わが逃走[31]『死を意識したとき』の巻
── 齋藤 浩 ──

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その日、新人デザイナーだった私は仕事の遅れを取り戻すべく、いつもより2時間程早く出勤していた。今から15年くらい前のことである。

他にまだ誰も出社していない朝8時30分頃、机に向かって作業をしていると、掃除のおばちゃんが部屋にやってきた。
いつものように、お掃除を一通り終えると
「あら齋藤くん、朝早くからごくろうさん。これあげるわね。」
と、こんにゃくゼリーを3個くれた。
「あ、おばちゃんありがとう。」
そっけなく返事をしながら作業を続ける。

私は真剣に仕事をしていると、無意識に息をとめてしまうことが多い。この時もそうだった。自分の発した「はあー。」という大きなため息というか深呼吸の音で我に返って制作中の仕事を見直す。



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ふと机の隅に目をやると、こんにゃくゼリーがあった。そうだ、さっきおばちゃんにもらったんだっけ。これ、旨いんだよねー。

私はいつもそれを食べるときと同じようにラベルをはがし、グレープ味のゼリーを半ば吸い込むように口の中に入れた。すると……

きゅぽっという音とともに、それは私の喉にぴったりと入ってしまったのだ。息ができない。どうやら喉につまってしまったらしい。喉の真中にゴム製のスーパーボールがはまってしまったような圧迫感というか、窮屈な感じ。喉につまると意外に大きく感じるものだ。

(うわ、まいったね。ゲホゲホっと咳でもすれば出てくるかな。)
試みてみたのだが、微動だにしない。
それは喉につまったままぴくりとも動かないのだ。
(ははは、こりゃまずいなあ。)
首の後ろや胸をたたいてみたものの、まったく効果なし。
だんだん不安になってきた。
(これでこのまま息ができなかったら窒息しちゃうなあ。)
そうこう考えているうちに、だんだん苦しくなってきた。
耳鳴りもしているようだ。
(う。危険だ。誰かいないかな。)
立ち上がって周りを見ても、まだ9時前である。誰も出社していない。

さっきまで微かだった耳鳴りの音は、気がつくとキィーンという甲高い音となり、私の脳内で非常警報を鳴らしていた。
(危険だ。このままでは死ぬ。さあどうする。)
ここで取り乱してはいけない。落ち着いて冷静に対処法を考えるのだ。

(たぶん、がんばればあと2分は動けるだろう。その2分のうちに、生き延びる術を考えるのだ。今オレがしなくてはいけないことは、今オレの喉を塞いでいる異物を取り除くことだ。それには方法はふたつある。出すか、飲み込むかだ。出せるのか? でも出すための適切な方法が思い浮かばない。これから考えるのも時間的に厳しいだろう。では、飲み込もう。飲み込むにはどうするべきか。水をのもう。)

妙に落ち着いている自分が意外だった。すでに顔も手も冷たい。
(さて、水はどこにある? 給湯室の流しの蛇口をひねると出てくる。さあ行くぞ、給湯室へ。)
真剣な面持ちな私は急がず慌てず給湯室へ向かった。歩いて8歩くらい。
そのへんに置いてあったコップに水をくむ。落ち着いてそれをくちに含み、
飲む。
飲む。
飲む。
3口ほど飲んだところで異物は動きだし、4口めの水とともに胃に落ちていった。

「ハアーッ」
呼吸ができた。気がつくと体中汗だらけだった。
喉の奥からみぞおちにかけてのラインが熱い。
まだ、耳の奥では耳鳴りが聞こえていた。

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椅子に座った。遠くの車の音以外は、自分の呼吸する音しか聞こえない。以前、私の運転するバイクに車が突っ込んできてはねられたとき、空中から地面に落ちるまでの間が妙に長かったと記憶しているが、そんなことを思い出していた。一歩間違えば死んでいたかもしれない。いや、死んでいただろう。

もし、そうなっていたら、机の前に倒れていた私を最初に見つけてくれるのは誰だろう。
死因がこんにゃくゼリーを喉につまらせたためと診断されたら、みんな齋藤らしいといって笑うだろうか。
直接の死因となったこんにゃくゼリーをくれた掃除のおばちゃんは、責任感じてショックで寝込んでしまうだろうか。それとも、まったく気にせず明日も元気にお掃除を続けただろうか。

などと、結論の出ないようなことを30分くらい考えていた。10時過ぎ、出社してきた同僚のマサヤ君をはじめ、周りのみんなにこのことを話したのだが、死に直面した男の話ととらえてくれた者は皆無で、誰もが皆私の話をギャグだと思った。真顔で語れば語る程、笑いがとれたのも皮肉というかなんというか。

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家に帰っても同じだった。

母に、今朝私の身におこった死に直面した話を語り聞かせたのだが、「慌ててたべるからよ、ばかね。」のひと言で一蹴されてしまったのだ。父ははなから私の話に興味を示さない。

そんなものなのだ。オレなり誰かなりが死んで、初めて人は事の重大さを実感するのだ。いつだってそうだ。なんだってそうだ。その時はすでに手遅れだというのに。

そんなことを考えながら布団に入った私は、天井の木目の流れを目で追っているうちに、いつのまにか眠ってしまった。そして喉元過ぎれば、とはよく言ったもので、その3日後にはもう、生死の淵を彷徨ったことなどきれいさっぱり忘れていたのだった。

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数年後。
ニュースや新聞を見ると、『こんにゃくゼリーで窒息死』の見出しが。ああ、やはりこうなってしまったか。

母は「ちょっとあんた、新聞読んだ? こんにゃくゼリー食べるときは気をつけなさいよ。なんでも、喉に詰まらせて死んじゃった人が出たらしいのよ」なんて言ってる。その第1号にあんたの息子がなっちまうところだったんですぜ。忘れてるとは思いますが。と思ったものの、その本人も忘れていた訳だ。

危険と思ったことは何事もきちんと、しかるべき機関に報告するべきだと思う。しかし、そういう役所だか消費者センターだかいうところって、敷居が高いっていうか、これくらいで電話かけてくるなんて大袈裟な人だ、なんて思われたら嫌だなあ、とか思っちゃうんだよね。そうこうしているうちに、やっぱり忘れちゃうんだ。いけないなあ。

最近もこんにゃくゼリーの規制をするとか、販売中止をするだとかでもめてるようだ。身をもって苦しみを体験した私としては、確かに何らかの策は必要だと思う。

しかし、餅や他の穀類等をのどに詰まらせて死亡するケースの方がこんにゃくよりはるかに多いというのも事実らしい。なのでこんにゃくゼリーばかり規制するのはおかしいという声もある。

それもわからなくはないが……いずれにせよ、特にお年寄りや子供に対しては、極力注意して食べさせるように心がけるべきでしょう。また、大人の方でも、きちんと噛む癖をつける等、それなりに気をつけるようにしてください。

経験者は語る、です。
以上、事実を淡々と書きました。では皆さん、また2週間後。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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