わが逃走[37]右も左もわかりませんが…の巻/齋藤 浩

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先日、山形県知事選で負けた候補者の名前がサイトウヒロシで、同じ日に強制わいせつで逮捕された教師がサイトウヒロシだったそうですね。

みなさんこんにちは、齋藤浩です。さて今回は、幼い頃の話をさせてください。年始に実家に帰って思い出したのですが、私は幼少の頃、というか、けっこう大きくなるまで右と左の関係がよくわからなかったのです。

それはものの例えなどではなく、本当に左側と右側を認識できなかったのです。今でも右に曲がるつもりでうっかり左折してしまったり、左目を閉じるつもりでうっかり両目を閉じてしまったりするのは、その頃の名残なのでしょうか。そんな訳で、今週もまたサイトウヒロシの四方山話につきあってもらう。


1●右と左

幼稚園に入るか入らないかの頃、右と左の概念がまったく理解できなかった。一般的に箸を持つ方が右、茶碗を持つ方が左と教育されるものだが、では箸を左手で持ち続けていれば、いつか左手は右手になるのかとか、両手で茶碗を持ち続けると、いつのまにか自分の手は右手でも左手でもなくなってしまうのかと不安だったのだ。

道路は右側を歩けという。幼稚園に向かって右側には畑、左側には用水路があったとする。行きはいいとして、帰りになると何故か右と左が逆転しているのだ。わからなかった。

朝は畑が右と言われ、午後は用水路の方が右と言われる。時間帯によって右と左が変わるのだとしたら、その境目はいつなのか。私にとっては行きの風景も帰りの風景も同じなのに、大人にはその違いが瞬時にわかるらしい。

その違いはどこで見極めるのか。母に尋ねてみたものの、ボキャブラリーの少ない幼児にはその疑問の主旨をうまく伝えることができない。結局、箸と茶碗の関係以上の回答は得ることができず、納得できないまま話題を終えた。

ある日、母が「外車は左ハンドルだからかっこいい」と言ったのだが、向かってくる国産車のハンドルはなぜか左側についてたりするし、去ってゆく外車のハンドルも左側についている。

たまに見かけるジャガーは、日によって右ハンドルだったり左ハンドルだったりするもんだから(注:本国仕様車と米国仕様車を別の日に見かけただけのこと)、もう訳がわからない。

いつの間にか「どっちが右?」「左ってこっち?」と母に聞くと「なんでまだわからないの!」と怒られるようになった。で、怒られるのがコワくて聞けなくなってしまったのだ。

そうこうしているうちに、小学生になった。左右の関係も、その頃になると漠然とだがわかるようになったのだが、まだ確信を持てる域までは達していなかった。

とはいえ、なんだかんだで8割の確率で当たるようになってきたので、ああ、大人の人はこうしてだんだん左右の感覚が身についてくるんだなあ、なんて思っていたのだ。

そんないい加減な知識のまま、オレはなんと小学3年生になってしまったのだ!3年生にもなって右と左がどっちだかわからないなんて問題だなあ!!

そんなある日、私は同じクラスの鉄道少年・H川君と一緒に東京・神田の交通博物館に行こうという話で盛り上がった。で、O宮駅から電車に乗って、秋葉原駅のどっち側に降りるのか? ということになったところ、彼はこう答えたのだ。

「進行方向右側だよ」

なるほど! そのひと言ですべての謎が解けたのだ! 目からウロコとはこういうことだったのか!!! その日の帰り道、私は学校を背に、進行方向右側を歩いて家路についた。まるで長い長いトンネルを抜けたかのような爽快感。空は美しく晴れ渡り、初夏のような陽気だったと記憶している。

2●円と球

右と左の話はかなり切実な問題だったが、これから語る円と球の話は、ただの思い込みである。

さて、皆さんは唱歌『月』をご存知だろうか。「でたでた月が まあるいまあるいまんまるい ぼーんのような月が」聞けば、誰でも思い出すであろう、あの歌だ。

で、実は私、永らく「ぼーんのような月」を「boneのような月」、即ち頭蓋骨のような月という意味だと思っていたのである。

なんでここだけ英語なんだ? と気にはなってはいたものの、まさかぼーんが盆だったとはねー。だったら「お盆のような月」にすればいいと思うのだが。そもそも月は球体で、盆は円盤である。全く形状が異なるではないか。

円盤と比較すれば、頭蓋骨の方がまだ月の形態に近いとオレは今でも思っている。が、世の中は“まるい”形であれば、それが円だろうが球だろうが構わないらしい。その感覚がまったく理解できない。

ちなみにぼーんが盆だと知ったのは小学6年生のときだ。幸い『右と左』に比べてさしたる問題ではなかったため、日常生活にはとくに支障はなかったと記憶している。

次。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味の慣用句『目を皿のようにする』について。

どうやら目をまんまるに見開いた表情のことをいうそうですね。私は20代の後半、小林亜星出演のCM(注:パッとサイデリア)を見るまで、皿を側面から見たように目を細めた表情のことだと思っていたのです。

そもそも目は球で皿は円盤、まったく形状が異なるじゃないか。目が皿になるということは、即ち球が円盤に変形するということだ。であれば、球体の天地の幅が縮んでいって円盤になると考えるのは、ごく自然だと思うのだが、いかがか。

たとえば物をなくした際、「目を皿のようにして探してみろ」などと言われたもんだが、そのときの表情をイメージするに、やはり目を見開くよりも、眉間にしわを寄せ目を細めているように思えるのだ。世の中は“まるい”形であれば、それが円だろうが球だろうが構わないらしい。その感覚がまったく理解できない。

ちなみにこの件も『右と左』に比べてさしたる問題ではなかったため、日常生活にはとくに支障はなかったが。

うーん、この立体を平面ととらえる感覚、日本人のDNAがそうさせているのであろうか。考えてみれば、浮世絵や日本画に登場する月は確かに円として描かれている気がするし、アニメのキャラクターのデカイ目も円の集合体として記号化されているような気がする。

そんなことをだらだらと考えていると、空飛ぶ円盤も、実は空飛ぶボールなのかもしれないなどと思えてきた。円盤だと信じていたからミステリアスだったけど、あれが球だったら興ざめだなあ。

そういえば“葉巻型円盤”なんてのも昔はよく飛んでたらしいが、葉巻型って時点でそれは円柱ではないか。これも日本人ならではの形状把握感覚なのだろうか。

いずれにせよ、世の中には円盤も球も円錐も円柱も存在していることは事実だが、それらすべてを“まるいもの”として処理されることが多いのも事実。だからといって、別段困る人もそんなにいないというのも事実らしい。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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