[2604] モノクロームの女たち

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<ロリ服着てお出かけするのが男らしいか>

■映画と夜と音楽と…[412]
 モノクロームの女たち
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![92]
 ゴスロリイベント、「青い部屋」がロリィタたちで超満員に
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[412]
モノクロームの女たち

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20090313140200.html
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●自分の写真とは思えないほどモノクロームは美しかった

学生時代、四畳半の下宿で暗室作業にいそしんだ。フィルム現像は小型タンクでやっていたから、明るい部屋のままで大丈夫だった。どちらにしろフィルムをパトローネから取り出してタンクの中のローラーに巻き付けるのは、完全に光を遮断しなければならないから、お座敷暗室では無理なのである。だから、両手が入れられる黒い布が二重になったダークバッグを使った。

しかし、プリント作業なら多少の光の漏れは大丈夫だ。だから、僕はいつも夜になると雨戸を閉め光をシャッタアウトして、押入から暗室用具を取り出した。暗室ランプを柱に取り付け電源を入れると、部屋の中が赤い光で充たされる。小さなちゃぶ台に引き伸ばし機を載せ、イーゼルをセットする。引き伸ばしレンズをねじ込む。

畳に新聞紙を敷き、四つ切りのバットを三個並べる。最初のバットに現像液を注ぎ、二番目に停止液、三番目に定着液だ。部屋の隅にある炊事場の狭い流しにも水洗用のバットを置く。天井近くにロープを張り、水洗が終わったプリントを乾かせるように洗濯バサミのようなクリップをぶら下げた。

その準備が整うと、いよいよ作業開始だ。現像を終え乾燥させ6コマにカットしたネガフィルムをガラスの圧着板に挟み、フィルムのブレが出ないようにして引き伸ばし機にセットする。引き伸ばし機のランプを点灯させる。レンズの絞りは開放だ。引き伸ばし機の一番下の白いボードに拡大された像が映る。

そのネガ像を引き伸ばし用ルーペで確認し、レンズを調整してピントを合わせる。トリミングしたい場合はイーゼルをあてがってみる。これでいいとなったら、レンズの絞りを絞り込む。像が暗くなる。ランプを消し、光に当てないため黒いビニール袋に入れられた印画紙を手探りで取り出す。僕は三菱製紙のゲッコール硬調用紙を愛用した。光沢紙ではない。

印画紙をボードに置き、イーゼルのトリミング位置を合わせる。ここで息を整え、背筋を伸ばす。そのまま右手を引き伸ばし機の上に伸ばし、ランプのスイッチをオンにする。本当は厳密に露光時間を計らなければならないのだが、僕はいつも勘でやっていた。

露光時間が適切だったかどうかは、印画紙を現像液につけたときにわかる。露光があまりに過多だと、つけた瞬間に真っ黒に変わっていく。これは、引き伸ばしレンズを絞り込み忘れたときによくやった失敗だ。レンズを開放絞りのまま露光すると、印画紙に当たる光量が多すぎて印画紙は真っ黒になるのだ。

しかし、現像液に印画紙をつけ、しばらくして適正な露光のポジ像がフッと浮かび上がってきたときは、なにものにも代えがたい感激だ。だから、暗室作業を始めると、いつも徹夜になった。気が付くと、雨戸の隙間から朝の光が差し込んでいる。そうすると、ようやく僕は作業を終え、使用した現像液などをタンクに戻し、引き伸ばし機を片づけ、暗室ランプをオフにする。

雨戸を開けると、早朝の光がいっせいに差し込んでくる。その光の中でロープにクリップで吊されたプリントを見た。モノクロームのプリントをしみじみと眺めるのである。黒と白とグレイの階調だけで再現されたモノクロームは、美しかった。自分が撮影した写真とは思えなかった。

●スクリーンを飾ったモノクロ女優たちに逢える

僕は、モノクローム映画を偏愛している。特に1940年代から50年代のハリウッド映画、フランス映画が好みだ。出てくる俳優はハリウッドならハンフリー・ボガート、グレン・フォード、アラン・ラッド、リチャード・ウィドマークなどであり、フランスではジャン・ギャバン、リノ・ウァンチュラ、ミッシェル・コンスタンタンなどだ。

それらはフィルム・ノアールと呼ばれる映画群である。馳星周さんの「不夜城」が出て以来、「ノワール小説」という呼称が使われているが、僕はずっと「フィルム・ノアール」と書く。喫茶店チェーン「シャノアール(黒猫)」という名前で「ノアール=黒」と憶えたからではないか、と自己分析しているのだが本当のところはわからない。

「暗い画面が多いから」あるいは「暗黒街を描いているから」フィルム・ノアールと呼ばれたという説もあるようだが、フランスで「セリ・ノアール(暗黒叢書)」という犯罪小説のシリーズが発行され、映画も「フィルム・ノアール」と呼ばれるようになったと、昔、読んだ。フランス人は犯罪小説が好きなのかもしれない。犯罪小説を原作としたフィルム・ノアールにも数々の傑作がある。

ハリウッドでフィルム・ノアールとカテゴライズされる映画を大量に製造したのは、WBの文字をスーパーマンの胸のマークのようにデザインしたロゴで有名なワーナー・ブラザーズである。ジョン・ヒューストン、ハワード・ホークスといった監督たちが活躍した。巨匠というべきフリッツ・ラング監督も途中から参加した。

フリッツ・ラングは1919年に監督デビューし、サイレント時代からドイツ映画界で作品を作っていたが、ナチスの手を逃れてハリウッドに渡り、「暗黒街の弾痕」(1937年)「死刑執行人もまた死す」(1943年)などの名作を作った。特に「死刑執行人もまた死す」は全編にサスペンスが漲る映画で、僕はずっと手に汗握りながら見た。作劇術や演出力は時代を超えるのだと学んだ。

そのフリッツ・ラングの「復讐は俺に任せろ」(1953年)を、先日、DVDで見た。主演はグレン・フォード。このB級感がたまらない。タイトルに「ビッグ・ヒート」と出たので、「もしかしたらウィリアム・P・マッギヴァーンの原作かも」と思ったらアタリだった。フォードに続いてクレジットされた名前は、グロリア・グレアムである。

グロリア・グレアムについて映画評論家の山田宏一さんは「40〜50年代のモノクロ女優の中で、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない──それはグロリア・グレアムだった」と書いている。

その頃の暗黒映画を見る楽しみのひとつは、スクリーンを飾ったモノクロ女優たちに逢えることだ。カラー時代にまで生き残れなかった女優たちの輝いていたときが見られる。ジーン・ティアニー、ヴェロニカ・レイク、ラナ・ターナー、中でもグロリア・グレアムは僕のお気に入りだ。といっても、他にはハンフリー・ボガートと共演した「孤独な場所で」(1950年)しか見ていないのだけど…。

「復讐は俺に任せろ」のグロリア・グレアムは、若きリー・マーヴィンが演じるギャングの頭の軽そうな情婦役だったが、妻を殺された元刑事のグレン・フォードに惚れて協力する。だが、それを知ったリー・マーヴィンは怒り、沸騰しているコーヒーポットをつかんで彼女の顔にぶちまける。

リー・マーヴィンのサディストぶりは当時の映画としては凄まじいが、顔半分に火傷を負ったグロリア・グレアムが後半では劇の中心になる。前半のかわいい女が、後半では復讐に燃える女に変わるのだ。そんなグロリア・グレアムが気に入って、僕はもう一度再生ボタンを押した。そのとき、息子が部屋に入ってきた。彼は画面を見て、いけないことをしている父親を見付けたように、こう言った。

──黒白じゃん。古い映画、見てんだねぇ。

●昔の映像はすべてがモノクロームだった

昔、テレビも映画もモノクロームだった。映像は、すべてモノクロームだったのだ。我が家にカラーテレビが入ったのは、東京オリンピックの前だ。とすれば、僕は中学一年生である。アルバムに残っている写真がカラーになるのも、やはり中学生になってからである。小学生の頃の写真は、すべてモノクロームでしか残っていない。

僕が最初に見たカラー映画(総天然色映画)は何だったろう。「新諸国物語シリーズ」(1954〜57年)も「月光仮面シリーズ」(1958〜59年)もモノクロームだった。「総天然色」とポスターに書かれるくらい、その頃はまだカラー化は一般的ではなかった。メインの作品はカラーで、併映作品はモノクロームという時代も長かった。

日本映画で最初に総天然色とうたったのは、木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」(1951年)だった。主演は高峰秀子である。頭の弱いストリッパー役だから、デコちゃんは当時としては派手に脱いでいる。大きなバタフライ(通じるかなあ、この言葉)をしているのが、今見ると笑える。

「泥の河」(1981年)が公開されたのは、1982年だったと記憶している。当時はもうカラーが当たり前だったから、モノクローム作品は珍しかった。多くの観客は「お金がなかったからモノクロにしたのだろう」と思ったはずだ。しかし、その頃にはカラー作品よりモノクローム作品を作るほうがお金がかかるようになっていた。

それは写真でも同じで、カラーフィルムで撮影しカメラ店で現像とプリントを依頼すると、メーカーの現像所に送られ大量に処理される。だから、プリント料金はどんどん安くなった。しかし、カメラ店にモノクロフィルムの現像とプリントを頼むと、カラーよりずっと高い料金をとられるようになった。結局、需要と供給の関係が価格を決める。

「泥の河」の公開前、僕は監督の小栗康平さんをインタビューした。そのときに「みんな制作費がなくてモノクロームにしたと思っているようですよ」と振ってみると、「今じゃモノクロームの方が金かかるのにね」と監督は笑った。もちろん、監督は昭和30年という時代を表現するためにモノクロームを選択したのだ。

そうだとすると、最近の若い人たちがモノクロームの映像を見て「古い」と感じるのは故なきことではない。「モノクローム=古い」というイメージが定着しているのである。だけど、僕は今でもモノクロームの映像を見ると心が和む。暖かくなる。懐かしい。そこでどんなに悲惨な物語が展開されても、何か心を打つものがある。

特に、モノクロームの世界でしか逢えない女優たちの素晴らしさは、僕を魅了する。彼女たちは肌の色も、髪の色も、目の色も、すべてグレイトーンで描かれるだけだ。髪のグレイを見て、僕はブロンドなのかブルネットなのかを判断する。もしかしたら赤毛なのかもしれない、あるいはプラチナブロンドなのかも…と想像する。

何もかもリアルに再現し、すべてを見せてしまう映画より、色さえ想像しなければならないモノクロームの世界の魅力は棄てがたい。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
5、6年前には花粉など何ともなかったのに、段々ひどくなる。週末は部屋に籠もっていたが、片目に異物感があり、とうとう目があかなくなった。本も読めず、DVDも見られない。音楽を流し、目を閉じているだけだ。そうしていると、やっぱり眠くなる。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![92]
ゴスロリイベント、「青い部屋」がロリィタたちで超満員に

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20090313140100.html
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ファンタジーの世界を自由気ままに遊びまわる、純真無垢で無邪気な少女という白いイメージ、意地悪で邪悪で残酷でグロテスクなものを心に秘めた、孤独で背徳的なアブナイ少女という黒いイメージ、それらを矛盾なく融合させたのがゴスロリという世界。たぶん。そんな世界を、歌や演奏やお芝居や絵で表現するパフォーマーたちによるイベントがあった。

3月8日(日)、渋谷の「青い部屋」で開かれた「SERAPHITA」。イベント名は、バルザックの描いた両性具有の天使から? 会場は渋谷から青山方向へ7分ほど歩いたところの地下にあるライブハウスで、推理作家でありシャンソン歌手である戸川昌子さんが長年にわたって運営している。イベントをプロデュースしたのは、ミュージシャンのサエキけんぞう氏ともうお一方。

30〜40人ぐらい入れば大入りと言えそうなところに60人ほどがつめかけ、後ろのほうでは舞台の見えない通路にまで立ち見(立ち聞き? いや、入場料は払ってるし)が出ていたらしい。パフォーマーたちは、単に歌や演奏が上手いということではなく、表現力が抜群に豊かで、ゴスロリの美の世界はここにあるよ、と導いてくれる感じ。後でブログやmixi日記を読んでまわったら、「素敵だった」「感動した」「思わず涙がこみ上げた」など、大満足のコメントがずらり。いや、私も思った、ほんとによかったよ。

●ドレスコードは白ロリ

白のロリ服で来ると入場料が500円割引になるという特典あり。ロリ服大好きな私は、それで行けたらなぁと思うのだが、いかんせん、そういうものの似合わないこの身では、どうにもならず。戯れにmixi日記で「誰か白いロリ服貸してくれないか」と呼びかけたら、由良瓏砂さんから「宜しければお貸し致しますよ」とコメントが。

うわっち、無〜理無理無理無理っ。着てはみたいけど、人前に姿をさらす度胸のない、ヘタレでやんす。うかつなこと言った私がバカでした、すいませんすいませんすいません。って、前言を撤回するのは男らしくないけれど、じゃあロリ服着てお出かけするのが男らしいかと言えば、それもなんともかんともで、のっぴきならぬ二律背反に陥ってしまった。とかくこの世は住みにくい。

で、会場は、素敵に着飾った白ロリさんがいっぱい。はぁ〜、いいなぁ。白ロリが似合うなんて、なんかすんげーうらやましいぞっ。以前は白ロリというと薄手のコットン素材で冬には向かないイメージがあったけど、今は厚手の生地の白ロリ服というのもあるんだね。白地に白でうっすらと刺繍が入ってたりして、ああいいないいな、もう。あと、男性でも、ロリ服ではないけれど、ヨーロッパのどこかの国の年少の王子といった感じの、全身白で固めた方を見かけた。似合ってるし。か、かっこいい〜♪ あれならきっとドレスコード通ったに違いない。

●地下アイドルの歌にみんな静聴という異例の事態

最初の出演者は、地下アイドルの黒崎真音(まおん)さん。黒のゴスロリ服で登場。頭には紫の大きな花飾り。いつもだと、秋葉原にあるガラス張りの店「ディアステージ」で、ヲタ芸をするファンに囲まれて歌うのだが。この日の一曲目は、しっとりとしたスローテンポから、一気にガンガンなノリへと移行する曲。出だしを聞くだけで、歌のココロをしっかりとつかんでいる実力派だと分かる。

みんな、しーんと静まり返って聴き入っている。これはちょっと意外。秋葉原からヲタ芸師をぞろぞろと引き連れてきて、両サイドの壁際で激しいアクションを見せてくれて、他の来場者たちが目を白黒させる光景を期待していたのに。一曲目を歌い終わったあと、本人も「こんなに大勢の方々に静かに聴いていただけるのは初めてです」と感激していた。

このイベントをプロデュースしたサエキけんぞう氏は、フランスの歌をみずから訳詩して歌う本格的な歌い手であるが、そのサエキ氏がよりにもよって地下からアイドルを発掘して今回のイベントに起用するとは、ちょっと意外な感じがしなくもない。その辺のところはウェブ版「日刊サイゾー」のインタビュー記事で本人が説明している。

「サエキけんぞうが語る『地下アイドル』の魅力(前編・後編)」。
< http://www.cyzo.com/2009/02/post_1623.html
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< http://www.cyzo.com/2009/02/post_1625.html
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それによると、地下アイドル自体の存在はもともと2003年ごろから知っていたが、以前は「イタい、ダサい」というイメージだった、それが2008年になって基本的なパフォーマンスレベルが一段上がり「エッジが立っている」印象に変わった、実力が上がっただけでなく、作詞作曲や振り付けなどのすべてをセルフプロデュースする表現力がついてきた、とのこと。

たしかに、じっくり聴き入るに値する歌いっぷりなので、ヲタ芸師たちの喧騒の真っ只中で歌うのはもったいない感じもしなくもないけど、それをあえてやるのがいいのだな。年代もののワインをラッパ飲みする感じで。バラード調のスローテンポな2曲目のあと、最後はオリジナル曲「Lisianthus」。「重い感じだけどテンポのいい曲なんで、手拍子などしていただけると」と真音さん。促されるかのように、ヲタ芸やったやつがいた。前のほうの席にひとりだけ。着飾った少女の集う会で、みんなまじめに聴いてるのに、そりゃねーだろ、な感じで、端的に言ってイタい。あ、それ俺だ、ごめん。

しかし、実は、ホントに恥ずかしいポイントはそこではなく、もうひとつ底があった。後で聞けば、ヲタ芸師たちはずいぶん来ていたらしい。けど、うしろのほうはものすごい混雑で、ヲタ芸やるスペースがなかったらしい。それと、こういう場への遠慮もあって、小さく小さくヲタ芸やってたらしい。ってことは、私がテキトーにやってたいんちきヲタ芸がモロバレで、ホントにイタいやつだと思われていたに違いない。アイタタタタタタ……。これは激烈はずかしい。ヲタ芸師さま方、ごめんなさい。

●シャンソンとゴスロリを結びつけるのは黒いカルチャー?

続いて、サエキけんぞう氏の歌。歌とトークで、シャンソンとゴスロリを結びつけるキーのようなものがおぼろげながら見えてくる。'60年代は覇権を握ったアメリカが世界のトレンドをリードし、明るい未来を目指せだとか、みんなで一丸となって全力で文明を発展させていこうだとか、世の空気が元気と希望に満ち満ちていた。

ところがヨーロッパへ目を向けてみると、そこに広がるのは、死臭ただようデカダンスのムード。シャンソンで歌われるテーマは、自殺であったり、ホモセクシャルであったり。そこに魅了されてシャンソンに引き込まれていったのだそうである。一方、ゴスロリの世界も、ゴシックでダークでホラーで退廃的で病んでたりする。サエキ氏がそこになにがしかの共通するものを見出し、ゴスロリをテーマにこういうイベントをプロデュースする気になったのではなかろうか。それは「黒いカルチャー」みたいな何か。

「リラの門の切符切り」は、パリの暗い地下鉄の切符切りを描いた歌。サエキ氏は鉄道員の平たい帽子をかぶり、切符に鋏でパチンと穴を空けて観客に配ってくれた。パリの地下鉄やバスのロゴマークがいくつか入っていて、裏は磁気記録媒体の細い帯。本物らしい。「ちっちゃい穴、ちっちゃい穴、ちいさい穴。俺が空ける小さい穴。穴穴穴穴穴穴穴穴……」。そこだけ聞くと違うテーマの歌みたい。悲哀なのか卑猥なのか。

よくエロスとタナトスはセットにして論じられる。エロスは愛、タナトスは死を司る神なのだが。「ゴエモン」は愛すること、イコール、死の世界を覗き見ること、という世界観の描かれた歌で、「僕と一緒に、死の世界を見にいこうよ」なんて口説き方をする。「お断りします」って言われそうだけど、フランス人だとついて来るのだろうか。「ザーメンの香りで優しく包んであげるから。みだらだろう。神様たちに見せてやろう」なんて、文字通りどろどろした世界だし。もういいか。次。

●ネオネオクラシック? 電氣猫フレーメンと黒色すみれ

「電氣猫フレーメン」と「黒色すみれ」には共通点がある。女性二人組のユニットであること。ボーカルはオペラ歌手のような美声を発すること。バイオリンやピアノを弾きこなし、クラシックの室内楽のようなテイストであること。表現するのは、少女のメルヘンチックな世界だけど、どこかダークなこと。「ネオ・クラシシスム(新古典主義)」というと18〜19世紀のヨーロッパになっちゃうから、「ネオ・ネオ・クラシシスム」とでも呼べばいいのだろうか。

両者はお互いにとっても仲がいい。電氣猫フレーメンの由良瓏砂さんは球体関節人形を作る腕ももった人で、黒色すみれの二人の似顔をかたどったブローチを作ってきて、それぞれにプレゼントして、たいへん喜ばれていた。電氣猫フレーメンは銀座のヴァニラ画廊で開いた写真と人形の四人展のレセプションで演じていただいて以来、何回かステージを見に行っている。今回は「眠レヌ姫の童話」を再演。眠れない奇病にかかったお姫様の話。

この演目は、永井幽蘭さんの既存の曲から瓏砂さんが5曲を選定した上でナレーション部分を作り、ひとつの物語になるようにつなげたもの。幽蘭さんによれば「瓏砂ちゃんの想像力と創造力の賜物」。きのこ採りに興じるところなどは、少女のお遊戯っぽくてかわいらしいのだが、別のところでは突然瓏砂さんの破壊的な絶叫が入ったりして、気が抜けない。今回は、ソフトなプラスチック製の音が出るおもちゃを多用しての演奏が非常におもしろかった。

黒色すみれ。楽しみにしていた。SPYSEEなどで、かなり近いところにいるという気配を感じていて、そう遠からず見れる機会が来るだろうと思ってたんだけど、意外とその機会が早く来て、うれしい。予想にたがわず、よかった。白を基調として、黒のレースに縁取られた少女ふうのドレスで登場。背中には天使の翼を背負っている。ゆかさんはピアノとアコーディオンとボーカル。発声がきれいで、言葉がしゃっきりして聞きやすい。さちさんはヴァイオリン。余裕しゃくしゃくの風情でエレガントに弾く。ほんとうにいつまでもいつまでも聴き続けていたくなるような耳に心地よい音を奏でる。ダークというか、古い洋館が似合う感じかな。

CDとDVDのジャケットの少女の絵は七戸優氏が手がけている。七戸氏はヴァニラ画廊の展示のときに来廊して下さった。この日は、物販コーナーの売り子さんの隣に座っていらした。DVDを買う。黒色すみれの音に七戸氏の絵って、すご〜く得した気分。

●美しき狂気の世界、ローズとギグルス

「Rose de Reficul et Guiggles」。無言劇。美しき狂気の世界を、舞台美術と動きや表情で表現する。歌や叫びは入るけど。かなりの量の大道具小道具は、そのつど奈良から運んでくるのだそうで。極小のサーカス小屋のような小さなテントがもぞもぞと動き、登場人物が一人、また一人と這い出てくるオープニング。

役者たちの狂気じみた動きや表情が、尋常でない空気をかもし出してくれる。このあたり、瓏砂さんが看板女優を張る劇団「MONT☆SUCHT (モントザハト)」と共通するものが感じられなくもない。最初はローズさんの食料にすぎなかったギグルスさんの立場が急上昇して、愛が育まれていく(と私が解釈した)筋書きがおもしろい。

このグループを見るのは、1月9日(日)以来、二度目になる。三田のStudio Cube326で開かれた「アラモード・ナイト」という、オールナイト・イベントで「国内最大級の少女のためのティーパーティー」というキャッチフレーズだった。電氣猫フレーメン目当てで行ったのだが、他の演者たちの出し物もよく、ローズさんたちの美しい舞台は夢中で撮った。

撮れた写真には、大変喜んでもらえた。だから、私が再びお目にかかれるのを楽しみにしてたのは当然として、ローズさんも私が来るのを楽しみにしていたと言ってくれて、感激である。だけど今回は、全体を通じてなんだけど、写真の出来が、アラモードナイトのときに比べて、ちょっとイマイチな感じ。照明の加減で、青い部屋が赤い部屋になっちゃったよー。というか、アラモードのときの照明が実はすばらしかったんだね。

●サプライズで戸川昌子さんの歌

最後に、戸川昌子さんの歌。予定になく、サプライズ。これだけでも一回分のイベントの価値はあるよ。戸川さんは3月27日(金)に34年ぶりのライブを予定している。「青い部屋」のウェブサイトに案内が出ている。
< http://www.aoiheya.com/
>

私は何の縁か、最近、イベントに行くと、意外な人にばったり会うことがときどきある。今回は、イベント終了後の物販コーナーで風之宮そのえさんに声をかけられた。花梨エンターテイメントのプロデューサで、乙女向けのホラーゲーム「アニマムンディ」を作ったお方。

2005年の暮れごろ、オーストラリアのテレビ番組収録の件で、英語の話せるコスプレイヤーはいませんか、とデジクリで呼びかけたところ、「ウチのゲームのオフィシャルレイヤーはいかがですか」と反応してくれたことで知り合った。結局、レイヤーのみならず、そのえさんも私も出演したのであった。秋葉原のメイド喫茶でメイドさんとゲームに興じる場面で。

その後も、東京ビッグサイトのイベントなどで花梨のブースにちょっと立ち寄って話すこともあったが、それだって一年以上前の話だ。声かけられても、えーっとどちら様でしたっけ、状態。意外な場所で再会、と思ったが、考えてみると、乙女ゲームの制作者が、こういうイベントで乙女のメンタリティの動向をつかむマーケティング活動をするって、不思議でも何でもないか。

あ、それと。DJのすまきゅーさんは、高円寺にある古着屋「ちょこれーとちわわ」の店主さん。以前、瓏砂さんに案内されて行き、ヴァニラ画廊の展示の案内をウェブサイトに載せて下さった。

……とまあいろいろあって、私にとってはめちゃめちゃ内容が濃く、陶酔感いっぱいで帰途につけたイベントであった。瓏砂さんはmixi日記で「集まった人々の感性が呼応するような、素晴らしいイベントでした」と書いているが、それは私も実感した。こんなすばらしいイベントに行く機会に恵まれるなんて、ああ、乙女でよかったー。

私の撮った写真。いろいろとダメダメですが、雰囲気だけ。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Live090308/
>

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

卒業シーズンの歌というと、私は倉田まり子の「グラジュエーション」とか、柏原芳恵の「春なのに」なんだけど。今の若い人たちの定番って何なんだろ?高校の卒業式では、破天荒ですっとぼけたことをやらかして大人たちの度肝を抜いてやるのが、カッコいいことだとみんな信じてたっけな。証書を受け取りに壇上に上がるとき、派手にコケてみせたり。答辞を読んだやつは、テレビドラマ「水戸黄門」の主題歌を歌ったっけな。♪人生楽ありゃ苦もあるさ〜。実は何世代にもわたって、変わっちゃいないのだ。「明かりをつけましょ爆弾に、どかんと一発はげ頭、五人囃子は大やけど、今日は悲しいひな祭り」とか「明かりをつけたら消えちゃった、お花をあげたら枯れちゃった、五人囃子も首ちょんぱ、今日は悲しいお葬式」なんて歌って喜んでるガキんちょに苦笑いする大人。自分らも通ってきた道なのだ。

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■編集後記(3/13)

・BC級SF映画DVD「宇宙戦争2008」「エイリアンノイド」を続けて見る。好きだねえ、われながら。たまたまこの2本には共通点があった。BC級SF映画のよくあるお約束なんだけど。まず、エイリアンは人間の格好をしていること。メークやCGの節約になる。後者は昆虫型エイリアンになった姿も見せてくれるが、たいしたCGではない。前者は完全に人間型なので見分けがつかない。でも大丈夫、エイリアンは制服を着ている。次に、主人公か関係者の血液がストーリーのキーになるということ。前者では主人公の娘の、後者は主人公ペアの男の方の血液だ。後者の血液はエイリアンに対して圧倒的に強く、人体に寄生したエイリアンの幼虫を全部殺してしまう。なんたるご都合主義。そして、エイリアンの中にも人間に味方するやつがいるということ。エイリアンを人間型にすると、たいていそういう設定になる。昔の作品だが、侵略テーマの「V」シリーズもそうだったな。「宇宙戦争2008」はすごく大きなタイトルだが、原題はAlien Siege。カルクー星人が地球を侵攻、圧倒的戦力で全世界を占領下に置き、人間狩りを開始、人間側のレジスタンスが立ち上がり…、というアクションものだが、全体に規模が小さ過ぎるためタイトルやパッケージに偽りあり。「エイリアンノイド」の原題はInfected、すでに地球にはエイリアンが人間に紛れ込んでいて、彼らが経営する巨大飲料企業が販売する飲料水を通して、人体に幼虫を寄生させ、人間を宿主にして繁殖しようとしているとかいった、いいかげんな話。それでも2つともそこそこおもしろい。出ました、離婚したのに未練たらたらの男が、元妻と一緒に敵と戦い…、向こうの人はこういうストーリーが好きなんだねー。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0015RA6VA/dgcrcom-22/
>
アマゾンで「宇宙戦争2008」
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001COUJKO/dgcrcom-22/
>
アマゾンで「エイリアンノイド」

・試写が終わって歩いていたらポスターが目に入る。コピー考えた人、天才やわ!「今まで見たことのない『ドラゴンボール』が待っている!」。そりゃ見たことないわ、と友人。映像は綺麗だし、CGはいいし、役者さんたちの熱演は感じられる。「ドラゴンボール」の★が動いていたり、「ホイポイカプセル」からバイクが出てくるところなどは素晴らしい。でもねでもね、その設定と脚本にする意味はどこにあるの? 悟空が高校に通う必要性はどこに? 愛がないわ〜。続きを作る気まんまんなのにも閉口。日本で映画化したらこんなことにはならなかったな。友人は「シェンロン(神龍)」にすら納得してなくて、力が入っていない、第一あれは洋物の龍(たとえばネバーエンディングストーリー)であって、決してシェンロンではないと。見てないけど「ヤッターマン」が原作にこだわり、再現することに力を入れているのに比べ、モチーフをもらい(いや名前をもらい、かな)、キャラやストーリーを変えてしまうってのは、再現できないと諦めたか、ストーリーが気に入らないと思っているか、と疑ってしまうよ。作品自体のクオリティは決して低くない。が、新鮮さはない。ドラゴンボールじゃなかったら記憶に残らない作品かもね。話の種にはなるか。原作との違いや、シーンの再現率をちまちま突っ込む楽しさすらないと思うけど。というか、終わってから人に話したくなるのは、次長課長のことと、厳重な警備、さむいイベントのこと。あ、あと画面大写しになる「SHONEN JUMP」の文字。映画終了後、私が最初に友人に言ったのは「に〜し〜お〜か〜〜すみこだよ。」だ。いるよ、にしおかすみこが(←オイ)。(hammer.mule)
< http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=246199
> シェンロンとは
< http://movies.foxjapan.com/dragonball/
>
予告の最後でちょこっと出てくる
< http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/topics/20090311et01.htm
>
あれ? シェンロンいたの?