映画と夜と音楽と…[397]車掌さんを乗せたバスが走った頃
── 十河 進 ──

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●路線バスから車掌さんが消えたのはいつだろうか

僕の育った四国高松には、コトデンバスが市内を縦横に走っていた。琴平電鉄が母体のバス会社である。琴平電鉄は金比羅さんのある琴平駅までの路線が始まりだったのだろう。観光地への客を運ぶ電車だった。琴平には金丸座という芝居小屋もあれば、遊所もある。江戸時代の末期、金比羅さんへは森の石松だってお参りしたのである。

渡り鳥故郷へ帰る琴平電鉄は、その後、香川県内にいくつかの路線を敷き、主要な交通機関として利用された。市内の公共交通はコトデンバスが担った。小林旭主演「渡り鳥故郷へ帰る」(1962年)は高松が舞台だが、旧国道11号線、通称観光通りを走るコトデンバスが写っている。昭和37年の光景だ。

「田舎のバスはオンボロぐるま」という歌のフレーズが、半世紀近くたっても僕の記憶に刻まれている。歌ったのは誰か調べてみたら、NHKの大河ドラマ「篤姫」で皇女和宮のお付き庭田をやっていた中村メイコだった。作詞作曲は三木鶏郎だというのも初めて知った。あの歌を思い出すと、僕はボンネットバスを思い浮かべる。



その頃、路線バスには、まだ車掌さんが乗っていた。いや、そろそろ運転手ひとりで走るワンマンバスが入り始め、混在していた頃かもしれない。僕が小学生の低学年の頃にはどの路線バスにも車掌さんがいて、腰に大きながま口のようなバッグを付け、そこから切符や釣り銭を取り出していた。

車掌さんは、主に女性の仕事だった。踏切があると降りて左右を確認し、踏切の向こうから安全確認の笛を吹いた。バスがバックするときも、降りて安全だというサインのために笛を吹いて誘導した。ピッピッピッピっというキビキビした誘導の笛の音を、僕は今でも甦らせることができる。

路線バスから車掌さんの姿が消えたのは、昭和30年代の半ばだろうか。少しずつ自家用車が普及し(我が家に中古のブルーバードがきたは小学6年生のときだった。昭和38年のこと)、バスの乗客も減少し始めたためだと思う。バス会社としては、合理化を図ったのだった。

歌謡ヒット・パレード 2 東京のバスガール初代コロンビア・ローズが歌った「東京のバスガール」がヒットしたのは、昭和32年(1957年)のはずだ。「ビルの街から山の手へ〜」と歌われるように、これは路線バスの車掌さんを主人公にしている。「発車オーライ」というフレーズが懐かしい。

未見だが、「東京のバスガール」は日活で映画化されている。昭和33年の夏に公開された。美多川光子という人がバスガール役らしいけれど、僕はまったく知らない。出演者でわかるのは、柳沢真一、西村晃くらい。西村晃は後に水戸黄門になったし、柳沢真一は最近、頻繁にテレビCMに出ている。

「東京のバスガール」という歌を僕はすっかり忘れていたのだが、数年前、テレビドラマの中で流れたのを聴いた途端、当時の記憶も含めて様々なことが、まさに走馬燈のように脳裏をよぎった。まるで、プルーストの「失われた時をもとめて」の語り手が、紅茶とマドレーヌの香りによって一瞬で記憶を甦らせたかのようだった。

●角筈バス停の前で何時間も待ち続ける少年の姿

「東京のバスガール」が流れたのは、「角筈にて」という西田敏行主演のテレビドラマだった。「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)の映画化で浅田次郎さんが一般的に知られるようになった後、同じ短編集に入っている「角筈にて」をテレビ局が単発の特別ドラマとして制作したのである。

正直言うと、映画版「鉄道員(ぽっぽや)」もその原作も僕に何の感動ももたらさなかったが、「角筈にて」では完全に「泣かせの浅田次郎」の術中にはまった。ドラマ「角筈にて」を涙を流しながら見た僕は、「今さらだなあ」と思いつつ直木賞受賞で有名になった短編集を買いにいった。

鉄道員(ぽっぽや)/ラブ・レター (講談社文庫)短編集「鉄道員」は、直木賞をとる前に「第16回日本冒険小説大賞特別賞」を獲得している(ということは、僕の先輩か?)。この短編集に収められた小説は映像化されているものが多く、「ラブ・レター」は森崎東監督によって映画化(1998年)されている。

「角筈にて」は、今はもうなくなった新宿の角筈というバス停を巡る物語である。「角筈」という失われた町名への郷愁が主調低音のように響いていて、それだけで涙腺を刺激するところがある。僕は浅田次郎さんとは同い年、彼が描く昔の話は世代的にグッとくることが多いのだ。

主人公は中年のエリート商社員である。リオの支店長として赴任することが決まっているが、それは間違いなく左遷だ。東大出のエリートの挫折を「ざまーみろ」と思う人間も組織の中にはいる。組織的には終わったと自覚する主人公は、ひたすら前を向いて走ってきた己の人生を振り返る。

彼の人生の最初の光景は、角筈バス停の前で何時間も待ち続ける少年の姿である。彼は「帰ってくる」と言った父を待ち続ける。何台も何台もバスがやってきて、車掌さんがやさしく「坊や、乗らないの?」と訊いてくれる。しかし、少年は黙って頭を振り続ける。蝋石で地面に絵を描きながら…。

──バス停のまわりにゼロ戦と戦艦大和の壮大な艦隊が出現しても、父は帰ってこなかった。

時代設定は立教大学の長嶋がプロに入る前年、昭和32年の夏だ。主人公は、その夏、8歳で父親に棄てられる。淀橋の親戚に引き取られ、父に再会したときに誉められたいという思いで勉強し東大に入る。父がなりたがっていたサラリーマンになる。それもエリート・サラリーマンだ。

兄妹同様に育った親戚のやさしい娘と結婚し幸せな家庭を築くが、子供ができたと聞いたとき、彼は自分が「子供を棄てた父親の息子」であることを自覚する。父親になるのが怖くなり、もう大きくなったお腹を抱える妻に堕胎を強要する。以来、妻は子供が産めなくなる。

原作では「小太り」と書かれている主人公を、小太りどころではない西田敏行が演じた。幼なじみの妻は竹下景子。そして、息子を棄てる悲しい父親を、柄本明が演じた。物語の泣かせどころは、最後に主人公が父親(もちろん現実の父親ではない)と会話するところだ。

しかし、ドラマでも原作でも僕はそこでは泣かなかった。父親を待って蝋石でバス停のまわりに絵を描き続ける少年の姿に切なさが込み上げ、やさしい声で「ぼく、最終よ。いいの?」と訊く車掌さんの姿を見ていたら、不意に涙が流れ出し止まらなくなった。

●成瀬監督作品「稲妻」は都内観光バスの車中から始まる

稲妻数カ月前になるが、成瀬巳喜男監督の「稲妻」(1952年)がNHK衛星で放映された。高峰秀子主演の名作だ。成瀬作品に出たときの高峰秀子は、どうしてあんなにいいのだろう。「浮雲」(1955年)「流れる」(1956年)「あらくれ」(1957年)「女が階段を上る時」(1960年)「女の座」(1962年)「乱れる」(1964年)など、どれをとっても素晴らしい。

成瀬監督と高峰秀子がコンビを組んだ第一作は「秀子の車掌さん」(1941年)である。原作は井伏鱒二。高峰秀子は、今でいうアイドル女優だった。ここで田舎のバス会社の車掌さんを演じた高峰秀子は、11年後の「稲妻」で再び車掌さんを演じている。「稲妻」は、高峰秀子がガイドをしている都内観光バスの車中シーンから始まるのだ。

彼女が演じているバスガイドは、「はとバス」の車掌さんを想定しているのだろう。ちょうど銀座の交差点で停車したとき、彼女は道端の男女に目をとめる。それは義理の兄と見知らぬ女だった。その義兄がぽっくり死んでしまい、一緒にいた女が子供を背負い、姉の家にやってくる。

物語は林芙美子原作らしく男女のややこしい関係を描いているのだが、登場人物たちの中で高峰秀子は自立する若い女性を演じている。その職業が観光バスのバスガイドなのだ。昭和20年代半ば、それはきっと花形職業だったのではないか、と僕は映画を見ながら想像した。

女性の働ける職場が限られていた時代だ。バスガイドは、女性たちの憧れる職業でもあったのではないか。10年後には路線バスから車掌さんたちは姿を消したけれど、バスガイドという職種は残っているし、遠足や修学旅行やバスでの観光旅行がある限りなくなることはない。東京には有名な「はとバス」もある。

「はとバス」には一度だけ乗ったことがある。1972年のことだ。その春、浅間山荘事件が起こり、後に連合赤軍の総括リンチ事件が判明した。12名の死体が妙義山や榛名山から掘り起こされた。警察は、凍った地面を掘るのに苦労したが、冷たい土の下には妊娠した女性の死体さえあったのだ。

そのニュースを知ったときの何とも言いようのない気持ちを、僕は今でも憶えている。それは絶望でもあり、厭世であったかもしれない。人間という生き物に対する不気味さ、おぞましさ、怖ろしさもあっただろう。自分と同じ年頃の人間たちが、そんなことをやったことに対する不可解さが一番強かったかもしれない。

しかし、僕の両親はそのニュースを知って息子を心配した。高校紛争を起こした張本人と友人だった僕は、その後、学校にずいぶん楯突いたことがある。担任教師が自宅にきたこともあった。父と母は、そんな息子が遠い東京の空の下で学生運動とやらにのめり込んでいるのではないか、と心配したのだ。彼らは五月の連休を利用して、息子の様子を見るために上京した。

その頃、僕は両親の心配をよそに軟弱な生活を送っていた。自分の下宿にはほとんど帰らず、今のカミサンの部屋に居続けた。恥ずかしながら流行りの「神田川」である。数日ぶりに帰ると、大家さんの電話メモが部屋の三和土に落ちていた。「明朝、東京駅着」とあった。両親は、夜行列車で上京してくるのだった。

東京駅に着くと、ほとんど同時に列車がホームに入ってきた。しばらくすると両親が列車を降りてきた。僕は、両親に東京見物をさせるつもりで「はとバスに乗ろう」と提案し、両親が同意した。僕らは東京駅南口から出る「はとバス」に乗り込んだ。

最初にいったのは皇居前広場だった。父親がカメラを取り出した。「はとバス」のバスガイドさんがやってきた。「撮ってさしあげますわ」と彼女はにこやかに笑顔で言った。彼女には、僕が親孝行な息子に見えたのかもしれない。僕は両親をいたわる孝行息子を精一杯演じていた。カメラを構えた彼女は言った。

──やさしい息子さんですね。

「はとバス」のガイドさんにシャッターを押してもらった写真は、その後、写真立てに入れられ実家の居間に飾られた。あれから40年近くが経ったが、今も実家の飾り棚に置かれている。その色褪せた写真の中で、20歳の僕は気取った表情の両親と並んで、途方に暮れたような顔をしている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
先日、57歳になった。やれやれ、と思いつつ、あの村上春樹さんだって59歳なのだと慰める。今日の朝日新聞の書評に取り上げられた本の著者紹介を見ると、僕と同年の人が三人もいた。みんな、がんばっているなあという印象です。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 恋ひとすじに(ユニバーサル・セレクション2008年第11弾)【初DVD化】【初回生産限定】 愛人関係 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初DVD化】【初回生産限定】 映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365 (朝日文庫) どこかで誰かが見ていてくれる―日本一の斬られ役・福本清三

by G-Tools , 2008/11/14