映画と夜と音楽と…[408]男たちの哀しき欲望
── 十河 進 ──

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●「かぶりつき人生」と「あの胸にもう一度」を見た年

──凄いぞ。革のつなぎのライダースーツの下は何も着てないんやぞ。そのチャックのリングを口でくわえてドロンが脱がせるんや。

性欲の塊のような新聞部部長のTが興奮した口調でそう言ったのは、高校二年の夏前のことだったろうか。彼は、ドロンと同じことがしたくてたまらないというように身悶えた。後に彼は大手出版社に入り、誰彼かまわず女性に手を出していたそうだが、その異常性欲が身を滅ぼしたという噂は聞いていない。まあ、結局はひとつの生き方だったのだろう。

ただし、その当時の僕も人並みに性的なものに対して敏感だったから、Tが大騒ぎする映画に興味が湧いたのは事実だった。それに、その映画は新聞の映画評で芸術的価値を認められていた。原作は白水社から「世界の現代文学」の一冊として出版されていたマンディアルグの「オートバイ」という小説だ。そのシリーズでは「ライ麦畑でつかまえて」も出ていた。「かぶりつき人生」(1968年)というタイトルの映画を見にいくのとは訳が違う。

新編 かぶりつき人生 (河出文庫)しかし、その年の春、僕が「かぶりつき人生」を見にいったのは、決して下世話な興味があったからではなかったと断言しておきたい。原作は後に谷崎賞までとった田中小実昌さん(通称コミさん。後年、ゴールデン街の酒場で見かけたときは緊張した)であったし、監督は後に数々の名作を作る神代辰巳だった。彼の監督デビュー作を封切りで見る幸運に僕は恵まれたのだ。それもスケベごころのおかげ……(あっ、しまった)。



まあ、そんなことで、僕もTが大騒ぎする映画を見にいった。その映画にはアラン・ドロンが出ていたから、本当なら僕はすぐに見にいくべきだったのだ。しかし、その映画が何となくイヤラシソーだったので、二の足を踏んでいたのである。当時の僕は興味がありながら、性的なものに反発するという妙な潔癖さを抱え込んでいた。

13歳のときに見た「太陽がいっぱい」(1960年)でドロンのファンになり、前年に公開された「冒険者たち」(1967年)で僕のドロン熱は最高潮を迎えていた。しかし、その映画のドロンは、僕をガッカリさせるだろうという予感があったのだ。テレビの映画紹介番組などで流れる映像から、僕はドロンの色事師めいた面が強調される映画だとわかっていた。

あの胸にもういちど デラックス・エディション [DVD]案の定、「あの胸にもう一度」(1968年)のドロンは、僕をガッカリさせた。性的なものに潔癖な少年が不倫を許せるはずがないし、人妻になった女と逢瀬を重ね、にやけた顔でライダースーツを脱がしていくドロンには目を背けたくなった。もっとも、映画はマリアンヌ・フェイスフルが中心で、ドロンの出番はそんなに多くはなかったけれど……。

ヒロイン(マリアンヌ・フェイスフル)は、結婚前から関係が続いている大学教授(アラン・ドロン)に会うために大型オートバイを走らせる。その間に回想があり、男に抱かれる想像が挿入される。たぶん今から見れば、そう大したセックスシーンではないのだろうが、描き方が耽美的でアンモラルな罪を犯すような雰囲気があった。

僕が驚いたのは、数年前に「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」という曲をヒットさせたマリアンヌ・フェイスフルの大胆な脱ぎっぷりとセックスシーンである。「あの胸にもう一度」を見て以来、マリアンヌ・フェイスフルは純情派から性的に解放されたブァンプ派になった。ラストシーンの衝撃も凄かった。今でもドロンがファスナーのリングをくわえてライダースーツを脱がすシーンとラストシーンは鮮やかに甦る。

●マリアンヌ・フェイスフルとの40年ぶりの再会

40年ぶりにマリアンヌ・フェイスフルに再会したとき、僕は「嘘だろう」と思った。22歳の美女が、いきなり60過ぎの太ったおばさんになって現れたのだ。元々、彼女の面立ちを明確に憶えてはいなかったが、どこにも昔の面影を見出せなかった。まず、体型がまったく違う。スリムでスレンダーな肢体……、「あの胸にもう一度」の印象はそれだった。でなければ、身体にぴったり張り付くような黒革のライダースーツなど似合うはずもない。

しかし、スクリーンに映っている女優は、太った身体に安物の厚手のコートをかぶり、みっともない歩き方をするおばさんだった。ほっぺたは膨らみ、二重顎が目立つ。ロンドン郊外の村に住む労働階級の未亡人という設定だから、ことさら貧乏くさい恰好をしているのかもしれないが、それにしても「ええー」と僕は声を出しそうになった。

そのおばさんは、無愛想な息子が運転する自動車で病院にいく。病院で待っているのは可愛い少年だ。「おばあちゃん」と少年が喜ぶ。そのいくつかのシーンだけで、そのおばさんが少年をいかに愛しているかが伝わり、息子の嫁とのぎくしゃくした関係や孫である少年が難病で命が危ないということがわかる。的確でオーソドックスなオープニングだった。

やわらかい手 スペシャル・エディション [DVD]その映画のタイトル「やわらかい手」(2007年)を聞いただけでは、どんな映画なのか想像はできないだろう。「Irina Palm(イリーナの掌)」というのが原題だが、これからどんな物語が思い浮かぶ? 僕は朝日新聞掲載の沢木耕太郎さんの映画コラム「銀の森」で紹介されていたので、内容的な予備知識はあったけれど予想外の展開に驚いた。

主人公マギーの孫は、オーストラリアの専門病院でしか治療はできないと宣言される。6週間以内に渡航しないと間に合わない。だが、費用は大金だ。治療費のために自宅も手放しアパート暮らしの息子夫婦には、とてもそんなお金はない。銀行ローンも断られ、マギーも職を探すがどこへいっても「何の資格もなく、あなたの歳では無理だ」とにべもない。

そんなとき、繁華街の風俗店の「接客業、高給保証」という張り紙を見る。応募したマギーにやくざっぽいオーナーは「接客業とは弁護士に教わった遠回しな言い方。つまり、売春婦だ」と教える。マギーは帰ろうとするが、オーナーはマギーの手を「見せてみろ」と子細に観察する。そして、オーナーが連れていったのは、壁に小さな穴が空いている殺風景な部屋だった。

●日本の風俗店が「やわらかい手」の発想の源になった

オーナーは「東京で見て、ロンドンで俺が作った」と自慢するように言うが、そんな風俗店が新宿歌舞伎町あたりにあるのを僕も聞いたことがある。壁の穴は、男が立ち上がったときの股間の位置に開けられている。身長差はあるだろうから、中には台に乗ってその穴に腰の位置を合わせる男もいるだろう。

客は壁の向こうに立ち、穴に自分の性器を差し込む。マギーの仕事は、ローションをつけた手でそれをやさしく愛撫し射精させることなのだと説明される。オーナーはマギーの掌がその仕事に向いていると見抜き「稼げる」と言う。マギーは驚き一度は逃げ帰るが、孫のためにと引き受ける。

マギーは「イリーナ」という源氏名を付けられ、「イリーナの掌」は評判になる。男たちがイリーナのボックスに列を作る。オーナーはその列を見て自分もマギーの手を試し「絶品だ」と言う。そのオーナーにつけ込むようにマギーは借金を申し込む。6000ポンド。オーナーは了解し、マギーは借金を返すまで、一日何十本という男たちの性器を愛撫し射精させることになる。

壁に向かう男たちを描いたシーンがある。俯瞰で撮られたショットだ。壁にぴったりと身をくっつけ、壁の上部に設置されたバーを両手でつかんでいる。男たちが身悶えする。バーをつかむ手に力が入る。ズボンを下げ、性器だけを壁の向こうに突きだし腰を振る。そんな男たちのシーンに、僕は哀しみを感じた。

60過ぎのおばさんだとは誰も思わず、その手の感触だけを求めて男たちは列を作る。手っ取り早く安く欲望の処理ができるシステムだが、「男って哀しいなあ」と思うほかない。そんなところへいくくらいなら、僕は欲望を我慢する。順番を待って並ぶ自分がみじめになるに違いない。射精した後の虚しさが身に沁みるだろう。そんなみじめさに甘んじ、自尊心を棄てるほどの価値を僕は己の欲望の充足に見出さない。

僕は「やわらかい手」のイリーナの穴の前に列を作る男たちを軽蔑しているのではない。そんな風に処理しなければ、我慢できない男たちの欲望が哀しいだけだ。僕はきっとそんな列には並ばないだろうけれど、男たちに対する共感もあるし、同情や憐れみもある。人ごとだとは思えない。「ああ、それにしても性欲……」と天を仰ぎたくなる。

それは、愛妻アンナ・カリーナに去られたジャン・リュック・ゴダールの嘆きだった。天才的映画監督も己の性欲には手を焼いたのだ。性欲がなければこの世はどれだけ平和だろう。少なくとも性犯罪はなくなる。しかし、性欲がなくなれば繁殖がなくなり、人類は滅ぶ。もっとも、現在では性欲は繁殖のためのものではなくなった。性欲そのものを充たすために性欲があるのなら、なくったっていいんじゃないか。

もちろん、欲望の強さには個人差がある。前述の新聞部のTは本当に性欲の塊のような男で、そういう男だからなのか、よくもてた。友だちの恋人や奥さんを寝取り、ばれて友だちをなくした。性欲が友情を裏切らせるのだ。欲望を充足させるために人でなしになる。僕は、彼のように欲望が強くなかったことを喜んだ。強い欲望を持つことは、欲望を充たすために人生を費やすことになるからだ。

さて、評判になったイリーナことマギーは、ライバルの性風俗店のオーナーに好条件で引き抜きをかけられる。オーナーに話をすると「いつから移るんだ」とクールに言われ、「あなたにとって私は何なの?」と不満を漏らす。オーナーを演じるミキ・マノイロヴィッチがいい。マギーに「金を返さなければ殺す」と脅すような男だが、次第にマギーに惹かれていく気持ちをクールな表情の中に見せる。

「やわらかい手」はマギーが選んだ仕事が特殊なものだったが故に、周囲に様々な波紋を広げる。近所に住む老嬢の友人たち、死んだ夫、息子夫婦、オーナー、マギーに仕事を教えるシングルマザーの風俗譲など、彼女を取り巻く人々の気持ちが顕わになり、変化する。だが、可愛い孫の命を救うというマギーの目的は変わらない。だから、この映画はとても後味がいい。

マリアンヌ・フェイスフル……、一時はローリング・ストーンズのミック・ジャガーの恋人でもあったが、今や完全にデブのおばさんになった。だが、「やわらかい手」のマギーの何と魅力的なことか。「あの胸にもう一度」の彼女の顔は思い出せないが、「やわらかい手」のマギーのだぶついた頬を忘れることはないだろう。

彼女は男たちの欲望を充たす仕事を続ける中で強くなり、人を許せる寛容さを身に付けていく。男たちの哀しき欲望を包み込む慈母のように……。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
そろそろ花粉の季節。アレルギーを抑える薬はずっと飲んでいるが、今年はどうなるだろう。電車の中も町の中もマスクをした人が増えている。僕はマスクが嫌いで、あまりしたくはないのだだけれど……。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 文体練習 ジャンク・スタイル―世界にひとつの心地よい部屋 (コロナ・ブックス) (コロナ・ブックス) ねにもつタイプ ちょっとネコぼけ

by G-Tools , 2009/02/13