Otaku ワールドへようこそ![78]色褪せた音
── GrowHair ──

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私は短く書けない体になってしまったのでせうか、と前回書いたら、山口県にお住まいの親切な読者の方からメールを頂戴した。彼も以前はついつい文章が長くなりがちだったが、これはパソコンで書くのがいけないのではないかと思い至り、試しに紙に万年筆で書いてみると、効果てきめんで、コンパクトにまとまるようになったと教えて下さった。

なるほど。では、さっそくそのアイデアを拝借し、今回の原稿は原稿用紙に万年筆でしたためて柴田さんに郵送し、赤が入って戻ってきたのを清書して濱村さんに郵送し、濱村さんがスキャナで取り込んで、画像で配信してみてはどうだろうかと思ったのだが、それでは今度はデータ量がとんでもなく膨らみそうなのでやめて、まずノートにボールペンで全文書いてから、パソコンで入力する手順を踏むことにした。

ここまでしても短くならなかったら、もはやもの書く素養なしということで、デジクリ引退も考えたほうがいいのかもしれない(ここでスクロールバーを見て吹かないように)。ところで、作家が引退することを「筆を折る」というが、水泳選手の場合は「水着を脱ぐ」というのだろうか。

さて、今回もネタはいろいろあるのだが、その中から選りすぐって、川原の石ころみたいにどうでもいいやつをば。だって暑いんだもん。



●わが内なる欠陥

最近、自分の中にとんでもない欠陥を発見し、ショックを受けている。いや、健康上は何の支障もないのだが、精神衛生上、たいへんよろしくない。たとえていうならば、レモンをかじったらドーナツの味がするようなものである。自分の中の絶対音階が、いつの間にか、長2度、ズッコケていたのである。

ちなみに、音楽が発明された時点ではまだゼロという概念は発明されていなかったとみえ、同じ音どうしでは、差が1度あるという(本来はゼロ度というべき)。ドとレの差が長2度、ドとミの差が長3度である。

いちおう、音の記憶はそんなにひどくはズレていかないほうだと自負している。例えば、カラオケで歌い慣れた曲ならば、イントロが鳴る前に軽く口ずさんだのが、大きくはずれることは、まずない。しかし、楽器を演奏することがないため、音が音名と結びついていない。

幼稚園、あるいは小学校の始めのほうで習う唱歌はたいていハ長調なので、「むすんでひらいて」でも「きらきらぼし」でもいいから、記憶から引っ張り出せば、基準のC音が出てきそうなものである。ところが、私の場合、これがうまくいっていないことが判明した。どうやら、古くなった音は、ことごとくずるっとずり下がっているようなのだ。

「ドはドーナツのド」で出てくるドはシのフラットなのである。「レはレモンのレ」でドが出てくる。試したわけではないが、ピアノのドの鍵盤を叩くと、レと思っている音が出てくるはずである。これはきっと、音楽畑に生えている人からすると、気が狂ったのレベルであろう。

どこから発覚したのかというと、パソコンのソフトである。ふと記憶の中の音を音名と結びつけたくなって、それだけのためにピアノを買うほどの酔狂でもないから、音叉あたりが手ごろではないかと思い、値段や入手方法の情報を求めてググってみると、その機能をもったソフトがタダで拾えた。これを鳴らしてみて、愕然としたのである。

●二つの仮説

さて、このように古い記憶の中の音がずり下がる現象は、私に限って起きていることなのだろうか。もしかして、気がつく人があまりいないだけで、一般的にもあることだったりはしないだろうか。そうだとすると、いったいどうして起きるのであろうか。二つの仮説を立ててみた。

第一の仮説は、「音響感知器官伸長説」とでも呼んでおけばもっともらしく聞こえそうだが、平たく言えば「耳が伸びた」説である。多分、耳の中に音が反響する空洞があるんじゃないかと思うのだが、体の成長に伴って、この空洞も広くなっていき、音の響き具合が変わってくるのではないかと。

実は、色彩の見え方に関しては、経年変化が起きている。以前、印刷屋に勤めていて(あれ? しまった、今もだっけ?)、シアン、イエロー、マゼンタの3色のインキの配分でグレーを正確に表現するのが大変難しいと聞いたことがある。人間の視覚はグレーバランスにとても敏感なので、配分がちょっとでも崩れると、色がついて見えるのだそうである。

私は青みがかったグレーをきれいだと感じるので、一般的にもそうかと思い、そっち側へコケてる分にはたいてい許してくれるのではないかと言ってみると、そうでもないという。色の好みは人それぞれで、特に年配の人は黄色みがかったグレーを好む傾向があるという。

ほーう、やはり人生経験を積むと好みが渋くなるものなのかと感心したら、そんなロマンチックなものではなく、単に目玉が黄色く濁ってくるのだという。なーんだ。しかし、徐々に変化していくと、気がつかないもんなんだね。

子供の時分によく過ごした場所へ、大きくなってから久々に戻ってみると、すべてがミニチュアのように見えて、ガリバー気分が味わえる。それはもちろん自分が大きくなったからにほかならない。しかし、もしずっとそこで育ってきたとしたら、見え方の変化が非常に緩やかなので、変化に気づかないかもしれない。実際、電車や車のように、小さいころからいつも見ていたものは、別段縮んだとは感じない。

してみると、音にも同じことが言えるのではなかろうか。つまり、聞こえている音の響きの緩やかな変化に気がつかないのではないかと。耳の空洞が伸長すると、同じ共鳴状態を保つための音は、低いほうへシフトしていく。つまり、感覚的に同じに聞こえる音は、客観的には徐々に低くなっていく。言いかえると、客観的に同じ音は、感覚的には徐々に高く聞こえるようになっていく。子供のころ、子供の声ってそんなに高く感じたっけ? むしろ大人の声が低く感じられてなかったっけ? これが第一の説。

第二の仮説は、「音程記憶弛緩説」、つまり、記憶の劣化である。音自体は同じに聞こえていても、それを時々思い出してリフレッシュすることなく、記憶の地層の下のほうにアンモナイトの化石のごとくずっと眠らせておくと、後から後から沈殿してくるゴミ芥に埋もれて下がってくるのではないかと。

古い写真がセピア色になっていくように、記憶の中の色も褪せていく。彩度が下がっていく一方であり、だんだん鮮やかになっていくことはないような気がする。それと同じように、音も、記憶の中の弦が緩んでいき、低くなっていくのではないかと。これが第二の説。

音楽家に聞けば、印刷屋が色について教えてくれたようなことを教えてくれはしないだろうか。「それはもう前々から定説があってね、……」なんて。そんなことを考えていたら、折よく、バイオリンやホルンをもった人たちがまわりに集まってきた。今回は、紙とボールペンのモバイル環境なので、タダでいくらでも涼んでいられる「なかの ZERO」の地下2階の自販機前の休憩所でこれを書いているのだが、ちょうど目の前に音楽の練習室があり、順番待ちの人たちがおのおの練習を始めたのである。検索かけなくても答えが向こうから寄ってくるアナログ環境、なかなか便利かも!

弓を引かずに左手だけでバイオリンの練習をしている女性が手を休めたところで、すかさず聞いてみた。すると「そんなこと、考えたこともない」という。それはそれで貴重な情報だ。少なくとも、音楽家なら誰でも知っているような周知の事実ではないことが分かった。

また、現象そのものが否定されたわけではなく、さきほどの、いつも乗っている電車は縮まない、と同じ道理で、ずっと音楽畑にいると、かえって音の響きの緩やかな変化に気づかないのかもしれない。

●実験してみた

家に帰って、ひとつ実験してみた。幼少のころではなく、25〜30年前、学生時代に聞いた音の記憶を引っ張り出してみたのである。これは古い記憶には違いないが、この時点ではもうすでに、体格はほぼ成長しきっている。そのころ聞いた音の記憶が変化していなければ第一の説が浮上してくるし、下がっていれば第二の説が浮上してくるというわけである。

あのころよく聞いた歌謡曲で、その後YouTubeなどで聞きなおしたり、カラオケで歌ったりして記憶をリフレッシュしていないのを10曲、選び出した。まず、記憶の中の音と、音叉ソフトで鳴らした音とを比較して、調を特定した。続いて、YouTubeなどで実際に鳴らしてみて、正解を得た。

結果は下記のとおり。歌手名、曲名、私の回答、正答、差分、の順に記している。C, D, E, ... がベースの音階を表し、bはフラットを表し、Mは長調、mは短調を表し、矢印は転調を表す。転調している場合、どちらか片方と一致していれば正解とした。

1)岩崎宏美、ロマンス、Fm、Dm、高すぎ
2)岩崎宏美、あざやかな場面、GM、EbM → EM、高すぎ
3)岩崎宏美、想い出の樹の下で、FM、GM、低すぎ
4)岩崎宏美、二十歳前、FM、FM、正解
5)岩崎宏美、シンデレラ・ハネムーン、Fm、Ebm、高すぎ
6)岩崎宏美、熱帯魚、Fm、Gbm → Abm、低すぎ
7)クリスタル・キング、大都会、AbM、AbM、正解
8)西城秀樹、ブルー・スカイ・ブルー、FM、EM → FM、正解
9)八神純子、みずいろの雨、Dm、Dm、正解
10)五輪真弓、恋人よ、Dm、Em、低すぎ

正答率が40%と低く、記憶の中の音がめちゃめちゃあやふやなことに、まず愕然とした。しかし、まあ、それは置いておいて、不正解のものについては、高すぎることもあり、低すぎることもあり、どっちか一方に偏ってはいなかった。つまり、これを見るかぎり、ここ30年ぐらいの間には、記憶の中の音程の低下はみられない。どうやら、第一の説がやや浮上してきた感じ。

まあ、単なる好奇心にすぎないのですが、もしどなたか、先行の研究などをご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけるとありがたいです。もし、耳の空洞の共鳴状態が成長に伴って変化するのであれば、「等ラウドネス曲線(equal loudness level contours)」の変化として現れるのではないかという気がするのですが、子供を被験者としてとったデータはないのでしょうか。その手の研究がもしなければ、どなたかトライしてみてはいかがでしょうか。何の役に立つかは分かりませんが。

●歌がうまくなりたいと思ったんだった

ところで、そもそもなぜ、絶対音感のことを気にしはじめたんだっけ? そうだ、そうだ、メイドバーだ。中野にある行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」はカラオケが備えてあるが、シャイな私は、半年はROMっていた。ところがあるとき、つい飲みすぎた勢いで一曲がなってしまったら、これがジャイアンなみにひどかったようで、植木が枯れてしまった。(←ちょっと誇張)
< http://village-rei.girly.jp/
>

仲間内ならともかく、ほかのお客さんにまで聞かせるとなると、まさに公害である。まずい、上手くならなくては。ここはひとつ、特訓するっきゃない。と考えちゃうあたり、私はたいへんまじめで几帳面な性格で、こういう人は鬱病になりやすいというから、がんばりすぎないよう、気をつけねば。

さて、これから書くことは、たいへん恥ずかしいので、mixiの日記にすら書けないでいるのだが、ここならチラシの裏みたいなもんだから平気かな、ということで書いちゃうけど、実は一人でカラオケ、いわゆる「ヒトカラ」というのをやってみた。

店によっちゃ、一人でも二人分料金を取るところがあって閉口なのはともかくとして、これがなかなかいい。誰にも気兼ねなく、思う存分練習できる。同じのを続けて3回歌ったっていい。以来、けっこう頻繁に足が向くようになった。週に7回ぐらい。

多分、歌が上手くなるには二つの要素が必要だ。ひとつは頭の中できれいに音が鳴っていること、もうひとつは、その音を実際に出す技術を備えていること。この前者を思うとき、頭の中で正確な音程で鳴らすためには、絶対音感なんかも培わねばならないかな、と思った次第である。

また、道を歩いているときなど、まわりに誰もいなければ、記憶を頼りに高歌放吟して練習してみたいところだが、そこで音程が外れていては、練習にならない。ただし、正確さには限度があって、基準となるA音を440Hzに設定しても、442Hzに設定しても、私にはまったく同じ音にしか聞こえなかった。中野ZEROで、ホルンの人に聞いてみると、ちゃんと聞き分けられるという。この辺はもう素質だからしょうがないんだろうね。

それと、見込み違いがあった。今までカラオケなんて、せいぜい年に2〜3回がいいとこだった私は、歌なんて、ちょっと練習すりゃ、すぐ上手くなるもんだろうと勝手に考えていた。甘かった。そんなもんじゃなかった。

ヴィラージュ・レイのメイドさんたちは、みんなそこそこ上手い。あのぐらいになるまでには、まだまだまだまだがんばらねば。できれば、3年くらい山にこもって精進したいところではある。まあ、声優の卵やらアキバ系地下アイドルに対抗しようなんて考えてるあたり、気が若いとも言えるのかもしれないけど。

●デジタルこわい

いやー、しかし。紙にボールペンで書いてみても、あんまり短くはならんですなぁ。書いてる途中で、すでに何文字書いたのか、ぱっとつかめないので不安だったが、いつもよりかえって長く書いてしまったかと思いつつ、パソコンで入力してみると、実際は大体同じだったということは、やはり手書きのほうが短くまとまりやすいという作用はあるようです。

ちょっと驚いたのは、文体がいつもと違っていることです。入力していて気がついたのだけど、一文が長いし、一段落が短いし、比喩が多いし。変えようと意識してはいないのですが。デジタル環境で、手作業と同じことが置き換えられるはずだ、というのは、理屈の上ではそうなんだろうけど、結果として出てくるものは、違ってきますな。

創造的な行為がいかなるメカニズムによってなされるのか、科学的に解明されているわけではない以上、何がどう作用してくるのか、分かったもんじゃないですな。思考の過程、感情の動き、意識の作用までもがデジタル環境の影響を受けて変容しているのだとしたら、ちと怖いような気もしなくはないですな。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。劇団「MONT★SUCHT(モントザハト)」から宣伝用の写真を撮ってくれませんかとお声がかかる。メンバーの由良瓏砂(ゆらろうさ)さんが人形作家でもあり、3月に展示を見にいってお会いしているというつながりで。そんな大役に指名していただけるなんて、身に余る光栄。きれいな絵コンテを送ってもらったりして、高まる期待。7月20日(日)、埼玉県川口市にある鋳物工場跡のスタジオ "Kawaguchi Art Factory" へ。いんやぁ、めっちゃ楽しかったぁ! みんないい感性もってて、シーンづくりがとってもクリエイティブ。小道具などもいっぱい用意してきてて、気合いの入れようがものすごい。役者だけあって、ポーズがきれい。撮ってて、脳内から気持ちいい汁がどばどばと出っぱなし。丸一日があっという間に経ち、気がつくと1,500枚以上撮ってた。
< http://www.artism.jp/ad_m030.html
> (MONT★SUCHT)
< http://www.art-kouba.com/
> (Kawaguchi Art Factory)
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Factory080720/
> (写真)