映画と夜と音楽と…[395]日常生活の貴重さが身に沁みる
── 十河 進 ──

投稿:  著者:


●昭和23年の日本映画ベストワンは黒澤明「酔いどれ天使」

酔いどれ天使<普及版僕の父は、あまり裕福ではない農家の次男坊に生まれ、15歳で満蒙開拓団として旧満州に渡った。口減らしの方策としては、一番手っ取り早かったらしい。終戦の時には徴兵されていたのか、上海にいたと聞いた記憶はあるが、父はほとんど昔のことは話さない。

母は父の里よりさらに山奥の生まれで、貧しい小作人の家だった。尋常小学校まで三里の山道を毎日通ったと、子供の頃にずいぶん聞かされた。首吊りのあった木の下を通るのが怖かったそうだ。母親(僕にとっては祖母)が病弱で、ふたりの妹の面倒を幼い頃からみさせられたという。その母親が死んだのは、小学生の頃らしい。

その後、女工哀史ではないが紡績工場のようなところで働いたり、どこかの問屋に勤めたりしたと聞いた記憶がある。13、14で働きに出たのだから、父親と結婚するまで10年ほどある。しかし、その間、どういう人生を送っていたのかは、あまりよくわからない。勤労奉仕のようなことも、やっていたのだろうか。


ふたりの結婚の事情もよくわかっていない。尋常小学校は同じところだったらしいので、育ったのは今の感覚ではそう遠くないところである。ただし、知り合いだったかどうかはわからない。父母が、昔、小学校の話を共通の知識のように話していたので、そう想像しているだけだ。

何となく子供の頃から耳にした情報を元に組み立てると、大陸から引き上げてきた父親は誰かの紹介で母と見合いをして、結婚式も挙げず一緒に暮らすことになったらしい。間口一間の土間で何かの店をやりながら、自分は職人仕事に出る。その店の奥の三畳か四畳半で新婚生活をスタートさせ、一年後に兄が生まれた。

実は最近知ったのだが、父は兄が生まれる直前まで籍を入れていなかった。兄は昭和24年9月生まれだが、その一ヶ月ほど前に慌てて母を入籍したと聞いた。暮らし始めたのは、その一年前。昭和23年の春の頃なのだろう。僕は、兄が生まれた二年後、昭和26年の秋にこの世に誕生した。

僕の記憶が始まるのは、せいぜい昭和30年になってからである。その頃になると、父は職人として一家を構えていたし、何間かある自前の家を持っていた。数年前、父は80前にして何軒めかの家を建てたが、「わしは生涯に六軒の家を建てた」と自慢していた。アパートや貸家を含めての話だと思う。

今年の夏前、父母の結婚60周年を兄と祝うために帰省した。兄は来年に60になるから、その記念日は入籍の日ではなく、実際に結婚生活を始めた日だと思うけれど、昭和23年から60年が過ぎたのだと実感した。昭和23年は1948年。確かに60年という月日が過ぎ去ったのだ。

昭和23年は、1月に帝国銀行椎名町支店の12人を毒殺した事件(帝銀事件)が起こり、2月には農地改革が実施され、5月には10歳の美空ひばりがデビューしている。日本映画のベストワンは、黒澤明の「酔いどれ天使」だった。闇市が賑わっていた頃である。

●状況劇場出身の小林薫相手に堂々の演技を見せる本上まなみ

紙屋悦子の青春黒木和雄監督の遺作になった「紙屋悦子の青春」(2006年)を見ながら、僕が思い浮かべていたのは、父と母の青春だった。その映画の登場人物たちと同じ頃、僕の父と母は青春時代を過ごしていたのだと思うと、何でもないシーンに目頭が熱くなった。

「紙屋悦子の青春」は、実に静かな映画だ。お喋りな人間であるからか、僕は寡黙な映画に好意を感じる傾向がある。最近のハリウッド映画は、そのうるささに辟易することが多い。「紙屋悦子の青春」も反戦映画だけれど、なぜか反戦をテーマにした作品は、声高に戦争の悲劇を語りがちである。

しかし、「紙屋悦子の青春」は、ある時期の鹿児島の田舎の家を舞台に物語が進行し、日常が丁寧に静かに描写される作品である。家族が食事をする。知人が訪ねてくる。夫と妻が、つまらないことで諍いをする。それを年頃の妹が仲裁する。庭の桜の大木が美しい。

人の日常は、60年前も今も大して変わらないのではないか。そんなことを、僕は思った。もちろん、人の考え方や社会的規範はずいぶん違っているかもしれない。特に男女関係や性的なモラルは、ずいぶん変化しているだろうと思う。しかし、人の情は何も変わらない。大切な人を想う気持ちは、いつだって同じだ。近松の心中ものが、今も涙を誘うのと同じである。

勤めにいっている年頃の妹(原田知世)の帰りが遅いと、一家の主人(小林薫)が心配して窓の外を眺めている。その妻(本上まなみ)が、「どうしたんでしょうね」と声をかける。そんな光景は、今も日常茶飯事だろう。今日も、どこかで同じ言葉を無数の誰かが発している。

「先に食事を」と妻に言われて食卓についた夫は、芋の煮物を食べて「ちょっと酸っぱくないか」と言う。「食べられない訳じゃないが…」と言い訳がましくつぶやく。妻が「二日前のだから大丈夫」と答える。「実は、悦子に縁談がある」と、夫が言う。

そのシーンは、本上まなみと小林薫のふたり芝居だが、実にいい。面白い。笑いながら切なくなる。この日常を壊すのは何だ、という怒りが湧いてくる。元は舞台劇だと聞いたが、黒木監督はカットを割らず、10分を超える長まわしで演劇のように撮っている。

それに応えて、本上まなみが見事だ。状況劇場の看板役者を張った小林薫を相手に、堂々の演技を見せている。背筋を反らせた姿勢が凛々しく、まとめ髪によって長い首筋が晒され、その美しさに見惚れる。元々、僕は本上まなみが好きだったけど、この映画で惚れ直した。間違いなく、彼女の代表作である。

本上まなみが演じた兄嫁は悦子の幼なじみで親友であり、女学校のときに一度だけクラスが別々になり「毎日、泣いて暮らした」という仲である。彼女は「悦っちゃんと一緒にいたいから、そのお兄さんと結婚した」と言い、その言葉に傷ついた小林薫の拗ね方が笑わせる。

しばらくして、悦子が帰ってくる。兄がなかなか縁談の話を切り出せない。その縁談は、紙屋家へ入り浸っている明石が親友の永与を紹介したいという話なのだが、兄嫁は悦子が明石にほのかな想いを寄せているのに気付いている。ということは、明石が別の男を紹介したこと自体が悦子を傷つけるかもしれない。

ここまでの話は、実に他愛のない日常の出来事だ。しかし、これが昭和20年3月30日から4月12日までの、ほぼ二週間という設定によって、切なく悲しい物語となるのである。つまり、戦争という背景が、人々の日常をまったく違うものにしてしまうことを、この映画は具体的に描き出す。見る者に突きつける。自らの日常を振り返らせる。

●「赤飯とらっきょうを食べれば空襲で死なない」という迷信にすがる

紙屋家には、兄の後輩である航空隊将校の明石(松岡俊介)が仲間を連れて出入りしていた。ある日、一度だけ訪れた整備担当の永与(永瀬正敏)が悦子を見初める。その想いを親友の明石に打ち明けたのだろう。明石は、永与と悦子の見合いを設定する。明石は、いずれ自分が特攻に志願し死んでいく身であることを自覚し、自分には悦子に結婚を申し込む資格がないと思っている。

見合いの日、明石と永与は誰もいない紙屋家に勝手にあがり、ふたりで会話する。明石は内気で朴訥で不器用な永与に見合いの手順や質問の仕方などを教える。「趣味など訊くといいぜ」と明石が言う。「悦子さんは女学校を出ている。たぶん趣味は読書か映画…。ヘッセだよ、ヘッセ」というやりとりが笑いを誘う。青年たちの純情さが微笑ましい。

悦子が見合いのために用意したおはぎを、明石が見付ける。「甘いものは食べん」とつぶやく明石に永与が「だったら食べるなよ」と言い、そう言われた明石は「いや、食べんわけじゃない」と曖昧な答え方をし、「悦子さんが作ったものなら何でもうまい」と口を滑らせる。その瞬間、永与は「やっぱり」という顔をする。永与は、明石が悦子を好きなことを知っているのだ。

やがて、悦子が帰ってくる。悦子の兄が急な徴用で熊本の工場に派遣になり、悦子のすすめで兄嫁も数日一緒にいくことになり、見合いの日、紙屋家は悦子ひとりになったのだ。そこから若者たち三人の微笑ましくもトンチンカンな会話が描かれる。ユーモアと切なさが交錯し、人が人を想う「情」が日常の場面から浮かび上がる。

だが、世間話のように話している内容に、戦争の影がさす。悦子は両親がいないことを言い、「それでも、よかですか」と永与に問いかける。両親は、ひと月ほど前に揃って東京にいき、3月10日の大空襲に遭遇したのだ。兄嫁との会話にも出てくるのだが、空襲はすでに彼らの日常になっている。熊本の軍需工場にいく夫に兄嫁は「身体に気をつけて」と言うように「空襲に気をつけて」と口にする。

いつ人が死ぬかわからない。死が日常になっている世界。それが、あの頃だったのだ。そんな日々が身に迫って感じられる。見合いの数日後、明石が挨拶にやってくる。「明日か」と兄がつぶやき、それだけで悦子も理解する。玄関で明石を見送り、「悦っちゃん、追いかけなくていいの」という兄嫁に背を向け、家に入った悦子は廊下で泣き崩れる。号泣する。

そうか、戦争も日常なのだ。日常になってしまうのだ。「紙屋悦子の青春」は、改めて僕にそんな感慨をもたらせた。「赤飯とらっきょうを食べれば、空襲があっても死なない」という明らかな迷信にすがり、空襲の目標にされる軍需工場に赴く夫に赤飯とらっきょうを出す兄嫁の想いが、その情が僕の胸を打つ。空襲さえ日常にして暮らさなければならない日々…。

兄嫁は、「日本が負けてもいいのか」と声を荒げた夫に「負けてもいいです」と下を向く。彼女は、戦争の影が及ばない日常を望んでいるだけだ。ある日、知人の若者がやってきて「明日、死ににいきます」と言うことなどあり得ない世界、「空襲に気をつけて」と夫を送り出さなくてよい日々、ただ、それだけを望んでいる。

しかし、そんな時代を、僕の父母も送ったのだ。昭和20年3月31日は紙屋悦子の見合いの日だったのだが、その日は僕の父の20歳の誕生日でもあった。終戦の四カ月前、父は、その頃、中国大陸のどこにいたのだろう。ほとんど昔話をしない父だが、「終戦のときに上海にいたので帰ってこられた。満州の奥地だったら…」と、つぶやいたことがある。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
20年以上、身に付けていたイスタンブール土産のガラス製の目玉のお守りを割ってしまった。携帯電話につけていたのだが、それを落としたらお守りが割れ、代わりに具合の悪かった携帯電話がなおった。以来、10日ほど経つが、携帯電話はまったく問題ない。なんだかなあ?

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>

photo
映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365 (朝日文庫) どこかで誰かが見ていてくれる―日本一の斬られ役 福本清三 (集英社文庫) アメリカ映画風雲録 変な学術研究 2 (ハヤカワ文庫 NF 329)

by G-Tools , 2008/10/31