映画と夜と音楽と…[401]賢兄愚弟の日々だった
── 十河 進 ──

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●外資系の有名企業に入った兄は母の自慢の息子だった

先日、大阪に住む兄からメールが届いた。来年の秋で還暦を迎える兄は、早期退職プログラムに応募して今年いっぱいで辞めるという。できたばかりの高等工業専門学校の電機科を出た兄は、当時、引く手あまたで富士通とIBMに内定したが、外資系のIBMに決めた。以来、39年、勤め人として過ごした。長い年月である。いろいろあったことだろう。

兄が20歳で社会人になり、最初に配属になったのは京都だった。大阪に出ることも多かったので茨木のアパートに住み、京阪電車で通勤を始めた。同じ年の4月に僕も予備校通いのために東京に出たから、4人家族が一気にふたり暮らしになり、母は「灯が消えたようだ」と嘆いた。

外資系の有名な企業に入った兄は母の自慢の息子で、親戚中の注目の的だった。兄は母に愛された息子だった。兄が何かをねだれば、母は無理をしてまで買った。今でも覚えているのはTBSブリタニカ数10巻を購入したことだ。訪問販売のセールスマンの説明を聞き高校生の兄が「欲しい」と言ったため、両親は躊躇せずに高価な百科事典のセットを買った。



英語版百科事典が数10巻、日本語版の解説が10数巻、その他にもいろいろ付いていたし、専用のガラス戸付き4段の書棚がセットになっていた。かなり高価な買い物だったと思う。「そんなもん買っても読まんで」と中学生の僕は反対したが、「お兄ちゃんが読むからええんや」と母は僕をにらんだ。「あんたのために買うのやない」と母の目は語っていた。

両親は小学校しか出ていない無学な人間で、僕は彼らが本を読んでいるのを見たことがない。彼らにとって教科書以外は、すべて悪書だった。我が家にはまったく本はなく、もちろん本棚もなかった。小学生の頃から図書館で借りた本ばかり読んでいた僕は、「本ばっかり読まんと、勉強せえ」とよく叱られた。そう言われると反発するもので、中学生になってからは小遣いで本を買い漁った。当時から古書店に入り浸った。

兄がねだったTBSブリタニカは、結局、誰も頁を開かぬまま居間の装飾品となった。それでも母は兄をかばった。確かに兄は優等生であり、両親の言うことをよく聞く息子だった。母に叱られてばかりいた僕とは違って、兄が叱られているところを見たことはない。賢兄愚弟…、そんな難しい言葉を僕が子供の頃から覚えたのは、母にそう言われたからだった。

両親から見ると、賢い兄に比べて僕は愚かな弟だった。小学生のとき、母の真珠の指輪がなくなり、僕が疑われた。僕は泣いて「知らない」と訴えたけれど、母は信用しなかった。おそらく今でも僕が持ち出して失くしたのだと思い込んでいるだろう。間違いなく冤罪なのだが、「あんたの他に誰がおるん」と母は聞く耳を持たなかった。

その事件の後だったか前のことだったか忘れたが、母の財布から金を抜き取ったことはある。僕の記憶では「そんなに疑うのならホントに盗ってやる」という気分だった。しかし、母が僕を疑った理由を公正に考えるなら、もしかしたら前のことだったのだろうか。そんな前科があったから、母は僕を疑ったのかもしれない。

いや、やっぱり違う。そう思いたいだけだ。何の理由もなく、母が僕を犯人だと決め付けたと思いたくないだけだ。僕は何もしていなかったのに、最初から「おまえに決まっとる」と母は言った。だから、僕は腹いせのように母の財布から金を抜いたのだ。あのときの気持ちは今も忘れていない。しかし、結局、それもバレて母は前以上に僕を信用しなくなった。

●『エデンの東』と言うとったけどホンマやったね

「あんたは昔から自分のことを『エデンの東や』言うとったけど、ホンマやったんやね」とカミサンが言ったのは、結婚して数年たったときだった。僕と実家に帰り、母と話をしているときに実感したのだという。確かに母の言葉の端々に、そんなことを感じることがある。僕の僻みもあったのだろうが、ずっと僕は両親が兄を愛していることを思い知らされてきた。

エデンの東 [DVD]だから、中学生の頃にリバイバル上映で見た「エデンの東」(1955年)が身に沁みた。冒頭、貨物列車の屋根の上で膝を抱えてセーターに顔を埋めるジェームス・ディーンに自分を重ねた。幼い自己陶酔であり自己憐憫だが、あのさみしそうなジェームス・ディーンの姿がよく甦る。走る列車、身を切る風が冷たい。それが自分に向けられた試練のように思えた。

僕は無理をして上下2巻の原作本も買った。当時、僕は「二十日鼠と人間」を読んで以来、ジョン・スタインベックを愛読していたが、代表作の「怒りの葡萄」は何度挑戦しても挫折した。しかし、それ以上の長さを持つ「エデンの東」はスラスラと読めたし、心の奥底まで染み込んだ。一度読んだだけだが、今でも物語はもちろん、細部までよく憶えている。

映画は原作の後半だけを使っている。確かにその方がよかったと思う。親子二代にわたる物語をそのまま映画化したら、ストーリーを説明するだけで終わってしまっただろう。最初の世代であるイノセントそのもののようなアダムと兄の物語を経て、アダムの息子のキャルとアロンの話になるが、結局は旧約聖書の「アベルとカイン」の物語が繰り返されるだけである。

アベルとカインという兄弟がいて、神に貢ぎ物をする。愛するアベルの貢ぎ物を神は喜ぶが、カインの貢ぎ物を神は拒否する。なぜ、神がアベルを愛しカインを疎んだか、それはわからない。だが、貢ぎ物を拒否されたカインは嫉妬からか、アベルを殺す。だから「カインの末裔」である我々は、兄殺しという原罪を背負った存在なのである。

子どもたちにとって、神とは親のことである。親に愛されない子供は悲しい。兄弟がいて兄だけが愛されていると感じるとき、弟の心根を僕は思う。「エデンの東」は、まさに双子の兄だけが父親に愛されていると感じている弟の物語なのである。純粋無垢な兄のアロンと違って、弟キャルは邪悪なものを抱え込んではいるが、父親に愛されることを願っている青年なのだ。

キャルは破産寸前の父親を救うために大金を稼ぎ、父親の誕生日プレゼントにする。しかし、穀物相場の変動に便乗して稼いだ汚れた金などほしくない、と父親は札束を投げ返す。一方、アロンは恋人と婚約したことをプレゼントにし、父親から「こんなうれしいプレゼントはない」と祝福される。そのときのキャルの表情が悲しい。なぜ、僕は愛されないのか、と彼は思う。

もう昔のこと、もう決着のついたことだと思っていたが、ここまで書いてきて「エデンの東」を見たときの共感がまざまざと甦ってしまった。キャルの悲しみが伝わってきたあのとき、僕は映画館の暗闇の中で静かに涙を流していた。母に信じてもらえなかったこと、母に拒否されたこと、様々な記憶が甦り、15の僕は頬を濡らしていた。

●去っていくスーツ姿の兄の背中が頼もしく見えた

2歳違いの兄弟というのは、難しいものだ。小学生の頃は、よくケンカをした。僕が中学に入ったとき、兄は3年生。しかし、僕は別の中学に入ったので「ソゴーの弟か」という視線を向けられることはなく、それは助かった。だが、そのため共通の話題もなく、中学高校と兄とはほとんど口を利いていない。

文系の僕と違って、兄は完全に理系の人間だった。僕は「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」を買っていたが、兄は「SFマガジン」を定期購読していた。そのおかげで僕は筒井康隆のデビュー作も読めたし、小松左京の「果てしなき流れの果てに」や光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を連載で読めた。筒井康隆の「馬の首風雲録」は次の号が待ち遠しかったものだ。

しかし、兄が難関だと言われた高専の電気科にいってくれたおかげで、僕は私立大学のフランス文学科などという与太な学校にいかせてもらった。成績優秀な兄だったから、どこかの国立大学の理工学部くらいは簡単に入れただろう。だが、大学をすべって東京で浪人したいという僕のワガママは、兄が5年制の高専を出て就職してくれたおかげで実現できたのだ。

家を出て上京し板橋のボロアパートに慣れた頃、兄から電話がかかってきた。「研修で東京にいく」と言う。それを聞いて僕は落ち着かなくなった。6年近く、ほとんど会話をしていないのだ。何を話したらいい? しかし、そんな気持ちは、数カ月ぶりに会った兄の前で雲散霧消した。

懐かしかった。18年、一緒に暮らした兄弟である。高校時代の数人の友人たちしか知り合いのいない東京で暮らしていた僕は、兄を見てしばらく立ちすくんだ。何とも形容のしようのない気持ちだった。肉親の情のようなものを、初めて実感した。兄は「ろくなもん喰ってないだろ。何でも喰わしてやるぞ。喰いたいものを言ってみろ」とスーツ姿で笑った。

その夜、新宿のスキヤキ屋で僕はたらふく肉を食べた。「いくらでも食べろ」と、兄は慣れた手つきで鍋に肉や野菜を足していく。見違えた。すっかり大人の男だった。「どんな研修するん?」と訊いた僕に何だかややこしい話をしてくれたが、僕にはチンプンカンプンだった。当時、コンピュータがどういうものか、僕はまったくわからなかった。兄の仕事も理解していなかった。

その夜、新宿駅で別れるとき、兄は財布から一万円札を出し、何も言わずに僕に差し出した。僕は「ありがとう」と言って受け取った。「研修は一ヶ月くらいあるから、また、連絡する」と兄は言った。僕は一万円札を握りしめたまま黙ってうなずいた。仕送りは2万数千円だった。部屋代は7千円である。そんなときの1万円は大金だった。去っていく兄の背中が頼もしく見えた。

それから、年に一度くらいの割合で兄は新しいコンピュータ知識を仕入れるために本社に研修にやってきた。そのたびに連絡があり、食事を奢ってもらい、話をした。実家にいた18年間より、ずっとよく話をした。そして、初めて一緒に映画館に入ったのは、1972年2月のことだった。評判の「ダーティーハリー」である。世間は浅間山荘事件で騒然としていた。

その数カ月後、連合赤軍事件の全貌が明らかになった頃、僕の暮らしぶりを心配して両親が上京してきた。はとバスで東京見物をして僕の下宿に戻り、父が銭湯に出かけて母とふたりきりになった。「私は出てこんでも…と思うたんやけど、お父さんが心配してな。『おまえはススムがかわいないんか』と叱られた」と母が独り言のようにつぶやいた。

あのときの母の言葉は何だったのだろう、と今もよく思い出す。もしかしたら、母の詫びだったのか。しかし、そんなことは、もうどうでもよくなっていた。僕はひとりで東京で暮らし、大学を出たら結婚しようと思っている相手がいたし、不安を抱えながらも自分で生きていく覚悟を決めていた。「うちは賢兄愚弟ですから」と屈託なく人に話せるようになっていた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
久しぶりに近くの「ららぽーと」に出かけた。多くの店が入っている。ジングル・ベルが鳴り響いていた。ウィンドウはクリスマス・デコレーション。不景気とはいえ人出は多い。老いてもいないが若くはない、リタイアはしていないが現役最前線という気分でもない人間にとって、こういう時期は妙に居心地が悪いものです。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 恋ひとすじに(ユニバーサル・セレクション2008年第11弾)【初DVD化】【初回生産限定】 愛人関係 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初DVD化】【初回生産限定】 アメリカ映画風雲録 金魚屋古書店 7 (7) (IKKI COMIX)

by G-Tools , 2008/12/12