映画と夜と音楽と…[380]何者かになりたかった…あの頃/十河 進

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●発売を待ちかねていた「小説現代」七月号

小説宝石 2007年 07月号 [雑誌]ちょうど一年前には、「小説宝石」7月号が書店に並ぶのを待っていた。大沢在昌さんとの対談「ハードボイルドがなければ生きていけない」が掲載になっていたからだ。今年は、「小説現代」7月号の発売を待っていた。第54回江戸川乱歩賞の選考経過が掲載されているからである。

今年の受賞者がふたりだということは、すでに知っている。最終選考に残れば連絡があることも聞いていた。最終選考に残ったのは5篇だったという情報も入っていた。しかし、僕が応募した作品がどこで落ちたのかは、選考経過を見なければわからない。一次選考も通らなかったのか、二次選考くらいまではいったのか…。

乱歩賞あてに原稿を送ったのは、締め切り直前の1月下旬だった。それから受賞作の発表があった5月の半ばまで、もしかしたら受賞するかもという甘い夢をときどき見た。そう思う反面、ダメだよなあ、きっと…という気分が襲ってくる。その繰り返しだった。しかし、最終選考まで残らないと、大沢在昌さんには読んでもらえないのである。

小説を書こう、と久しぶりに火がついたのは、大沢在昌さんのひと言からだった。昨年の5月末、対談の間に「ソゴーさんは、小説書かないの?」と聞かれた。「昔、書いていたんですけど…」と、僕は言葉を濁す。「最近は、年配になってからのデビューも流行ってますよ」と、大沢さんは笑った。



もう30年近く前のことになる。「文学界」新人賞に応募して、一次選考に通った。小説のタイトルと名前が雑誌に掲載になった。それがどの程度のものかわからず、僕は有頂天になった。続けて応募したものは、一次選考も通過しなかった。その数年後、三度目の応募作も一次選考は通ったが、もう自分の名前とタイトルを見ても大して感激はしなかった。

文藝春秋社が出版している関係から「文学界」新人賞受賞作は、そのまま芥川賞候補作になることが多い。石原慎太郎や丸山健二などは、「文学界」新人賞受賞作でそのまま芥川賞を受賞した。だから、僕も「芥川賞候補まで70分の1だった」などと、自分で慰めたりしていた。受賞作と落選作の質の差を無視し、確率の問題だけで語っていた。

もっとも、僕は純文学だけをめざしていたわけではない。同じ文藝春秋社の「オール読物」新人賞にも応募したことがある。「一五〇〇回の夜」というタイトルの作品で、これも一次選考は通ったが、さすがにエンタテインメント系は応募作が多いらしく、選考を通った作品のタイトルと筆者名だけが数ページにわたって掲載されており、ガックリした記憶がある。

夜霧よ今夜も有難う「一五〇〇回の夜」というタイトルは、日活映画「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)から借用した。これは「カサブランカ」(1942年)のリメイクなのだが、石原裕次郎と浅丘ルリ子が印象的なセリフを交わす。「4年だ。ひと口に4年と言えば短いが、朝が……」と裕次郎が言えば、ルリ子が「1500回、昼が1500回、夜も同じだけあったわ」と答える。離ればなれになっていた恋人たちが、日々を指を折る気持ちで数えていたのが伝わる名ゼリフだった。

その頃、僕が書いていた応募作は80枚程度の短編ばかりだった。枚数制限が80枚だったからだが、80枚を書くのも僕としてはやっとだった。その後、応募はやめてしまったけれど、趣味のように何かを書き続けてはいた。柴田編集長に頼まれて「日刊デジタルクリエイターズ」に毎週コラムを書くようになってからは時間もなく、小説はまったく書いていなかった。

●応募作品を抱えたまま逡巡する漫画家志望の青年

純確か「純」(1980年)という映画だった。主人公の純(江藤潤)が、漫画の新人賞に応募する原稿を持ったままポストの前で逡巡するシーンがあった。恋人(おお! 若き朝加真由美よ!)が純を励まし、投函させようとするのだが、純は迷い続ける。その気持ちが、僕にはよくわかった。

「純」というシナリオが「キネマ旬報」に掲載されたのは、その映画を見るよりずっと以前のことだった。僕の記憶が正しければ、僕は浪人生のときに豊島区立図書館で「純」が掲載された「キネマ旬報」を読んでいる。だとすれば、1970年のこと。映画化まで10年近くかかったのだろうか。

「純」は不幸な映画だった。シナリオは売れっ子の倉本聡さんが、映画化のあてもなく書いた。純という青年の屈折した青春を描いた作品だ。純は電車の中で痴漢を繰り返す。映画化された「純」は、その部分がクローズアップされすぎていたのか、倉本さんは「脚本・倉本聡」というクレジットを外すことを要求した。

1980年に東映セントラルが配給した映画だから、僕はちょうど新人賞に応募していた頃に見た。だから、漫画家をめざす純が新人賞への応募作の封筒を胸に抱えたまま、迷い続ける姿に共感したのだろう。自負と不安…が交錯し、ときに根拠のない自信にあふれたかと思うと、しばしば底なしの絶望に陥る。

純は、自分が何者なのか、自分が何になれるのか、不安なのだ。漫画を描き続けていても、自分に才能があるのかどうかはわからない。夢はある。しかし、その夢を追い続けるだけの確信はない。彼には恋人がいるが、その恋人の手さえ握れない。彼は、自信がないのだ。宙ぶらりんの状態である。

そんな彼が電車の中では大胆に痴漢を続ける。しかし、僕はその痴漢シーンがあまり好きではなかったし、女性の方からの視点がまったく欠落しているな、と思いながら見ていたので、純に対して批判的ではあった。若さ故の不安…、その発露が痴漢行為なのか、という疑問が脳裏から去らなかった。

結局、純の痴漢行為を目撃した恋人は去り、彼は自分の行為を自分で意味づけなければならなくなる。ラストは、戻ってきた恋人とのセックスが成就するシーンだったと思う。純は、現実と向き合えたのだ。痴漢という卑劣な行為ではなく、女性の人格と対峙するまっとうなセックスができたことで、彼はもう迷わずに漫画家をめざすだろう。そんなことを思わせる終わり方だった。

「純」を見てから30年近くの時間が流れた。僕は会社勤めを33年続けてきた。30年以上も仕事を続けていれば、仕事が自分のアイデンティティを形成する。仕事には責任を持つ、どんな場合もいい仕事をすると、実践は伴わないかもしれないが覚悟はできた。そして、若い頃ほど、自分の夢に拘泥することはなくなった。

●「もう一丁あればジョン・ウーができる」という殺し文句

しかし、僕は久しぶりに応募原稿を出しに郵便局へいき、30年前の気持ちを思い出していた。あの頃、僕はもっとせっぱつまったような気分だったなあ、と思う。いつも、何かに追われているようだった。下手な小説を書いて自惚れると同時に、自分が何の価値もない存在のような気がした。

あの頃の不安感は、今はもうない。将来への不安のようなものも、いつの間にか消えてしまった。あの頃の僕が将来と思っていた時間は、今の僕にとっては過去になった。20代の僕が、50代半ばになった僕を想像できたはずがない。しかし、50半ばを過ぎた僕は、20代の自分が何を思っていたかわかっている。あのせっぱつまったような気分は、現実のものとしては甦らないが、その気分だけはわかっている。

今の僕は、もう人生の第四コーナーをまわった気分だ。現実には、まだ10年は現役で仕事をしなければならないだろうし、子供たちの将来もまだまだ心配だ。しかし、どこかに余裕のようなものが生まれている。焦っても仕方がないし、諦めても意味がない。毎週、コツコツと書いていたコラムが本になることもある。まさか50半ばで本を出すことになるとは、月並みな言い方だが夢にも思わなかった。

だから、大沢さんのひと言で「もう一度小説を書いてみよう」と火がついた自分を楽しんでみたくなった。久しぶりの情熱だった。その高揚した気分にのってみようと思った。そんな火がついた僕を、新宿ゴールデン街の酒場「深夜+1」カウンター部の匡太郎くんのひと言が、さらに煽った。

あれは、大沢さんと対談した少し後のことだ。「深夜+1」で日本冒険小説協会特別賞の副賞である刻印の入ったコルト・ガバメントをもらった僕は、ずっとその拳銃を握ったままバーボンを呷っていた。すると、隣にいた匡太郎くんが「ソゴーさん、もう一丁あるとジョン・ウーができますよ」と言ったのだ。

男たちの挽歌<デジタル・リマスター版>ジョン・ウー。香港ノアール「男たちの挽歌」(1986年)で一躍名をあげたアクション映画の名手だ。今やハリウッドの売れっ子監督である。彼の映画には、主人公が二丁拳銃を乱射しながら跳ぶシーンが必ずある。チョウ・ユンファも、トム・クルーズも、ジョン・トラボルタも、ニコラス・ケイジも、みんな二丁拳銃を撃ちながら跳んだ。

「でも、特別賞は絶対二度は獲れないでしょ。大賞を何度も獲った人はいるけど…。そうなると大賞を獲るしかないよ。そのためには、冒険小説かハードボイルド小説を書いて出さなきゃ」と、僕はひとりで喋って自らを追い込んだ。その時には、大沢さんのひと言で火がついた気分が燃えさかっていたのだった。

翌日の土曜日から、僕は書き始めた。スケールの大きな冒険小説は書けないから、愛読する藤原伊織さんのテイストを狙ったビジネス・ハードボイルド(藤原さんの「シリウスの道」のキャッチフレーズ)の路線にした。なぜか、スイスイ書ける。適当に書き始めた物語が勝手に動き出す。休日は、ほとんど自宅に籠もって原稿を書いた。

調べものをする必要が出ると、まずネットで検索した。昔と違って、本当に便利だった。業務用焼却炉について知りたくなって検索したら、いろいろなサイトがヒットした。昔なら、どうやって調べるんだと途方に暮れただろう。資料本も何冊か読む。その資料がアタリだった。ある業界について詳しくなった。

3か月ほどで第一稿が完成した。手直しに1か月をかけ、僕の本の編集者である水曜社の北畠さんに読んでもらった。北畠さんから「一気に読みました」と長文のメールが届き、自信をつけた僕は日本冒険小説協会の内藤陳会長に厚かましくも原稿を渡した。会長は「500枚? 短いねえ」と言う。「だってミステリ書いたの初めてで、500枚も書いたのも初めてですよ」と、僕は言い訳をした。

会長は二度も読み込んでくれたうえ、ふたつのアドバイスをしてくれた。それに従って結末は修正したが、もうひとつの要望「どこかで、やったーと思わせてくれよな」については、手直しできたかどうかは自信がない。その最終版を、年末に呑み友だちのIさんに渡して読んでもらった。「引き込まれましたよ。でも、知ってる人の小説は評価がうまくできません」とは、年明けに会ったときのIさんの言葉だった。

小説宝石 2008年 07月号 [雑誌]さて、応募した小説はどこで落ちたのか、と思いながら、僕は6月21日の土曜日の朝、たまたま出社する必要があったので、早くから開いている秋葉原駅構内の書店で「小説現代」7月号を広げた。自分の名前が飛び込んできた。ゴチック体の太い字だ。ということは、二次選考までいったのか?

選考の記事によると、応募作品は331篇、93篇が一次選考を通り、さらに23篇が二次選考を通ったという。さらに三次選考で選ばれた5篇が最終候補作として選考委員によって読まれ、2篇が当選作となった。僕の応募作は、23編の中に残っていた。乱歩賞の副賞は1000万円だ。だとすると1000万円まで23分の1だったのだ、と僕は思った。

しかし、乱歩賞は宝くじではない。確率の問題ではなく、質の問題である。当選作と落選作には、天と地ほどの差がある。しかし、と僕は思う。まあ、そんなところで順当じゃないのという穏やかで落ち着いた気分は、もしかしたら、あの頃なりたかった何かになれたのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
また、土日にエアコンの入れ替え工事で出社している。会社の周辺がいつもと違うので、こういうのも何となく楽しい。土日に働き、週日に休むというのが性に合っている気がする。電話もないし、静かだ。しかし、ムリだろうなあ。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1 >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006

by G-Tools , 2008/06/27