[2554] 賢兄愚弟の日々だった

投稿:  著者:  読了時間:25分(本文:約12,100文字)


<クリエイターはミーム担当>

■映画と夜と音楽と…[401]
 賢兄愚弟の日々だった
 十河 進

■うちゅうじん通信[36]
 うちゅう人の「絶望のススメ…罪について」
 高橋里季


■映画と夜と音楽と…[401]
賢兄愚弟の日々だった

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20081212140200.html >
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●外資系の有名企業に入った兄は母の自慢の息子だった

先日、大阪に住む兄からメールが届いた。来年の秋で還暦を迎える兄は、早期退職プログラムに応募して今年いっぱいで辞めるという。できたばかりの高等工業専門学校の電機科を出た兄は、当時、引く手あまたで富士通とIBMに内定したが、外資系のIBMに決めた。以来、39年、勤め人として過ごした。長い年月である。いろいろあったことだろう。

兄が20歳で社会人になり、最初に配属になったのは京都だった。大阪に出ることも多かったので茨木のアパートに住み、京阪電車で通勤を始めた。同じ年の4月に僕も予備校通いのために東京に出たから、4人家族が一気にふたり暮らしになり、母は「灯が消えたようだ」と嘆いた。

外資系の有名な企業に入った兄は母の自慢の息子で、親戚中の注目の的だった。兄は母に愛された息子だった。兄が何かをねだれば、母は無理をしてまで買った。今でも覚えているのはTBSブリタニカ数10巻を購入したことだ。訪問販売のセールスマンの説明を聞き高校生の兄が「欲しい」と言ったため、両親は躊躇せずに高価な百科事典のセットを買った。

英語版百科事典が数10巻、日本語版の解説が10数巻、その他にもいろいろ付いていたし、専用のガラス戸付き4段の書棚がセットになっていた。かなり高価な買い物だったと思う。「そんなもん買っても読まんで」と中学生の僕は反対したが、「お兄ちゃんが読むからええんや」と母は僕をにらんだ。「あんたのために買うのやない」と母の目は語っていた。

両親は小学校しか出ていない無学な人間で、僕は彼らが本を読んでいるのを見たことがない。彼らにとって教科書以外は、すべて悪書だった。我が家にはまったく本はなく、もちろん本棚もなかった。小学生の頃から図書館で借りた本ばかり読んでいた僕は、「本ばっかり読まんと、勉強せえ」とよく叱られた。そう言われると反発するもので、中学生になってからは小遣いで本を買い漁った。当時から古書店に入り浸った。

兄がねだったTBSブリタニカは、結局、誰も頁を開かぬまま居間の装飾品となった。それでも母は兄をかばった。確かに兄は優等生であり、両親の言うことをよく聞く息子だった。母に叱られてばかりいた僕とは違って、兄が叱られているところを見たことはない。賢兄愚弟…、そんな難しい言葉を僕が子供の頃から覚えたのは、母にそう言われたからだった。

両親から見ると、賢い兄に比べて僕は愚かな弟だった。小学生のとき、母の真珠の指輪がなくなり、僕が疑われた。僕は泣いて「知らない」と訴えたけれど、母は信用しなかった。おそらく今でも僕が持ち出して失くしたのだと思い込んでいるだろう。間違いなく冤罪なのだが、「あんたの他に誰がおるん」と母は聞く耳を持たなかった。

その事件の後だったか前のことだったか忘れたが、母の財布から金を抜き取ったことはある。僕の記憶では「そんなに疑うのならホントに盗ってやる」という気分だった。しかし、母が僕を疑った理由を公正に考えるなら、もしかしたら前のことだったのだろうか。そんな前科があったから、母は僕を疑ったのかもしれない。

いや、やっぱり違う。そう思いたいだけだ。何の理由もなく、母が僕を犯人だと決め付けたと思いたくないだけだ。僕は何もしていなかったのに、最初から「おまえに決まっとる」と母は言った。だから、僕は腹いせのように母の財布から金を抜いたのだ。あのときの気持ちは今も忘れていない。しかし、結局、それもバレて母は前以上に僕を信用しなくなった。

●『エデンの東』と言うとったけどホンマやったね

「あんたは昔から自分のことを『エデンの東や』言うとったけど、ホンマやったんやね」とカミサンが言ったのは、結婚して数年たったときだった。僕と実家に帰り、母と話をしているときに実感したのだという。確かに母の言葉の端々に、そんなことを感じることがある。僕の僻みもあったのだろうが、ずっと僕は両親が兄を愛していることを思い知らされてきた。

だから、中学生の頃にリバイバル上映で見た「エデンの東」(1955年)が身に沁みた。冒頭、貨物列車の屋根の上で膝を抱えてセーターに顔を埋めるジェームス・ディーンに自分を重ねた。幼い自己陶酔であり自己憐憫だが、あのさみしそうなジェームス・ディーンの姿がよく甦る。走る列車、身を切る風が冷たい。それが自分に向けられた試練のように思えた。

僕は無理をして上下2巻の原作本も買った。当時、僕は「二十日鼠と人間」を読んで以来、ジョン・スタインベックを愛読していたが、代表作の「怒りの葡萄」は何度挑戦しても挫折した。しかし、それ以上の長さを持つ「エデンの東」はスラスラと読めたし、心の奥底まで染み込んだ。一度読んだだけだが、今でも物語はもちろん、細部までよく憶えている。

映画は原作の後半だけを使っている。確かにその方がよかったと思う。親子二代にわたる物語をそのまま映画化したら、ストーリーを説明するだけで終わってしまっただろう。最初の世代であるイノセントそのもののようなアダムと兄の物語を経て、アダムの息子のキャルとアロンの話になるが、結局は旧約聖書の「アベルとカイン」の物語が繰り返されるだけである。

アベルとカインという兄弟がいて、神に貢ぎ物をする。愛するアベルの貢ぎ物を神は喜ぶが、カインの貢ぎ物を神は拒否する。なぜ、神がアベルを愛しカインを疎んだか、それはわからない。だが、貢ぎ物を拒否されたカインは嫉妬からか、アベルを殺す。だから「カインの末裔」である我々は、兄殺しという原罪を背負った存在なのである。

子どもたちにとって、神とは親のことである。親に愛されない子供は悲しい。兄弟がいて兄だけが愛されていると感じるとき、弟の心根を僕は思う。「エデンの東」は、まさに双子の兄だけが父親に愛されていると感じている弟の物語なのである。純粋無垢な兄のアロンと違って、弟キャルは邪悪なものを抱え込んではいるが、父親に愛されることを願っている青年なのだ。

キャルは破産寸前の父親を救うために大金を稼ぎ、父親の誕生日プレゼントにする。しかし、穀物相場の変動に便乗して稼いだ汚れた金などほしくない、と父親は札束を投げ返す。一方、アロンは恋人と婚約したことをプレゼントにし、父親から「こんなうれしいプレゼントはない」と祝福される。そのときのキャルの表情が悲しい。なぜ、僕は愛されないのか、と彼は思う。

もう昔のこと、もう決着のついたことだと思っていたが、ここまで書いてきて「エデンの東」を見たときの共感がまざまざと甦ってしまった。キャルの悲しみが伝わってきたあのとき、僕は映画館の暗闇の中で静かに涙を流していた。母に信じてもらえなかったこと、母に拒否されたこと、様々な記憶が甦り、15の僕は頬を濡らしていた。

●去っていくスーツ姿の兄の背中が頼もしく見えた

2歳違いの兄弟というのは、難しいものだ。小学生の頃は、よくケンカをした。僕が中学に入ったとき、兄は3年生。しかし、僕は別の中学に入ったので「ソゴーの弟か」という視線を向けられることはなく、それは助かった。だが、そのため共通の話題もなく、中学高校と兄とはほとんど口を利いていない。

文系の僕と違って、兄は完全に理系の人間だった。僕は「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」を買っていたが、兄は「SFマガジン」を定期購読していた。そのおかげで僕は筒井康隆のデビュー作も読めたし、小松左京の「果てしなき流れの果てに」や光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を連載で読めた。筒井康隆の「馬の首風雲録」は次の号が待ち遠しかったものだ。

しかし、兄が難関だと言われた高専の電気科にいってくれたおかげで、僕は私立大学のフランス文学科などという与太な学校にいかせてもらった。成績優秀な兄だったから、どこかの国立大学の理工学部くらいは簡単に入れただろう。だが、大学をすべって東京で浪人したいという僕のワガママは、兄が5年制の高専を出て就職してくれたおかげで実現できたのだ。

家を出て上京し板橋のボロアパートに慣れた頃、兄から電話がかかってきた。「研修で東京にいく」と言う。それを聞いて僕は落ち着かなくなった。6年近く、ほとんど会話をしていないのだ。何を話したらいい? しかし、そんな気持ちは、数カ月ぶりに会った兄の前で雲散霧消した。

懐かしかった。18年、一緒に暮らした兄弟である。高校時代の数人の友人たちしか知り合いのいない東京で暮らしていた僕は、兄を見てしばらく立ちすくんだ。何とも形容のしようのない気持ちだった。肉親の情のようなものを、初めて実感した。兄は「ろくなもん喰ってないだろ。何でも喰わしてやるぞ。喰いたいものを言ってみろ」とスーツ姿で笑った。

その夜、新宿のスキヤキ屋で僕はたらふく肉を食べた。「いくらでも食べろ」と、兄は慣れた手つきで鍋に肉や野菜を足していく。見違えた。すっかり大人の男だった。「どんな研修するん?」と訊いた僕に何だかややこしい話をしてくれたが、僕にはチンプンカンプンだった。当時、コンピュータがどういうものか、僕はまったくわからなかった。兄の仕事も理解していなかった。

その夜、新宿駅で別れるとき、兄は財布から一万円札を出し、何も言わずに僕に差し出した。僕は「ありがとう」と言って受け取った。「研修は一ヶ月くらいあるから、また、連絡する」と兄は言った。僕は一万円札を握りしめたまま黙ってうなずいた。仕送りは2万数千円だった。部屋代は7千円である。そんなときの1万円は大金だった。去っていく兄の背中が頼もしく見えた。

それから、年に一度くらいの割合で兄は新しいコンピュータ知識を仕入れるために本社に研修にやってきた。そのたびに連絡があり、食事を奢ってもらい、話をした。実家にいた18年間より、ずっとよく話をした。そして、初めて一緒に映画館に入ったのは、1972年2月のことだった。評判の「ダーティーハリー」である。世間は浅間山荘事件で騒然としていた。

その数カ月後、連合赤軍事件の全貌が明らかになった頃、僕の暮らしぶりを心配して両親が上京してきた。はとバスで東京見物をして僕の下宿に戻り、父が銭湯に出かけて母とふたりきりになった。「私は出てこんでも…と思うたんやけど、お父さんが心配してな。『おまえはススムがかわいないんか』と叱られた」と母が独り言のようにつぶやいた。

あのときの母の言葉は何だったのだろう、と今もよく思い出す。もしかしたら、母の詫びだったのか。しかし、そんなことは、もうどうでもよくなっていた。僕はひとりで東京で暮らし、大学を出たら結婚しようと思っている相手がいたし、不安を抱えながらも自分で生きていく覚悟を決めていた。「うちは賢兄愚弟ですから」と屈託なく人に話せるようになっていた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
久しぶりに近くの「ららぽーと」に出かけた。多くの店が入っている。ジングル・ベルが鳴り響いていた。ウィンドウはクリスマス・デコレーション。不景気とはいえ人出は多い。老いてもいないが若くはない、リタイアはしていないが現役最前線という気分でもない人間にとって、こういう時期は妙に居心地が悪いものです。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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■うちゅうじん通信[36]
うちゅう人の「絶望のススメ…罪について」

高橋里季
< http://bn.dgcr.com/archives/20081212140100.html >
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……女の一滴の涙より重要なことなど、この世にはないと思うの。
  アナタの命は、アナタの命なのだから。……

クリスマスパーティでは、考えるのをお休みして楽しむとして、今日は、少しマジメで重たいことを考えます。「罪」について。私は、コンセプトを考えるのが大好きです。

今の学生さんは、留学ということもあるらしいけれども、欧米に留学して、いったい何を知りたいのかと言えば、実は、「罪」についての感触だったりするんじゃないかなぁ。そのあたりが、日本の若い人にとっては、切実なんだという気がします。経済の根幹にある思想ということがね、若い世代には、切実な問題。

それは、「戦争に行って、人殺しをしてもいいかどうか。」ということと、同じようなことなんだと思います。今の日本の経済(または社会)的な価値の中で、一生懸命働く事が、はたして良い事だと思えるのかどうか。または、消費生活を楽しむことが良い事なのかどうか。どんな結婚をして、どんな家庭を作っていくにしても、今は「私の世代は、それがアタリマエだったから。」なんていうのが理由にならない時代。なので、自分なりの動機や根拠や理由が大切になってきた感じ。

日本では「罪の意識」が曖昧なまま、欧米なみに「個人の責任」ということが言われ始めて、倫理観が今、過渡期。善悪と原罪についてのウィキペディアが面白いので見てみてね。
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=22797092 >

さて、ある時、愕然とする。自分の親が、わりと社会の底辺にいることがわかる時が来る。生活設計とか全然出来ていなくて、子供にとってみたら、「何を考えてオレを産んだのか、うちの親は。」って思う。「何を考えて生きてきたのか、オレの親は。」

最低居住水準を満たせないのがわかっていたのに、どうして弟を作ったんだ?とかね。狭いからって、お父さんは毎晩、外で呑んで、子供が寝た頃に帰ってくるとか、共働きで家事も妻まかせで、もうボロボロなお母さんは子供のことなんて何にも考えられないとかね。
< http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/023/pdf/d13200007_4.pdf#search
='居住水準%202007%20東京' >
(東京都のこういうサイトもあるんだけど、エクセル書類なので、私には読めなかったです。)

すでに、親の世代だって、読み書き算盤も教わらずにオトナになった「気のいい下層階級」なんかではない。それなのに、子供が大学進学っていう時に、家族一人当たり年間250万円の生活費がないっていうのは、どういうつもりだ?とかね。

今だって、縄文時代みたいに「家族が食えなくなったら、役に立たない子供から死んで行くのが自然の掟だ」とか言っちゃう親って、いるかもしれない。幼子、爺婆から平気で殺しちゃうのが自然な訳です。獣みたいに、ワイルドにね。日本だって、つい最近まで、子供は働き手としての意味が大きくて「いっぱい産んでおく」とか、いざとなったら売れるとかいうことがあったらしいじゃない?

戦後のニューファミリーの子供を大切にする家庭像を最初に作ったのは、高島屋の広告戦略で、高島屋がカルチャースクールや子供の為のコンクールなどまで企画してターゲット像の展開をしたことを本で読んだことがあります。

「意味」とは「共有された幻想」だと言えると思います。だから、社会とは違う意味で言葉を使うしかない親というのは、いつの時代にもいます。縄文時代と現代では「死」の意味も「子供」の意味も違うでしょう。

子供にとっては、自分の親を「変、オカシイ、失敗者」と認めるのは、とても恐いと思うの。自分が教わってきたことや、普通だと思ってきたことが信じられなくなるし、社会的にそうとう不利な立場なのだということや、それからの長い人生、どんなに一人でがんばらなくてはならないかを考えると、地獄が突然ポッカリと口を開けて現れたようなもの。

なんだかよそよそしかった小学校の友達を「変なヤツ」って思ってたのに、もしかしたら変なのは、貧乏子だくさんのウチの家庭かもしれないって、わかる時が来るの。

「自分の親がオカシイ」と認識するよりは、「うちみたいな家庭は、いっぱいある。親がオカシイわけではない。社会の仕組みがオカシイんだ。」と思う方が気が楽。とりあえず、自分の環境は大変だけど、親も自分もマトモなんだと信じていれば、自信を失わずに済む。

でもね、ごまかさない方がイイと、私は思うの。オカシイ親を、まず、オカシイと認めることは、とても大切なことだと思うんです。お手本がない状態で、自分の人生を模索するのは、本当に大変なことだけれど、「どうして自分の親が誤ったのか」を考えることで、祖父母の世代の感覚や、歴史や時代、倫理観の移り変わりとかも、見えてくるんだと思います。

罪の張本人の親の代わりに、誰が悪いのか、幻想を作りあげるのも相当に大変なことです。嘘が明らかになりそうになるたびに、自分を騙す新しい嘘を考えなくてはならない。

罪の連鎖を断ち切る勇気を持つ方がいいんです。精神的に断ち切ることができないと、イライラするし、どうしてイライラするのかも、よくわからなくて、そこから逃げるために、親と同じような逃避的な恋愛や結婚や、逃避的な社会行動に、つまり危険な幻想にしがみついてしまうことになると思うんです。

クリスマスだって、幻想かもしれない。お祈りだって、現実からの逃避かもしれない。でも、たくさんの人が、長い間、試して残してきた、ひとつの方法だと思います。私はクリスチャンじゃないけれど、「罪」についての感性という点では、聖書のことを考えるのはいいと思うわ。

最近の本では、「ポアンカレ予想を解いた数学者」ドナル・オシア著がオススメ(前にも紹介したけど)。数学の発展の歴史がよくわかる本なのですが、「キリスト教もイスラム教もそうだが、中世の思想の根幹にはアリストテレス哲学の原理がある。」とか書いてあります。いろんなことが、繋がりながら変わっていく「ダイナミズム」が面白い。

もしも「幸せいっぱい。何の不満も不安もないわ!」というのでなければ、自分の親の罪、社会の罪、人間の罪の歴史、そして自分の罪の重さに、打ちひしがれるくらい、一度は絶望した方がいいと思うわ。

「どうしようもないな。」ものすごく「どうしようもない。」っていうこと。それでも、なんとかしようと思う。誰が悪い訳でもないのに、誰もが罪人だと知る時に、初めて神が必要になるし、宗教的な心情ということがわかるんだと思います。

誰かに教えられなくても、「飲み込むことを知っていた」ように、モーセやキリストのように「祈ることを知っていた」ハズ。ミームに気づくクリスマスをちゃんと楽しむことができたほうがいいと思うの。

もしも、今年のクリスマスがひとりきりのクリスマスでも、静かに祈ることができるのはとても素敵なことだと思います。とりあえず、神様に心から祈ること(キリストじゃなくてもいいけど)ができるようになってから、「行為」だと思います。

好意は、わりとどこにでもあるけど、愛情は、軽蔑や憎悪や絶望を超えたところで、やっと出会えるような気がするの。なんだか不安だったり、淋しい気がしていても、ホットミルクを飲んで落ち着いて考えてみたら、なぁんだ、セロトニン不足だっただけ。恋愛なんて興味なくって、本当は出世したくてしょうがないんだ、という自分に気づくかも。

でもね、「ホットミルクを飲んでみる」ように、「女を抱いてみる、恋をしてみる」のはダメ。他者との関係を「自分探しの道具」として試してみるのはダメです。

子育てをしていて、親が「なんだか、子供にいろんなことを教えられている気がする。親として自分も育っているなぁ。」と感じるのはいいんだけど、そういうことを子育ての目的にしてはダメだと思うの。同じように、恋愛関係は楽しくて、そこから自分の心が成長するということはあると思うけど、それを目的に、相手を探すのはダメなんです。他者と関係を持つということは、互いに協力して「何かをする」場合であって、「お互いに楽しむため」ではありません。心や気持ちのことは、ひとりひとりでしか、どうにもならないからです。

逆に、自分の親を客観的に見ることは、一番はじめに試してみなければならないと思うの。もしも、親が「貧乏だけどがんばっている自分という幻想」を子供に押し付けるようなオカシイ人だったら、その延長で「家庭を大事に思っている」というのは、家族を自分勝手な幻想の道具としてしかみていないのと同じです。

私は、「そんなのは愛ではない。」という感性が正しいと思います。そこを「親も親なりに自分を愛してくれた。」なんてゴマかしては、「愛」という言葉の意味を曖昧にして、いつまでたっても愛って何なのか、自分の愛という言葉に責任を取らない態度に繋がると思うんです。

宗教的な意味での愛は、たとえ親に愛されたことのない人でも、その意味を獲得することができるように、たくさんの人が文化として残そうと情熱を注いできた大切なことなのだから、その意味を簡単にゴマかすのは、罪。

私は、外国の下層の家族愛の物語をお手本に、「これが愛」なんて言うのはイヤ。日本のテレビドラマもそうだけれど、きれいな女優さんが演じる「大変だけど生き生きとがんばっている女性像」を見ていると、現実は、もっと悲惨だろうな…と思います(もちろん難しいテーマだとは思いますが)。

今の日本の状況自体がね、「罪」について、どうもよくわからなくって、イライラしている感じがするの。そういう時に、若いエネルギーって、実際に「罪を犯してみる」のが手っ取り早く「真実に触れて」イライラを解消する方法だ!っていう方向に走ることがあると思うんだけど、今の日本の状況なんかに感化されちゃダメ。だからって、なるべく関係のない文化を真似ていれば安心っていうのも軽薄すぎる感じ。一度きりの命なのだから、できるかぎり悩んだほうがいいと思うの。真剣に、クリスマスパーティに着る服を選んでみるのも、いいかも。

クリスマスをお祭り気分で受け入れた世代の感覚は、今では通用しないと思います。娯楽としてのクリスマスのデートに、男子がお金をいくらでも使う時代ではない。それは、不景気だからではなくて、逆に、「そんな娯楽にお金を使う価値を感じない」という心情が先にあるのだと思います。

戦争中に戦争に参加したように、社会が堕胎を認めているから堕胎していいのだとか、結婚という制度があるから相手を見つけようとか、人には消費者としての社会的価値があるからお金を使うとか、学校教育があるから子供を学校に行かせることがいいのだとか、そういう行為のしかたとは違って、行為を自分で選ぶことをみんなが考えはじめていると思います。

愛や罪を知って、そこから、独自の距離をとることによって、建ち直った後の日本の意味づけが、ようやく始まる気がします。与えられた意味ではなくて、または与えられなかった意味を嘆くのではなくて、意味を創ることを、日本は、やっと始めるところです。と、もう40年も前から言われているの(私が知るかぎりでも)だけれども、戦後、経済を建て直すのに50年、心や言葉を立て直すには、100年くらいかかるのかもしれません。

せめて、クリエイターは、ミーム担当ということで、不景気でも、そういうことを忘れないでいたいと思います。いつもやっと日本も心の問題に着手かな!と思うと、国外でいろんなことが起きて、あっという間に不景気で、心のことはアトまわしになっちゃうけれども。

世界の人口は増え続けているから、祈りの力もパワーアップしていることでしょう。少子化でニッポンがどうなろうと、心配することはありません。不幸な関係や悲惨な家庭を作ってはダメです。女の一滴の涙より重要なことなんて、この世には無いのだからね。

【たかはし・りき/イラストレーター】riki@tc4.so-net.ne.jp

・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/ >
今回は少しマジメな文章でしたが、女性を描くイラストレーターとしてのコンセプトを考えてみました。雑誌の占いによると、私の来年のラッキーファッションは、「都市の信仰」がテーマ? プリミティブとか苦手なので困ったわ。

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■編集後記(12/12)

このマンガがすごい! 2009・「このマンガがすごい! 2009」(宝島社)のランキングを見たら、オトコ編、オンナ編ともベスト10はひとつも読んでいなかった。それどころか、タイトルさえ知らなかった。これでいいのか。ためしに2008年版を見たら、「へうげもの」が2位、「おおきく振りかぶって」が5位にあったが、他はまったく知らない作品だった。とにかく最近の有名マンガはほとんど読んでいない。ところが、先日発表された「第12回文化庁メディア芸術祭」受賞作品は違った。マンガ部門の大賞は一色まこと「ピアノの森」(1995〜)、優秀賞は槇村さとる「RealClothes」(2007〜)、諸星大二郎「栞と紙魚子」(1996〜)、さそうあきら「マエストロ」(2004〜)、星野之宣「宗像教授異考録」(2005〜)、奨励賞は菊池正文「Cartoon 2008」である。こちらは6作品中4作品を読んでいる(槇村さとる、菊池正文の作品は知らない)。なぜ今年評価されるのかわからないほど、新しくない作品揃いである(それぞれのコミック刊行開始の年を記した)。評価されるのが遅いのではないかとも思う。歴代の入賞作品を見ると、半分はその年に読んでいる作品だった。つまり贈賞されるタイミングとしては一応合っていた。ところが今年は違った。とっくの昔に受賞していていい作品ではないか。ということは、もしかしたら2008年は大不作なので、だいぶ前から続いている作品を選ばざるを得なかったのか。評価タイミングを逸していた作品をフォローしたのか。単行本既刊分は全部所有して、時々読み返している4作品が、受賞してうれしくないわけではないが…。ふと連想したのが、NBonlineで読んだ伊東乾「日本にノーベル賞が来た理由」である。このテキストから強烈なショックを受けた。今年のノーベル物理学賞は日本の素粒子物理に、という方向性が不可避のものであったという。益川さんが「自分はちっともうれしくない」と言われた理由もわかった。連日マスコミはノーベル賞授賞式報道でもちきりだが、本当の事情は知らされていない。伊東乾「ノーベル賞を勘違いした日本人」も必読である。(柴田)
< http://plaza.bunka.go.jp/festival/2008/ >
「第12回文化庁メディア芸術祭」受賞作品
< http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081009/173322/ >
日本にノーベル賞が来た理由(NBonline)
< http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081201/178731/ >
ノーベル賞を勘違いした日本人(NBonline)

・目の奥の痛みは、急性副鼻腔炎では? というメールがTさんから届く。えっ? 眼科、脳神経外科、内科あたりは考えていたのだが、まさか耳鼻咽喉科?風邪に続いて細菌が感染して発症することが多いらしく、疲れなどで抵抗力が落ちている時にかかりやすいらしい。痛む場所は目の奥に限らず、頬やおでこなど、一般に片側に発症し熱は上がらないらしい。もしかしてこれになりかかってた? ちょこっと仕事をしては、死んだように眠っているので、マシになっているのかも。メールありがとうございます! 今度ひどくなったら耳鼻咽喉科に行ってみたいと思います。/脳の血流変化パターンから画像再現するシステム。凄すぎます。/うちも百科事典とか全集があったなぁ。残しておけば良かった。/里季さんの。後でもう一度読もうっと。(hammer.mule)
< http://health.goo.ne.jp/medical/search/10C21000.html >  急性副鼻腔炎
< http://osaka.yomiuri.co.jp/eco_news/20081211ke02.htm >  画像化
< http://www.t3.com/news/sugar-ipod-error-is-worst-tech-prediction?=37516 >
松下さんでも見誤ったんだもんな。進歩って凄いわ。
< http://www.page.sannet.ne.jp/mnagai/msj/openmind.htm >  先見の迷惑