ショート・ストーリーのKUNI[55]靴/やましたくにこ

投稿:  著者:  読了時間:6分(本文:約2,500文字)


ある日、ゴーダさんはいつもはいている靴に、どうも穴が開いているようだと気づいた。最近、雨の中を歩いていると確実に右足の靴下がぬれてくる。しかも、ぬれ方が少しずつ拡大しつつある。

そこで、その日もいまにも雨が降りそうな空模様だったので早々に散歩をすませて家に帰ると、靴をひっくりかえしてしげしげと眺めた。案の定、何か鋭利なものでも踏んだのか、裂けたような穴がひとつある。

ゴーダさんは靴をしょっちゅう買うひとではない。いったん買うと毎日、そればかりはく。何らかの支障が出るまで。今回は雨が降ると困るという支障が生じたわけだが、雨が降らない日は困らないわけだ。だから、まだはける。でも、新聞の天気予報を見ると翌日もその翌日も雨だ。

困った。ゴーダさんは下駄箱の扉を開け、その前に座り込んだ。中途半端に履き古した靴が何足か並んでいる。そのうちの一足を手に取る。黒の柔らかい合成皮革。かかとは右足は右側、左足は左側がよく減っているが、穴は開いていないようだ。いまの靴の前の前に履いていたやつだ。たぶん。



ゴーダさんは短くて2年、長いとそれ以上ひとつの靴をはき続けるので、そうすると4年以上前にはいてた靴だろう。人によってはもっと早いサイクルで靴をはきつぶすが、ゴーダさんはとてもつつましい歩き方をするので、どうしても靴が長持ちするのだ。

ゴーダさんはおそるおそる足を入れてみた。不思議な感触がもわっと足を包んだ。そのままひとあし、ふたあし、歩いてみる。靴のかかとはすでにゴーダさんの足にあわせたすり減り方をして、横幅はゴーダさんの足の形にあわせて変形している。甲に走る横皺もゴーダさんの日々の習慣がもたらしたものだろう。なのに、どうしてこんなに違和感があるのか。それが4年間なのかと思う。

自分はこんな靴を毎日はいていたのか? 不思議だ。とても不思議だ。でも、その違和感はひとあしごとにみるみるなくなっていくのが、また不思議である。ゴーダさんはどんどん歩き出す。いや、靴がゴーダさんを運んでいるのだ、どこへ?

靴はゴーダさんを玄関からマンションのエレベーターホールへ、エレベーターを7階から下に降り、そこから駅に通じる道へと連れて行く。おい、おいちょっと待ってくれ。ゴーダさんが小声でつぶやいても靴には聞こえないようだ。

気がつけばゴーダさんは地下鉄に乗り、私鉄に乗り換え、7つ目の駅で降りて歩き出している。そのときには靴はすっかりなじんで、何の違和感もない。どうしてこの靴をはかなくなったのかが、不思議に思える。

「あら、やだ! ゴーダさんじゃない! なんで! なんでここにいるのよ!」
目の前の中年女が言う。たった今、ゴミを出しに行って戻ってきたばかりという風情だ。
「ひょっとして…あたしに会いに来たの?」
「そう…かもしれない」
「はずかし〜。すっぴんだし。でも、あたしとあんたの間で、いまさらどうってことないわね。きゃーほんとにひさしぶり。それに、こんな夕方に」
「まあな」
二人はそのまま並んで歩き出す。歩きながら話す。

「元気だった? どうしてたの? あたしのほうは全然。よくも悪くも、全然。もうこんなものかなと思ってるけど」
「おれのほうもだよ」
「ゴーダさんもね、どっちかというと損する人だからね、そうじゃない? ほら、ペンギン見てるとゴーダさんを思い出すの」
「おれを?」
「うん、ほんと、ペンギンなのよ。うまくいえないけど、ああ、ゴーダさんだなーって、いつも思うのよ。ペンギンにもいろいろ種類があって、あたしの好きなのはイワトビペンギンなんだけど、あ、ゴーダさんはそれじゃないね。うん、イワトビじゃないのよ。で、ペンギンって、水の中を泳いでるときはおなかがまんまるなのよね。風船みたい。そうそう、話変わるけど、お風呂にじーっと長いこと入ってると、体中に細かな泡のつぶつぶがいっぱいつくでしょ。びっくり」
「ああ、つくつく」
「自分が子持昆布になったみたいなの」
「ははは」
「それでね、頃合いを見計らって、それをさーっと手で払うの。そしたらしゅわしゅわしゅわ〜って消えていくのがおもしろいの」
「わかるわかる」
「だけど最近、あたし太ったみたいなの」
「え、そうかい? そうはみえないけど」
「ペンギンで思い出したけど、あたし、『さよならペンギン』ていう絵本持ってた」
「ああ、うん」
「変な絵本でね。姪っ子が遊びにきたときにあげちゃったけど、なんであんな絵本持ってたんだろ?」
「それ…おれがプレゼントしたんだよ」
「え、うそ?! ほんと? 傷ついた? ごめん」
「いや…いいさ」
「なんで太ったかというと、夜中にピーナツ食べながら推理小説読むのよ」
「それはよくないな」
「死んだ父はピーナツを高く投げ上げて、それをうまく口に入れてたわ。あたしたちきょうだいはみんな一生懸命まねしたものよ。ぽーん、と投げて、ひゅっ、と受けるの。ぽーん、ひゅっ」
「で、なんでおれがペンギンなんだよ」
「あ、ねえ、そこで占いやってる人がいるよ。みてもらおうよ」
「占い?」
女はもう、道ばたに座って店を出している占い師のところにどんどん歩いていく。

「ねえ、占って。あたしとこの人の未来」
占い師はひげを生やした50代くらいの男で、ゴーダさんと女をじろりと見つめ、おもむろに拡大鏡を取り出す。それを使ってゴーダさんと女の手をじーっと見つめ、それから改めてふたりの顔を交互にまじまじと見る。

「あなたたちお二人はとてもお似合いです。結婚するべきです」
「きゃー、ほんと?」
女はけらけら笑い出す。
「しかし、妙なのは…」
占い師がゴーダさんの顔をじっと見て言う。
「あなたがここにいるようにみえて、実はいないことです」

すっかり暗くなった道を、ゴーダさんは靴に連れられて家に戻る。左足の小指のつけねが少し痛む。脱いだ靴を手にとって、そのあたりをのぞいてみるが、特になにかがあるというわけではない。でも、この靴をはいていたころ、いつも一日の終わりには左の小指の付け根が痛んだことを思い出した。

靴が悪いのか足が悪いのかはわからないが、それではかなくなったのだ。ゴーダさんはふたたび下駄箱の前に座り込んだ。下駄箱にはあと何足か、古びた靴がある。

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