[2559] 愚かな弟・やくざな妹

投稿:  著者:  読了時間:26分(本文:約12,900文字)


<社会変革の立役者は凶悪犯罪者だった……>

■映画と夜と音楽と…[402]
 愚かな弟・やくざな妹
 十河 進

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■映画と夜と音楽と…[402]
愚かな弟・やくざな妹

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20081219140200.html >
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●三度映画化され何度もドラマになった「陽のあたる坂道」

前回、「賢兄愚弟」の話を書いた後、こんなタイトルの映画があったなと思ってネットで検索してみたがヒットしない。「愚弟賢兄」で検索したらヒットした。かなり昔の映画だ。最初の映画化が1931年だから、昭和6年である。77年前になる。

松竹キネマ蒲田撮影所の制作で、五所平之助が監督している。サイレント時代から監督をしている人だ。小津安二郎監督より一歳上になる。その映画の原作小説は、佐々木邦が書いていた。最後の佐々木邦全集が出たのは僕が学生の頃だったが、その時すでに過去の作家だった。

佐々木邦はユーモア小説、児童小説の世界で人気作家になった人だ。戦前から人気があり、東京オリンピック開会式の半月ほど前に亡くなった。今は著作を入手するのも困難だ。「愚弟賢兄」は彼の代表作で読者も多かったのか、1953年に再映画化されている。

再映画化の監督は、後に「張り込み」(1958年)「砂の器」(1974年)など松本清張の小説を映画化して名作を作る野村芳太郎である。「愚弟賢兄」は22年も経って再映画化されるのだから人気のある小説だったのだろう。僕は小説も読んでいないし、映画を見ていないので内容はまったくわからない。

ただ、僕が「賢兄愚弟」と憶えていた言葉が「愚弟賢兄」と使われているので、「愚かな弟」の方が主人公なのかなと想像した。親に疎まれ、周囲から何かと優秀な兄にくらべられている愚弟が本当は心優しい少年だった、という内容の方が一般的には受け入れられるし、そういうパターンの物語は昔からけっこう多い。

そんな物語で僕が思い浮かべるのは、石坂洋次郎の代表作「陽のあたる坂道」である。これも、三度映画化されているし、テレビドラマにも何度もなっている。僕は、日活で映画化された二本とTBSで放映された連続ドラマを見ている。今から思えば、昭和の時代性がよく出た物語だと思う。

これは、関川夏央さんのエッセイに出てきた分析だが、「陽のあたる坂道」に出てくる金持ちのインテリ家庭では、しきりに「家族会議が開かれる」ということだ。そう、確かに何かというと家族が一堂に会して、民主的に意見を述べあうシーンがあった。

我が家も中学生になった兄が「週に一度、家族会議を開こう」と提案したことがある。昭和30年代、民主教育で育った団塊世代の人たちは、「家族会議」という言葉を懐かしく思い出すはずだ。「陽のあたる坂道」では、その「家族会議」の中で愚弟はいつも冷静で正論を吐く賢兄に諫められるのである。

●原作と同時代に制作された石原裕次郎版が最も面白い

「陽のあたる坂道」は、1958年(昭和33年)、1967年(昭和42年)、1975年(昭和50年)に映画化されている。主演は、石原裕次郎と北原三枝、渡哲也と十朱幸代、三浦友和と檀ふみである。テレビドラマは新克利の主演で見た記憶があるが、20年ほど前には柳葉敏郎と沢口靖子のキャスティングで放映されているようだ。

陽のあたる坂道をのぼった邸宅に暮らす田代家を、家庭教師の女子大生が訪ねるところから物語が始まる。この最初のシーンは有名で、ここでヒロインは犬を連れた不良っぽい次男と出会うのだ。次に教え子の足の悪い末娘と会い、最後に優秀でエリートの長男に紹介される。父親は紳士で、母親は山の手夫人である。

ヒロインは、最初、賢兄に惹かれる。愚弟は素行も悪く、どうも妹の足を怪我させてしまったのも彼らしい。悪い仲間もいるようだ…と愚弟はいいところがない。やがて、次男は紳士で穏やかでインテリの父親が、外で別の女に生ませた子供らしいというのがわかってくる。

映画化作品は、やはり、原作と同時代に制作された石原裕次郎版が最も面白くできている。千田是也の父親、轟夕起子の母親、芦川いづみの妹、小高雄二の兄という顔ぶれは確かに古さを感じるが、その後の映画化作品は内容と時代のズレを感じてしらけてしまう。

やはり、映像には時代の空気が写るのだ。石原裕次郎版「陽のあたる坂道」を半世紀後に見たとき、現代の物語としては見ないわけだから違和感は感じない。それに、高く評価された作品だ。文芸派の田坂具隆が監督し、脚本には池田一郎(後の隆慶一郎)が加わっている。

「陽のあたる坂道」の結末は、最初から見えている。不良と思われていた愚弟が心優しい青年で、妹を怪我させた兄の身代わりになって罪をかぶったこと、妾の子を引き取って育ててくれた母のために兄より劣った弟になろうとしていたことなどがわかり、ヒロインは最後に愚弟を選ぶ。優秀でエリートだと見えていた賢兄は、冷たいエゴイストだったのである。

これは、大衆が好むストーリーパターンだ。今どき、こんなストーリーパターンで観客は納得しないだろうが、昭和30年代の人々は素直だった。その年の邦画の興行成績では2位になっている。映画の観客数が現在とはくらべものにならないほど多かった時代だ。多くの人が、この物語に涙したに違いない。

昭和33年のことである。4月5日の土曜日には、長嶋が後楽園球場で4打席4三振でデビューした。相手は国鉄スワローズの金田正一。その二日後、NHKドラマ「バス通り裏」が始まった。2月末から放映されていた「月光仮面」がブームになり、子どもたちは風呂敷をマント代わりに、駄菓子屋で買ったセルロイドの色メガネをかけて石垣を飛び降りていた。

●兄を慕いながら憎まれ口を叩く妹の切なさが漂う

愚弟賢兄は、男同士だからどうしても対比の物語になる。兄弟は、一面では子供のときからのライバルだ。賢い兄がいれば、どうしても弟はくらべられる。親だけではない。親戚の人間も近所の人も教師も、みんな比較する。目立つ兄を持ったため数年遅れで同じ中学や高校に入ると、「○○の弟か」と言われてうんざりした記憶を持つ人は多い。

しかし、これが妹になると違うのだろう。僕は姉も妹もいないので、よくわからないが、たぶんずいぶん違うような気がする。愚妹賢兄という言葉は、あまり耳にしない。兄にとって「愚かな妹」とは、守るべき存在のような気がする。たとえば、「昭和枯れすすき」(1975年)の刑事の兄とヤクザな妹の関係のように…。

原作は、結城昌治の「ヤクザな妹」という小説。タイトルは、当時大ヒットした暗いデュエット演歌「昭和枯れすすき」からきている。ヒット曲に便乗した歌謡映画なのだが、これが実に情感にあふれたいい映画だった。野村芳太郎作品としては、僕は「張り込み」と「昭和枯れすすき」が大好きだ。

主人公(高橋英樹)と妹(秋吉久美子)は、孤児同然の育ちをした。兄は、少し歳の離れた妹を親代わりに育ててきた。自分は刑事になり、妹は洋裁学校に通っているはずだった。ある日、同僚の刑事から妹がヤクザとつき合っていることを知らされる。妹を問い詰めると、学校もやめ水商売に入り、ヤクザを使って自分を棄てた金持ちの男に復讐しようとしていることを知る。

妹が堕ちていく。やがて、ヤクザが殺され、妹が容疑者として浮かぶ。主人公は妹を信じ、真犯人を捜そうとするが、すべての証拠や証言が妹が犯人であることを示している。主人公は苦悩する。職務の責任感と兄としての情の狭間でのたうつ。身が裂かれる。子供の頃から守ってきた妹だ。そのかばうべき存在に、自らの手でワッパをかけなければならないのか。彼の懊悩は深い。

33年前の秋吉久美子である。妙なニュアンスを醸し出す女優だった。刑事の妹でありながらヤクザとつき合い、兄の説教に反発する。兄を慕いながらも、憎まれ口を叩き反抗してしまう切なさが漂う。肉親を疎む気分と、親代わりの兄を愛する気持ちが交錯する。「貧しさに負けた。いいえ…世間に負けた」と切なく流れる「昭和枯れすすき」がピッタリはまる。

現在、我が家には27になろうとする息子と24の娘が住んでいる。学年で3つ違う兄と妹だ。できれば賢兄賢妹であってほしいが、ひいき目に見ても普通の若者だ。ふたりが口を利いているのをほとんど見たことはないので、双方、相手をどう思っているのかはわからないが、今でも思い出すエピソードがある。

あれは、娘が小学3年生、息子が6年生のことだった。小さい頃から元気のよかった娘が、ある頃から学校へいきたがらなくなった。それでも、不登校になるほどではなく、毎朝、少し沈んだ顔をして出ていく。僕は、何かあるのだろうかと心配していた。そんなある夜、カミサンが息子の同級生の母親から聞いたという話を僕に報告した。

しばらく前から、娘が同じクラスの男子生徒にいじめられていたのだという。消しゴムや定規を隠されたり、何かを囃したてられたり、娘が沈んでいた原因はそれだった。男の子が女の子に子供っぽいいたずらをするのだから、もしかしたら好きということの裏返しだったのかもしれないが、そんな心理が伝わる年頃でもなかった。

それを息子が耳にした。ある日、息子は相手の男子生徒をつかまえて「妹をいじめたら承知しないぞ」とすごんだ。3年生が6年生に脅されたのだ。相当に応えたらしい。男子生徒の妹へのちょっかいはおさまったという。その話が息子の同級生から母親に入り、その母親からカミサンに伝わった。

──ねっ、ちょっといい話でしょ。

カミサンはそう言った。ヤクザのように脅すのはどうかと思う人もいるだろうが、僕にはカミサンの言いたかったニュアンスがわかった。息子を誇らしく感じ、辛いことを隠して学校に通っていた娘を不憫に思った。何より、息子が娘のことを思っていたのだと、妹を守ろうとしたのだと、そのことに何とも言えない気持ちになった。心が温まるような何かに包まれた。

僕とカミサンがいなくなっても、きっと兄が妹を守る…、そんなことを確信したのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
企業社会で生きていると、突然の大不況が身に迫ってきます。トヨタを始めとする自動車会社、キヤノンやソニーなど日本を代表する大企業の減産・人員整理のニュースが飛び交っていますが、当然、広告費は最初に削られます。それが、新聞出版業界に大きな影響を与えます。最近、某新聞に掲載される広告主や広告内容に変化を感じているのは、僕だけではないでしょうね。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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■Otaku ワールドへようこそ![87]
「誰でもよかった」の闇を照らす言説

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20081219140100.html >
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秋葉原通り魔事件から半年経った。この衝撃的な事件が人々の心の中に刻みつけた傷は、今も生々しさが引かないのではなかろうか。しかし、時は流れる。新たな事件が次々と起きる。マスコミの関心はどんどん移る。ネット上での喧騒も紛糾しきって空中分解した感じ。ここへ来て、言論人たちによる腰を据えた議論が、紙メディアで続々と世に送り出されてきている。暗い話題ではあるけれど、やっと突っ込んだ議論がなされはじめたという点には、いくばくかの光を感じる。

[1]赤木智広、他「アキバ通り魔事件をどう読むか?!」(洋泉社、2008/8)
[2]大澤真幸(編)「アキハバラ発〈00 年代〉への問い」(岩波書店、2008/9)
[3]浅尾大輔、他「秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか」
   超左翼マガジン「ロスジェネ」別冊 2008(かもがわ出版、2008/10)
また、下記の本は、この事件をテーマにしたものではないけれど、問題はつながっている。
[4]篠田博之「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書、2008/8)

私は事件から5日後の6月13日(金)に配信された当コラムにて「これでいいのか冷血社会?」というタイトルで思うところを書いたが、
< http://bn.dgcr.com/archives/20080613140100.html >
今回、この事件のことを再び取り上げたい。

●さらいつくされた感

確かに、この事件に関して、もうあまり語るべきことが残っていないような感覚はある。まず第一に、一事件としては、ほぼ決着がついている。流れからして、まず間違いなく、加藤智大容疑者には死刑判決が下されるであろう。事実関係に争点はなさそうだし、起訴前に実施された精神鑑定では「責任能力あり」と判定されている。この事件に限っては、10分で結審しても、100時間審理を重ねても、結論は変わらないだろう。

第二に、この事件から得られた教訓を社会へ還元することに関しても、派遣という労働形態の見直しという形で進められている。「ワーキングプア」とか「プレカリアート」という言葉で象徴されるように、過酷で、先々に希望がなく、人間の尊厳を踏みにじるような労働形態について、今までは「自己責任」で片付けられてきたが、これでは社会の中に不満や怒りが鬱積し、構造的な不安定を招くという反省から、法制度が見直されている。

皮肉にも「社会変革の立役者は凶悪犯罪者だった」ということにはなってしまうけれど。「事件前、犯人と似たような境遇で働いている人たちから『通り魔になりたい』『みんな殺してやりたい』『自爆テロしたい』『いっそ戦争が起こってほしい』などというメールが届いていたし、生の声として実際に同様の心情を直接耳にしたことがあった」という雨宮処凛氏は、「私たちが取り組んできた派遣制度の見直しを求める運動は、一定の成果をあげつつも、法令の改正にはほど遠かった。だが、事件をきっかけに状況は一変し、舛添厚生労働大臣はすばやく日雇い派遣禁止の方向を打ち出した」[1]と述べている。

また、宮台真司氏は「容疑者が意図したかどうかに関係なく、事件が『政治テロ』として成功したわけだ。僕はとりわけ'99年の派遣法改悪を数年前から批判してきたが、何も変わらず、事件をきっかけにしてやっと元に戻す動きになった。この国の政治もマスコミも本当にダメだ」[1]と述べている。まあ、監視と厳罰化の方向ばかりで、派遣労働問題を放置するよりはだいぶマシだけど、ぐらいのレベルですね。

第三に、犯人の「心の闇」の問題がある。だいたい「心の闇」とは、紋切り型の嫌な言葉で、背筋の凍るような凶悪事件が起きるたびに、そのような残虐な行為に及びうる犯人の心の中がどうなっていたのか、善良な我々にはとうてい伺い知ることはできない、という文脈で浮上してきて、同様の事件の再発防止には解き明かさなくてはなるまい、という意見もありはするけれど、結局はまったく光が当てられないまま、情報の闇に沈んでいく。陳腐化した、空虚な修辞句になり下がっている。

ところが、この事件においては、犯人が犯行直前までネット上のケータイ用掲示板サイトに大量の書き込みを残していたため、「心の闇」の中身が一般の人々にも丸見えになった。この記録はまとめサイトに今でも残っているし、文献[3]の巻末には全文掲載されている。顔が不細工で金もないために彼女ができず、そのために負け続きの人生で、ネットでもリアルでも孤独で、仕事はクビになりそう、ってなことが、ぐちぐちぐちぐち放り投げられている。

しかし、それを読むと、「闇」と呼ぶには拍子抜けするくらい、俗っぽくて凡庸だ。誰も反応してくれないところへ、変な思い込みを繰り返し繰り返し吐き出すことで、あたかも自己説得するような効果で思い込みが固着していく過程や、幸せそうな人たちへの執拗な嫉妬心には、多少病的なものを感じなくもない。けど、その程度である。

森達也氏は加藤容疑者の内面について「多少は腑に落ちる。でも実感はできない」[2]とまとめている。「たとえば派遣労働の焦燥、学歴社会の落ちこぼれ感、そこから醸成された社会への激しい憎悪、あるいは不条理なまでに厳しかった両親への反発、恋人ができないことから敵意へと反転した過剰な自己愛。なるほどとうなずくことはできても、殺傷理由として決定的な感じがしない、隔靴掻痒の感覚が続いている」という。

また、柳下毅一郎氏はもっと身も蓋もなく「だいたいにおいて殺人って中途半端な人間がやらかすんです。僕はアウトサイド・アート的なものを求めて、殺人者の書いた本とか読むことがあるんですけど、ほんとの意味でこちらを感動させてくれることというのは滅多にないんですよ。現実にはほんとうの芸術家のほうが明らかに狂気度が高いし、それでいてちゃんと表現にもなっている。人を殺す人って、むしろ自分の狂気をちゃんと突き詰められない人なんです」[1]と心の闇幻想を打ち砕いてくれている。

本田透氏に至っては、「どこかで読んだことのある文章でしたよね……。『コレ、俺が書いたのか』って思いましたもの」[1]だそうで。つまり、あんな事件起こすにしては心のありようが普通すぎるってとこが、どうにも腑に落ちないのである。闇ってたったのこれだけ? みたいな。

関係ないけど、'03年11月に起きた大阪家族殺傷事件では、共犯者として逮捕された高校一年の女子生徒のウェブサイトが、いい感じの闇を映し出していた。さすがは大阪芸大に通う犯人の彼女だけある。詩がとても素敵だ。サイトはもう消えているが、私は丸ごといただいて、USBメモリに入れて、ずっと肌身離さず持ち歩いている。もっとも、病はおそらく特異なものではなく、よく見かける境界性人格障害なんだけど。

以上3点を鑑みると、この事件は、ものの2〜3ヶ月ですべて語り尽くされちゃって、いまさら蒸し返してももう何も出てこないのではないかと思われるくらい、底が浅いものだったと感じられる。そういうわけだから、なぜ私が今回、あえてこの話題を取り上げたかという理由から説明を始めなくてはなるまい。

……いや、そんなことしてたら終わらなくなっちゃうんで、手短に言うと、この事件について社会学者などの言論人が専門的に分析して論じた本が立て続けに出版されたことによって、社会の側の問題点や社会そのものが患っているともいえる病理にようやく光が当てられ始めた感じがして、そこには耳を傾ける価値があるのではないかと思えたからである。実際どの本も、たいへん内容が濃く、教わるところ大なるものがあった。ここで内容を細部まで紹介している余裕はないので、興味のある方にはぜひご一読をお薦めしたい。

●病理性なかった〜予想外の精神鑑定結果

上記[1]〜[3]の文献は、いずれも加藤容疑者の精神鑑定結果が出る前に執筆されたものだから、当然、その結果は踏まえられていない。その点は、これから論じていくべきところだと思う。

東京地検は7月7日(月)、3ヶ月間にわたる加藤容疑者の精神鑑定を東京地裁に請求し、認められた。起訴前に鑑定医による本格的な精神鑑定を実施しようとした狙いは、公判の争点が事実関係にはなく、責任能力の有無に絞られる見通しから、公判を迅速に進めるためとみられる。

10月6日(月)に返された結果は、加藤容疑者の完全責任能力を認定するもので、事件当時も現時点でも、精神疾患や人格障害でないとするものであった。これを受けて、東京地検は10日(金)、加藤容疑者を殺人や殺人未遂、公務執行妨害などの罪で東京地裁に起訴した。

私のようなド素人が、精神鑑定の真似事などをして遊ぶのは本来慎むべきことなのだが、そこを承知の上で、自分の理解度を試すつもりで予想してみた結果は、面目なくも大ハズレだった。実は、けっこうショックなんである。当てる自信、密かにかなりあったんで。私は、軽度の統合失調症型人格障害を予想していた。そうでないとしたら、自己愛性人格障害かと。ほぼ間違いなく、この二つのうちのどちらかだろうと思っていた。

人格障害というのは、はっきりと精神疾患とまでは言い切れないけど、単なる性格の一類型とみなすにはやや病理的と言わざるを得ない、中間的な状態である。犯罪者が精神鑑定の結果、人格障害と判定されれば、たいていの場合、責任能力は100%あったとされ、減刑対象にはならない。精神科にかかった一般の外来患者が人格障害と判定されれば、たいていの場合、薬が処方される。

人格障害には10類型ある。このうち1〜3がクラスタAとしてくくられ、4〜7がクラスタB、8〜10がクラスタCである。クラスタAは「風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがち」という特徴があり、「妄想性人格障害」「統合失調質人格障害」「統合失調型人格障害」の3類型からなる。クラスタBは「感情の混乱が激しく演技的で情緒的」という特徴があり、「反社会性人格障害」「境界性人格障害」「演技性人格障害」「自己愛性人格障害」の4類型からなる。クラスタCは「不安や恐怖心が強い」という特徴があるが、本件とはあまり関係ない。

加藤容疑者は、6月5日(木)の朝、作業場に行ったらツナギがなかったと言っているが、それを「誰かが隠した」「辞めろというメッセージ」と決めつけて受け取り、それ以外の可能性をはなから排除している。この辺に、統合失調症的な関係念慮がにおうと私には感じられた。また、自分の顔が不細工で、そのせいで彼女ができないという思い込みについても、そういう側面も多分にあるだろうな、という程度ならいいが、それがすべてで、それ以外の可能性はない、というところまで凝り固まっていると、やはり統合失調症の気配が漂う。しかし、総合的には、言っていることに一貫性があり、支離滅裂感がほとんどないので、非常に軽度なんだろうな、と。それで、人格障害のクラスタAなのではないか、と。

一方、加藤容疑者の書込みには、字義通りには受け取れない、どこか芝居じみたところがある。6月4日(水)に「ひぐらしとGTAを買っておかないと」と書いているが、どちらも虐殺や犯罪のシーンを伴う猟奇的なゲームである。東浩紀氏は「二つのゲームともに、数日でクリアできるものではなく、この影響を受けて事件を起こしたとは考えづらい。むしろ、書込みの時点ですでに凶行の意思を固めており、事件後のゲームバッシングを先読みした上で、マスコミを挑発するようにわざわざ事件と似た内容のタイトルを自宅に置こうとした、と理解するのが自然だろう」[1]と指摘している。

秋葉原を犯行現場に選んだ理由も、同じことが成り立ちうる。あの書込みの相当の部分が本心ではなく、犯行後の観客を意識したお芝居だったのだとすると、人格障害のクラスタBが疑わしい。

斉藤環氏は「負け組意識をもつ若者の多くは、いったん負け組認定されたら、そのラベリングは一生変わらないという思い込みに捉われているが、実はこれは自己愛のひとつの形式である」[1]と述べている。そう考えると、やはりクラスタBの自己愛性人格障害ではないか、と思えてくる。まあ、そういうわけで、人格障害ですらない、という判定は、私にとって、完全に考慮の域外であった。下手すると俺のほうが加藤容疑者よりもまだ病んでたってことだってありうるぞ。

私は、凶悪事件が起きたら犯人の「心の闇」の部分が、精神病理的な側面から十分に掘り下げられるべきであり、その結果得られた知見は一般の人々にももっと共有されるべきであり、それによって見当違いのスケープゴートによる差別を防いだり、得られた教訓を社会に還元したりできるのではないか、という意見をもっている。

ただ、精神病理学の領域は、一般の人々にはなじみが薄いため、下手に触れると誤解を生みやすく、デリケートな話題ではある。テレビや新聞などのマスメディアでは、取り上げづらいかもしれない。もし、精神鑑定の結果、犯人がたとえば統合失調症だとか、自閉症だとか、境界性人格障害だとか、判定が下されたとして、それを大きく公表しちゃうと、同じ診断を下された人たちが犯罪者予備軍とみなされて、差別や迫害が起きかねない。また、自分や家族がちょっと精神的に不調で精神科医にかかったてみたら、凶悪犯と同じ診断が下されちゃった、なんてことになったら、絶望的な気分に陥るかもしれない。

本来だったら、そういう誤解を避けるための正しい知識も含めて広く伝達・共有されるのが望ましいのだけれど、現実には難しそうだ。よく、子供にあまり耳慣れない名前をつけると、そのことで学校などでいじめにあうから、そのような名前をつけるべきではない、という議論を聞く。本来ならば、変わった名前の子がいたからといって、そのことでいじめるという行為のほうが間違っているのであって、変わった名前をつけたこと自体が悪かったわけではないはずだ。だけど、現実にいじめが起きるのだとすれば、変わった命名を避けるというのは防衛手段として有効だという議論は成り立ちうる。

同じロジックで、凶悪犯がたとえば統合失調症だと判定されたからといって、統合失調症の人全部を犯罪予備軍のように言って差別するのは間違っている。しかし、実際にそのような差別が起きるだろうと予想できてしまうのだとすれば、精神鑑定の結果を大々的に公表するのを控えるべきだというのも、社会的弱者の保護の観点から仕方あるまい、という議論が成り立ちうる。

だとしたら、情報の共有は、短絡的な思考に走らず、ものごとを冷静に客観的にみる素養をもった人々の間でなされるのが望ましいと言えそうだ。それには、固〜い学術的なタイトルを冠した紙媒体の出版物あたりがふさわしい出番なのかもしれない。

……ってなことが言いたかったのだが、しかし、この事件に限っては、犯人の心の闇の部分、つまり精神の病理的なところが全然なかったとは。「面白みのない事件」などと言ってはあまりにも不謹慎だが、心の闇に光を当てるべきだという議論が、足場を失った感じは否めない。こうなると、「誰でもよかった」というフレーズは、被害者だけでなく、加害者にも当てはまってくるのだろうな、という不気味さが漂い始める。ヤツがやらなくても、他の誰かがやったのかも、という……。

ところで、来年5月から裁判員の司法参加がスタートすることになっているが、私はたいへん不安である。本件などは、争点がほとんどなく、簡単なほうかもしれないが、それでも、人の生死を左右する裁判であるから、万が一にも間違いがあってはならない。慎重の上にも慎重を期するべきだと思う。容疑者の経歴や家族・交友関係にまで深く立ち入って、精神状態の領域まで踏み込んで、すべてを洗いつくして疑問点が残らないところまで持っていくべきだろう。場合によっては精神鑑定のやりなおしを求める、なんていう方向性だって考えなくちゃいけないかもしれない。

ところがネット上に投げられている意見には、「精神鑑定なんかそもそも要らない。厳罰に処して、犯人がどんなことをしたのか思い知らせてやればいい」みたいな乱暴なのが、よく見られる。まあ、一般市民としての感情の投げ出しならこれでいいのだけれど、もし同じ感覚をそのまま司法の場に持ち込まれたら、たいへんまずかろう。たとえていうならば、「風邪をひかないように手を洗い、うがいをしましょう」のレベルと、「風邪のウィルスを電子顕微鏡で観察し、生態を研究しましょう」のレベルくらいのギャップを感じる。たいへん不安である。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。11月30日(日)は、京成バラ園でコスプレイベントがあった。かなり広大なバラ園で、コス撮影にはめちゃめちゃいい場所だが、ここがコスプレイベント会場として使われるのは、初めてのこと。花の盛りは過ぎていたけど、「ローゼンメイデン」「マリア様がみてる」「ベルサイユのばら」など、バラにちなんだ作品のコスが花盛りで大いににぎわった。/12月13日(土)はべちおサマンサさんたちと飲む。べちおさんは、どこぞの新興宗教団体の教祖様かと思わせる風貌で、二次会のカラオケではめちゃめちゃパワフルなノリですんげ〜迫力。大いに笑わせてもらった。/大風邪が流行ればカラオケ屋が儲からない。……分かりやすい因果関係のたとえ。

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■編集後記(12/19)

・「デジクリ」をご愛読ありがとうございます。本誌は本号をもって2008年の発行を終了します。2009年は1月8日(木)からスタートします。みなさまもよいお年をお迎え下さい。その前にメリークリスマス。

・早くも2008年を振り返る。ものすごいスピードで過ぎ行く年だった。「デジクリ」が4月に満10年を経過、ただいま11年目を進行中。9月に父が死んだ。享年88歳。4月に大腸内視鏡検査を受ける。とくに問題なし。OSXレパード武装化とTimeMachine設定。とりあえず順調。G4の純正ファンを専用静音ファンに付替え、これが大正解。編集後記で、まれに見るバカ制度「裁判員制度」について書くことが多かった。それと子どもケータイ。おもしろかった本、順不同。和田竜「のぼうの城」宮尾登美子「天璋院篤姫」西野喜一「裁判員制度の正体」原信田実「謎解き広重『江戸百』」川村二郎「学はあってもバカはバカ」横山秀夫「クライマーズ・ハイ」万城目学「鴨川ホルモー」山田芳裕「へうげもの」瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」武田知弘「ナチスの発明」辛坊治郎「誰も書けなかった年金の真実」山本弘「"環境問題のウソ"のウソ」貴志祐介「新世界より」三田紀房「個性を捨てろ!型にはまれ!」加門七海「祝山」高山正之「変見自在 ジョージ・ブッシュが日本を救った」田中啓文「チュウは忠臣蔵のチュウ」今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします!(柴田)

・ガンバ対マンU。本気にさせたガンバ凄い〜。3点もとっちゃった。食らいついてて、相手疲れさせてて、なんだかこの試合だけでガンバの実力アップするんじゃないかとまで思ったよ。負けたのに嬉しい。価値のある試合だよね。終了30分経ってもガンバのサイトに繋がらない〜!/真央ちゃんの実力や度胸も凄い。まず努力し続けられるのが凄いと思う。北島康介のコーチが、水泳は続かない、プールの中を行ったり来たりするだけで子供にはとても退屈だから、というようなことをおっしゃっていた。/マックが不安定になり、翌日は外付けDVDドライブが読み込まなくなった。サポートに電話したら修理になるって。3年前に一度修理に出してるんだよな。うーん、新製品を待たずして買ってしまうかもしれぬ。年末年始に環境整備できたら気持ちいいだろうしなぁ。/今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします!(hammer.mule)