笑わない魚[247]私を縮小する私/永吉克之

投稿:  著者:  読了時間:6分(本文:約2,500文字)


これまでも折にふれて、こんな映画に出たとか、あんなテレビ番組に出たとか、小出しに書いてきたが、2年足らずとはいえ、事実、私は芸能人まがいのことをしていた。秘かにCMにまで出ていたのである。しかしもう足を洗った。芸能人最後の仕事は、NHK『その時歴史は動いた』の松尾芭蕉の特集で、芭蕉の門弟のひとりを演じた。

役者は三日やったらやめられない、と言われるが、これはよく解る。自らの身体を使った、まさに「自己表現」をすることで分泌されるドーパミンの快楽をいったん味わったら、それが忘れられなくなるからだ。この陶酔は主役級でなくても味わえる。エキストラでも味わえる。それどころか、誰にも見られていなくても、それは味わえるのだ。にもかかわらずやめた。生木を裂くように、私は私を芸能界からめりめりと引き剥がしたのだ。



やめた動機は不明だが、私を縮小しようとしているのではないかと思うのである。というのは、それを裏付けるような行動がこのところ見られるからだ。まず髭を剃った。些細なことと思われるだろうが、半生を髭とともに過ごしてきた私にとっては、体の一部を削ぎ落とすようなものなのだ。それでも剃ったのは、特徴をすこしでも減らすためだろう。

ギターを弾くのもやめてしまった。大阪市内のパブやカフェでときどき演奏していたが、それももう一年以上ご無沙汰している。私はたびたび「他の芸事はともかく、音楽だけはセンスなさそうだなあ」と、周囲に聞こえよがしに独り言を言ってきたが、今になって思えば、その発言は伏線だったのだ。

しかし決定的なのは、私の本分であるべき絵描きが停滞していることである。作品といえば、今年になって小品を3点しか描いていない。それを出展する予定もない。仕事が忙しくて描けないのではなくて──もしそうなら、むしろ喜ばしいことだ──意識して描かないのだと思う。いつも机に広げていたペンタブレットを、かたずけてしまったという事実がそれを確信させるのである。

●目的は何か

・推論1_即身仏になる

私がこれまで行なってきた活動を少しずつ停止してゆく過程と、仏教の僧侶が、食べ物の種類や量を少しずつ減らし、やせ細ってついにはミイラになる、つまり仏になる過程との類比は可能である。

何をどれだけ停止すれば即身仏と同等の存在になれるのか、そのあたりを私がどう考えているのかは判らないが、もっと遥かに多くのことを停止する必要がありそうだ。贋金を作ること、数字を発明すること、安部公房の小説『箱男』の文庫本のすべてのページに女の名前をつけること。そういった瑣末なものまで停止しなければ、即身仏の等価物を生み出すことはできない。

・推論2_箱男になる

安部公房の『箱男』を読んで、私はどうしようもない渇仰を覚えた。箱とわずかな道具以外はなにも所有しない身軽さに、箱男が人びとの記憶に残りにくいという存在感の希薄さに、そして自分は箱のなかに匿われて素顔を見られず、しかしこっちは箱の穴から世界を覗くことができるという背徳の美に。

箱男であることと芸能人であることは絶対に両立し得ないが、始めにも述べたように、誰も見られない箱のなかで役者の陶酔を味わうことはできる。また、ギタリストの陶酔も味わえるが、狭い箱のなかでギターを弾くことはきわめて困難だ。ギタリストをやめたのはそういう「・」に配慮してのことだろう。

・推論3_「・」になる

わざわざ言うまでもないが、「・」には便宜上の面積はあっても実質的な面積はない。だから誰の邪魔にもならなければ、誰かに邪魔されることもない。面積がないから、何の衝突も妥協もなく同じ座標上に存在することができるのだ。「・」こそがミニマムな存在であり、もっともありふれた生き方である。私が「・」として生きることを望んでいるとしたら、最大の理由は、その単純さと退屈さと無害さにあるのだろう。これは私が髭を剃ったことと符合する。

●究極の目的は何か

上のようになりたいと私が願うのは、さらにその先に、実現は不可能かもしれないが、少しでも近づきたい究極の目的があるからに違いない。ひとことで言うと、自分という存在を消すことではないのか。ただ、自殺はしないはずである。そんなことをしたら、私の存在が消えるどころか、逆に多くの知人友人の記憶に焼きついてしまうことになりかねないからだ。いつの間にか存在しなくなっている、そんな方法でなければならない。

かつてある所にいたずら好きな努力家がいて、周囲に気づかれないように注意しながらバス停の位置を毎日1センチずつ動かした。昔のバス停はコンクリートの重しつきで置いてあるだけだったから、その気になれば動かせたのだ。あるとき誰かが変だと気づいて調べたら、バス停は最初の位置から100メートル移動していたという。変化が非常に緩慢なときは、人はそれに気づかないものなのだ。そんな方法で私は自分を消したいのではなかろうか。

しかし、人間存在そのものは消さず、すでにある程度の数の人たちに名前や顔や能力や過去の言動を知られている私という存在を消したいというのなら、方法は他にもある。つまり完全な別人になるのだ。もし私が、ロマノフ王朝時代のロシアで靴職人の妻タマーラとして生きていれば、たとえば、これまでデジクリに掲載してしまった駄作を読み返して、消え失せてしまいたくなる必要はないし、これから掲載されるかもしれない駄作にも責任をもつ必要がない。なぜならタマーラの生きている時代に、執筆者である私は存在しないからだ。

ところが、タマーラになる以前に、すでに私を知っている人の記憶のなかにはタマーラでない私、つまり消去したい私が保存されている。身体的存在はなくなっても、その記憶は残る。想像のなかで、あるいは夢のなかで私を責めたり、私に侮辱されたりといったことも起きる。記憶のなかの私はたんなる映像ではなく、それを保存している人の精神に、ときには肉体にすら影響を与えることがある。その限りにおいて私は充分、存在していることになるのだ。その辺を私がどう考えているのか、機会があったら訊いてみたいものである。

【ながよしかつゆき/・】katz@mvc.biglobe.ne.jp


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