映画と夜と音楽と…[381]しらけた時代の気分が甦る
── 十河 進 ──

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●森達也さんが自らの青春を描いた「池袋シネマ青春譜」

今年の春に会社で入社試験を実施し、最終面接が6月上旬にあった。その面接で、応募の女性が「ノンフィクションをよく読みます」と答え、誰かが「どんな作家?」と突っ込んだら「森達也さんです」と言う。僕は、へぇー、硬い本ばかり書いている森達也さんにも若い女性読者がいるんだ、と認識を改めた。

少し前なら「沢木耕太郎さん」なんて答える女性が多かったような気がする。沢木さんはルックスがいいから女性読者が多いという。昔、新宿のギャラリー「エプサイト」で沢木さんの写真展を開いたら、いつもと客層がガラッと変わって女性が非常に多くなったと聞いた。沢木さんが「天涯」という写真集を出したときの話だ。

放送禁止歌 (知恵の森文庫)さて、「森達也さん」と聞いて「するってぇと、あんた、インテリだね」と、僕はフーテンの寅さんのようにつぶやいた。今、森さんの本で売れているのは「死刑」というノンフィクションである。少し前なら「下山事件」だったし、昔、初めて森達也という名前を見たのは「放送禁止歌」(現在、光文社知恵の森文庫に入っている)という本だった。



森達也さんはオウム真理教のドキュメンタリー映画で話題になった監督だが、今は「作家」の肩書きも有名になった。森さんは、映像ドキュメントとして追ったテーマを改めて本にして出す。その初期のものが「放送禁止歌」だった。高倉健「網走番外地」や岡林信康「チューリップのアップリケ」などが、なぜ放送禁止なのかを追及したドキュメントである。

池袋シネマ青春譜その森達也さんが少し前に出した自伝的小説「池袋シネマ青春譜」を、先日、僕は読んだばかりだった。その本の帯には「1977年東京。克己は、未来の大監督たちと並んで8ミリ映画を撮っていた…」とある。さらに「立教ヌーベルバーグ誕生の時を背に描いた、胸がキュンとなる自伝的純愛活劇」と書かれている。

1977年東京。その頃、僕は8ミリ専門誌「小型映画」の編集部にいた。そして、その頃の立教大学には、黒沢清という自主映画をやっている青年がいた。今やホラー映画の巨匠であり芸大教授でもある黒沢清監督は、大学生の頃から自主映画の世界で注目される存在だった。「しがらみ学園」(1980年)という作品は、今も僕の記憶に残っている。

黒沢清監督の商業映画デビューは、ディレクターズ・カンパニーが制作した日活ロマンポルノ「神田川淫乱戦争」(1983年)だと思う。ゴダールの手法で描いたロマンポルノだった。ベッドシーンさえあれば、どんな実験的な映画でも許したのが、当時の日活ロマンポルノだ。だから、いろいろな名作が残ったのである。

森達也さんの「池袋シネマ青春譜」は、その「神田川淫乱戦争」のサラリーマン役として出演した主人公が、慣れないスーツ姿で恋人の堕胎につきそうプロローグから始まっていた。恋人は主人公が所属する同じ劇団の研究生である。その話がフィクションかどうかはわからないが、主人公と恋人の名前以外は実名で登場する。

●「太陽を盗んだ男」の撮影現場にいく話

「池袋シネマ青春譜」のプロローグが終わり第一章に入ると、主人公の大学4年生の時代に時間が遡る。主人公は同級生の黒沢清と久しぶりに学校で会う。「顔を合わせるのは久しぶりだ。『太陽を盗んだ男』の撮影現場で会って以来のはずだ」という文章があり、長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」(1979年)の撮影現場の回想になる。

映画の現場を体験するために「太陽を盗んだ男」のスタッフとして参加した黒沢清から急に出演を依頼された主人公は、朝早くから撮影現場のデパートの屋上へ赴く。最初に紹介されたのはチーフ助監督の相米慎二。主人公はデパートの屋上で電話をかけているとき、ジュリーこと沢田研二が演じる脅迫犯に間違われる役である。

それを読んだ瞬間、僕は「太陽を盗んだ男」のそのシーンが甦った。あの映画は強烈な印象を僕に残している。確か、作家の福井春敏さんがオールタイムベスト3に「太陽を盗んだ男」と「新幹線大爆破」(1975年)ともう一本何かを挙げていたが、よくわかる。僕も「太陽を盗んだ男」を見たときに、日本でもこんな凄いアクション映画が撮れるんだと感激し、拍手した。長谷川和彦はただ者ではない思った。

「太陽を盗んだ男」のカーチェイスは、ハリウッド映画並みだ。月並みな言い方だが、手に汗を握る。僕は劇場で息を止めて身を乗り出した。ジュリーがモンスターマスクをかぶり、ターザンのような雄叫びを挙げて高層ビルの窓をぶち破って飛び込んでくるシーンにも度肝を抜かれた。その荒唐無稽さに呆れるより、画面の力強さにまいってしまったのだ。

長谷川和彦の監督デビュー作は「青春の殺人者」(1976年)である。若き水谷豊と原田美枝子が主演した。原作は中上健次の短編「蛇淫」だ。実の父母を殺す青年の物語だった。実際にあった話を下敷きにしているという。そんな凄惨な作品だったが、映画全体から伝わってくる力強さを僕は感じた。

すぐれた監督が作る作品は、画面の力がまったく違う。濃密なのだ。力強いのだ。観客を、ぐいぐいと画面に引きずり込む。「青春の殺人者」が始まると、僕はすべてを忘れて映画の中に引き込まれた。2時間後、深い溜息と共に現実に戻る。そんな映画だった。

そんな強引ささえ感じる力のある画面を作れる監督は、黒澤明以外には思い付かなかった。黒澤明と同じように、長谷川監督も強烈なドラマを構築するタイプだ。人間を極限状態に追い込み、その葛藤を描く。そんなドラマチックな物語を作り出すために、強烈な画面の力を必要とする。小津や成瀬といった監督とは、まったく異なる。

長谷川和彦監督は、今村昌平監督に可愛がられた人である。東大のアメフト・チームに在籍したという大きな躯を持ち、在学中に今村監督の「神々の深き欲望」(1968年)のスタッフとして参加した。しかし、人間を描くねちっこさは今村監督譲りだとしても、画面が持つ力強さは黒澤明作品に近い。

特に本格的なアクション映画を志向した「太陽を盗んだ男」が発散するパワーは、黒澤明監督の「用心棒」(1961年)や「天国と地獄」(1963年)などを彷彿とさせた。黒澤明監督が「日本人離れした」と形容されるように、長谷川和彦監督も日本映画の水脈とは別のところで登場した力あふれる新人だった。

●二本の映画だけで伝説になった映画監督

「太陽を盗んだ男」は、中学校の物理の教師が原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、小型の原子爆弾を作ってしまう話である。しかし、原子爆弾を作ってはみたが、彼は何をしていいかわからない。自分が望むことが何もないのに気付く。

主人公は、まず原爆を持ったことを国家に認めさせ、どうでもいいような様々な要求を始める。「巨人戦の中継を9時で終わらせず継続しろ」だとか、「ローリングストーンズを日本に呼べ」とか、そんなふざけた要求が公開当時は話題になった。

しかし、当時「世界で唯一の原爆被害を受けた日本で、そんなふざけた映画を作るのはけしからん」という批判が起こったのも事実である。被爆者の気持ちを考えたことがあるのか、と主張する文化人がテレビに出てきた記憶もある。しかし、そんな批判は長谷川監督のひと言で消えてしまった。

長谷川監督は、1946年1月5日に広島県加茂郡に生まれている。広島に原爆が落ちたのは、その5か月前だ。彼は、自らが胎内被爆者であると告白した。この告白は、すべての批判を封じることになった。胎内被爆者である監督が作った「原爆を製造し国家を脅迫する男の話」は、別の意味を持ち始めた。そこにメッセージ性を読む批評家も現れた。

しかし、僕は「太陽を盗んだ男」で長谷川監督がやりたかったのは、徹底したアクション映画だったと思う。あの映画で僕が受け取った唯一のメッセージは、天皇の戦争責任についてである。遠足なのだろうか、中学教師は生徒を引率してバスで皇居前にやってくる。そのバスを機関銃を持った老人(伊藤雄之助)が乗っ取る。

老人は、バスを皇居内に突入させようとする。老人は狂ったような目で「陛下に息子を返していただく」と言う。何も説明しなくても、老人の息子が戦争で死んだことは伝わってくる。僕は、戦後の映画で「昭和天皇の戦争責任」をこれほど明確に提示した映画は見たことがない。

しかし、それもアクションが優先される設定だ。人質になった主人公は老人を連れてバスを降りる。遣り手の警部(菅原文太)と協力して、その老人を取り押さえるのだが、そのとき、警部が火を噴く機関銃の銃身を握ったまま戦う姿を見て、警部を宿敵として想定する。

原爆を作った主人公は国家への脅迫を始めるが、その交渉相手として菅原文太を指名する。そこから主人公と警部の虚々実々の駆け引きが始まり、ワクワクドキドキが持続する。それは、やはり長谷川和彦監督の徹底したこだわりが生み出したものだ。

たとえば、デパートに追い詰められた主人公が群衆にパニックを起こさせて逃亡するため、屋上から刑事たちに大量の札束をばらまかせるシーンは、本当に札束をまいたという。赤旗が連なるメーデーデモの中を黒旗を掲げた刑事たちを歩かせたのは、おそらくゲリラ撮影だ。だからこそ、パワフルな画面になっている。

しかし、「太陽を盗んだ男」で僕の印象に残っている静かなシーンがある。サテライトスタジオにいた池上季実子が演じるラジオのパーソナリティが聴衆の中の主人公に不審を感じて追う。主人公が発している何かを感じ取ったのだ。そして、高いビルの角を曲がったとき、主人公がそのビルが倒れてくるのを支えるように壁を押さえている姿を見付ける。

「ゆっくり、手を離さなきゃダメなんだ。倒れてくる」と主人公が言うと、池上季実子のパーソナリティもつられてビルを見上げる。主人公が「何か用?」と言いながら手を離した後、「ダメだ、こりゃあ。手を貸せ」と再びビルを支えるようにすると、つられて池上季実子もビルを支える。

物語の中では特に意味のないシーンなのだが、このエピソードがあることで何かが伝わってくる。だから、僕は派手なアクションシーンと共に、このシーンを記憶に刻んだ。静と動。緩と急。そんな対比が映画を面白くする。このシーンが伝えてくる何かで、僕は原爆を作った男の心情を理解したのかもしれない。

苛立ちなのだろうか。日常に埋もれてしまう怖れなのだろうか。あるいは退屈なのか。「太陽を盗んだ男」には時代の雰囲気が映し込まれていたし、主人公からはどうしようもない倦怠感が漂う。最後に対決したとき、警部は「おまえが一番殺したがっているのは、おまえ自身だ」と言う。主人公は、その言葉に反論できない。

今見ると、70年代後半のしらけた空気感のようなものが伝わってくる。主人公の鬱屈した心情を伝え、見る者を映画の世界に引き込む。「青春の殺人者」も「太陽を盗んだ男」もそうだ。そんな傑作を2本作った長谷川和彦は、その後、1本も映画を作っていない。「映画を撮らない映画監督」と自らをシャレのめしていたのは10数年前のこと。そろそろ30年だ。シャレにならない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
息子と一緒に夏のズボンとシャツを買いにいった。息子のウエストは78センチ。身長は僕より数センチ高く175センチくらいあるらしい。売り場の女性が「足が長くてスリムだから似合いますよ」などという。僕は85センチのウエストサイズにするか、88センチのものにするか悩んだ末、結局、買うのはやめた。股下サイズは、もちろん息子に負けた。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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