、担当者を決める段になると誰もが尻込みをした。Nサンは「男子で誰かお願いしたい」と言った。そのとき、僕は手を挙げた。「積極的に生きるんだ」と決意した最初の仕事がフルーツパーラーかよ、という気分もあったが、自分から手を挙げるなどしたことのない僕の初めての主体的選択だった。

●文化祭が終わり泣きたいような寂寥感が僕を包み込んだ

Nサンは生徒会に出店の申請をし、了解を取った。生徒会からは、Mサンという赤いセルロイドフレームのメガネをかけた髪の長い、少ししゃくれ顔の少女が担当者になった。Nサン、Mサン、それに僕を加えた3人は企画を練り、店の設計を考え、仕入れ商品の交渉に出かけた。

ジュースなどの飲み物類やアイスクリームなどの商品は仕入れて売ればいいのだが、その保管をする冷蔵庫、コーヒーを煎れるためのサイフォンや食器類などを揃える必要があった。僕たち3人は制服姿で商店街の食器店や喫茶店に出向き、レンタルを依頼したり、安く食材を分けてもらう交渉をした。

最初、ほとんどをNサンに頼っていたが、夏休みに入る頃から交渉ごとや連絡事務に慣れたのか、僕は主導権をとるようになった。夏休みが開け、11月初旬に3日間開催される文化祭が近づくと、ひどく忙しくなった。文化祭当日の店員だけはクラスの人間を割り振って当番制を引いたが、相変わらず準備はNサン、Mサン、僕の3人だけでやっていた。

前夜祭の日、完成したフルーツパーラーを見渡して僕は満足していた。後に覚えた言葉で言うと「達成感に浸っていた」のである。夜も遅くなり、NサンとMサンは帰宅することになった。帰りがけにNサンが「ソゴーくん、変わったね」と言った。どういう意味で言ったのかはわからなかったが、その肯定的なニュアンスは伝わった。

その夜から3日間、見張りを兼ねて僕はフルーツパーラーに泊まり込んだ。後にTとYが告白したのだが、同じように泊まり込んでいた彼らは夜中に忍んできて、眠り込んでいる僕の横でアイスクリームを盗んでいったという。僕は見張りとしては、まったくの役立たずだったわけである。

しかし、文化祭が終わり、虚しさに充ちた泣きたいような寂寥感が僕を包み込んだ。充実感や達成感を味わった後に訪れた、胸が痛くなるほどの寂寥感、そんなことはもう二度と戻ってこないだろうという喪失感、それらが胸の中で渦を巻いていた。感傷が去らなかった。気持ちの整理がつかなかった。

戻ってきた日常はよそよそしく、まるで現実感がなかった。半年近く、ひとつの目標に向かって生きてきて、いきなりそれが終わってしまったのだ。僕は、再び自分の穴の中に籠もるようになった。まるでタコツボだ。時々、首を出して周りを見渡す。

そんな僕を心配したのか、Nサンが映画に誘ってくれた。「TクンとYクンも誘ったわよ」と彼女は言った。「あっ、そうそう。Mサンも誘っておいたから」と、ついでに言っとくけど…という調子で付け加えた。「何で?」と聞いた僕に「だって、ソゴーくん、Mサン、好きでしょ」と言う。僕は返事をしなかった。一年前の胸の痛みが甦った。

●日々を「祭り」として生きていたようなポニーとクライド

俺たちに明日はないみんなで見にいった映画は、1968年に最も話題になった「俺たちに明日はない」だった。ポニーとクライド。銀行ギャングとして名前を残す、大恐慌時代のアウトローたちの物語だ。マイケル・J・ポラードが演じたCWもよかったし、何よりラストシーンの凄まじさに僕たちは驚き、絶句した。

ファーストシーンはポニーとクライドの出会いだ。全裸で登場したフェイ・ダナフェイに圧倒され、そのまま軽快なバンジョーのカントリー・ミュージックが流れる中、犯罪の世界で夢をつかもうとした男女の青春の悲しみに浸った。とぼけた銀行強盗のシーンに笑い、クラシックカーでのチェイスシーンに手に汗を握る。そして、ひとつのセリフが、そのときの僕の胸を打った。

──初めのうちは世界を征服したみたいだった。
  もう終わりね。逃げるだけ。

多くの州に渡って銀行強盗を犯したポニーとクライドは、凶悪犯として指名手配になる。金がなくなれば銀行を襲い、「われわれはパローギャングだ」と言うだけで、銀行員は黙って金を差し出した。だが、やがて逃げるだけの生活になっていく。逃亡生活の中でふたりは疲弊し、苛立ち、罵り合いが始まり、互いに傷つけ合う。

そして、衝撃的なラストシーンがやってきた。たったふたりの男女を捕らえるために、警官隊は銃を撃ちまくる。死体は銃弾を受けるたびに跳ね、弾痕が穿たれる。片方のレンズがとれたままのサングラスをかけた、弾痕だらけのクライド・バローが哀れだった。車の助手席からだらりと手を垂らして死んだ、ボニー・パーカーの穴だらけのワンピースが悲しかった。

「俺たちに明日はない」を見て、僕が感じていた寂寥感が去ったかどうかは記憶にない。しかし、人生の何か、を僕はあの映画で知ったのだと思う。僕の胸を打ったセリフは、その何かを象徴していた。人は、日々を「祭り」として生きてはいけない。祭りの準備、祭り、祭りの後…、その繰り返しが生きていくことなのだと僕は感覚的に学んだ。

しかし、往々にして祭りの本番はやってこない。多くの人は祭りの準備だけで人生を終える。だが、自分の「祭り」だけはなくすまい。僕は、そう決意した。それを人は「夢」とか「希望」と呼ぶ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
先日、ゴルフコンペでもの凄く嬉しそうな顔をしたらしい。残り100ヤード、ピッチングウェッジでフルショットしたら、青空に高く高く白球が浮かび、まっすぐピンに向かった。パー4を3オン。カートに顔を向けたとき、乗っていた3人が「ソゴーさん、嬉しそう!」と声を揃えた。最近、「怖い顔をする」と言われる(性格が顔に出ないらしい)ので、このショットを思い出し常に嬉しそうに笑っていたいものです。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006

by G-Tools , 2008/06/20