Otaku ワールドへようこそ![94]青春の重大な過ち:脳内の混ぜてはいけないアレとコレ/GrowHair

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すでに花よりも葉っぱのほうが多くなっていた 4月11日(土)、新緑を見に来たんだと開き直って花見をした。青山墓地で。余興にセーラー服撮影会などを催す。モデルは私。

写真はこちら。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR090417/ >

さらに、写真から起こした動画をニコ動にアップしました。
< http://www.nicovideo.jp/watch/sm6756958 >

まあ写真見ちゃうと、この後何書いても頭に入っていかないかもしれませんが、今回は初めて屋外で女装してみた感想など。



●会社でしゃべって大騒ぎに

職場はまじめなエンジニアの集まりだということを、うっかりしていた。社員食堂で同僚たちと昼飯を食いながら、軽く驚いてくれそうな話題を投下、ぐらいのつもりで「この前初めて外でセーラー服を着てみたんだけど、あれはいいもんだね」と言ったら、「えーっ!」と大声あげられるわ、ざざっと後ずさりされるわ、なんかものすごい過剰反応が返ってきて、こっちが驚いた。おいおい、まわりの注目集めるじゃないか。

騒ぎになって懲戒処分など食らってはたまらない。「ほら、よくあるオヤジの宴会芸のたぐいだってば」と必死で言い訳してなんとか場を収めた。こっちとしては、女子高生に扮する男性なんてのは、コミケでもアキバでもさんざん見てきてて、珍しくもなんともないんだけど。自分がなるのは初めてだったんで、多少思い切りが要ったとはいえ、まあ、オタクの端くれとして、ありふれた通過儀礼を自分も体験してみました、程度のことだったんだけど。

オタクにとって何でもないことが、時として、一般人にとってはとんでもないことだったりするということに、少し無用心すぎたかも。ひょっとすると、デジクリを読んでいる方々の中にも、私のことを尋常でない変人だと思っている方がいらっしゃるのではなかろうか、とちょっと心配になっている私です。

●かわいいと言われて照れる

キモイ、異様、悪趣味、トラウマになる、といった否定的な反応は予想の範囲内だった。ミクシィの日記に写真を上げてみたところ、永吉さんはトラウマになりかけたようだし、武さんは100年の酔いも醒めちゃったみたいだし、くうさん(女性)は今晩うなされそうだというし。しかし、意外にも肯定的な感想もけっこうもらえた。和んだ、笑って元気になった、似合ってる、可愛らしかった、などなど。嘘じゃないよ。

概していえば、女性のほうが男性よりも肯定的に受け止める人が多かった。もちろん、疑問視する女性もいるし、ほめてくれる男性もいるので、一概には言えない。男性はこうだ、女性はああだ、とステレオタイプに決めつけて論じるわけにはいかない。しかし、統計的に有意な傾向の差異ぐらいはあるようにみえる。

男性は、ロマンチストなところがあって、女性に対して幻想を抱きつづけたい、と思っているようなフシがある。もちろん傾向だけど。対象がもし、飛行機とかパソコンとか、メカ的なものであれば、興味をもった対象については、分解してでも何もかも知り尽くしたいと思う、本能的欲求みたいなものがある。しかし、こと女性となると、興味は強くもっているにもかかわらず、なぜかそこまで徹底的に知り尽くしたいとは思わないものである。

ある程度まで分かったら、だいたい分かったからよし、とするか、あるいはどうせ分からないものなんだからとあきらめるか。客観的に捉えたいのではなく、「女性」という題のお芝居をいつまでも見つづけていたい、というか。お芝居を見たとき、ついでに楽屋まで見たら、幻滅であろう。だから、見ない。たいへん紳士的な態度と言えよう。

もし、女子高生というものに、野に咲く可憐な花のようなイメージをもっているのだとしたら、それを壊さずにイメージどおりに演じてくれる人が、女子高生たる女子高生ということになる。そして、セーラー服のような、女子高生に付随したアイテムに対しても、そのイメージを連続拡張させる。だから、ヒゲ面の40代後半のおっさんがセーラー服など着てはしゃいでいる姿などというものは、よきイメージを破壊する、ゲテモノの極みのように映るのであろう。

しかし、女性の目から見れば、セーラー服はもっと現実的なものであろう。そこになんらかの乙女チックなイメージを抱いていたとしても、セーラー服はセーラー服であって、実体も感触もある具体的なモノとして認識する傾向があるのではあるまいか。舞台の上では芝居を演じるけれど、楽屋の様子も分かってます、みたいな。

そうだとすると、女装する男性に対して肯定的な女性というのは、男性が楽屋まで見にくることを歓迎していると受け止めていいのではなかろうか。そんなこと、ないですか?>女性の方々。たいていの男性にとって、女性というものは、眺めて愛でる対象であったり、追いかけて捕まえる対象であったりと、客体として自分の外に存在する。それが健全。一方、女装するという行為は、女性的なものを自分の内に取り込んで、自分が主体として(下手な真似ごとにせよ)女性になってみるということにほかならない。それは変態。

変態というと、通常ならば女性からは忌避されそうなものだが、こういう変態は、けっこう、意外にも、ウケがよかったりする。そういうものですか? どうも女性の心理というものは、私にとっては数学や物理学の100倍も理解しがたいもので、言ってることにぜんぜん自信ないのですが。異論があったらぜひ指摘して下さい。

●BL小説を読もう

ユングの心理学だったか、アニマとアニムスという概念がある。男性の中に住んでいる女性的なものがアニマであり、その逆がアニムスである。もし、女性にものすご〜く興味があって、楽屋の様子までも知りたいほどであれば、アニムスがどんな姿をしているのか、探ってみるのも面白かろう。

BL小説というのがある。ボーイズのBとラブのL。男と男のゆきすぎた友情を描くライトノベルである。これ、男性にとって、非常にとっつきづらい。ホモは趣味ではないというマイナス要因を差し置いて考えても、そこにリアリティがまるで感じられないのである。小説におけるリアリティとは、かならずしも現実の詳細な記述から来るわけではない。むしろ、心の描写のほうがポイントで、登場人物の心の動きがまるで自分のことのように重なるとき、そこにその人物が実在するかのように感じられる。

太宰治の「女生徒」は、女性が読んでもリアリティが感じられるものらしい。それは、(当時の)女性の心理を的確に描写できているから。男性でありながらそういうものが書けちゃうってところが、小説家としての力量を見せつけてくれた格好である。女性が書いて男性の心の動きをリアルに描写できていれば、見事なお返しということになる。

ところが、たいていのBL小説からは、それがまったく感じられない。「この場面で男性の心理ってそういうふうには働かねーよ」とツッコミを入れたくなること、しばしばである。その瞬間、シラケちゃう。純文学的な基準からすれば、そういう小説は失敗である。ところが、BL小説とは、そもそもそういうところを狙ってはいないのである。

描写しているのは男性ではなく、アニムス。きっと精密に的確に描写されているのだ。そこに気がついて読むと、別のリアリティが立ち上がってくる。男性諸君、一度BL小説を読んでみよう。BL小説を男性に読まれてしまうことを、ものすごく恥ずかしがる女性は多い。それはアニムスというイケナイ部分がモロに露出しているから。とはいえ、読まれて嬉しくないわけではないという、微妙に揺れ動く乙女心があったりもする。

このところよく話題になる「草食男子」は、けっこう抵抗なくBL小説を読めちゃったりして。女性にとっても、芝居をうたなくてもいい、楽屋が丸見えでも平気な相手、という安心感があったりするのではあるまいか。ところで、小説を書かずとも、リアリティが感じられるほどにまで上手に女装することができたら、太宰治と同じ仕事をしたということができまいか。

●アートたりうるか

さて、肯定、否定のほかに、もうひとつ、これはひょっとして現代アートになっているのではないか、というコメントがあった。クラシックな美術では、調和や均整のとれた美しさを追求するが、現代アートは必ずしも美しくなくてもよい。構図の調和や構成の統一性をあえて破壊してみせて、見る者を落ち着かない気分にさせる。見ていて胸糞悪くなるとしたら、それはなぜなんだろう、と疑問を投げかけることによって、人の心の中にある深淵をほのめかすという手法もアリである。

脳内には、混ぜてはいけないアレとコレがある。その感じを手っ取り早く経験してみるには、パフェグラスにカレーライスを盛りつけて、パフェ用の長いスプーンですくって食べてみるとよい。なんかもう、とんでもなく間違ったことをしているという違和感に襲われるであろう。これは実は、秋葉原の雲雀亭(男の娘のメイドさんがいるカフェ&バー)で出されていたメニューである。その店では、この感覚を「精神的ブラクラ」と呼称していた。心の中のブラウザがクラッシュする感覚である。

オヤジがセーラー服を着ているというのも、まさにこれだ。この違和感をキーに、人の心の構造を浮き彫りにできたら、アートとして成り立ちうる。心理学に「ゲシュタルト崩壊」という概念がある。全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。これ、「精神的ブラクラ」に近い気がしてならない。

一方、人工知能に「フレーム問題」という概念がある。メイドとして機能するロボットを作ろうとすると、人間の脳に相当する働きをソフトウェアなどで実現すべく、人が設計してやらないとならない。ところが、あらかじめ想定していなかった事態が起きても、柔軟に対処できる能力をつけさせようとすると、起こりうる可能性の組み合わせの爆発がおき、とても計算しつくせないという問題に直面する。これがフレーム問題である。

通常の生活を送っていく上で、人間はどうやってフレーム問題を回避しているのか、まだ解かれていない謎である。人間もときにはゲシュタルト崩壊を起こすわけで、これはフレーム問題に直面した状態、と解釈することができるのではあるまいか。人間はものごとの本質を必ずしもちゃんと捉えているわけではなく、中途半端な理解で済ませたり、変な勘違いをしていたりする。にもかからわず、たいていの場面では、実用的には問題ない程度に、的確で柔軟な行動ができる。

だから、あんまり疑問に思わない。けど、いったん気づいちゃうと、すごーく不安になる。その辺のところを、言葉を使わずに、ひとつの作品によってほのめかすことに成功すれば、これはもう立派なアートであろう。

●ペアルックでデートしてくれませんか?

で、次にやってみたいことがある。アートとして。あるいはジョークとして。本物の女子高生、もしくはそう見える女の子にモデルになっていただく。で、セーラー服または学校の女子用の制服で、私とペアルックになっていただく。さらに、ハゲかつらをかぶっていただき、つけ髭をつけていただく。これで、渋谷のホコ天あたりでデート。お互いに相手の姿に合わせようとして双方から歩み寄った結果、こんな異様なペアルックになっちゃいましたー、愛の力は偉大ですねー、というシャレ。どうでしょ?

道行く人たちが見て、笑ってくれると思う、きっと。で、渋谷を象徴する、たとえば109などを背景に写真を撮れば、アートになると思うのだ。ネットに上げれば、一躍有名になれたりしないだろうか。知り合いのコスプレイヤーたちに声をかけてみたのだが、誰も乗ってこない。誰かモデルになってくれませんか? マジで募集しちゃいます。そういうおバカ企画は嫌いじゃないから、乗ってもいいよって方、ぜひメールください。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。5月は鳥取の燕趙園の「中華コスプレプロジェクト」に行きます。/このところ人形の撮影もしてるし、パフォーマンスを見に行って写真撮ったりもしてるんだけど、撮りっぱなしで整理が追いつかない。遊びすぎ、という名の病は、ロバの耳が生えてからでは治癒が難しいらしい。/国家試験で「飛翔体鑑定士」を新設してみてはいかがだろう。まず飛翔体の定義からか。飛んでるハエ、落下する鳥のフン、舞うホコリ、スキーのジャンプ選手、ウルトラマン、ヒトダマなど、含むのかどうか。