Otaku ワールドへようこそ![87]「誰でもよかった」の闇を照らす言説/GrowHair

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秋葉原通り魔事件から半年経った。この衝撃的な事件が人々の心の中に刻みつけた傷は、今も生々しさが引かないのではなかろうか。しかし、時は流れる。新たな事件が次々と起きる。マスコミの関心はどんどん移る。ネット上での喧騒も紛糾しきって空中分解した感じ。ここへ来て、言論人たちによる腰を据えた議論が、紙メディアで続々と世に送り出されてきている。暗い話題ではあるけれど、やっと突っ込んだ議論がなされはじめたという点には、いくばくかの光を感じる。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK) (洋泉社MOOK)[1]赤木智広、他「アキバ通り魔事件をどう読むか?!」(洋泉社、2008/8)
[2]大澤真幸(編)「アキハバラ発〈00 年代〉への問い」(岩波書店、2008/9)
[3]浅尾大輔、他「秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか」
   超左翼マガジン「ロスジェネ」別冊 2008(かもがわ出版、2008/10)
また、下記の本は、この事件をテーマにしたものではないけれど、問題はつながっている。
[4]篠田博之「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書、2008/8)

私は事件から5日後の6月13日(金)に配信された当コラムにて「これでいいのか冷血社会?」というタイトルで思うところを書いたが、
< http://bn.dgcr.com/archives/20080613140100.html >
今回、この事件のことを再び取り上げたい。



●さらいつくされた感

確かに、この事件に関して、もうあまり語るべきことが残っていないような感覚はある。まず第一に、一事件としては、ほぼ決着がついている。流れからして、まず間違いなく、加藤智大容疑者には死刑判決が下されるであろう。事実関係に争点はなさそうだし、起訴前に実施された精神鑑定では「責任能力あり」と判定されている。この事件に限っては、10分で結審しても、100時間審理を重ねても、結論は変わらないだろう。

第二に、この事件から得られた教訓を社会へ還元することに関しても、派遣という労働形態の見直しという形で進められている。「ワーキングプア」とか「プレカリアート」という言葉で象徴されるように、過酷で、先々に希望がなく、人間の尊厳を踏みにじるような労働形態について、今までは「自己責任」で片付けられてきたが、これでは社会の中に不満や怒りが鬱積し、構造的な不安定を招くという反省から、法制度が見直されている。

皮肉にも「社会変革の立役者は凶悪犯罪者だった」ということにはなってしまうけれど。「事件前、犯人と似たような境遇で働いている人たちから『通り魔になりたい』『みんな殺してやりたい』『自爆テロしたい』『いっそ戦争が起こってほしい』などというメールが届いていたし、生の声として実際に同様の心情を直接耳にしたことがあった」という雨宮処凛氏は、「私たちが取り組んできた派遣制度の見直しを求める運動は、一定の成果をあげつつも、法令の改正にはほど遠かった。だが、事件をきっかけに状況は一変し、舛添厚生労働大臣はすばやく日雇い派遣禁止の方向を打ち出した」[1]と述べている。

また、宮台真司氏は「容疑者が意図したかどうかに関係なく、事件が『政治テロ』として成功したわけだ。僕はとりわけ'99年の派遣法改悪を数年前から批判してきたが、何も変わらず、事件をきっかけにしてやっと元に戻す動きになった。この国の政治もマスコミも本当にダメだ」[1]と述べている。まあ、監視と厳罰化の方向ばかりで、派遣労働問題を放置するよりはだいぶマシだけど、ぐらいのレベルですね。

第三に、犯人の「心の闇」の問題がある。だいたい「心の闇」とは、紋切り型の嫌な言葉で、背筋の凍るような凶悪事件が起きるたびに、そのような残虐な行為に及びうる犯人の心の中がどうなっていたのか、善良な我々にはとうてい伺い知ることはできない、という文脈で浮上してきて、同様の事件の再発防止には解き明かさなくてはなるまい、という意見もありはするけれど、結局はまったく光が当てられないまま、情報の闇に沈んでいく。陳腐化した、空虚な修辞句になり下がっている。

ところが、この事件においては、犯人が犯行直前までネット上のケータイ用掲示板サイトに大量の書き込みを残していたため、「心の闇」の中身が一般の人々にも丸見えになった。この記録はまとめサイトに今でも残っているし、文献[3]の巻末には全文掲載されている。顔が不細工で金もないために彼女ができず、そのために負け続きの人生で、ネットでもリアルでも孤独で、仕事はクビになりそう、ってなことが、ぐちぐちぐちぐち放り投げられている。

しかし、それを読むと、「闇」と呼ぶには拍子抜けするくらい、俗っぽくて凡庸だ。誰も反応してくれないところへ、変な思い込みを繰り返し繰り返し吐き出すことで、あたかも自己説得するような効果で思い込みが固着していく過程や、幸せそうな人たちへの執拗な嫉妬心には、多少病的なものを感じなくもない。けど、その程度である。

森達也氏は加藤容疑者の内面について「多少は腑に落ちる。でも実感はできない」[2]とまとめている。「たとえば派遣労働の焦燥、学歴社会の落ちこぼれ感、そこから醸成された社会への激しい憎悪、あるいは不条理なまでに厳しかった両親への反発、恋人ができないことから敵意へと反転した過剰な自己愛。なるほどとうなずくことはできても、殺傷理由として決定的な感じがしない、隔靴掻痒の感覚が続いている」という。

また、柳下毅一郎氏はもっと身も蓋もなく「だいたいにおいて殺人って中途半端な人間がやらかすんです。僕はアウトサイド・アート的なものを求めて、殺人者の書いた本とか読むことがあるんですけど、ほんとの意味でこちらを感動させてくれることというのは滅多にないんですよ。現実にはほんとうの芸術家のほうが明らかに狂気度が高いし、それでいてちゃんと表現にもなっている。人を殺す人って、むしろ自分の狂気をちゃんと突き詰められない人なんです」[1]と心の闇幻想を打ち砕いてくれている。

本田透氏に至っては、「どこかで読んだことのある文章でしたよね……。『コレ、俺が書いたのか』って思いましたもの」[1]だそうで。つまり、あんな事件起こすにしては心のありようが普通すぎるってとこが、どうにも腑に落ちないのである。闇ってたったのこれだけ? みたいな。

関係ないけど、'03年11月に起きた大阪家族殺傷事件では、共犯者として逮捕された高校一年の女子生徒のウェブサイトが、いい感じの闇を映し出していた。さすがは大阪芸大に通う犯人の彼女だけある。詩がとても素敵だ。サイトはもう消えているが、私は丸ごといただいて、USBメモリに入れて、ずっと肌身離さず持ち歩いている。もっとも、病はおそらく特異なものではなく、よく見かける境界性人格障害なんだけど。

以上3点を鑑みると、この事件は、ものの2〜3ヶ月ですべて語り尽くされちゃって、いまさら蒸し返してももう何も出てこないのではないかと思われるくらい、底が浅いものだったと感じられる。そういうわけだから、なぜ私が今回、あえてこの話題を取り上げたかという理由から説明を始めなくてはなるまい。

……いや、そんなことしてたら終わらなくなっちゃうんで、手短に言うと、この事件について社会学者などの言論人が専門的に分析して論じた本が立て続けに出版されたことによって、社会の側の問題点や社会そのものが患っているともいえる病理にようやく光が当てられ始めた感じがして、そこには耳を傾ける価値があるのではないかと思えたからである。実際どの本も、たいへん内容が濃く、教わるところ大なるものがあった。ここで内容を細部まで紹介している余裕はないので、興味のある方にはぜひご一読をお薦めしたい。

●病理性なかった〜予想外の精神鑑定結果

上記[1]〜[3]の文献は、いずれも加藤容疑者の精神鑑定結果が出る前に執筆されたものだから、当然、その結果は踏まえられていない。その点は、これから論じていくべきところだと思う。

東京地検は7月7日(月)、3ヶ月間にわたる加藤容疑者の精神鑑定を東京地裁に請求し、認められた。起訴前に鑑定医による本格的な精神鑑定を実施しようとした狙いは、公判の争点が事実関係にはなく、責任能力の有無に絞られる見通しから、公判を迅速に進めるためとみられる。

10月6日(月)に返された結果は、加藤容疑者の完全責任能力を認定するもので、事件当時も現時点でも、精神疾患や人格障害でないとするものであった。これを受けて、東京地検は10日(金)、加藤容疑者を殺人や殺人未遂、公務執行妨害などの罪で東京地裁に起訴した。

私のようなド素人が、精神鑑定の真似事などをして遊ぶのは本来慎むべきことなのだが、そこを承知の上で、自分の理解度を試すつもりで予想してみた結果は、面目なくも大ハズレだった。実は、けっこうショックなんである。当てる自信、密かにかなりあったんで。私は、軽度の統合失調症型人格障害を予想していた。そうでないとしたら、自己愛性人格障害かと。ほぼ間違いなく、この二つのうちのどちらかだろうと思っていた。

人格障害というのは、はっきりと精神疾患とまでは言い切れないけど、単なる性格の一類型とみなすにはやや病理的と言わざるを得ない、中間的な状態である。犯罪者が精神鑑定の結果、人格障害と判定されれば、たいていの場合、責任能力は100%あったとされ、減刑対象にはならない。精神科にかかった一般の外来患者が人格障害と判定されれば、たいていの場合、薬が処方される。

人格障害には10類型ある。このうち1〜3がクラスタAとしてくくられ、4〜7がクラスタB、8〜10がクラスタCである。クラスタAは「風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがち」という特徴があり、「妄想性人格障害」「統合失調質人格障害」「統合失調型人格障害」の3類型からなる。クラスタBは「感情の混乱が激しく演技的で情緒的」という特徴があり、「反社会性人格障害」「境界性人格障害」「演技性人格障害」「自己愛性人格障害」の4類型からなる。クラスタCは「不安や恐怖心が強い」という特徴があるが、本件とはあまり関係ない。

加藤容疑者は、6月5日(木)の朝、作業場に行ったらツナギがなかったと言っているが、それを「誰かが隠した」「辞めろというメッセージ」と決めつけて受け取り、それ以外の可能性をはなから排除している。この辺に、統合失調症的な関係念慮がにおうと私には感じられた。また、自分の顔が不細工で、そのせいで彼女ができないという思い込みについても、そういう側面も多分にあるだろうな、という程度ならいいが、それがすべてで、それ以外の可能性はない、というところまで凝り固まっていると、やはり統合失調症の気配が漂う。しかし、総合的には、言っていることに一貫性があり、支離滅裂感がほとんどないので、非常に軽度なんだろうな、と。それで、人格障害のクラスタAなのではないか、と。

一方、加藤容疑者の書込みには、字義通りには受け取れない、どこか芝居じみたところがある。6月4日(水)に「ひぐらしとGTAを買っておかないと」と書いているが、どちらも虐殺や犯罪のシーンを伴う猟奇的なゲームである。東浩紀氏は「二つのゲームともに、数日でクリアできるものではなく、この影響を受けて事件を起こしたとは考えづらい。むしろ、書込みの時点ですでに凶行の意思を固めており、事件後のゲームバッシングを先読みした上で、マスコミを挑発するようにわざわざ事件と似た内容のタイトルを自宅に置こうとした、と理解するのが自然だろう」[1]と指摘している。

秋葉原を犯行現場に選んだ理由も、同じことが成り立ちうる。あの書込みの相当の部分が本心ではなく、犯行後の観客を意識したお芝居だったのだとすると、人格障害のクラスタBが疑わしい。

斉藤環氏は「負け組意識をもつ若者の多くは、いったん負け組認定されたら、そのラベリングは一生変わらないという思い込みに捉われているが、実はこれは自己愛のひとつの形式である」[1]と述べている。そう考えると、やはりクラスタBの自己愛性人格障害ではないか、と思えてくる。まあ、そういうわけで、人格障害ですらない、という判定は、私にとって、完全に考慮の域外であった。下手すると俺のほうが加藤容疑者よりもまだ病んでたってことだってありうるぞ。

私は、凶悪事件が起きたら犯人の「心の闇」の部分が、精神病理的な側面から十分に掘り下げられるべきであり、その結果得られた知見は一般の人々にももっと共有されるべきであり、それによって見当違いのスケープゴートによる差別を防いだり、得られた教訓を社会に還元したりできるのではないか、という意見をもっている。

ただ、精神病理学の領域は、一般の人々にはなじみが薄いため、下手に触れると誤解を生みやすく、デリケートな話題ではある。テレビや新聞などのマスメディアでは、取り上げづらいかもしれない。もし、精神鑑定の結果、犯人がたとえば統合失調症だとか、自閉症だとか、境界性人格障害だとか、判定が下されたとして、それを大きく公表しちゃうと、同じ診断を下された人たちが犯罪者予備軍とみなされて、差別や迫害が起きかねない。また、自分や家族がちょっと精神的に不調で精神科医にかかったてみたら、凶悪犯と同じ診断が下されちゃった、なんてことになったら、絶望的な気分に陥るかもしれない。

本来だったら、そういう誤解を避けるための正しい知識も含めて広く伝達・共有されるのが望ましいのだけれど、現実には難しそうだ。よく、子供にあまり耳慣れない名前をつけると、そのことで学校などでいじめにあうから、そのような名前をつけるべきではない、という議論を聞く。本来ならば、変わった名前の子がいたからといって、そのことでいじめるという行為のほうが間違っているのであって、変わった名前をつけたこと自体が悪かったわけではないはずだ。だけど、現実にいじめが起きるのだとすれば、変わった命名を避けるというのは防衛手段として有効だという議論は成り立ちうる。

同じロジックで、凶悪犯がたとえば統合失調症だと判定されたからといって、統合失調症の人全部を犯罪予備軍のように言って差別するのは間違っている。しかし、実際にそのような差別が起きるだろうと予想できてしまうのだとすれば、精神鑑定の結果を大々的に公表するのを控えるべきだというのも、社会的弱者の保護の観点から仕方あるまい、という議論が成り立ちうる。

だとしたら、情報の共有は、短絡的な思考に走らず、ものごとを冷静に客観的にみる素養をもった人々の間でなされるのが望ましいと言えそうだ。それには、固〜い学術的なタイトルを冠した紙媒体の出版物あたりがふさわしい出番なのかもしれない。

……ってなことが言いたかったのだが、しかし、この事件に限っては、犯人の心の闇の部分、つまり精神の病理的なところが全然なかったとは。「面白みのない事件」などと言ってはあまりにも不謹慎だが、心の闇に光を当てるべきだという議論が、足場を失った感じは否めない。こうなると、「誰でもよかった」というフレーズは、被害者だけでなく、加害者にも当てはまってくるのだろうな、という不気味さが漂い始める。ヤツがやらなくても、他の誰かがやったのかも、という……。

ところで、来年5月から裁判員の司法参加がスタートすることになっているが、私はたいへん不安である。本件などは、争点がほとんどなく、簡単なほうかもしれないが、それでも、人の生死を左右する裁判であるから、万が一にも間違いがあってはならない。慎重の上にも慎重を期するべきだと思う。容疑者の経歴や家族・交友関係にまで深く立ち入って、精神状態の領域まで踏み込んで、すべてを洗いつくして疑問点が残らないところまで持っていくべきだろう。場合によっては精神鑑定のやりなおしを求める、なんていう方向性だって考えなくちゃいけないかもしれない。

ところがネット上に投げられている意見には、「精神鑑定なんかそもそも要らない。厳罰に処して、犯人がどんなことをしたのか思い知らせてやればいい」みたいな乱暴なのが、よく見られる。まあ、一般市民としての感情の投げ出しならこれでいいのだけれど、もし同じ感覚をそのまま司法の場に持ち込まれたら、たいへんまずかろう。たとえていうならば、「風邪をひかないように手を洗い、うがいをしましょう」のレベルと、「風邪のウィルスを電子顕微鏡で観察し、生態を研究しましょう」のレベルくらいのギャップを感じる。たいへん不安である。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。11月30日(日)は、京成バラ園でコスプレイベントがあった。かなり広大なバラ園で、コス撮影にはめちゃめちゃいい場所だが、ここがコスプレイベント会場として使われるのは、初めてのこと。花の盛りは過ぎていたけど、「ローゼンメイデン」「マリア様がみてる」「ベルサイユのばら」など、バラにちなんだ作品のコスが花盛りで大いににぎわった。/12月13日(土)はべちおサマンサさんたちと飲む。べちおさんは、どこぞの新興宗教団体の教祖様かと思わせる風貌で、二次会のカラオケではめちゃめちゃパワフルなノリですんげ〜迫力。大いに笑わせてもらった。/大風邪が流行ればカラオケ屋が儲からない。……分かりやすい因果関係のたとえ。

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