Otaku ワールドへようこそ![77]兆候
── GrowHair ──

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私のコラムは長すぎるらしい。いや、自分でもそんな気はしていたし、実際どんどん長くなっているんだけど、この前、昔のNOVA高田馬場校の仲間と北京ダックを食いにいったとき、はっきりと言われちゃって、うんうん、やっぱりそうだよね、と思った次第です。

というわけで、反省を示して、今回はこれで終わりにします。……とか言ってると、「極端なんだよ」とまた文句を言われそうなので、もうちょっと書きますが、無理にひねり出そうとがんばったりせずに、ふだん頭に勝手に浮かんでくるよしなしごとをささっと吐き出して、終わりにしましょう。

今、「終わり」と打とうとして、画面に出たのは「お笑い」だった。だいじょうぶか、俺。……ってなこと言ってるうちに、もうこんなに行数を使ってしまってるあたり、ちょっと不安ではありますが。もうちょっと書いたら、ほんとに終わりにしますです。

しかし、まあ、こっちにも言い分はありまして。何でこの程度のものがそんなに長く感じられるのか聞いてみると、ケータイで読むのに長すぎるのだという。は? そんなこと、考えてもみなかったよ。私はまだ使ったことがないのだが、世の中では、今、ケータイとかいう道具が流行っているらしい。

まるで疎い方面について、ああだこうだ述べるのは危うい感じがしなくもないけど、仮説としてあえて言わせてもらうと、この程度の文章が長く感じられるとしたら、それはひょっとして、ケータイのほうの機能がまだまだ貧弱だから、ってことではあるまいか。いやいや、十分間に合ってる、という人がいたとしたら、もしかして、脳がケータイに合わせて退化しちゃってる、なんてことは、ないかな? 「ゲーム脳」がどうしたこうしたと憂いている御仁は、ついでに「ケータイ脳」についても心配してみてはいかがだろうか。

ネットの掲示板への書き込みや、ブログやミクシィの日記へのコメントなどを見ていると、時々、10行ばかり書いて「長文失礼しました」と結んでいるのがあるけど「短文失礼しました」の間違いではないかと思えてしまう。そんなのを見るにつけ、ますますケータイを持とうという気がくじけるのだけれど、そんなこと言ってると、世の中の流れからますますずれていっちゃうのだろうか。どっちへ転んでも、不安だ。



●もし最後なら言っておきたいこと……うーん、特にないか

このところ、どういうわけか、街行く若い女性がみんなきれいに見える。モンシロチョウの大群じゃあるまいし、客観的にみて、世の中の女性がまるでさなぎから羽化するかのように、みんないっせいに変貌を遂げるという現象が起きたとは考えづらいから、たぶん原因は眺めてるこっちの側にあるのだろう。はて、何か、悪い兆候だったりしなければよいが。

前に一度書いたことがあるが、私は以前、C型肝炎を患っていたことがある。中学時代に輸血を受けたことがあって、あのころはまだ、A型とB型以外にも何かあるようだとだけ分かっていて、非A非B型と呼ばれていたが、ふるいにかけることはできていなかったので、そのときに感染したのだとしたら、まあ仕方があるまい。ところで、この病気は 20〜30年潜伏し、その間は無症状で、黄疸などの症状が出てきたときには肝硬変になっているという、怖いものである。

実際、無関係なことで調子が悪くて血液検査を受けたことによって偶然に感染が分かったのは、30歳の少し手前のころである。自覚症状はまったくないことになっているのだが、不思議なことに内部からの声のようなものが聞こえていた。「おまえは30歳まではもたないから、やりたいことがあったら、今のうちに済ませておけよ」と。んで、なんとなくそのつもりで生きてきた。20代のうちに結婚して離婚して、さてと思っていたら、病気が見つかり、ああこれだったか、と。

幸いなことに、インターフェロンの治療が功を奏して、血液1ミリグラム中に何万匹かいたというHCV(ウィルス)は、すっきり退治することができた。発見された時点での完治の確率は、半々であったとのこと。ここ一番のときに当たりくじが引けたので、後は全部はずれでもいいや、という気分。

まあ、そんなことがあったので、また、悪い兆候でなければいいが、と落ち着かないのである。「そろそろ迎えに行くからな」ってことなのか? 先が長くないのはもうどうにもならないのだから、せめて、種の保存のために、子孫だけは残しておくように、という本能の指令が下って、急に三次元の女性がきれいに見え始めたのだろうか、などと考えちゃうのである。

さて、最悪のケースを想定して、もし今回のが私のコラムの最終回になるとしたら、何か言い残しておかなくてはならないことはあるだろうか。いやもう、すでにクソ長いコラムを76回も書いてきた身としては、言いたいことはだいたい言い切っている感じで、今さら特には、ありませんなぁ。

●しかし、アキバの事件のことは、やはりもう一言

秋葉原で加藤智大が突いたダガーナイフは、私の中にまだぐっさりと刺さったまま、そんな気分。その後の各週刊誌の関連記事はなるべく読むようにしている。今まで、凶悪犯罪が起きると、それに対する反応として、刑罰を重くしよう、防犯カメラを増やそう、善悪を学校でしっかり教えよう、犯人と同じカテゴリでくくれる人たちに気をつけよう、といった、他者に厳しい意見が多く聞かれたが、今回の事件に関しては、犯人がネット上の掲示板に大量のメッセージを残していて、心のありようがどんなふうであったか、ある程度世間に知られたという事情もあってか、もっと広い角度から論じられているような空気が感じられる。

特徴的なのは、このような犯罪を生み出してしまう社会の側にも、どこか病んだところがあるのではないかという反省の姿勢がずいぶん見られることである。派遣労働のあり方への見直し論、格差社会や「自己責任」論への疑問の投げかけ、日本はいわゆる「負け組」に対して世界一冷たい社会なのではないかという意見、日本はいずれスラム化するのではないかという懸念、自殺問題に対する要因分析や社会福祉的なアプローチの模索、などなど。

この傾向は、歓迎すべきことだと私は思う。今まで、重箱の隅をつつくように他人のあら捜しをしたり、ことあるごとに責任者をつるし上げ、地へ叩き落としてきたけれど、結局、世の中はちっともよくなっていかなかった。確かに、他人に厳しい意見というのは、自分は正義の側に立った上での、善意から発せられる、極めて正論ではあるのだけれど、悪いことはすべて他者のせいにしてかたづけるような姿勢では、かえって社会のある側面が覆い隠されて、問題の本質への踏み込みが浅くなってしまいそうである。

一件の事件としてみれば、無関係な人が責任を問われるいわれはないのだけれど、こんな事件が起きるような社会を作り出してしまった、その社会の構成員としてわが身を振り返るとき、まったくの部外者としてガラス越しに眺めている見物人でいるわけにもいかないような気がする。

そんなことをエラそうに言っている私のほうこそ、言いっぱなしで何もしないのでは無責任きわまりなく、実際の行動として具体的に何かできることはないだろうかと考えるのだが、特にこれといって思いつかず、途方に暮れるばかりであるのがもどかしいのだけれど。

事件の関連でいろいろ読んだ記事の中で、特に感銘を受けたのは、6月18日(水)付けの日経ビジネスオンラインの伊東乾氏の記事「無差別殺人はいつ起きるか? ルワンダから秋葉原を考える」である。
< http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080617/162350/
>
再発防止へとつなげていくために、司法がどう取り組むべきかを、「修復的正義」という観点から提案している。

その前の回の6月12日(木)の「『修復的正義』はいかにして可能か?」
< http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080610/161342/
>
で、ルワンダに滞在して大虐殺からの復興を取材する中で、「応報的正義」と「修復的正義」を対比させ、それはたとえて言えばおまじないと医学ほどに違う、と主張している。私も漠然と感じていたことを、きっちりと言っていただけた感じで「これだ、これだ!」と雲が晴れるような爽快感を得た。そしたら、次の回ので、秋葉原の事件を取り上げて、再発防止の観点から「修復的正義」がいかに大事かをより明確にしている。

すばらしい記事をありがとうございます。……と、これを言っておけば、急に上(あるいは下?)のほうからお呼びがかかったとしても、ずいぶん軽い気分で旅立てるかな。お互いに疑いあい、細かく監視しあい、厳しく糾弾しあう冷たい社会から、協力しあい、気を許しあえる、安心感のある暖かい社会へと方向転換するような動きが出てきたのだとしたら、まあ少しはほっとした気分で上から眺めていられるかな。下からでもいいけど。

●伝家の宝刀ではなかった「自己責任」、そろそろ鞘に納めては?

よく夢の中で、もしこんなことが起きたら怖いだろうな、とふと思った瞬間に、それが起きているということがある。現実の社会にも、どこかそういうところがあって、人々の間に漠然とした不安が広がっていくと、実際にその不安が間違っていなかったことを裏付けるかのような、よからぬことが起きてしまう、という妙なメカニズムがはたらいていたりはしないだろうか。

どうも物騒な世の中になってきたな、とみんなが思うようになると、実際、物騒な事件が増えるとか、同じ人間どうしなのに、人が何を考えているのか分からない、不気味な社会になってきたな、とみんなが感じると、ますますお互いが魔物のように見えてくる、みたいな。

「自己責任」という言葉は、もとはと言えば、戦争中のイラクへ個人的に出かけていった学生が人質にとられ、救出するのに日本政府が一苦労したときに出てきたのではなかったかと思うが、そのうちあらゆることに適用され、ついには、おまえの生活が思い通りにいかないのは努力を怠った自分が悪い、文句を言うな、と不満を封じ込める呪文として流通していった。

不思議に思ったのは、格差が拡大しつつある社会にあって、負け組の側に入れられて割りを食いそうな人たちが、この自己責任の概念をさも美徳であるかのように支持したことである。もしかして、社会の下層の人々が、もっと下層の人々を突き放して憂さ晴らしをする、いじめの呪文として便利だったってことはないかな? いずれ自分が立ち行かなくなったとき、そうだよね、これは自己責任なんだから仕方がないよね、と納得する準備はできているのかな?

日本の食料自給率は、40%を割っている。供給が安定しているときはそんなに危機感はないかもしれないが、もし世界的な天候不順や政情不安定に見舞われたりすれば、どの国も輸出している余裕はなくなるから、輸入量はほぼゼロに落ち込む可能性がある。国内生産量を維持できたと仮定しても、総量は40%に減る。

このとき、日本人全員が、食う量を40%に抑えて我慢すれば、なんとか生き延びることはできるかもしれない。けれど、自由経済の法則でいけば、食料の価格が高騰し、金持ちは懐を痛めつつも食う量は維持できるけど、貧乏人は買えなくなる。このとき、自己責任なんだからしょうがないね、って納得してくれるのだろうか。

学生時代に猛勉強して高い学歴なり難しい資格を獲得しておくとか、何かに打ち込んで特別の技能や芸を磨くとかしておけば、それなりの収入にありつくことができたはずなのに、それを怠って、好きなことばかりやって遊んできたのは、すべて自分が悪い。そう納得して静かに餓死していきました、っていうのなら、「自己責任」を一度は支持した以上、論理的に一貫した態度であり、美談に値すると思う。が、たぶん、実際にはそうはならないだろう。

腹が減ったときのイライラは、理性で抑えられるもんじゃ、ないよね? だけど、こういうときだから、みんなで食う量を40%にして、お互いに我慢しあい、譲りあってしのいでいきましょう、というふうにならなければ、日本社会は混乱して自己崩壊してしまうだろう。システムまかせの、協調なき社会は、何かの折に脆弱さを呈してしまわないだろうか。

格差社会というけれど、半々に分かれて、上はさらに上へ、下はさらに下へと分離していっているのではない。砂時計の砂のように、さらさらさらさらと上から下へ、人が落ちていっている。何とか勝ち組に残っていられても、しがみついているのが、なぜかだんだん苦しくなってくるのだ。今に砂が全部下へ落ちたら、日本は何もできなくなって、沈没する。

あっ。……。今ふと頭に浮かんだんですけど……。これはさすがに、言うのも怖い。みなさん、落ち着いて聞いてくださいよ。ひょっとして、薄着になったってことなのかも。兆候って、もしかして、夏の兆候? ……だったりして。キャミソールふうのひらひらした格好が流行っているようでもあるし。モンシロチョウの大群って、それだったかぁ。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。ああ、私は短く書けない体になってしまったのでせうか。これでも、いろんなネタを切り捨てたんですよ。また山へロケハンに行ったら、見たこともないすばらしい景色に遭遇できて感動したけど、行程があまりにも危険なのでガイドブックなどで紹介されることはないのだと納得したこととか、アキバ系地下アイドルのライブを見にいき、ヲタ芸を超えたとうわさに聞くFICE芸なるものを見て、長生きしてよかったと思ったこととか、ある劇団から宣伝用の写真を撮ってくださいと頼まれたんだけど、これがゴシック系というかホラー系というか、べったりと血糊のついた白いワンピの女の子が金属廃材を武器にして構えているシーンだったりして、下手なところで仮装ゲリラやったら全国区のニュースになっちゃうよなぁ、どこにしようかと悩んでることとか、江戸川乱歩を初めて読んだけど、これが面白くて、「名探偵コナン」の青山剛昌が表紙絵を描いたら面白いんじゃなかろうかと思ったこととか、関連で、皆川博子を読んでみたいと思っていることとか。ま、ぜったいに言い残しておかねばならぬ、ってほどのもんじゃないですがね。これじゃ、言葉の下痢だ。