電子浮世絵版画家の東西見聞録[58]人の生きる意味(1)&冬鍋/HAL_

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●Bohemianで考えた「人の生きる意味」

目一杯やるだけの事をやりとげたあとは、ひとつノンビリとしたいものですがそんな余裕はなく、今まで出来なかった事を一つずつ片付けていかなければなりません。まあ、それは生きていく上で当然の事、このデジクリの連載も続けようと思ったら最後までやりとおす。という考え方は、社会的に見るとあまりボヘミアンではないのかもしれません。しかし、そんな頑固な考え方もボヘミアンであるのです。

さて、このBohemianを作り上げるためには様々な考え方を巡らせ、広げそして集約していったのですが、その中で「人が生きる意味」という事を考えるようになり、なんとそこでひとつの答えを得てしまったのです(素晴らしい!!)「人はこの世に生を受け、そして何故生きていくのか」という事は、昔から様々な宗教家や哲学者により考えられてきました。今回の企画中、まるで私自身が1960年代の思春期に戻ったような感覚になった興奮を覚え、その答えを得てしまったのです。

「人は何故生きるのだろうか」と、誰もが思春期に一度は考えた事があると思います。それは、人生の壁に突き当たったり、失恋したり、傷心の時には考えたのではないでしょうか。でも、そういう時には答えは出ないもので、誰かに頼ったり、間違えば変な宗教に入り込んでしまったりしてしまいます。

キリスト教では「神の国の実現を目指して生きるべき」と言われ、仏教では「悟りを得て静かに彼岸に渡る」ようにすすめられます。様々な宗教の基本は、人の生きる意味の答えを求めるためにあり、人生を愛し周囲の人々を愛し、悟りというものを得、神に近づく姿こそが人が生きる事だと教えています。しかし、何故か古来より、宗教を信じる者、信じない者を問わず一部の人々は自然を破壊し、今や人の心まで破壊し尽くそうとしています。



●人に生きる道は「苦」か

宗教自体たいして勉強した訳ではなく、薄い知識の中から読み取るのは無理な事と言われるかもしれませんが、個人的な宗教感を少しだけ話させて下さい。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネの福音書14章6節)これはキリストの言葉である訳ですが、キリスト自体が道だというのは私には理解できませんし、人生をたどるのだとしたら、キリストの終焉は体験したくありません。

また仏陀の教えは、苦・集・滅・道という四つの原理(四諦)を説き、正しい生活を送る事により悟りの境地にたどり着きなさいと教えます。人の支えるように生きる事が大切という事だと思いますが、そういうだけで「正しい道」とは何であるのかを私には見る事は出来ません。これもまた、仏陀の生きる道をたどりなさいと言っているのでしょうか。

三大宗教のもうひとつ、イスラム教を見ても「巡礼」の中でアラーからの許しを求めて我が罪を清めようとしています。この中で共通する事はすべて「人生は苦」であると言っているように感じられます。その「苦」をキリストや釈迦が肩代わりしているのでしょうか。

それぞれの宗教を、別に私が肯定するものでも否定するものでもありません。でも、私は「苦」と共に生きるのは嫌です。出来れば「楽しく」生きていたい。自然界の中で動物たちは子を産み、育て、そして死を迎えます。迷いなど生じないのです。宗教があるから人は迷ってしまう、という事もあるのではないでしょうか。

●想像力を持って生きる

人に限らず動物も植物も、地球上の全ての生命は遺伝子を持ち、それを子孫に伝えていきます。誰にも教えられることなく、子を育て命を繋いでいくのです。また子に伝える事の出来ない種であっても、他の種に大切なものを伝えていきます。例えば、植物は動物たちの命となり、動物たちは死を迎えて植物たちの糧となります。動物も植物も自然の摂理に任せ生きていきます。

しかし、人間は生存の知恵のみを考える以外の、大きな頭脳を持ってしまっています。人はただ生きるのみの存在ではないと考えてしまう頭脳を持ち、その頭脳を使った考えを蓄積し正しい方向、そして間違った方向を判断すべく、言葉を使った伝達方法を持ってしまったのです。それは良い事でもあり、また難しい問題を抱えてしまった存在でもあります。ただ、種の保存のために生きる事が出来なくなってしまったのです。そのことのみを深く考えてしまえば、罪深き存在であるのでしょう。

今、日本の社会には過去には考えられなかったような様々な犯罪が起きています。日本だけではなく、世界の各地にも、人の手による大きな事件が様々に形を変えながら勃発しています。これらはみな罪を犯す人間、戦争をもたらす人間の「想像力」のなさに起因していると考えられます。力強い「想像力」があれば、罪を犯すなどという事に考えは及ぶ訳がありません。個人の持つ一つの怒りに対して起こす行動の、その行方を考える力「想像力」があれば、その時の感情にまかせたつまらない行動は起こせなくなります。

そして「想像力」の源となるものは知識です。蓄積された知識の質と量が想像力を生み出します。知識のない者には「想像力」を生み出す力はないのです。ゼロからは何も生まれてくる事はありません。何らかの種がありその種が芽吹き、そして葉を付け枝を伸ばし花を咲かせるのです。植物は自然の摂理に任せ、動物は自然の中に生き伝える側と伝えられる側が、お互いの存在を意識する事もなく生存の源となる知恵は伝わっていきます。

知識は突然身につくものではなく、生まれ育ってきた環境の中で培われるものです。幼い頃は親に学び、成長する過程の中で勉学という形で様々な人と触れ合い、経験を積み身についてきます。それは机上の学問だけではないのです。次号へつづく

●さっぱり塩味中華スープ鍋

あっという間に12月、これを書いている今日の横浜は低く垂れ込めた雲が冷たい風を運び、肩から背中を冷やしていきます。そんな寒さの夕餉には鍋料理が一番ですね。今回の鍋は中華風白地立ての塩味スープ鍋です。私は個人的にポン酢があまり好みではありません。鍋のだし汁自体に味が付いているものが好きなのです。今回のだし汁も味付けをしっかり行って、中に入れる具材は冷蔵庫の余り物で十分頂けるようにしました。

だし汁には、白すりごま、塩、中華スープの練り状タイプの味王(ウエイユー)とおろしニンニク、しょうが、長ネギのみじん切りに、ごま油少々入れ、お湯で溶き土鍋などにいれて温めます。クツクツと沸いてきたところで、今回は白菜、豚の切り落とし、豆腐、えのき、パプリカなどを入れてみました。丁寧に作るには鶏ガラなどをゆっくり炊いてだし汁をとると、さらに旨味がアップします。コラーゲンもたっぷりになり、女性には食指の動く美肌鍋になりますね。

二品目は、鍋の箸休めとしてレンコンのサラダです。レンコンはオリーブオイルを引いたフライパンでこんがりと焼き、塩、胡椒でかるく味付けします。盛り皿にはクレソンを山にして、焼いたレンコンを盛り上げます。ドレッシングは市販の中華風サラダドレッシングをかけても良し、手製の中華ドレッシングならもっと美味しく召し上がれるでしょう。

ついでにもう一品、口直しは白菜のゆず風味。白菜は細切りにして、千切りのユズ皮をくわえ軽く塩でもみます。味付けは塩ベースですが、酢を隠し味程度に加えると爽やかさが引き立ちます。